批判的思考とは、批判的に考えること、またその思考法である。
クリティカル・シンキングとも言う。
「批判的思考」という字面から、「否定的に」や「非難するつもりで」などの意味合いに受け取る人もいるだろうが、実はまったく逆である。
ここでいう「批判」とは、「論理的・合理的・多面的に評価を下すこと」といった意味であり、批判的思考とは、「適切に批判対象を理解し、より高度な判断を下す」ための思考プロセスである。
この記事を読んでいる皆さんにとっては、「批判」といえば「対象の誤りを指摘する」ものとして馴染み深いだろうが、その「誤りの指摘」を適切なものにするためにも、批判的思考が求められるだろう。
以下、(ニコニコらしく)アニメ作品に対する批判を想定して、実際的な「批判的思考」のガイドラインとして提案する。
ネット上の掲示板で「批判」をするとき、多くの場合は議論というかたちを伴う。
それは討論や議決のような類ものとは違う、参加者の相互的な協力によって認識のすり合わせを行うディスカッション形式であることを意識する必要がある。
ディスカッション形式の議論において重要なのは、「統一的な結論を出さなくてもいい」 ということである。
もちろん相手の意見を理解して結論が導かれるのはいいことだが、結論を出すことに固執すると不毛極まりない意見の押し付け合いに陥ってしまう。
ネット上でどれだけ論破した気になっても、相手はおそらく自分の考えを変えないだろうし、その過程で見苦しい議論をしていたのなら、それを見ているものも、一方が議論放棄して黙ったからとてその意見が正しいものだとは思わないだろう。
大切なのは、「相手の考えを知る」ことと、「自分の考えを理解してもらう」ことであり、そのために互いに協力することである。
その結果として、議論に参加してる個々人が、またそれをROMってる多くの人が、各々で結論を下したとき、「批判」は完成する。
つまり、「批判」意見を述べるときに適切な態度とは、自分と意見を戦わせているものをうんざりさせて黙らせることではなく、議論相手のみならず、そのやりとりを見ている第三者に対してどれだけ説得力を提供できるか(=客観性の確保) を意識するというものである。
(そしてまた、自分も相手の主張の客観性を高めるために適切な質問をする、といものでもある)
この第三者とは、批判対象であるところの「制作者」も該当する。
「制作者は批判の声に耳を傾けるべき」と思っておりそのために批判をしている人は、なおさら客観的に問題を吟味しなければ目的には及ばないだろう。
これは、「批判」そのものではなく、批判のための問題提起にすぎず、むしろここからが批判のはじまりである。
批判をしようとする人は、これに対する反論を真摯に受け止める必要がある。また、これに反論しようとする人も、ただの悪口ではなく問題提起であることを前提にして、その問題の是非を見極めなければならない。
このさい、
というところを明らかにしなければ、批判が成立しない。
もちろん、すべてのことにおいていちいち説明していたら議論が煩雑になるだけなので、お互いに問題意識を共有してる限りにおいては省略しても差し支えないが、いわゆる「批判側」といわゆる「擁護側」で意見が平行線になっているときは、この時点で認識が乖離しているケースが多い。
なにか会話が噛み合ってない……と感じたときは、いちど前提をはっきりさせて問題を再定義するのが、議論を円滑に進めるコツである。
これらはアニメ批判にありがちな否定意見だが、そのすべてが批判として適切だとは限らない。
批判としての適切さを保つために気をつけなければならないのは、
である。
この種の批判において忘れられがちなのは、「矛盾」や「破綻」があると認識するのも、ひとつの主観的な解釈である、ということである。
矛盾や破綻があるという批判に固執するあまり、矛盾や破綻を解決する他者の解釈を「妄想」の一言で片付けてしまっては、矛盾や破綻を厭うという姿勢に対して自己矛盾や自己破綻を招き、作品理解の妨げとなる。
そして、ある作品に向けている基準は、他の作品を批判する上でも通用するものだろうか? 他のアニメに対して当てはめても容易く「矛盾」や「破綻」の指摘ができてしまう不寛容な基準では、ジャンル全体に矛盾や破綻がはびこっていることになり、作品単体に対して「矛盾」や「破綻」という批判を試みることの価値が希薄化する。
これは創作物全般にも拡大できることであり、適切に批判対象のみを切り取らないまま「ここがおかしい」という論証のみを追求してしまうと、論理的ではあるかも知れないが非合理的で不公平な批判となってしまう。
これらの問題を回避するためには、好意的な解釈を積極的に考慮し、自分が好きな作品を解釈して理解するように受け入れる、という「とりあえずの好意的理解」が求められる。
そうすることでなお、受け入れがたい点があるなら、そこを手掛かりにして「なぜこの解釈が受けれられないのか」「自分の好きな作品となにが違うのか」という思考が可能になり、
