大瀧詠一とは、福生の仙人である。「大滝詠一」名義と使い分けて活動している。
尊敬するフィル・スペクターなど、1950年代~60年代のアメリカンポップスに多大な影響を受けた作風で有名。元々がオールディーズ的な作風のため、山下達郎と同様に時代の風化にも耐えうる楽曲作りに定評がある。
90年代以降は長年住んでいる東京都福生市で「勉強家」として活動しており、山下達郎のラジオ番組で毎年新春対談をすること以外人前には殆ど姿を表さなかった。
1948年、岩手県江刺郡梁川村(現:奥州市)生まれ。本名、大瀧榮一(おおたきえいいち)。
自作したラジオから聞こえる米軍放送やレコードでアメリカン・ポップスに明け暮れる少年時代を送る。
その後、高校に進学するも親から貰った授業料を全額くすねてレコード代に充ててしまった為1年で退学。他の高校に編入するも今度は大学受験に失敗。上京して入社した小岩の製鉄会社にもロクに出社せず(3ヶ月で20日間しか行かなかった)退職、ニート暮らしを経て1968年に早稲田大学第二文学部へ入学。ここで終生の友人となる細野晴臣と出会う。
1970年、細野晴臣、松本隆、鈴木茂とロックバンド「はっぴいえんど」を結成。日本語ロックのさきがけとして後世に多大なる影響を残す。
1972年にアルバム『大瀧詠一』をベルウッドより発売、ソロデビューする。が、この時のベルウッドの契約・楽曲の権利関係の管理やマスターテープの保存方法があまりにも杜撰であった。
その為、1974年に作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作などをこなすプライベートレーベル「ナイアガラレコード」をエレックレコードの出資で設立する。同時期にシュガーベイブ(山下達郎や大貫妙子が在籍)のプロデュースや、ラジオ『ゴー・ゴー・ナイアガラ』なども開始、順風満帆なソロ活動をスタートさせるも、その矢先にエレックレコードが倒産。更にはっぴぃえんどもメンバー間に軋轢が生じ解散してしまう。
1976年、レーベルごとコロムビアに移籍するも、その際の「スタジオに16chマルチトラックレコーダー(当時の最新鋭機材)を提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作する」という契約が大瀧を苦しめる事となる。
最初の3枚はそこそこ売れたものの、年間4枚という異常な製作スピードによるクオリティの低下でマニア層が離れ、趣向を凝らし過ぎた楽曲によりライト層が離れるという悪循環に陥り、アルバムを出す度に売上が急落、11枚目の『LET'S ONDO AGAIN』の売上が500枚を切った段階で契約は解消。1980年にコロムビア主導で12枚目のアルバム(ただの編集盤)が発売されるまでソロ活動が出来なくなってしまい、赤字補填の為スタジオの機材も売却されてしまう。皮肉な事に権利保護の為に設立したはずのナイアガラレコードが逆に自身の活動の枷となってしまった。
しかし1981年、大瀧に大きな転機が訪れる。ナイアガラレコードの運営をとりあえず肩代わりしていたフジパシフィック音楽出版の担当者が機転を利かせ、CBSソニーへ大瀧を移籍させる。
そして同年、日本音楽史に残る名盤『A LONG VACATION』が発売。ソロデビューから9年で遂に日本レコード大賞を受賞した(今でこそただの「年末にAKBとEXILEを褒める会」だが、当時のレコ大はとんでもなく権威のある賞である)。更に、松田聖子に提供した『風立ちぬ』、森進一に提供した『冬のリヴィエラ』もヒット、今までの不遇を跳ね返し一躍トップミュージシャンの仲間入りを果たす。
が、『A LONG VACATION』のヒットに大瀧は再び苦悩する事となる。
「オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味」に戸惑うようになり、1984年にリリースされた『EACH TIME』の製作中に歌手活動の休止を決める。
また、『EACH TIME』は大瀧にとっては「1つの独立した作品」であったが、世間の認識は『A LONG VACATIONの続編』でしかなかったことや、1985年のはっぴぃえんど再結成ライブでの待遇(松任谷由実やはっぴぃえんどなどのニューミュージック世代が演奏した後にサザンオールスターズと佐野元春ら新生代のロックミュージシャンが大トリで登場する、まるで「ニューミュージック世代はお払い箱である」とでも言うような侮辱的な扱いであった)なども一因とされる。
その後はエンジニアとしてナイアガラレコード時代の音源のリマスターやラジオDJとして音楽のナビゲーション、音楽史や音楽理論の研究などに時間を費やすようになる。
90年代になると自身がソニーミュージック関連会社の取締役に就任したこともあり、徐々に音楽活動を再開。1997年に12年ぶりにシングル『幸せな結末/Happy Endで始めよう』を、2003年には6年ぶりのシングル『恋するふたり』を発表する。この際、『90年代に作ったのは2曲、2000年代が1曲だから2010年は0曲だよ』と冗談交じりに話していた。
が、奇しくもそれは現実となってしまう。
2013年12月30日の17時頃、妻の静子さんに突然『ママ、ありがとう!』と大声で言った直後意識を失い、そのまま搬送先の病院で他界した。享年65歳。亡くなる2週間ほど前から足腰の弱りや頭の疲れを訴えていたが仕事の関係で病院へ行かず経過を見ていた。死因は解離性動脈瘤による心肺停止(解離性動脈瘤は初発症状の一つに「突然死」がある危険な病気である)であった。
なお大瀧は自分の頭の中に大量の「新曲」を持っていたが譜面起こしをサボっており、それを危惧した細野晴臣が鈴木、松本や共通の友人を総動員して新作を作らせようとしていた。が、大瀧の急逝によりその新曲たちはついぞ一音も譜面に起こされることは無かった。
「時代をかける12月の旅人よ、僕らが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だ。(『12月の飴の日』という曲の中に)なぜ謎のように『12月』という単語が忍ばれていたか、やっとわかったよ。苦く、美しい青春をありがとう。」
2014年3月21日 『大瀧詠一お別れ会』にて
弔辞 松本隆
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最終更新:2025/12/24(水) 15:00
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