忠臣蔵 単語


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忠臣蔵(ちゅうしんぐら)とは、赤穂事件を元にした歌舞伎や人形浄瑠璃、映画・ドラマの作品群。
時には赤穂事件そのものを指す。

概要

元禄14年(1701年)3月から元禄16年(1703年)2月までに起きた

  • 播磨国(現在の兵庫県)赤穂藩藩主・浅野長矩と、高家旗本・吉良義央との江戸城内での刃傷事件
  • 浅野の切腹と改易
  • 遺臣たちによる吉良義央の殺害(仇討ち)
  • 事件に関与した遺臣らの切腹

までの一連の出来事の総称。

この「赤穂事件」と後世の作品群との混同を嫌うWikipediaでは厳密な区別がなされているが、本稿では「忠臣蔵」と言う名称が歴史的にも人口に膾炙していることや、検索上の理由からあえて忠臣蔵を記事名にしている。

赤穂事件について

事件の起こり

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城での事件である。

この日、朝廷への年賀の返礼として3日前から江戸に下向していた院使(上皇の使者)・勅使(天皇の使者)への返事を奏上する「奉答の儀」が、江戸城本丸内白書院にて執り行われる予定になっていた。

この儀礼の指南役に充てられていたのが高家(こうけ)旗本・吉良義央である。高家とは幕府と朝廷とのやり取りを取り仕切る役職・家柄であり、当時の吉良家は高家筆頭の立場にあった。
一方、事件を起こした赤穂藩主・浅野長矩は同年、吉良の補佐役に任命されていた。この日は院使・勅使を接待する「饗応役」に任ぜられていた。

江戸城内での刃傷沙汰

巳の下刻(午前11時半過ぎ)、江戸城内・松の廊下で留守居番・梶川頼照と居合わせ挨拶していた吉良に対し、突然、浅野長矩が刀で斬りつけた。
吉良は背中と額に刀傷を受けて卒倒、浅野はその場で梶川に取り押さえられた。

その理由について浅野は

上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候
(吉良には以前から遺恨があった為、殿中であり、また今日は大切な儀式があると知っていたが、止むを得ずに討ち果たした)

と語ったが、「遺恨」の具体的な内容は不明だった。

この騒動に五代将軍・徳川綱吉は激怒。浅野長矩の即日切腹と浅野家の改易を命じた。
この時、幕閣や取り調べを担当した役人たちの間では「今少し時間をかけて取り調べるべきでは」という慎重な意見も出たが、勤皇意識が強く、また生母・桂昌院の従一位叙任を急ぎたい綱吉は事件の早期収拾を図り、これらの意見に対し聞く耳を持たなかった。
その一方で被害者の吉良は「抵抗しなかったことが殊勝」とされ、何の咎めも受けることはなかった。

浅野長矩の切腹と赤穂藩改易

陸奥一関藩主・田村建顕の屋敷に預けられた浅野は、戌の下刻(午後7時半過ぎ)に切腹。死ぬまで動機については先に述べた通り遺恨があったことしか話さず、その遺恨の内容も明かすことはなかった。
また切腹までの待遇はかなり悪く、大名クラスの切腹は屋敷の中で行われるのに対し、庭先での切腹という扱いであった。これには怒りの治まらない綱吉の強い意向があったという説がある。

遺体は江戸の赤穂藩藩邸に詰めていた藩士たちが引き取り、浅野家の菩提寺であった泉岳寺に葬られた。正室・亜久里は即日落飾し、名を瑤泉院と改めて麻布の屋敷へと移った。

国元の赤穂に第一報が届いたのは、事件から一週間後の3月20日であったとされる。これには藩主が刃傷に及んだことのみが記されていた。
ただ、その後の情報がなくても以後の切腹・改易は容易に想像でき、藩札の回収や禄の整理が始められた。藩士たちはのちに四十七士のリーダーとなる家老・大石良雄岡島常樹を中心に、藩政の混乱防止に努めている。

