忠臣蔵 単語

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忠臣蔵(ちゅうしんぐら)とは、赤穂事件を元にした歌舞伎人形浄瑠璃映画ドラマの作品群。
時には赤穂事件そのものをす。

概要

14年(1701年)3月から元16年(1703年)2月までに起きた

までの一連の出来事の総称。

この「赤穂事件」と後世の作品群との混同を嫌うWikipediaでは厳密な区別がなされているが、本稿では「忠臣蔵」と言う名称が歴史的にも人口に膾していることや、検索上の理由からあえて忠臣蔵を記事名にしている。

赤穂事件について

事件の起こり

14年1701年)3月14日江戸城での事件である。

この日、朝廷への年賀の返礼として3日前から江戸に下向していた院使(上皇の使者)・勅使(天皇の使者)への返事を奏上する「奉答の儀」が、江戸城本丸白書院にて執り行われる予定になっていた。

この儀礼の南役に充てられていたのが高家(こうけ)旗本・吉良義央である。高家とは幕府と朝廷とのやり取りを取り仕切る役職・柄であり、当時の吉良高家筆頭の立場にあった。
一方、事件を起こした浅野長矩は同年、吉良の補佐役に任命されていた。この日は院使・勅使を接待する「饗応役」に任ぜられていた。

江戸城内での刃傷沙汰

の下刻(午前11時半過ぎ)、江戸城内・の廊下で留守居番・頼照居合わせ挨拶していた吉良に対し、突然浅野長矩りつけた。
吉良背中と額に傷を受けて卒倒、浅野はその場で梶に取り押さえられた。

その理由について浅野

上野介、間中、意趣これあり故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入りへども、是非におよび申さず討ち果たし
吉良には以前から遺恨があった為、殿中であり、また今日は大切な儀式があると知っていたが、止むを得ずに討ち果たした)

ったが、「遺恨」の具体的な内容は不明だった。

この騒動に五代将軍・徳川綱吉激怒浅野長矩の即日切腹浅野易を命じた。
この時、幕閣や取り調べを担当した役人たちの間では「今少し時間をかけて取り調べるべきでは」という慎重な意見も出たが、勤皇意識が強く、また生の従一位叙任を急ぎたい綱吉は事件の期収拾を図り、これらの意見に対し聞くを持たなかった。
その一方で被害者吉良は「抵抗しなかったことが殊勝」とされ、何の咎めも受けることはなかった。

浅野長矩の切腹と赤穂藩改易

陸奥一関田村建顕の屋敷に預けられた浅野は、の下刻(午後7時半過ぎ)に切腹。死ぬまで動機については先に述べた通り遺恨があったことしか話さず、その遺恨の内容も明かすことはなかった。
また切腹までの待遇はかなり悪く、大名クラス切腹は屋敷の中で行われるのに対し、庭先での切腹という扱いであった。これには怒りの治まらない綱吉の強い意向があったという説がある。

遺体江戸邸に詰めていた士たちが引き取り、浅野の菩提寺であった岳寺に葬られた。正室・亜久里は即日落飾し、名を瑤院とめて麻布の屋敷へと移った。

元の穂に第一報が届いたのは、事件から一週間後の3月20日であったとされる。これには傷に及んだことのみが記されていた。
ただ、その後の情報がなくても以後の切腹易は容易に想像でき、札の回収やの整理が始められた。士たちはのちに四十七士のリーダーとなる家老大石良雄岡島を中心に、政の混乱防止に努めている。

3月25日には江戸邸の召し上げを知らせる使者が到着。これでいよいよ易は決定的となり、27日には今後の対応についての話し合いが持たれた。
この席で籠して異議を唱えるべきだとする強硬と、潔く開しておを図るべきだとする穏健が対立。前者は足軽頭・原元岡島)、後者家老大野知房である。両の対立は翌28日の接収の決定で、さらにエスカレートした。

