バイキング(ヴァイキング、英:Viking)とは、8世紀から12世紀にかけてのスカンジナビア(英語圏ではスカンジネイビアのような発音)半島の居住者。一般にはスカンジナビア半島の海賊を指して使われる。
曖昧さ回避
- 映画「バイキング」 - 1958年に放映されたアメリカ映画
- 食事のスタイルの一つ。および「食べ放題」を意味する言葉。映画「バイキング」が由来。「ビュッフェ」とも。 → 食べ放題
- 1998年に発売された歌手・冠二郎の楽曲。
- かつて米海軍が運用していた艦上対潜哨戒機S-3の愛称。
- 2014年4月よりフジテレビ系で放送されている帯番組。「笑っていいとも!」の後番組。
- バイキング計画 - NASAのおこなった火星探査計画。
- Viking - RTSゲーム「StarCraft2」に登場するTerranの対空飛行Unit。
- Viking: Battle for Asgard - Xbox360、PS3用のアクションゲーム。日本では未発売。
- 株式会社バイキング - 「機動戦士ガンダム EXTREME VS.」「ガンスリンガーストラトス」を開発した会社。
- バイきんぐ - 小峠英二と西村瑞樹によるお笑いコンビ。
この記事においては、海賊としてのバイキングについて記述する。
概要
スカンジナビア半島などバルト海沿岸(現在のスウェーデン、ノルウェー、デンマークなど)に居住していたノルマン人は、中世の中盤ごろ、ヨーロッパ各地に進出・侵攻して猛威を振るった。そのノルマン人の武装商船団を一般にバイキングと呼んでいる。
あちこちで交易活動や傭兵任務、時に新天地への植民を行いつつ、邪魔する奴はブッ飛ばす(略奪する)方針。簡単に言ってしまえば商船と海賊の二枚看板と言ったところか。
海賊のイメージが強すぎるが、あくまで略奪の方は副産物的なものである。たぶん。
何故この時代にバイキングが活発に活動したのかに関しては諸説ある。
- キリスト教世界との激突説
北欧にキリスト教が伝わるのは10世紀過ぎと比較的遅い。独自の北欧神話やルーン文字といった文化が根強く残っていた。キリスト教は一神教である事も手伝って、土着の多神信仰や異教徒を否定する傾向が強かった。(やや後の時代になるが、ドイツ騎士団の東方侵攻なんかはドン引きできるくらい凄まじい) その辺の文化的違いから対立が悪化したとする説。 - 単に他が弱かった説
ゲルマン民族の大移動と、その余波で西ローマ帝国が崩壊した事で、中世初期のヨーロッパ世界は完全に一種の戦国時代。800年にフランク王国のカール大帝が登場する頃にはだいぶ安定してきたが、かつての栄華には程遠い状況であった(暗黒時代と呼ばれるほど)。そんな中で、辺境という事もあって被害が軽微で、高い文化レベル(造船・操船技術など)を維持していたノルマン人が、相対的に優位になったとする説。 - 気候変動説
……と言うと、いかにも「元々寒いスカンジナビアに更なる寒冷期が訪れて暮らせなくなった」というイメージが湧くかもしれないが、全くの逆で、この頃のヨーロッパは温暖化していた。これによりむしろ暮らしが安定し、人口が増加して、山がちなスカンジナビアでは土地が足りないと感じた者たちが新天地を求めるようになったとする説。
まあなんにせよ、当時バイキングが非常に活発に活動した事と、ヨーロッパ諸民族がそれにまるで歯が立たなかったのは事実である。
バイキングの進出
西へ!