3月25日には江戸藩邸の召し上げを知らせる使者が到着。これでいよいよ改易は決定的となり、27日には今後の対応についての話し合いが持たれた。
この席で籠城して異議を唱えるべきだとする強硬派と、潔く開城してお家再興を図るべきだとする穏健派が対立。前者は足軽頭・原元辰(岡島常樹の弟)、後者が家老・大野知房である。両派の対立は翌28日の赤穂城接収の決定で、さらにエスカレートした。

赤穂城開城から円山会議まで

一方その頃、赤穂藩には連座を恐れる浅野氏縁戚から開城を求める使者や手紙が殺到していた。この事態を憂慮した大石良雄は両者の仲介と、幕府の使者への対応に奔走する。
まず、使者には「開城したいが、藩主を慕う無骨者ばかりなので」と煙にまいて時間稼ぎをし、籠城派と開城派には「みなで切腹して殉死しよう」と、あえて誰の本命ではない第三の道を提示して衝突を防いだ。

4月に入ると吉良の生存も明らかになり、江戸詰め藩士(中心は堀部武庸。彼らは切腹事件の当事者であるため、吉良への憎しみが強かった。俗に江戸急進派とも)も帰藩して詳細を報告し始めたため「開城して下野し、しかる後に仇討ちをしよう」と言う方向に藩論を誘導した。

こうした一連の大石の尽力は成功し、藩論は開城に定まった。
さらに藩に残っていた財産の分配も下級藩士たちに厚くし、自身は取り分を放棄したことから人望も集める。ついには神文または義盟と称して運動への参加・暴走阻止の誓約を、同志たちから取り付けた。
一方、開城派であった大野は上級藩士優先の分配を主張して支持を失い、さらには解雇された足軽たちの強盗騒ぎもあったため4月12日赤穂から逃亡。最初の脱落者となった。

こうして赤穂城は開城、幕府に引き渡された。しかし大石はその後も残務処理の傍ら、まずはお家再興のために請願活動を開始。接収役に任じられていた大名たちに接近し、一人から支持を取り付けている。
7月には京都に拠点を構え、縁戚である大垣藩を通じた工作に全力を挙げる。しかし、これらの活動は堀部たちには変節に映ったらしく、しきりに仇討ちを要求し、ついにはお家再興や浅野長矩の養子で後継者の浅野長広をも軽視するような言動を取り始める。

慌てた大石は10月に堀部が在住していた江戸へ向かい会談を持った。
この席で一周忌に当たる翌年3月の仇討ち決行を約束し、それまではお家再興活動を続けることに理解を得る。幸か不幸かこの頃になると脱落者も増え始め、堀部の周辺人物からも幾人かが脱落したためにその権威は失墜。リーダーの大石に異を唱える者は少なくなっていった。

そうしていよいよ約束の3月に入ったが、この時点ではまだお家再興の行方が分からないため、大石は延期を決定した。しかし堀部は激怒し、大石の殺害までを視野に独自の仇討ち路線を模索する。しかし、これも不幸中の幸い(?)か、7月に浅野長広の広島藩お預かりが決定したためにお家再興は絶望的となり、浪士たちの間で大石含め方針が敵討ちに一本化する

同月28日、京都円山で同志が参集(俗に言う円山会議)。正式に吉良への仇討ちが決定され、一連の運動はここに大きな転換期を迎える。

討ち入りまで

この時点まではまだお家再興のみを考え、仇討ちは本心ではない藩士も多かった。
このため、大石はまず運動への参加を誓った証紙を一旦参加者に返還した上で、仇討ちに賛同する者のみ再度提出するように迫った。神文返しと呼ばれるこの行為により、130人いた同志も60人ほどになったらしい。

11月、大石一行は江戸に潜伏。討ち入りのための武器の手配や吉良家の屋敷の絵図の入手に全力を尽くす。しかしこの期間中にも脱落者は発生し、12月14日の段階で最終的に残った人物は47人となった。
2日には最終会議が持たれ、討ち入りの際の手順や手柄を独占しないことを約束させた。

