沖田総司とは新選組副長助勤である。一番組長。
天保13年(1842年)、白河藩足軽小頭・沖田勝次郎の長男として江戸で生まれる。諱は春政、房良(かねよし)。
近藤周助の試衛館内弟子になり天然理心流を学ぶ。天才的な剣術の才能を示し、18歳にして師範代を務めたとされる。
文久3年(1863年)に浪士組の一員として近藤らと上京。京都に残り壬生浪士組に加わった。9月には芹沢鴨暗殺に参加している。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では第一陣として参戦。戦闘中に昏倒して戦線離脱した。
元治2年(1865年)2月の山南敬助脱走事件では山南を連れ戻し、切腹の介錯を務めたとされる。
慶応3年(1867年)から肺結核に冒され第一線から身を引くようになる。
慶応4年(1868年)、病状が悪化して鳥羽伏見の戦いには参加できず、江戸に帰還。甲州勝沼の戦いに参戦しようとしたが重症のため断念。江戸千駄ヶ谷の植木屋柴田平五郎宅で静養していたが、5月30日頃に死亡したとされる。
新選組を題材にした作品では、子供達と遊ぶのが好きだったという逸話などから、人当たりは良いが敵に対しては容赦しない非情な人物として描かれる場合が多い。また美男子として描かれる場合が大半だが、実際の沖田がどうだったかについては反対意見が多い。ちなみに、総司の姉・沖田ミツは孫の沖田要を見て「総司そっくりだ」と発言している。
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最終更新:2025/12/23(火) 04:00
最終更新:2025/12/23(火) 03:00
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