張良、字は子房は、戦国時代末期~前漢の人物。韓の人物で後に漢の留候。
漢王朝を興した高祖劉邦の功臣であり、その中でも最も著名な三傑に挙げられる。
軍師として帷幄に控え、政戦両略の首謀を為した。
祖父である張開地と、父である張平は韓の宰相を務め、五代の王に仕えた重鎮で、召使は三百を数えた。
そんな名門の嫡子として生まれた張良は、草莽から立身した劉邦の家臣では屈指の出自である。
父の死から二十年後、韓は秦により滅ぼされた。その時、張良はまだ年若く、官には就いていなかった。
祖国を滅ぼした秦の始皇帝に対する恨みは深く、全財産を費やして刺客を捜し求め、弟の葬式も出さない程であった。
やがて力に優れた士を雇い、百二十斤の鉄槌を手に入れる。
士を連れて、東方の地に遊幸していた始皇帝を、博浪沙の地で狙撃するが、槌は副車に当たり暗殺は失敗。
張良は天下のお尋ね者となり、一時、姓を変えて逃亡生活を送る事となった。
下邳の地で、兵書を諳んじながら任侠の道に入り、世の情勢の変化を待つ事数年。
その間、楚の名門出の学友、項伯(纏)という人物が殺人を犯してしまい、張良に庇護を求めて来た事もあった。
やがて時は十年経ち、天下は始皇帝の死と、奸臣の跋扈で混迷し、反秦の決起が世を覆う事となる。
張良も再び志を遂げようと、百人の同志を連れて、景駒という有力者の所に身を寄せようとした。
その途中の留の地で、楚の将であった劉邦と出会う。
劉邦は、張良を厚く遇し厩将とし、張良の説く兵法を上策とし、常に聞き入れた。
今まで自身の策が世の人に受け要れられなかった張良は、劉邦を天授の英傑だと感銘し、これに従った。
楚の大将、項梁が楚の懐王を擁立すると、
張良は、項梁に韓の公子、横陽君成を立てて韓を復興させ、楚と連合させる事を進言した。
項梁はこれを採り入れ、成を韓王とし、張良を司徒に任じた。
これで宿願のひとつである韓の再興に着手する事となる。
韓王との韓土の奪還戦は当初は思わしいものではなかった。しかし、劉邦が加勢して韓の旧領を回復させた。
一段落すると、劉邦は韓王から、張良を借り受け、秦の経略の為、帷幕に詰めさせた。
張良の献策は功を奏し、秦滅亡の一助を成し、遂に劉邦は秦都咸陽を落とす事に成功したのであった。
秦王子嬰は劉邦に降った。
咸陽の秦宮は天下の贅が結集した楽土であった。劉邦はここに留まって、おおいに逸楽したいと思ったが、
まずいと感じた古参の義弟樊噲は、劉邦を諌め、ここを去るべきだとしたが、劉邦は聞き入れない。
張良は樊噲の諫言を是とし、彼の言葉を理非を揃えて補完し、劉邦を翻意させた。
張良は生来病弱な身で、常に劉邦の側に居るわけでもなかった。
そのせいか、時に劉邦は定見のないままに小人の甘言に乗せられて失策を犯す事もあった。
秦を落としたのは良いが、その後、城門を閉じて、他の諸侯の入城を認めない処置を取ってしまう。
秦の領土を私物化すると捉えかねない処置は、項羽の逆鱗に触れる。(この時、項梁は戦死し、甥の項羽が、楚の主催を後継していた。)
項羽は猛将である、その兵も精強で、とても劉邦の及ぶものではなかった。
項羽は劉邦に対する殺意に燃えた、劉邦に討秦を先んじられた事も不愉快であり、劉邦が門を閉じて自身に叛意を見せている事も不愉快であった。
軍師范増も項羽の考えを支持した、というか項羽より熱心であった。
こうして天下の耳目が項羽と劉邦に集められる中、ただ一人、張良を見ている男がいた。
かつて張良に命を救われた項伯である、彼は項羽の叔父でもあった。
このままでは旧友が劉邦と束ねられて、処斬されてしまう、彼は全てを捨てて張良に共に逃げようと提案した。
項伯の義に対して、張良は劉邦に味方することで義を返して欲しいと頼む。
項伯は承知し、劉邦と義兄弟の契りを交わし、助力を約束した。
そして両雄の落とし所を決めるべき会見が設けられた。
鴻門の会である、表面は宴の体裁をとっていたが、その実、被告である劉邦の罪を鳴らす裁判であり。
即死刑を執行する準備が整えられた窮地の席であった。
だが、張良の機転、樊噲の乱入と雄弁、項伯の義侠、項羽の不断もあって范増の謀は不首尾に終わり。
張良は最後まで会に残って殿を務め、遂に劉邦は項羽の鋭鋒を避し切る事に成功したのであった。
この会見を機に、項羽と劉邦の緊張は一時弛緩した。
劉邦は漢王となり、巴と蜀の地を得る、張良に財を下賜し労を労ったが、張良はほとんどを項伯に献じた。
項伯を通じて、劉邦に漢中に封国させる事を打診し、項羽もこれを認めた。
劉邦は漢中に赴任する事となり、張良は韓に戻る事となった。
別れる前に劉邦に、桟道を焼いて西帰する意思を無くしたと見せかけて、項羽の警戒を解くようにと献策を残した。
だが韓王は、項羽に殺されていた。司徒である張良が、劉邦と懇意である事を疑っていたのである。(史書により時期の差がある)主君を殺された張良の態度については史書は触れていない。