討ち入り

12月14日深夜、47人の浪士たちは江戸本所にあった吉良屋敷を襲撃。

赤穂藩は山鹿流兵法を採用しており、これが推奨する袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、陣太鼓を叩きながらの突撃とされる。
ただし実際は全員が黒衣で模様は統一されておらず、鎖帷子を着込んでいたらしい。また陣太鼓は所持していなかったことも明らかになっている。

一方で吉良家でも赤穂浪士の襲撃を警戒しており、当日は百人近い侍や足軽が詰めていた。
しかし、浪士たちが「五十人組は東へ回れ」「三十人組は西へ回れ」とあたかも数百人規模で押し寄せているかのような偽装の掛け声を出していたため身動きが取れず、さらには武器庫を抑えられて弓の弦を切られるなどの策略もあり比較的簡単に制圧されて行った。また上記のように浪士方が鎖帷子を着込んでいたため、切り合いに及んでも勝負にはならなかったとされる。

乱戦の中、仇である吉良義央の身柄はなかなか確保できなかった。浪士の間でも逃亡された懸念が広がり始めたが、台所横の炭小屋から声が聞こえたため、捜索を開始。
すると食器や炭を投げつけられ、次いで吉良家家臣と思われる人物が切りかかって来た。素早くこれらを切り捨て、さらに奥で動くものがあったため槍でついた。たまらず飛び出たのは老人であり、脇差で抵抗したために浪士の間光興が首を切った。これを検分すれば額に傷があったため、吉良義央と確認。ここに討ち入りは成功した。

討ち入り後

浪士たちは火の始末をした後、吉良の首を掲げて回向院に向かった。しかし受け入れを拒否されたため、泉岳寺へ移動。そこで浅野長矩の墓前に首を捧げ、仇討ちの成功を報告した。
また、数人の浪士に討ち入りの口上書の写しを持たせた上で、大目付・仙石久尚の屋敷に出頭させた。これを受けて仙石は直ちに江戸城に登城して幕閣に報告、幕閣は一旦浪士たちを泉岳寺から引き揚げさせた上で仙石の屋敷に移動させた。

なお、この過程で足軽・寺坂信行は離脱。浪士は46人となっていた。

幕府の評議と切腹

仙石の屋敷からさらに46人の浪士は、細川綱利松平定直毛利綱元水野忠之の4大名家に預けられた。事件の噂は少なくとも江戸の武士たちには当日から広まっていたらしく、特に同じ境遇を持つ浪人たちからは赤穂浪士の行動を義挙として熱烈に支持する者も多かった。
一方、上級の大名や幕閣の間でも判断が分かれており、当事者となった仙石久尚と身柄を預かった細川家・水野家は彼らを厚遇、助命まで嘆願しているが、毛利家・松平家では罪人として冷遇している。

学者の間でも盛んに議論が行われ、林信篤室鳩巣は義挙として助命を主張。しかし逆に荻生徂徠は「46士の行為は義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない」と主張した。

徳川綱吉は一年前の浅野の暴挙に対する怒りもやや薄れていたのか、本人が儒教の忠孝をすすめていたこともあったのか、赤穂浪士の討ち入りそのものには美を感じていたとされる。
しかし、助命することは一度自身が下した裁定の誤りも認めてしまう結果になりかねなかった。また輪王寺門主・公弁法親王の「46人を生かしたとて一人でも堕落すれば今回の義挙に傷がついてしまう。だが、今の内に殺せば美として語り継がれるだろう」と言う意見もあり、最終的に名誉を尊重した上での切腹に決定した。
その上で吉良家を改易処分とし、子息の吉良義周を流刑とした。

その後

切腹は預けられた先で順次行われた。大石など身分の高いものを除いては扇子腹(切腹と斬首の中間に相当)だったとされる。
この時細川家では最高の格式を用意し、庭の玉砂利に流れた血を洗い流す事なく、彼らの「義」にあやかろうとしたと伝えられている。

