ギャオス内藤(本名:内藤尚行-ないとうなおゆき-)とは、野球解説者・タレント・元プロ野球選手である。
概要
OB | |
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ギャオス内藤(内藤尚行) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛媛県豊川市 |
生年月日 | 1968年7月24日 |
身長 体重 |
187 cm 94 kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1986年 |
引退 | 1997年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高卒2年目に台頭し、3年目の1989年には開幕ローテーションに抜擢、そのままローテーションの柱となる躍進ぶりであった。しかし、ストッパー候補として獲得したアイケルバーガー、その代役として急遽獲得したデービスの不振により8月よりやむを得ず抑えに配置転換され、最終的に12勝5敗8セーブ、防御率2.82の好成績を残した。
監督が野村克也に交代した1990年は開幕投手に指名されるが、東京ドームでの巨人戦で篠塚利夫(現:和典)の「疑惑の本塁打」により勝利投手の権利を奪われるという悲劇に見舞われた(結果的にチームも敗北した)。先発と抑えを兼任し、2年連続の二桁勝利を記録するものの、防御率は4点台に一気に悪化した。
翌1991年も開幕投手に指名されるが、この年から完全に故障がちになってしまう。3勝しかあげられず、防御率もさらに悪化した。
1992年は前年抑えで健闘した岡林洋一を先発に回し、復活を期す内藤をリリーフに再転換した。5勝6敗10セーブ、防御率3.55の数字を残し14年ぶりのリーグ優勝に貢献するものの、故障で日本シリーズでの登板はならなかった。
その後は完全に故障がちになり、1994年はついに1勝もあげられずシーズンを終え、翌1995年からはボビー・バレンタイン率いる千葉ロッテマリーンズに移籍することとなった(青柳進との交換)。先発登板で復活勝利をあげるがまたしても故障離脱した。
翌1996年のシーズン途中に与田剛との交換で地元球団の中日ドラゴンズに移籍するが、結局2年間満足に働くことが出来ず、1997年シーズン終了をもって引退を表明した。まだ29歳の若さであった。
引退後は芸名のギャオス内藤名義で、J SPORTSの野球中継で解説を務めた(主に千葉ロッテ戦)。
2013年から2014年まで、新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの監督を務めた。登録名は「ギャオス内藤」。
人物・その他
- マウンドで「ギャオー!」と叫ぶことからギャオスというニックネームがつけられた。
- 清原和博と仲が良く、年下であるにも関わらず「キヨ」と呼ぶ。
- 引退直前まで、ゲームの中では頻繁に名前を見た気がしなくもない。
- 篠塚に疑惑のホームラン
誰がどうみてもファールを打たれた投手である。
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関連項目
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