彼がした事は、項羽に書簡を送り、劉邦に野心は無い事、斉と趙が謀反を企てている事を知らせ、項羽の眼を劉邦から逸らさせる事であった。
こうして張良は劉邦の元に奔った。劉邦は彼を成信候とした。
三秦を平らげ、楚と事を構えた劉邦だったが、楚は強く、よく打ち破られた。
劉邦は再編の為に、東方を放棄し、そこを第三者に棄て与えようとして張良に人選を尋ねた。
張良は楚の黥(英)布を裏切らせる事と、梁の彭越の名を挙げ、漢では韓信のみが当たる事が出来るとし、この三人に、かの地を与えるべきと答えた。
こうして彼らをもって、燕、代、斉、趙の地を経略させた。
だがやはり楚は強く、ある時、劉邦は項羽に城を包囲され、焦った劉邦は酈食其の策を採り入れる。
それは滅ばされた六国を再興させて、漢の威信を高める事であった。その気になりかけた劉邦は印を造り、彼に授けた。
所用から戻ってきた張良はこの話を聞くと、劉邦に七つの問いかけをした。かいつまめば、六国を再興させて御しきれる実力と徳を備えているのでしょうか?と。
劉邦は、自信がない、を七連発し、酈食其を呼び戻し、印を壊すのであった。
韓信は斉の経略に成功し、自身を仮王に封じて、斉の安定を図るべきだと伝えた。
使者に対し劉邦は怒ったが、楚打倒には韓信の力が不可欠であると考えた張良と陳平は劉邦の足を踏みつけて、これを認めさせた。
楚漢戦争は、約五年間行われるものの決着は容易に着かず、両雄の疲弊を招き、やがて和平が結ばれた。
西を楚、東を漢の領土にして天下を中分するというものである。
これを容れた項羽は、楚軍を率いて帰還し始めるが。
張良と陳平はその背後を騙し撃つを事を献策した。項楚の強さは尋常ではない、和平を受け入れる程に弱っている今が天の機会だと。
しかし、追撃した漢軍は楚軍の逆撃を被る。当初、連合を約束した韓信と彭越の両軍が来なかったからである。
次善を問うた劉邦に、張良は、東を韓信に、北を彭越に気前良く分封してしまう事を提言。
これが当たり、韓信と彭越を魁として、各地でも反楚の出師が起り、遂に項羽は垓下に断末を残し潰えた。
楚を滅ぼし、漢王から漢皇帝となった劉邦は功臣の褒賞に取り掛かった。
張良には、野戦の功績はないが、帷幄の謀を巡らし、勝利を千里の外に決したとして、斉の三万戸を好きに選べと下賜した。
しかし、張良は、天佑と運が良かっただけだとして、劉邦と出会った留の地を貰えれば十分だと返答した。
こうして留候に封じられた、
第一次の分封は済んだものの、大功臣級の二十人余が封じられたのに過ぎず、
未だ恩賞に与れぬ者達の間に不穏が起ち込め始める。
彼らは徒党を組んで、劉邦の膝元でも憚る事なく、密談に勤しんだ。
これを察知した張良は、反乱が起きかねない事を忠告。
驚く劉邦に、最も憎んでいる功臣を表彰して彼らの不安を宥める事を献策。
功績もあるが、劉邦が憎んでいる事を群臣が知る雍歯が顕彰されて、人々は胸を撫で下ろした。
漢の帝都を決めるべく左右の臣の間で、洛陽か長安かで議論が起った。
張良は長安を金城千里、天府の国として推した、劉邦は長安を都に定める。
天下は定まったとはいえ、暫定的で、特に楚の韓信、梁の彭越、淮南の英布は王と将の力を備えている上に、
紐帯は利害で締められて弱い。劉邦も次第に老い、二世皇帝の話題が朝廷に上る事も多くなってきた。
候補者は、皇后呂氏の生まれの皇太子劉盈と、側室戚夫人の生まれの劉如意の二皇子である。
戚夫人に対する劉邦の寵愛は深く、劉如意は恩恵を存分にあずかった。
又、皇太子は嫡子ながらも、如意に比べて惰弱と映り、劉邦は本気で廃嫡を考え始めていた。
皇太子の母である呂皇后は危惧を抱いて、張良に入れ知恵を求めた。
最初は、臣が百人居てもどうにもならないと断ったが、性急に責められたので、やむを得ずひとつの策を献じた。
かつて劉邦が招いたものの、逃げられてしまった四人の老賢人を、皇太子の下に招くという内容である。
招かれた老賢人達は皇太子の参謀となり、反乱を鎮圧する司令官を受けるべきでない等、有用な言を授けて皇太子の身辺を固めた。
皇太子の代わりに黥布を撃つ事となった劉邦に、張良は、皇太子の関中を監督させる事を説いた。
劉邦は彼を太子の少傅に任じた。
黥布を討った劉邦であったが、戦傷を負い、次世代の事を確実にせんとして、太子の取換えを行おうとした。
しかし、ある時宴で太子の側に控える老賢人達を見出し、彼らが太子の徳を讃えた為、廃嫡を断念した。
皇太子は後の恵帝となる。
張良は、劉邦に従い、代を討ち、その時に奇策を用いた。
後も劉邦の側に控え、天下の事を甚だ語り合ったが、存亡に至る事ではなかったので記録されていない。
天下の帰趨も定まり、張良は俗世での栄達を遂げた今では、赤松子(仙人)に従って遊びたいと考えた。
劉邦も崩御し、食を断って、仙人の道に足を踏み入れかける。
だが張良の恩義を着た呂皇后は、強いて食事をとらせた。
(言外に貴方には恩があるから、粛清の対象にはしませんよという意味か?)