ドラマなどでは四十六士が一堂に会して沙汰を受けるシーンがあるが、これは事実ではない。
また四十六士の内、出家していなかった子息たちも連座して遠島などの処分が下された。しかし時間が経つにつれて同情論が噴出。宝永6年(1707年)に綱吉が死去すると直ちに恩赦が下されている。

広島藩に預けられていた浅野長広も同年に赦免。浅野家の「旗本としての」再興が許されている。

後世の創作

この事件は当時の幕政には何らの影響も与えなかったが、文学的な影響は大きかった。
事件の翌年には早くも歌舞伎において「傾城阿佐間曽我(けいせいあさまそが)」という、曽我兄弟の討ち入りにこの事件を仮託した作品が発表され話題を呼んだ。ただし幕政を挟む出来事であるため幕府の厳しい監視は存在し、以後明治までは他の歴史事件に仮託すると言う手法が取られた。

これら作品群の集大成は言うまでもなく寛延元年(1748年)に発表された「忠臣蔵」こと「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」である。当初は人形浄瑠璃で演じられていたが、歌舞伎においてもほどなく演じられるようになり、現在に至るまでの虚虚実実の忠臣蔵像を確立した。
実に赤穂事件から47年後のことであった。

忠臣蔵の謎

刃傷について

おそらく赤穂浪士事件の中では一番論じられてきた論点ではないだろうか。
現代に到るまでも諸説あり、有名なものとして

  1. 浅野が吉良への賄賂を断った為に不興を買い、饗応役指南を行わなかった(歌舞伎ではこの説が採用)
  2. 男色のもつれ(吉良がウホったが長矩がノンケだった)
  3. 赤穂藩の塩田の技術を吉良がしつこく狙った(尾崎士郎や堺屋太一の小説)
  4. 単に吉良が性悪で長矩がガキだっただけ(江戸時代の比較的冷静な説)

このうち1については今でも文学作品などで知られている。
ただ注意しなくてはならないのは、この時代は現代と違い賄賂は悪ではないと言うことである。
もちろん、田沼意次のように批判された例はあるが、多くは反対者が敵をこき下ろすまたは失脚者を悪しざまにする常套手段とも取れる(実際に田沼政治を批判した松平定信も自身は賄賂を貰ったり渡したりはしていた)。
そもそも、現代の国や企業と違って必要経費が生じたらその都度経費として支給される社会ではなく、大名や高家は幕府の命令を受けたら自前の費用で役職を果たすのが前提。大名はまだ財産的な余裕はあるが、1万石以下(吉良の場合は4200石)の高家が全額負担することは到底不可能であり、共に役職についた場合に大名側の負担が多いのはむしろ当然なのである。高家が大名にこれを要求することもどちらかと言うと必要経費の請求に近く、これを同時代の人間の、しかも支配者階級にいた浅野が知らない訳はない。
また、吉良からしても実際に饗応を担当する浅野側がミスを犯せばそれを指南していた自身にも責任が及ぶ(江戸時代は今とは比べものにならないほどの連帯責任社会)ため、そこまで酷い仕打ちをするとは考えにくいという説もある。
加えると、綱吉が母・桂昌院の従一位叙任に神経質になっていたように、この時期の朝廷対策は最重要課題であったために手抜きが許されるはずもない。

2については一次資料には全く見られない。また1と同じく不手際の責任までを考えると首を傾げたくなる気はする。

3は大河ドラマでも取り上げられ、現在でも歴史好きの人たちから主張されることもある。
しかし、実際に吉良の所領に塩田は存在しない。現地の吉良町を見ると遺構があるように見えるが、実際は飛び地として他の旗本が支配していた。この為現在では3は否定されている。

4は性格までは当事者にしか解らず、否定のしようもない。
ただし、吉良を悪人とする資料のほとんどは事件から数十年後のモノであり、一連の忠臣蔵作品の影響は排除できない。一方、浅野がキレやすい人物だったことは家臣へのそれまでの処遇からも見え隠れしている。

