田中賢介(たなか けんすけ、1981年5月20日-)とは、日本の福岡県出身のプロ野球選手である。現在は北海道日本ハムファイターズに所属。
| 北海道日本ハムファイターズ #3 | |
|---|---|
| 田中賢介 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | 日本 |
| 出身地 | 福岡県 |
| 生年月日 | 1981年5月20日 |
| 身長 体重 |
176cm 76kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投左打 |
| 守備位置 | 二塁手、遊撃手、左翼手 |
| プロ入り | 1999年 |
| 経歴 | |
|
|
| プロ野球選手テンプレート | |
東福岡高等学校時代は村田修一、大野隆治とチームメイトだった。1998年に松坂大輔率いる横浜高等学校と対戦し、完封負けし敗退したが1安打を放った。1999年にドラフト2位で日本ハムファイターズに入団。ちなみに2位指名だが中日ドラゴンズ・西武ライオンズと3球団競合だったりする。
2002年、2003年は一軍二軍を行き来し、2004年は故障でリタイアした。
2005年も22試合しか出場できなかったが、最終戦でサヨナラホームランを放った。
2006年は木元邦之、川島慶三との競争を制しセカンドのレギュラーに定着。2番打者として最多犠打を記録し「森本稀哲が出て賢介が送る」のが日本ハムの攻撃パターンになった。規定打席に到達して25年振りのリーグ優勝、日本一に貢献し、ゴールデングラブ賞とベストナインを受賞。
2006年6月3日以降全試合に出場していたが、2010年8月15日に欠場し、歴代29位の620試合でストップした。2番以外にも、パンチ力を買われての3番起用や、森本稀哲の離脱で1番に入ることも多くなった。本人は3番を打つのが目標だったらしい。
2009年から選手会長となる。シーズンを通して1番打者として活躍、パ・リーグ史上最多の680打席に立った。規定打席到達者の中で唯一併殺打0のままシーズンを終えた。
2010年は143試合に出場し、シーズン打率.335、193安打と自己最高の成績を残した。
2011年は6月18日の広島東洋カープ戦で左足距骨を骨折。全治4~6ヶ月と診断されシーズン絶望となり、49試合の出場に留まった。クライマックスシリーズでは何とか復帰したが、決勝点に繋がるエラーを犯してしまった。
2012年も1番もしくは3番で好成績を残していたが、8月29日の埼玉西武ライオンズ戦で左腕を骨折し2年続けて途中離脱。今度は日本シリーズにも間に合わなかった。
オフ、メジャー挑戦を目指してFA宣言し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約。
2013年は開幕をマイナーで迎えたが、7月9日にメジャー昇格。ジャイアンツでは左翼手として起用された。オフにテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ。
2014年7月20日にFAとなった。オフに古巣の北海道日本ハムファイターズに復帰した。背番号3。
2015年は134試合に出場し、自己キャリアハイの66打点を記録。2012年以来のベストナインを受賞した。
| 球団 | レス | No | プレイヤー |
|---|---|---|---|
| 日本ハム | 応援歌のピコカキコ一覧#85 | 8647 |
(2015年終了時点)
| 通算:15年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB:14年 | 1213 | 4874 | 4206 | 586 | 1203 | 43 | 391 | 170 | 173 | 26 | 429 | 40 | 646 | 30 | .286 | .356 |
| MLB:1年 | 15 | 34 | 30 | 4 | 8 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 4 | 0 | 3 | 0 | .267 | .353 |
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最終更新:2025/12/06(土) 13:00
最終更新:2025/12/06(土) 13:00
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