やむを得ず、食事をとり、九年後に没する。諡は文成候。
享年は不明だが、韓の滅亡時が父の死後20年で、その年紀元前230年に20才とすれば、没年186年で64才となりこれが最年少のラインとなる。
弟がいたので、享年は64才以上と推測される
留候は子の張不疑が継いだ、後に不敬の罪を犯し、国は除かれた。末子に張辟彊があり、侍中に登っている。
以後、蜀漢まで、史書に名を残した子孫が数名確認される。
韓の再興はならなかったが、司徒時代に韓の傍系の王族、韓信(漢の韓信とは別人)を将軍に引き立てている。
後に韓信は漢の将として活躍するものの、匈奴に奔って裏切り敗北の後に斬られる。
友人の項伯は、功績もあって厚く遇され、射陽侯に封じられて劉姓を賜った。張良より六年前に逝去した。
逃亡者生活の中、ある時、一人の老父に出会ったという。
最初は、老父の傍若無人な態度を腹に据えかねるも、考え直し、腹を据えて付き合い。老父の関心を得る。
老父は済北の黄石の化身と名乗り、張良に太公望の兵書を授け、十三年後にまた会おうと言った。
果たして十三年後、斉北の地で黄石を発見し持ち帰り、家宝として祀った。
黄石は張良の死で、併せて葬られ、六月と十二月の塚まつりの日に祀られた。
将帥と官僚の資質に乏しく、王者の師として君側に侍り、中原に指図する様は、東洋の軍師の一典型として最もシャープな形を取った。後世、彼の名は、智者に対する褒め言葉として用いられた。
将としては、千人程度の器局であり、攻勢と遊撃にはそれなりに強かったが、守勢は不得手であり。
他の将軍に及ぶものではなく、用兵が本領でもなかった。
彼に比肩する知略家である陳平は丞相として天下の権を掌握したが、張良はそれ程実権のある官職には就いていない。
顧問としては重んじられたが、実務能力にはあまり恵まれず、本人も病身でやる気もなかったのではないのだろうか。名将でも名宰相でも副将格でもなかった。
史書には触れられていないが、非常に正確で緻密な情報収集網を作りあげていたのではと憶測される。
張良の献策は、到底、机上の空論から生み出されるものではなく、相当根拠が確かなものである。
史記では、諸侯として世家に立てられ、曹参の下、陳平の上に位置し、
漢書では、陳平、王陵と同位で三者では筆頭に立てられる。
張良、韓信、蕭何の三傑の語源は、宴席にて劉邦が参謀、元帥、政治家として自身を上回る代表的人物として言及している者達で、兵権、封土、官職上での最高の三人というわけではない。
功臣として王となった韓信は別格であり、張良は蕭何に比べては一枚落ちる。(正史の評価は、文高武低で、筆頭に近づく程高い傾向にあり、蕭何は漢の人臣としては最高にある、韓信は、独自性と終わりを全うしなかった事から、いささか点を減らしている)
知性に優れたが、儒学的な知識人ではなく、矯激な侠客的な性格を帯びていた。
始皇帝の暗殺に成功していれば(もしくはその時、闘死していれば)、刺客列伝に名を連ねたであろう。
行動原理は復讐と義侠に傾いており、かなり明快である。
「張良經一卷」、「張氏七篇七卷」という兵法書を著したというが詳細は不明。
特に機警の才に富み、劉邦に危機が差し迫った時、もつれた糸を解くように対処した。
おおよそ物事に動じる事はなく、体は弱いが、胆力に秀でた漢であり、史家は彼を壮大魁偉な姿と予想した。
しかし、面貌は美しい女性のように優しげであったと伝わる。これにより後世の作家の筆致が冴え渡る事となった。
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最終更新:2025/12/24(水) 16:00
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