総じて言うと、前後関係から饗応役を巡ってトラブルがあったとするのが妥当な見方だろう。

浅野家は以前にも饗応役についており、不慣れな田舎侍と言うドラマなどの描写はあり得ない。しかし、その時に生じた費用なども当然に記録に残っており「前はこれぐらいで済んだのに…」といった感情を持ったことはあり得る。当時は日本史史上でも特筆すべきほどのインフレ時代であったために、浅野も吉良も双方に思い違いが生じやすい下地は確実にあったのである。

もっとも、どの説を取るにせよ浅野は遺恨があったこと以上のことは抗弁せず、赤穂浪士たちも刃傷の理由を主張しなかったことは考慮すべきである。もし吉良側に圧倒的な落ち度があるなら主張するはずであり、それをせず単に喧嘩両成敗を訴えていることからも理由は当時から見て大したものではない可能性が高い。

浅野家の人々について

忠臣蔵の影響で好感を得ている浅野であるが、幕府隠密の集めた大名家の情報をまとめた「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」にある人物評では「頭はいいが、好色で大奥に引きこもり、政治は家老達に任せている」と、暗君としかいいようがない評価を下している。
土芥讎記の信憑性はさておき、赤穂事件が起きる数ヶ月前に書かれた「諫懲公正(かんちょうこうせい)」という書物にも「浅野は真面目で武道に励んでいるが、気が小さく短気で仁愛の心がなく、奥方の下女に非道を働いて『この家は危ない』と噂されていた」と書かれていた。
事の次第はどうあれ、神経質で問題がある人物だと見られていたようである。
ただし、思惑はどうあれ仇討ちをしてくれるほどの人徳もあったのも事実だろう。

  • 浅野は激した時に胸が苦しくなるという精神病をもっていた。ひょっとして火病
  • 浅野家は家光の命令で太平の世にも関わらず赤穂城を築城した。その影響で藩主や家臣も戦国時代の気風を帯びるようになり、内匠頭には城持大名という誇りがあったのではないかという指摘がある。
  • 内匠頭の官位は従五位下内匠頭、吉良上野介の官位は従四位上・左近衛権少将(事件時)。上野介の官位は内匠頭はおろか広島の本家よりも高く、加賀百万石の前田家と同格ですらある。江戸城の序列は石高ではなく官位で決まるので上野介が上位にいた。堀部安兵衛が手記に「上野介は内匠頭に悪口をたたき、内匠頭は我慢をしていたがついに我慢しきれずに斬りつけた」と記しているので、2人の関係がどのようなものであったのかは想像できるだろう。官位と石高の釣り合いがとれていないアンバランスさが軋轢を生んだものと思われる。
  • 松の廊下における事件を幕府は「乱心」ではなく「遺恨あり」として処理した。乱心、つまり精神異常で起こしたのであれば内匠頭側の一方的な暴力という判断になり、上野介の医療費は公費で賄われたのだが、「遺恨あり」つまり内匠頭と上野介は喧嘩している状態にあり、従って上野介にも非があるということで医療費は自弁ということなった。その代わり、乱心であれば内匠頭の切腹は代わらなかったとしても、その後の展開は違っていただろうと思われる。

    浅野家の立場から想像すると、内匠頭は上野介から悪口や嫌味を言われ続けており、その怒りが爆発。でも殺し損ねてしまい、いじめられっ子には切腹と改易という重い処分が下ったのに対し、いじめた側の吉良家には処分がされなかったので、ヤンキー戦国気質に溢れた浅野家家臣たちが主君の無念を晴らすために、仇討ちに及んだものと思われる。

仇討ちについて

時おり「江戸時代は仇討ちは合法であったが赤穂浪士事件では例外にされた」とする主張がなされるが正確ではない。
江戸時代に義務とされていたのはあくまで直系尊属が犯人本人に殺害された場合であり、しかも奉行所などに届け出をして許可を得た上で一対一でなければならなかった。赤穂浪士にはこれは当てはまらないことになる。ただし、仇討ちを理由にすれば大目に見られると言う風潮は確かに存在し、事件より30年前に起きた「浄瑠璃坂の仇討」では徒党を組んだ上でこれに及んだが実行犯たちは許され厚遇された。
「これを頼みに仇討ちを起こしたのでは?」と言う考えは確かに成り立つ。