赤穂城開城から円山会議まで

一方その頃、には連座を恐れる浅野氏縁戚から開める使者や手紙が殺到していた。この事態を憂慮した大石良雄は両者の仲介と、幕府の使者への対応に奔走する。
まず、使者には「したいが、を慕う者ばかりなので」と煙にまいて時間稼ぎをし、籠と開には「みなで切腹して殉死しよう」と、あえての本命ではない第三のを提示して衝突を防いだ。

4月に入ると吉良生存明らかになり、江戸詰め士(中心は部武庸。彼らは切腹事件の当事者であるため、吉良への憎しみが強かった。俗に江戸急進とも)も帰して詳細を報告し始めたため「して下野し、しかる後に仇討ちをしよう」と言う方向に論を誘導した。

こうした一連の大石の尽は成功し、論は開に定まった。
さらにに残っていた財産の分配も下級士たちに厚くし、自身は取り分を放棄したことから人望も集める。ついには文または義盟と称して運動への参加・暴走阻止の誓約を、同志たちから取り付けた。
一方、開であった大野は上級士優先の分配をして支持を失い、さらには解雇された足軽たちの強盗騒ぎもあったため4月12日穂から逃亡。最初の脱落者となった。

こうしては開、幕府に引き渡された。しかし大石はその後も残務処理の傍ら、まずはおのために請願活動を開始。接収役に任じられていた大名たちに接近し、一人から支持を取り付けている。
7月には京都に拠点を構え、縁戚である大垣を通じた工作に全を挙げる。しかし、これらの活動は部たちには変節に映ったらしく、しきりに仇討ちを要し、ついにはお浅野長矩の養子で後継者の浅野長広をも軽視するような言動を取り始める。

慌てた大石10月部が在住していた江戸へ向かい会談を持った。
この席で一周忌に当たる翌年3月仇討ち決行を約束し、それまではお活動を続けることに理解を得る。幸か不幸かこの頃になると脱落者も増え始め、部の周辺人物からも幾人かが脱落したためにその権威は失墜。リーダー大石に異を唱える者は少なくなっていった。

そうしていよいよ約束3月に入ったが、この時点ではまだお行方が分からないため、大石は延期を決定した。しかし部は激怒し、大石の殺までを視野に独自の仇討ち路線を模索する。しかし、これも不幸中の幸い(?)か、7月浅野長広の広島お預かりが決定したためにお絶望的となり、浪士たちの間で大石含め方針が敵討ちに一本化する

28日、京都円山で同志が参集(俗に言う円山会議)。正式に吉良への仇討ちが決定され、一連の運動はここに大きな転換期を迎える。

討ち入りまで

この時点まではまだおのみを考え、仇討ちは本心ではない士も多かった。
このため、大石はまず運動への参加を誓ったを一旦参加者に返還した上で、仇討ちに賛同する者のみ再度提出するように迫った。文返しと呼ばれるこの行為により、130人いた同志も60人ほどになったらしい。

11月大石一行は江戸に潜。討ち入りのための武器の手配や吉良の屋敷の絵図の入手に全を尽くす。しかしこの期間中にも脱落者は発生し、12月14日の段階で最終的に残った人物は47人となった。
2日には最終会議が持たれ、討ち入りの際の手順や手柄を独占しないことを約束させた。

討ち入り

12月14日深夜、47人の浪士たちは江戸本所にあった吉良屋敷を襲撃。

は山鹿流兵法を採用しており、これが推奨する袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、太鼓を叩きながらの突撃とされる。
ただし実際は全員衣で模様は統一されておらず、鎖帷子を着込んでいたらしい。また太鼓は所持していなかったことも明らかになっている。

一方で吉良でも赤穂浪士の襲撃を警しており、当日は人近い足軽が詰めていた。
しかし、浪士たちが「五十人組は東へ回れ」「三十人組は西へ回れ」とあたかも数人規模で押し寄せているかのような偽装の掛けを出していたため身動きが取れず、さらには武器庫を抑えられての弦を切られるなどの策略もあり較的簡単に制圧されて行った。また上記のように浪士方が鎖帷子を着込んでいたため、切り合いに及んでも勝負にはならなかったとされる。

