鉄血勤皇隊とは、沖縄戦で編成された男子学生の組織である。
大東亜戦争末期、連合軍の沖縄侵攻が現実味を帯びてきた。そんな中、沖縄県庁は守備を担当する帝國陸軍第32軍に「各学校ごとに鉄血勤皇隊を編成し、軍事訓練を施し、有事の際は直接軍組織に編入し戦闘に参加させる」と通告。軍事訓練を受けると同時に、陣地構築や食糧調達などの後方作業に従事した。殆どの中学校では二年生が通信隊要員の訓練を受けていた。鉄血勤皇隊とは「天皇陛下のための血と鉄の部隊」という意味合いだった。
1945年2月上旬、沖縄県庁に各学校の代表生徒が集められ、鉄血勤皇隊の結成についての伝達があった。島田知事は空襲の際ま消火や食糧増産が主任務であって、戦闘部隊ではないとの考えを示した。しかし3月3日に発令された鉄血勤皇隊の訓練補助と防衛召集を行う「球作命甲第110号第32軍命令」によると、軍事訓練を施して戦闘に参加させる事になっていた。14歳から17歳までの男子中学生を徴兵され、ひめゆり学徒隊と違って事実上の強制だった。県立第一、第二、第三中学校、工業学校、農林学校、水産学校、那覇市立商工学校、県立八重山中学校、宮古中学校、開南中学校から生徒が供出されている。徴兵が決まった中学生は校長に遺品となる髪と爪を提出し、陸軍二等兵の階級を与えられて少年兵となった。彼らの主任務は後方支援であったが、体格の良い中学生は斬り込み訓練を受けていた。
一方、適齢ではない一年生は自宅待機の名目で家族の下へ返されている。
アメリカ軍上陸後の1945年3月31日、1780名の男子中学生からなる鉄血勤皇隊が結成された。ただ全員が一箇所に集められたわけではなく、各所で結成が宣言された。エリート学校だった第一中学校は比較的恵まれており、真新しい軍服と軍靴、軍帽が支給された。武器として九九式歩兵銃10丁、手榴弾各人2発ずつ、対戦車用三式手投爆雷約50発が与えられている。しかしそれ以外の中学校では装備はおろか軍服すらまともに支給されなかった。
司令部がある首里城付近の鉄血勤皇隊は軍司令部付きとなり、指揮班、野戦築城隊、情報宣伝隊、斬り込み隊の四つに分けられた。逆にアメリカ軍の上陸地点に近かった者はそのまま最前線に投入された。多くの少年兵が急造した地雷で米戦車への自爆攻撃を強要され、そして実行した。また正規兵の先頭に立って突撃させられた他、米兵も少年兵を戦闘員と見なして全力で攻撃したため、戦死者が続出している。伝令任務にも投入されたが戦死率が高かったので、複数人に同じ内容の書を持たせ、一人でも辿り着ければ良いという扱いだった。運よく後方勤務になれた者も、艦砲射撃を受けて死傷者を出しており、どこにいても平等に死が舞い降りた。5月上旬になり、旗色が悪くなると前線から敗走してくる日本軍部隊が増えてきた。そのうちの一部が第一中学校が使用している壕に押し入り明け渡すよう迫ったが、鉄血勤皇隊に出向していた配属将校によって追い払われている。
鉄血勤皇隊の中で最も精鋭とされたのが、沖縄師範学校男子部の生徒だった。彼らは司令部付きとして緒戦から最後まで戦い抜いた。上級生のうち柔道や剣道の猛者50名を集めて斬り込み隊を結成し、突撃を行ったが多くが犠牲となった。
5月27日夜、第32軍は包囲攻撃を受けていた首里城を放棄し、南部への撤退を開始。司令部付きの鉄血勤皇隊も後退する事になったが、負傷者の同行は認められなかった。米軍包囲下での逃避行は当然厳しく、多くの死傷者を出した。摩文仁に到着してからも敵の激しい攻撃は続いた。摩文二海岸やサトウキビ畑には軍民問わず死体が転がり、その様相は地獄絵図だった。
そして6月19日、ひめゆり学徒隊とともに突然の解散命令が出て、少年兵は唐突に任を解かれた。彼らは敵陣に突撃したり、壕内で自決するなどをし、6月23日の沖縄戦終結までに半数に及ぶ890名が戦死した。
終戦後、生存者たちの寄付によって1946年3月、摩文仁に沖縄師範健児之塔が建立された。師範学校の戦死者319柱を合祀している。鉄血勤皇隊を題材とした沖縄健児隊の出版及び映画化によって、平和祈念公園の南側に沖縄師範健児隊像(平和の像)が建立されている。3名の彫像はそれぞれ「友情」「師弟愛」「永遠の平和」を示している。
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最終更新:2025/12/06(土) 05:00
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