もっとも、裁定を下した幕閣の中にも徒党を組んだことを問題視し、46人全員の磔を主張した者も少なからずいたとされ、見様によっては切腹で死ねたことが例外とも取れる。また、切腹の沙汰を伝えるのにわざわざ上使(直使)を使っていることからも、綱吉や幕閣としては最低限してやれることはやったと言うことになるのではないだろうか。

なお、江戸急進派の堀部武庸は果し合いの末に3人を殺害し、それが評判となって赤穂藩に召し抱えられた人物である。こちらは合法なのだが、今回も同様で多少過ぎても許してくれると言う判断もあったのかもしれない。

浪士たちの意図

後世忠勇の士と称えられる四十七士だが、事件の記事でもふれたように最初から仇討ち一辺倒ではない。
特に大石は円山会議の直前までお家再興の意図は崩していない。一方、大石とたびたび対立してきた堀部は前述のような経歴があり、当時から腕自慢と評判の立つ人物である。浄瑠璃坂の前例もあり、その気概を見せれば再興にも弾みがつくまたは許された上で他家への再仕官もかなうと考えた人物がいても不思議ではない空気だったと言える。

近年では少なくとも大石の意図はお家再興にあるのであり、仇討ちもその延長線上にあるとする説が有力。これを逆手にとり、大石をサラリーマン的に描いたドラマ(ビートたけしが主演したTBSのものなど)も存在する。

四十七士か四十六士か

吉良邸襲撃までは47人であったが、仙石邸に収容された際には一人減って46人となっている。これは足軽の寺坂信行が姿を消したためであり、処罰対象にされたのも残りの46人である。寺坂の離脱には諸説あり、単なる逃亡説、足軽がいると義挙に傷が入ると浪士たちが逃がした説、長矩の正室で実家に戻っていた瑤泉院や広島藩に居る浅野長広に事の次第を伝える役目を与えられた説などがある。

寺坂の本来の主君であった吉田兼亮は討ち入り後、「吉右衛門は不届き者である。二度とその名を聞きたくない」と語ったとされ、大石良雄も「軽輩者であり、構う必要はない」と書き残している。
一方、寺坂はのちに仙石邸に出頭したが何の処罰もなく、吉田兼亮の娘婿の伊藤治興に奉公している。また、配流された兼亮の遺児にも忠誠を尽くし様々な配慮をしたとされる。伊藤家の書簡では寺坂が広島に赴いた記録も残っているため、少なくとも長広またはその近習と接触していたことは事実らしい。このうち仙石久尚は出頭後、浪士を厚遇した人物であり、大石とは寺坂の処遇について話を合わせていたのではないかと言う見解もできる。

明治以降、実証的な歴史研究によりこれらが証明されたため、現在では少なくとも単純な逃亡説を支持する人物は少ないと思われる。作品においては討ち入り後の主人公に擬せられることも多く、瑤泉院や浪士の家族にことの次第を伝えたり一切の後始末を行ったりして物語が締めくくられるのが常道である。

吉良義央について

日本史においてもここまでdisられた人物は少ないように思える。

あまりの嫌われっぷりの反動か、所領があった吉良町などでは堤防の建造や新田開発などの事跡も強調され、実は名君説が古くから唱えられていた。地方史が多少なりとも重要視されつつあることや価値観の多様化で仇討ちの側面だけを強調する作品傾向が衰退したこともり、近年では地元以外でも取り上げられることが多い。

ただ、当時の旗本は既に所領の統治からは切り離されており、多くは代官たちがその執政を担っていたことには留意すべきである。実際に吉良本人が領地を訪れた確実な記録は一度だけであり、どれだけの影響力を持っていたかは不明とされる。