乱戦の中、である吉良義央の身柄はなかなか確保できなかった。浪士の間でも逃亡された懸念が広がり始めたが、台所横の炭小屋からが聞こえたため、捜索を開始。
すると食器や炭を投げつけられ、次いで吉良臣と思われる人物が切りかかって来た。素くこれらを切り捨て、さらにで動くものがあったためでついた。たまらず飛び出たのは老人であり、脇差抵抗したために浪士の間が首を切った。これを検分すれば額に傷があったため、吉良義央と確認。ここに討ち入りは成功した。

討ち入り後

浪士たちは火の始末をした後、吉良の首を掲げて回向院に向かった。しかし受け入れを拒否されたため、岳寺へ移動。そこで浅野長矩の墓前に首をげ、仇討ちの成功を報告した。
また、数人の浪士に討ち入りの口上書の写しを持たせた上で、大付・仙石久尚の屋敷に出頭させた。これを受けて仙石は直ちに江戸城に登して幕閣に報告、幕閣は一旦浪士たちを岳寺から引き揚げさせた上で仙石の屋敷に移動させた。

なお、この過程で足軽寺坂信行は離脱。浪士は46人となっていた。

幕府の評議と切腹

仙石の屋敷からさらに46人の浪士は、細川綱利定直毛利綱元水野忠之の4大名に預けられた。事件の噂は少なくとも江戸武士たちには当日から広まっていたらしく、特に同じ遇を持つ浪人たちからは赤穂浪士の行動を義挙として熱に支持する者も多かった。
一方、上級の大名や幕閣の間でも判断が分かれており、当事者となった仙石久尚と身柄を預かった細川水野は彼らを厚遇、助命まで嘆願しているが、毛利平家では罪人として冷遇している。

学者の間でも盛んに議論が行われ、信篤は義挙として助命を。しかし逆に荻生徂は「46士の行為は義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良として、儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない」とした。

徳川綱吉は一年前の浅野の暴挙に対する怒りもやや薄れていたのか、本人が儒教の忠孝をすすめていたこともあったのか、赤穂浪士の討ち入りそのものには美を感じていたとされる。
しかし、助命することは一度自身が下した裁定の誤りも認めてしまう結果になりかねなかった。また輪王寺門弁法の「46人を生かしたとて一人でも堕落すれば今回の義挙に傷がついてしまう。だが、今の内に殺せば美としてり継がれるだろう」と言う意見もあり、最終的に名誉を尊重した上での切腹に決定した。
その上で吉良易処分とし、子息の吉良義周を流刑とした。

その後

切腹は預けられた先で順次行われた。大石など身分の高いものを除いては扇子切腹斬首の中間に相当)だったとされる。
この時細川では最高の格式を用意し、庭の玉利に流れた血を洗い流す事なく、彼らの「義」にあやかろうとしたと伝えられている。

ドラマなどでは四十六士が一堂に会して沙汰を受けるシーンがあるが、これは事実ではない。
また四十六士の内、出していなかった子息たちも連座して遠などの処分が下された。しかし時間が経つにつれて同情論が噴出。宝永6年(1707年)に綱吉が死去すると直ちに恩赦が下されている。

広島に預けられていた浅野長広も同年に赦免。浅野の「旗本としての」再が許されている。

後世の創作

この事件は当時の幕政には何らのも与えなかったが、文学的なは大きかった。
事件の翌年にはくも歌舞伎において「佐間曽我(けいせいあさまそが)」という、曽我兄弟の討ち入りにこの事件を仮託した作品が発表され話題を呼んだ。ただし幕政を挟む出来事であるため幕府の厳しい監視は存在し、以後明治までは他の歴史事件に仮託すると言う手法が取られた。

これら作品群の集大成は言うまでもなく寛延元年(1748年)に発表された「忠臣蔵」こと「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」である。当初は人形浄瑠璃で演じられていたが、歌舞伎においてもほどなく演じられるようになり、現在に至るまでの虚虚実実の忠臣蔵像を確立した。
実に赤穂事件から47年後のことであった。