ノルマンディー公国
800年ごろ、カール大帝率いるフランク王国が勢力を拡大し、ノルマン人の住むデンマークなどの地域にまで影響を及ぼすようになった。これに対抗する形でノルマン人も西へと積極的に拡大を開始する。一方フランク王国はというと、カール大帝の死後に三分割されたり主導権争いをしたりと弱体化していった。
900年ごろ、バイキングの首長の一人にロロと言う男が居た。彼は、バイキングのくせにバイキングを略奪するという揉め事を起こし、一族ともども追放された。しかしロロは恵体豪打の凄い奴、馬に乗ると必ず馬を過労死させてしまうので敢えていつも徒歩という豪傑である。「どっかに良い新居は無ぇかなぁ……おっ、ちょっとここお邪魔しますね!」と現在のフランス北部・セーヌ川河口付近を占領してしまった。フランク王にとってはいい迷惑である。ここにノルマンディー公国(ノルマン人の土地だからノルマンディー)が建国される。
一応、西フランク王がノルマンディー公に任命するという形式上、臣従の証に(当然跪いて)王の足に口づけをする事を求められたロロであったが「ン拒否するゥ」と拒否。代わりに自分の部下にさせたが、その部下も部下で「足に口づけェ? んじゃちょっと失礼しますよ!!」と王の足を掴み上げて逆さ吊りにした挙句、目の前の足に口づけする。違う、そうじゃない。
彼の子孫”征服王”ウィリアム1世は1066年に対岸のイングランドを征服し(ノルマン・コンクェスト)ノルマン朝を開いた。彼らの血脈は現在に至るまでイギリス王室に脈々と受け継がれている。
デーン朝とクヌート大王
ノルマン・コンクェスト以前からイングランドへの進出は何度か行われている。アルフレッド大王(849-899)の登場で、七王国時代という戦乱がようやく一段落したイングランドであったが、今度はそこにバイキングがやってくる(※デンマーク出身の為、デーン人と呼ばれる)。この頃はひとまずイングランド北部をデーン人自治領にする事で落ち着いた。
本格的な来襲は11世紀前半。この頃大陸には既にノルマンディー公国が建てられていたため、イングランド王のエゼルレッド2世は「やべぇよ・・・やべぇよ・・・北のデーン人とで挟み撃ちにされたら、あたしゃおしまいだよ」と、イングランドに住んでいたデーン人を先手必勝とばかりに虐殺する。これを聞いたデンマーク王”八字髭の”スヴェン1世は1013年、同胞の救援を名目にイングランドを征服した。この時はスヴェンがわずか1年後に急死した為に事なきを得たが、完全に自爆する形になってしまったエゼルレッド2世に対する後世の評価は最悪で”無策王”なる渾名をつけられている。ジョン欠地王と並ぶ英国史上屈指の逆チート枠だが、年代が古くて知名度が低いのが残念(?)である。
そんなこんなで王の座に戻れたエゼルレッドであったが、ここからが本当の地獄だった。スヴェンの息子・クヌートがイングランド侵攻の志を受け継いでいたのである。無策王にはもちろん策は無く1016年に病没。クヌートがイングランド・デンマーク・ノルウェー全ての王として即位し「大王」と称された(※正確にはノルウェー王は1028年~)。
だが、この辺はクヌート個人のカリスマ性による部分も大きかったので、彼の死後はバイキングによる一大帝国は崩壊して、イングランド王の座も1042年にはアングロ・サクソン人に取り戻される。といってもその24年後にはノルマン・コンクェストが待っていて、以後アングロ・サクソン人の王は居ない(ザクセン人の王は居るが)。
東へ!
スウェーデンのヴァイキングたちは、内海であるバルト海の沿岸各地へと活発に海運商業活動を展開していた。そんな彼らの事を現地のスラブ系住民たちは「ヴァリャーグ」と呼んだ。リガ(現・ラトビア首都)などはこの当時から重要な港町として栄えている。更に、彼らはフィンランド湾やリガ湾に注ぎ込んでいた川を遡上して内陸部にまで影響力を持ち始める。
特に高名な人物が9世紀頃の首長・リューリクで、ロシア最古の街といわれるノヴゴロドを建設したとされている。彼の親族オレグ、また彼の子イーゴリは更に内陸へと進み、キエフ(現・ウクライナ首都)を征服、キエフ大公国を建てた。その他、東方へ向かった彼らはフィンランド湾に注ぐネヴァ川やリガ湾に注ぐダウガヴァ川を通じて、ヴォルガ川にたどり着き更に、そこから、カスピ海やドン川、更には黒海、ギリシャへと進み、東ローマ帝国を略奪したり逆に傭兵として雇われたりしながら影響力を発揮するも、次第にヴァリャーグたちの影響力は薄まっていき、時代と共に現地のスラブ系住民の国へと変わっていく。尤も、16世紀頃まで、ロシアの支配者はリューリク朝の人間である。
ノヴゴロドやキエフなどの都市国家は、複雑な歴史を経て、現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシといった国々へと繋がっていくのである。それだけに、何処の誰が起源であるのかといった(時に政治色の強い)主張がなされる事も多く、史料が不足気味な事も手伝って少々扱いの難しい分野になっている。
南へ!