しかし、性悪であったと言う確実な資料も前述のように存在しない。少なくとも刃傷と討ち入りについては「被害者」と言う側面が強く、幕府の一貫性のない仕置き(遺恨があったと認めておきながら喧嘩両成敗にしなかった)に一番振り回された人物であることは間違いないだろう。

その他

  • 芝居を通じて46士と浅野側が持ち上げられるに連れ、討ち入りに参加しなかった赤穂藩士、彼らを冷遇した大名や役人、果ては長矩を取り押さえた梶川頼照まで後世から激しいバッシングを受けるハメになった。脱盟した赤穂藩士でその後再仕官がかなった者は46士と縁戚だった者を除いて存在せず、彼らは町人からも馬鹿にされその子孫は偽名や改名して日陰者のように明治までを過ごしたと言う。
  • 大名階級も例外とはされず、46士のうち10士を預かった長府藩の毛利綱元は彼らを罪人として扱い冷遇したため、歴代当主は大名行列を見物する庶民から江戸城内の同僚大名に至るまで冷笑を浴びせられ大変苦労したと言う。
  • このような風潮と前例が、幕末に入りテロを繰り返す志士たち(と言うかテロリスト)への捜査や対処が諸大名の間では後手後手に回った遠因になったのではないかとする説もある。実際、桜田門外の変を起こした水戸浪士や天狗党員たちも、諸藩に出頭した時点では厚遇されている。
  • 時代はずっと下るが、昭和の2.26事件に巻き込まれてしまった落語家の5代目柳家小さん師匠はその様子を「まるで討ち入りのような感じだった」と述懐しており、当事者の間でも思うところがあったとされる。
  • 前述のようにこの事件が直接幕府に与えた影響はほとんどない。しかし、後世、特に幕末は体制派・反体制派ともに浪士と自分たちを重ね合わせていたことは特筆すべき事象である。新撰組にはその美意識や意匠に明らかな意図が見受けられるし、明治天皇も東京遷都の際には真っ先に46士が眠る泉岳寺に使者を立てて代参させている。
  • 近年では忠義のような儒教思想や仇討ちと言う暴力性が好まれなくなったためその辺は強調せず、大石のお家再興運動をあたかも会社や国に見立てる筋書きの作品が多くなったと言われる。一方、歴史学的には江戸時代初期の武断政治と中期以降の文治政治との対立に焦点を置く説も有力。また、慶長期の傾奇者志向が元禄期にまで残存していたことを説く識者も多い。
  • 討ち入りが行われた12月14日は「忠臣蔵の日」とされている。赤穂藩があった赤穂市では毎年この日に盛大な赤穂義士祭と呼ばれるイベントが開催され、多くの人が訪れてにぎわう。この祭りの大石良雄は大抵、有名ゲストである。また、東京の泉岳寺周辺も同様であり貴重な観光資源である。12月にもなれば毎年ドラマや昔の映画が放映され、クリスマスと並んで12月の風物詩と言える(もっとも、新暦では1月の事件である)。
  • 一方、46士のお家が切腹により断絶したような印象があるため子孫または関係者と詐称する例も多い(似たような例に南朝の皇族や武将)。事件から30年後にはすでに同様の詐欺事件が多発しており、このうち堀部の妻を騙った妙海尼に至っては一つの研究対象ですらある。
  • 自分の祖先と純粋に信じてる人たちには悪いのだが、出家などで絶家した家を除くと46士の子孫の多くは男子の場合再仕官がかない、女子の場合は良家と縁組出来た例が多い。つまり、ちゃんとした家系図か最低限でも明治まで○○藩にいたくらいは分からないと信頼性は薄い。
  • また、遺品と称して保存がなされている場合も多いが、多くは同様に偽物である。江戸時代にまで遡れる物なら偽物でも伝統として許せるが、中には偽物と知りつつ老人にレプリカを売りつけたり見物料を取ったりすることも多いので注意(こちらも似た事例にフルベッキ写真や山下清の絵がある)。

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