忠臣蔵の謎

刃傷について

おそらく赤穂浪士事件の中では一番論じられてきた論点ではないだろうか。
現代に到るまでも諸説あり、有名なものとして

  1. 浅野吉良への賄賂を断った為に不を買い、饗応役南を行わなかった(歌舞伎ではこの説が採用)
  2. 男色のもつれ(吉良がウホったが長矩がノンケだった)
  3. 塩田の技術を吉良がしつこく狙った(尾崎士郎屋太一の小説
  4. 単に吉良が性悪で長矩がガキだっただけ(江戸時代較的冷静な説)

このうち1については今でも文学作品などで知られている。
ただ注意しなくてはならないのは、この時代は現代と違い賄賂は悪ではないと言うことである。
もちろん、田沼意次のように批判された例はあるが、多くは反対者が敵をこき下ろすまたは失脚者を悪しざまにする常套手段とも取れる(実際に田沼政治批判した松平定信も自身は賄賂を貰ったり渡したりはしていた)。
そもそも、現代の企業と違って必要経費が生じたらその都度経費として支給される社会ではなく、大名や高家は幕府の命を受けたら自前の費用で役職を果たすのが前提。大名はまだ財産的な余裕はあるが、1万石以下(吉良の場合は4200石)の高家全額負担することは到底不可能であり、共に役職についた場合に大名側の負担が多いのはむしろ当然なのである。高家が大名にこれを要することもどちらかと言うと必要経費の請に近く、これを同時代の人間の、しかも支配者階級にいた浅野が知らない訳はない。
また、吉良からしても実際に饗応を担当する浅野側がミスを犯せばそれを南していた自身にも責任が及ぶ(江戸時代は今とはべものにならないほどの連帯責任社会)ため、そこまで酷い仕打ちをするとは考えにくいという説もある。
加えると、綱吉が院の従一位叙任に神経質になっていたように、この時期の朝廷対策は最重要課題であったために手抜きが許されるはずもない。

2については一次資料には全く見られない。また1と同じく不手際の責任までを考えると首を傾げたくなる気はする。

3は大河ドラマでも取り上げられ、現在でも歴史好きの人たちからされることもある。
しかし、実際に吉良の所領に塩田は存在しない。現地の吉良町を見ると遺構があるように見えるが、実際は飛び地として他の旗本が支配していた。この為現在では3は否定されている。

4は性格までは当事者にしか解らず、否定のしようもない。
ただし、吉良悪人とする資料のほとんどは事件から数十年後のモノであり、一連の忠臣蔵作品のは排除できない。一方、浅野がキレやすい人物だったことは臣へのそれまでの処遇からも見え隠れしている。

総じて言うと、前後関係から饗応役を巡ってトラブルがあったとするのが妥当な見方だろう。

浅野は以前にも饗応役についており、不慣れな田舎と言うドラマなどの描写はあり得ない。しかし、その時に生じた費用なども当然に記録に残っており「前はこれぐらいで済んだのに…」といった感情を持ったことはあり得る。当時は日本史史上でも特筆すべきほどのインフレ時代であったために、浅野吉良も双方に思い違いが生じやすい下地は確実にあったのである。

もっとも、どの説を取るにせよ浅野は遺恨があったこと以上のことは抗弁せず、赤穂浪士たちも傷の理由をしなかったことは考慮すべきである。もし吉良側に圧倒的な落ち度があるならするはずであり、それをせず単に喧嘩両成敗を訴えていることからも理由は当時から見て大したものではない可性が高い。

浅野家の人々について

忠臣蔵ので好感を得ている浅野であるが、幕府隠密の集めた大名情報をまとめた「土記(どかいこうしゅうき)」にある人物評では「頭はいいが、好色で大奥引きこもり政治家老達に任せている」と、暗君としかいいようがない評価を下している。
記の信憑性はさておき、赤穂事件が起きる数ヶ前に書かれた「諫懲正(かんちょうこうせい)」という書物にも「浅野武道に励んでいるが、気が小さく短気で仁の心がなく、方の下女に非を働いて『このは危ない』と噂されていた」と書かれていた。
事の次第はどうあれ、神経質で問題がある人物だと見られていたようである。
ただし、思惑はどうあれ仇討ちをしてくれるほどの人徳もあったのも事実だろう。