西のノルマンディー公国から更に西回りでジブラルタル海峡を抜けた一派は、地中海を横断してイタリア半島にまで辿りついている。10世紀頃の南イタリアは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領地になっており、イタリア半島以東の東地中海の覇権は東ローマ帝国が握っていた。更に東ローマ(正教会)とバチカン(カトリック)の対立も激しく、小領主も乱立状態、地中海の南側にはイスラム帝国の脅威が……そんな中でノルマン人たちは傭兵として重宝されるようになっていく。
こうして定住の地を得たノルマン人たちは徐々に各地で自立し始めた。有名な人物ではタンクレードの子・ロベルトとルッジェーロの兄弟など。1091年にシチリア島を奪取。イタリア半島の東ローマ領も1071年には全て占領する。残るナポリ公国・カプア公国も吸収して1139年に南イタリア(教皇領以南)を統一。イタリア半島南部とシチリア島からなる「シチリア王国」が成立した。
イタリア方面のノルマン人に関しては傭兵としての活動がメインで、いわゆる海賊バイキングのイメージからはかなり遠い。また、ローマ・ギリシア・イスラム等々の文明の交差点であることも手伝って、ノルマンの文化もそこに混じり、組み込まれていった。
シチリア王国のノルマン朝は1194年に断絶。その後、半島側のナポリ王国と島側のシチリア王国とに分裂したり、スペインに征服されたり、ナポレオンに征服されたり、再統一したりと紆余曲折を経つつも、イタリア統一運動で滅亡する1861年まで王国は存続した。
北へ!
現在ノルウェーにいた連中は、8世紀頃に北海を抜け、シェトランド諸島、オークニー諸島、フェロー諸島を占拠。9世紀には定着した。更に、そこから、スコットランドやアイルランドの沿岸部も襲撃し、そこでも居心地が良ければ居座った。
もっと元気な奴らはフェロー諸島の更に北へと船を進めた。其れが現在のアイスランド(氷:Ísland)である。命名は古ノルド語Íss(イース、「氷」の意)+land(ランド、「土地、島」の意)。まんまではあるが、火山も人の住める場所もあるのにこれはひどい。
因みに、文書上では最初にアイスランドに居座ったのはインゴールヴル・アルナルソンという人物。
アイスランドには、ヴァイキング以前に人が居たという伝説があって、そのため先住民はいたんじゃないかなーと思われていたが、アイスランド最古の集落跡がノルウェー人によるものだということが分かったので、アイスランドに先住民はいなかったということになっている。
もっと北へ!!
アイスランドを見つけた彼らは、更に果てへと船出する。それを成し遂げたのは赤毛のエイリークことエイリーク・ソルヴァルズソンであった。彼は、かなり素行が何度か人殺しで国外追放となっていた。982年頃に3年間の国外追放となった彼は、その間に、探検をしてグリーンランド発見に至る。
この際、雪と氷だらけのグリーンランドをどうしてグリーン「緑」と名付けたのかは、2説ある。一つは、アイスランドがアイスなんて付けた為に入植者が来なかったため、人が来やすい名前にしたというもの。もう一つが、実際に、この時代の温暖な気候下では、グリーンランド南部は森林だったというもの。いずれにせよ、彼が先鞭をつけたグリーンランド入植によって、現代までグリーンランド島はノルウェー王国、そしてデンマーク王国の領土となる。
世界の果てへ!!!
サガの伝えるところによると、エイリークの息子、レイフ・エイリクソンはグリーンランドの更に西方へ流された者から、西方に木材のある土地があると聞き、西方へと船出した。彼は見つけた土地を順に、ヘルランド「岩の地」、マルクランド「森の地」、そしてヴィンランド「葡萄酒の地」と名付けた。これらは、それぞれ、パフィン島、ラブラドル半島、ニューファンドランド島とみられている。即ち、コロンブスより、500年近く速く欧州人がアメリカ大陸に達していたのである。その裏付けとしてニューファンドランド島からは、ヴァイキングの作成した鉄製道具が出土している。
最も、当時、「新大陸」という概念はなく、グリーンランドの入植すら覚束なかったため、時が過ぎる内に、彼の業績はサガの中にしか残らなかった。
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