それを議論相手に理解してもらうことで、問題の焦点や、意見を分かつ価値観の差が明らかとなり、議論にとって有益な客観性を与えられる。
一方、矛盾や破綻があると指摘されたことが承服できない人も、その言葉の刺自体に反発するのではなく、まずは相手の指摘する問題点をとりあえず肯定的に吟味して、疑問が生じたなら相手に問うて考えを聞き、その上で「自分がおかしいと思わなかった理由」を述べる必要がある。
また、矛盾や破綻を解決するような解釈を述べるときも、できうる限りの根拠を明らかにして客観性を高めたほうが、相手も理解しやすいだろう。
重要なのは「この作品はおかしいかおかしくないか」という結論ではなく、「なぜそう思ったのか」という過程である。
「こういうスタンスなら『おかしく』見える」「このスタンスなら『おかしく』見えない」というところについて合意できれば、互いに納得する結論が導けるだろう。
これは多くの説明を要さないだろう。
自分の意見を「これは本当に正しいのか?」と自ら批判することは、相手の立場に立つ(相手の反論を想定する)ことでもあり、より相手に理解しやすい意見を主張するための重要な過程である。
また、そこで自分の意見に誤りを見出したなら、そこを修正した上で意見を述べれば、議論がいっそうスムーズになる。
ここらへんが作品批判のもっとも難しいところであるが、そもそもの「創作物(フィクション)」というものの「受け手の想像力に訴えかける」という特性上、
ということは無視できない。
できるだけ同じように受け取ってもらいたい箇所には相応の説明なり描写なりをして思考誘導を図るだろうが、そうでないところは「好きに解釈していいところ」であり、また、「制作者にとって語るに値しないところ」か、「訴えたいことはあるけど受け手の理解力を期待している・試しているところ」である。
そうした不親切であやふやな状態を受け入れなければ、作品理解につながる批判は成り立たない。
これはアニメから一歩離れて小説なりなんなりを想像してもらえば理解は難しくないだろう。
「なにを伝えたいのか」というテーマや教訓を要約して明確に記述する作品ばかりではなく、むしろあの手この手で難解にして読者に頭を使わせる作品も相当数存在する。
アニメにおいてもこの傾向は例外ではない。(むしろ映像表現が絡んでいるぶん、小説などよりも言語化して語りにくく、分かりづらい場合もある)
不明な点については好きに解釈していいのだが、だからこそ、「どう受け取ってもいいこと」に対して一意的な答えを求めることは、創作物を発表しそれを享受するという「作品を通したコミュニケーション」の前提を危うくさせる。
これを乗り越えて批判をするためには、まず作品を可能な限り深く理解することからは逃れられず、理解→疑問→理解のループのなかでも解消できないものこそが、制作側に是非を問うべき「批判点」として客観的な意味を持ち、これを欠如させた批判は「批判のための批判」という否定ありきのものになってしまう。
この不確実性の受容は、 批判における議論そのものにも適用できる。
作品の完全な理解などほぼ不可能で、「だいたいわかった」の精神で理解するしかない物事を対象にとった議論で、統一的な結論が出ることなどほとんどありえないだろう。
そのため、一つの結論を出すことに執着してしまうと、双方の主張が絡み合ってお互いを食い合うウロボロスの円環のような議論になってしまう(無限ループってこわくね?)。
ましてや、自分の気に入らない意見・解釈を引っ込めさせるためにネチネチ質問攻めを仕掛けて粗探しをし、それを理由に自分の意見のほうが優れているかのように誇るなど、もっての外である。そんなことをしたところで、次は自分の主張もネチネチ質問攻めにして粗探しをしなければダブルスタンダードでしかない。
これまで繰り返し述べていることであるが、この手の議論で大事なのは「なぜそう思ったのか」という思考過程を明らかにして相互理解を深めることである。
「自分はこう思ったからこういう評価を下した」というところをわかりやすく説明すること(説得力)が、他の人間もそれをトレースすれば同じ結論に辿り着ける状態(客観性)につながり、自分の意見に賛同してもらえる余地を作る。
そこから先は、もう相手の価値観に委ねるしかないだろう。「作品を好意的に評価する考え方」と「作品を否定的に評価する考え方」の違いがはっきりすれば、あとはどっちに肩入れするかの問題でしかなくなる。
批判的思考の最後の障害は、「自分の思い込み・誤った論理展開に気づかないこと」と、「相手の思い込み・誤った論理展開に惑わされること」である。
自分の思い込みを相手も共有しているとは限らず、また逆も然りであるため、これに基づいた議論は「なんか反論しづらいけど納得できない」というおかしな方向へ進みやすい。
これに対処するには、その発言に隠された前提を明らかにすることである。
どこかに納得できない前提・一般的ではない前提が潜んでいるため、「(隠された前提を真とするなら)言ってることは正しいように見える」が、「(隠された前提に同意できないため)納得できない」という相反した状況を生み出す。