仇討ちについて

時おり「江戸時代仇討ちは合法であったが赤穂浪士事件では例外にされた」とするがなされるが正確ではない。
江戸時代に義務とされていたのはあくまで直系尊属が犯人本人に殺された場合であり、しかも奉行所などに届け出をして許可を得た上で一対一でなければならなかった。赤穂浪士にはこれは当てはまらないことになる。ただし、仇討ちを理由にすれば大に見られると言う潮は確かに存在し、事件より30年前に起きた浄瑠璃坂の討」では徒党を組んだ上でこれに及んだが実行犯たちは許され厚遇された。
「これを頼みに仇討ちを起こしたのでは?」と言う考えは確かに成り立つ。

もっとも、裁定を下した幕閣の中にも徒党を組んだことを問題視し、46人全員の磔をした者も少なからずいたとされ、見様によっては切腹死ねたことが例外とも取れる。また、切腹の沙汰を伝えるのにわざわざ上使(直使)を使っていることからも、綱吉や幕閣としては最低限してやれることはやったと言うことになるのではないだろうか。

なお、江戸急進部武庸は果し合いの末に3人を殺し、それが評判となってに召し抱えられた人物である。こちらは合法なのだが、今回も同様で多少過ぎても許してくれると言う判断もあったのかもしれない。

浪士たちの意図

後世忠勇の士と称えられる四十七士だが、事件の記事でもふれたように最初から仇討ち一辺倒ではない。
特に大石は円山会議の直前までおの意図は崩していない。一方、大石とたびたび対立してきた部は前述のような経歴があり、当時から腕自慢と評判の立つ人物である。浄瑠璃坂の前例もあり、その気概を見せれば再にも弾みがつくまたは許された上で他への再仕官もかなうと考えた人物がいても不思議ではない空気だったと言える。

近年では少なくとも大石の意図はおにあるのであり、仇討ちもその延長線上にあるとする説が有。これを逆手にとり大石サラリーマン的に描いたドラマビートたけし演したTBSのものなど)も存在する。

四十七士か四十六士か

吉良邸襲撃までは47人であったが、仙石邸に収容された際には一人減って46人となっている。これは足軽の寺坂信行が姿を消したためであり、処罰対にされたのも残りの46人である。寺坂の離脱には諸説あり、単なる逃亡説、足軽がいると義挙に傷が入ると浪士たちが逃がした説、長矩の正室で実家に戻っていた瑤院や広島に居る浅野長広に事の次第を伝える役を与えられた説などがある。

寺坂の本来の君であった吉田は討ち入り後、「吉右衛門は不届き者である。二度とその名を聞きたくない」とったとされ、大石良雄も「軽輩者であり、構う必要はない」と書き残している。
一方、寺坂はのちに仙石邸に出頭したが何の処罰もなく、吉田婿伊藤に奉している。また、配流された兼の遺児にも忠を尽くし様々な配慮をしたとされる。伊藤の書簡では寺坂が広島に赴いた記録も残っているため、少なくとも長広またはその近習と接触していたことは事実らしい。このうち仙石久尚は出頭後、浪士を厚遇した人物であり、大石とは寺坂の処遇について話を合わせていたのではないかと言う見解もできる。

明治以降、実的な歴史研究によりこれらが明されたため、現在では少なくとも単純な逃亡説を支持する人物は少ないと思われる。作品においては討ち入り後の主人公に擬せられることも多く、瑤院や浪士の家族にことの次第を伝えたり一切の後始末を行ったりして物語が締めくくられるのが常である。

吉良義央について

日本史においてもここまでdisられた人物は少ないように思える。

あまりの嫌われっぷりの反動か、所領があった吉良町などでは防の建造や新田開発などの事跡も強調され、実は名君説が古くから唱えられていた。地方史が多少なりとも重要視されつつあることや価値観の多様化で仇討ちの側面だけを強調する作品傾向が衰退したこともり、近年では地元以外でも取り上げられることが多い。

