ディエップの戦いとは、第二次世界大戦中の1942年8月19日に行われた連合軍のトラウマドイツ軍vsイギリス軍・カナダ軍の戦いである。正式名称はジュビリー作戦。事前に情報が漏れていた事から連合軍の惨敗に終わった。
概要
開始まで
第二次世界大戦が勃発して以降、精強なるドイツ軍は破竹の快進撃を続け、1940年6月25日にフランスが降伏した事で西ヨーロッパの沿岸までドイツの手中に収まった。続いて行われたバトル・オブ・ブリテンではイギリス空軍が勝利を収めたものの、英独は互いに倒し得るだけの決定力を持たぬまま膠着状態に陥る。
1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を発動してソ連領へ侵攻。大粛清の影響で弱体化していたソ連軍は瞬く間に粉砕されてしまい領土の奥深くまで入られた。1942年6月にはドイツ軍の夏季攻勢が開始。苦戦を強いられたソ連政府は最低でも40個師団を東部戦線から遠ざけるよう、連合国に対して「西ヨーロッパへ上陸して第二線の形成」を強く圧力をかけた。しかしイギリスは北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)の準備に手を取られて海上侵攻の準備が整っておらず、またフランス沿岸の防御力がどれほどの物が把握出来ていないため難色を示した。代わりにカナダ軍主導で上陸作戦を行う事となった。
参謀本部委員会のマウントバッテン卿は様子見がてらコマンドー部隊の奇襲上陸を行う事を提案する。防御が薄く、なおかつ戦闘機の援護が受けられる北部の港町ディエップを中心とし、16ヶ所を上陸地点に選んだ。飛行場や石油貯蔵施設の爆破、捕虜となったフランス兵の解放、ドイツ軍司令部から機密文書奪取など、それぞれの地点で目標が定められた。ちなみに占領は6時間程度と定められており、恒久的な橋頭堡の確保は考えていなかった。
作戦のため、カナダ軍から第2歩兵師団の6個大隊と機甲1個連隊が派遣された。イギリス軍からはコマンド部隊が派遣され、D・ミルズ・ロバート中佐が指揮を執った。彼らはイギリス南部のラルワース入り江にディエップと同じような環境を作り、何度も訓練を実施。錬度を高めた。一連の上陸はジュビリー作戦と命名された。作戦日は7月4日以降の晴天日に定められたが、折悪く悪天候に見舞われて晴れの日は来なかった。これでは奇襲の効果が無くなるとして、バーナード・モントゴメリー司令は作戦の中止を訴えたが、ルイス・マウントバッテンの強固な姿勢に押されて結局続行された。
作戦開始の2日後、パーティーの席上でイギリスの高級将校がうっかり「ディエップを攻める」と口を滑らせてしまった。ただちにドイツ軍のスパイによって伝えられ、第302不動歩兵師団などが配備。さらに手薄に見えるよう火砲を洞窟や豪の中に隠す偽装工作まで行い、ドイツ空軍機も出動可能だった。
作戦支援のため、イギリス海軍からは4隻のハント級駆逐艦を含む艦艇240隻と70個航空隊、アメリカ陸軍からはB-17が参加。ドイツ空軍の攻撃が予想される事から、海軍のダドリー・パウンド卿は護衛に駆逐艦しか付けなかった。これはマレー沖海戦でレパルスとプリンス・オブ・ウェールズを撃沈されたトラウマに起因している。連合軍はドイツ軍の戦力を2000名程度と見積もっていた。
散々な結果
8月19日深夜、まずイギリスのコマンド部隊がディエップに上陸。主力に先立ってドイツ兵と交戦を始めた。ボストン軽爆撃機の支援を受け、銃撃戦の中でかなりのドイツ兵を打倒。トーチカを奪取し、機銃陣地を陥落させるなど高い錬度を発揮したが、目標であった橋頭堡の構築に失敗。コマンド部隊は壊滅し、少なくとも332名が戦死。生き残りの264名は降伏せざるを得なかった。この戦闘でドイツ軍は初めて米兵を捕虜にしたという。
午前5時20分、6086名(5000名のカナダ兵、1000名の米英兵)が上陸。迎え撃つはドイツ兵1500名。数だけ見れば圧倒的に連合軍が有利であった。また連合軍はいずれ来るであろうフランス上陸作戦に備え、30輌のチャーチル戦車を持ち込んでいた。ところが、上陸した途端にドイツ軍の熾烈な攻撃が始まった。期待されたチャーチル戦車は自重で浜辺から動けなくなり、ドイツ軍の格好の的となった。明らかに奇襲とはいえない猛烈な反撃を受けた連合軍は総崩れと化し、作戦の遂行どころではなくなった。更に空からドイツ空軍機が襲い掛かり、海からは混乱した連合軍の艦艇が味方を撃つなど地獄絵図が広がった。連合軍の航空機が飛来するも、上陸地点にはドイツ軍によって煙幕が張られており効果的な支援を妨げた。そこへドイツ軍機が襲い掛かり、空中でも連合軍は敗勢に陥る。午前9時、何ら目的を達成できないまま撤退命令が下され、連合軍は慌てて引き揚げていった。13時頃に撤退を完了。戦略的にも戦術的にも大敗してしまった。
約6000名中、1580名が戦死。行方不明者287名、捕虜1901名を出した。イギリス軍機は106機が撃墜され、パイロット150名を喪失。チャーチル戦車は僅か3輌しか回収されなかった。他にも上陸用舟艇33隻、駆逐艦1隻、車両7両を失った。対するドイツ兵の戦死者は僅か591名、航空機48機喪失に留まった。まさに連合軍の完全敗北である。この連合軍の醜態をドイツが喧伝しない訳が無く、8月26日にニュースで大々的に報道された。枢軸サリーによるプロパガンダ放送にもディエップの名が登場している。
ちなみに惨敗の原因となった高級将校は有力者に顔が利いたため、名前や所属は明かされず、また処罰される事も無かった。
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関連項目
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