中には、議論の勝ち負けにこだわって自分の望む結論へ誘導するために意図的にそういう状況を作ろうとする者もいるため、注意が必要である。
そうした誤謬(意図的なものは詭弁と呼ぶ)のなかで代表的なものを挙げるので、自分がこれに陥っていないかの確認や、相手の誤謬に惑わされないためのチェックとして活用してもらいたい。
他にも様々な形式の誤謬(詭弁)があるが、その詳細は詭弁 - Wikipediaなどを参照するといいだろう。
ある主張に誤謬かないかどうかの判断は難しいので、日頃から自分や相手の主張がどういう論理構造によるものなのかを意識する習慣付けをすることが望ましい。
また、相手の主張に誤謬を見つけても、安易に「詭弁だ」と断じるのは好ましくない。むしろ「詭弁だ」というレッテル貼りをする別の詭弁を犯す恐れすらあるので、具体的にどういう誤りがあってその主張に同意できないのかを伝えよう。
ここまで長々と書いてきたが、最後にはっきりさせておきたいのは、これはあくまで「批判的思考」に対するひとつの解説であり、つまり、ひとつの意見主張に他ならない、ということであり、これをルール化して押し付けようという意図は微塵も存在しない、ということである。
そもそも娯楽作品である場合批判したり細かい議論しながら楽しむものじゃない。といわれたそれまである。千の言葉を並べようが「でも俺は楽しかったよ」「そんなことより〇〇はかわいい」と一言いわれるだけで無に帰されるものである。ここから否定しようものならただの人格批判にしかならないし、追及してもそれを答える義理は相手にはない。娯楽である以上「楽しんだもの勝ち」であり議論の正確さや論理の綺麗さを競うのならそれをメインとした集団に属するべきである。というのを忘れてはいけない。
そして批判的思考したい人にとって大きな障害である「論理も思考もなく何かを批判したい人」と同一視されて排除される覚悟を持たないといけない。いわゆる煽り、アンチの人達は自分の正当性を主張するためにさも論理的でありそうな主張を繰り返し、ねじ曲がった解釈を批判的思考だといってあらゆるコミュニティで荒らし、批判的な意見を非常に不快なものに変えてしまう。そして好意的に楽しみたい人にとっては論理があろうがなかろうが批判されているには変わりはないので論理的思考をする人を区別する義理はなくコミュニティから排除する可能性が高い。自分は適切に批判しているのに追い出された・・・と他で愚痴を言ってもそれに肯定してくるのは自身が排除される原因となったアンチである。歴史を見ると何かを批判するだけで死刑になることもあり、何かを批判するというのはそれだけ自身に害が及ぶということである。
これを読んだ皆さんは、記事の内容に同意してもいいし、しなくてもいいのである。
内容に賛同してくれるのであればこれに則って批判議論をしてみるのもいいし、内容に誤りがあると思うなら無視してもいいし、掲示板などを利用して反論を行ってもいい。
ただ、議論というものが相互的な「理解」を前提としたコミュニケーションである以上、この記事でなくとも、いずれかの手段で共通認識を形成し、それを土台にさらなる共通認識を組み立てなければ、すべての議論は無意味であるだろう。
また、作品批判に限っても、作り手側と共通認識を持つことを放棄した状態では、その作品を理解しようと試みるものに対してなんの価値も提供できないし、もっとも作品を理解している「作り手」に対しても、無意味な言論となるだろう。
創作物を批判するのは、実にいいことである場合もある。
自分の考えを主張するというのはとても楽しい知的遊戯であるし、同じように思っている人がいたらなお嬉しい。
また、他人の批判を読んでその考えを知ることは刺激的なことだし、その内容を理解できるのなら、自分の思考の幅が広がり、精神活動が豊かになる。
ただし、それは、その輪に加わるものすべてが、協調的に思考し意見を交換する場合に限ってのことである。
「批判をしたい人」にとって、この記事の内容はやや厳しい目線からのものであるかもしれない。
たが、批判を行うとき、自分も等しく批判の目にさらされているのである。←オマエモナー
対象を馬鹿者だと嘲るときは、自分も馬鹿者だと嘲笑われる可能性を忘れてはならない。
その事実に耐えられる者こそが「批判のための批判」ではなく「批判のための思考」を成せるのであり、
作品が要求する精読度に到達しているかどうかを自らに疑えない者は、その作品が視聴者の要求する作り込みを備えているかどうかを論う資格はない。
……というのが、編集者の愚考するところである。
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最終更新:2025/12/24(水) 15:00
最終更新:2025/12/24(水) 15:00
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