ただ、当時の旗本は既に所領の統治からは切り離されており、多くは代官たちがその執政を担っていたことには留意すべきである。実際に吉良本人が領地を訪れた確実な記録は一度だけであり、どれだけのを持っていたかは不明とされる。

しかし、性悪であったと言う確実な資料も前述のように存在しない。少なくとも傷と討ち入りについては「被害者」と言う側面が強く、幕府の一貫性のない仕置き(遺恨があったと認めておきながら喧嘩両成敗にしなかった)に一番振り回された人物であることは間違いないだろう。

その他

  • 芝居を通じて46士と浅野側が持ち上げられるに連れ、討ち入りに参加しなかった士、彼らを冷遇した大名や役人、果ては長矩を取り押さえた梶頼照まで後世からしいバッシングを受けるハメになった。脱盟した士でその後再仕官がかなった者は46士と縁戚だった者を除いて存在せず、彼らは町人からも馬鹿にされその子孫は偽名や名して日陰者のように明治までを過ごしたと言う。
  • 大名階級も例外とはされず、46士のうち10士を預かった長府毛利綱元は彼らを罪人として扱い冷遇したため、歴代当は大名行列を見物する庶民から江戸城内の同僚大名に至るまで冷笑を浴びせられ大変苦労したと言う。
  • このような潮と前例が、幕末に入りテロを繰り返す志士たち(と言うかテロリスト)への捜や対処が諸大名の間では後手後手に回った遠因になったのではないかとする説もある。実際、桜田門外の変を起こした水戸浪士や天狗党員たちも、諸出頭した時点では厚遇されている。
  • 時代はずっと下るが、昭和の2.26事件に巻き込まれてしまった落語家5代目柳家小さん師匠はその様子を「まるで討ち入りのような感じだった」と述懐しており、当事者の間でも思うところがあったとされる。
  • 前述のようにこの事件が直接幕府に与えたはほとんどない。しかし、後世、特に幕末は体制・反体制ともに浪士と自分たちを重ね合わせていたことは特筆すべき事である。新撰組にはその美意識や意明らかな意図が見受けられるし、明治天皇東京遷都の際にはっ先に46士が眠る岳寺に使者を立てて代参させている。
  • 近年では忠義のような儒教思想や仇討ちと言う暴力性が好まれなくなったためその辺は強調せず、大石のお運動をあたかも会社やに見立てる筋書きの作品が多くなったと言われる。一方、歴史学的には江戸時代初期の武断政治と中期以降の文治政治との対立に焦点を置く説も有。また、慶長期の傾奇者志向が元期にまで残存していたことを説く識者も多い。
  • 討ち入りが行われた12月14日は「忠臣蔵の日」とされている。があった赤穂市では毎年この日に盛大な穂義士祭と呼ばれるイベントが開催され、多くの人が訪れてにぎわう。この祭り大石良雄は大抵、有名ゲストである。また、東京岳寺周辺も同様であり重な観光である。12月にもなれば毎年ドラマや昔の映画が放映され、クリスマスと並んで12月風物詩と言える(もっとも、新では1月の事件である)。
  • 一方、46士のお切腹により断絶したような印があるため子孫または関係者と詐称する例も多い(似たような例に南の皇族や武将)。事件から30年後にはすでに同様の詐欺事件が多発しており、このうち部の妻を騙った妙尼に至っては一つの研究ですらある。
  • 自分の祖先と純に信じてる人たちには悪いのだが、出などで絶したを除くと46士の子孫の多くは男子の場合再仕官がかない、女子の場合は良と縁組出来た例が多い。つまり、ちゃんとした系図か最低限でも明治まで○○にいたくらいは分からないと信頼性は薄い。
  • また、遺品と称して保存がなされている場合も多いが、多くは同様に偽物である。江戸時代にまで遡れる物なら偽物でも伝統として許せるが、中には偽物と知りつつ老人にレプリカを売りつけたり見物料を取ったりすることも多いので注意(こちらも似た事例にフルベッキ写真山下清の絵がある)。

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