ビルマ国とは、1943年から1945年にかけて存在した国家である。
建国まで
開戦前
日本陸軍はイギリスと戦争になった場合に備えて、ビルマの侵攻を計画していた。そこでタキン党を支援し、円滑な作戦の遂行を図った。さらにビルマの独立支援を行う特務機関「南機関」を設立。亡命させたタキン党のアウンサンや党員30名を占領下の海南島で軍事訓練を受けさせた。彼らは帰国させた後、破壊工作員として活動させる予定だった。
開戦後
1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。陸軍の読み通り、日本はイギリスと戦争状態に入った。これに伴って南機関とアウンサンはビルマを脱出し、タイの首都バンコクで独立義勇軍BIAを創設し、タイ在住のビルマ人200名が参加。同月26日に宣誓式が行われた。その中心的役割を果たしたのは鈴木大佐であった。BIAは日本軍の支援を受け、火器と軍服が支給された。彼らは1942年1月3日よりイギリス軍と戦闘を開始した。
一方、援蒋ルート遮断のため日本軍もビルマ進攻を企図しており、1月22日に南方軍は第15軍にビルマ攻略を下令した。上陸した第15軍とBIAは協力してイギリス軍と戦闘、わずか300名程度の戦力ながら地の利を活かし、日本軍の歩兵部隊より先にアキャブへ到着した。カラダン峡谷に住むアラカン人とカムイ族40名を諜報員に仕立て上げ、マユ山稜に基地を設営。西アフリカからイギリス軍の増援が送られてきている事を伝えてくれた。しかし何人かの諜報員は気性が荒かったため、日本兵は酒と野菜を与えて手なずけた。まず1月31日に南部のモールメンを奪取。3月7日に中部の攻略が命じられ、第5飛行集団の援護を受けながら前進。増援も続々と到着し、首都ラングーンを占領。日本軍の快進撃は続き、エナンジョンとタウンギーを攻略。後詰めとしてタイ軍もビルマへ進攻した。4月、イギリス軍を駆逐し、収容されていた独立運動家のバー・モウを解放。イギリス軍を追い出した日本軍は5月17日にビルマ作戦を終了した。鈴木敬司大佐は「雷帝」という二つ名を付けられ、ビルマ国民から絶大な支持を得た。
ビルマ独立のため鈴木大佐は準備を始めたが、大本営は軍政を敷く事を命じ、6月3日から開始された。理由はBIAの幹部が若く、加えてイギリス軍の脅威も未だ健在だったため、時期尚早と判断されたからだった。当然ビルマ人は失望と怒りを抱いたが、信頼の厚い鈴木大佐が間に入ってどうにか取り持った。その後も鈴木大佐はビルマを独立させるよう中央に何度も進言したが、次第に疎まれて東京へ異動させられてしまった。これを機にビルマ人は心を離していった。鈴木大佐がビルマを去る時、アウンサンたちは感謝状を手渡したという。同時に肥大化したBIAの規模を縮小し、統率の取れた少数精鋭の国軍を築く事にした。翌7月、BIAは解散。代わりにビルマ防衛軍が創設され、第15軍の補助部隊となった。8月1日、第15軍は現地人に統治させようとビルマ行政府の開庁を指示。行政長官にバー・モウを指名した。しかし9月21日よりイギリス軍の反攻が始まり、第15軍は防衛に専念せざるを得なくなる。
1943年1月14日、大本営政府連絡会議にてビルマを独立させる事を決定。米英に宣戦布告する事を条件に、1月28日から1年以内にビルマを独立させると東條首相が議会で確約した。5月8日、バー・モウが委員長を務める独立準備委員会が結成され、7月19日に「日本国ビルマ国同盟条約案」が決定。こうして、独立の準備は着々と進んでいった。
独立と裏切り
1943年8月1日早朝、ビルマ方面軍の河辺司令は軍政の廃止を宣言し、独立準備委員会は独立を宣言。ついにビルマ国が誕生した。即日対米英宣戦布告を行い、枢軸国に加入する。ビルマ防衛軍は国防軍に改名され、総兵力1万5000名からなる部隊をネ・ウィン大佐が指揮した。9月25日、約束通り日本はケントゥンとモンパンを除くシャン州全土をビルマ国に割譲。11月5日から翌6日にかけて東京で行われた大東亜会議にバー・モウ元首がビルマ国代表として参加している。
名目上は独立国であり公用語を日本語にしなかったが、実際は日本の傀儡国であった。相変わらずビルマ国では帝國陸軍が主権を握り、国防軍は後方警備を命じられるなど独立が名目的だった事から反日感情を抱く軍幹部が少なくなかった。このため不満を持つ国防軍は地下で活動していた共産党組織や国内外の組織、イギリス軍の諜報機関と接触し、反ファシスト組織AFOを結成。日本への不満を隠そうとしないアウンサンら若者が中心となって抗日活動を開始した。一方、バー・モウ元首は老獪な政治家だったため、日本に従い続けた。
1944年1月7日、ラングーンに自由インド仮政府の事務所が設置され、町にインド国民軍の兵士がやってきた。国内の建物を兵舎として持っていく国民軍にバー・モウ元首は難色を示したが、沢田大使の仲裁で渋々首を縦に振った。次第にイギリス軍の攻勢が激しくなり、日本軍は要地を次々に奪われていく。3月から行われた乾坤一擲のインパール作戦も失敗に終わり、チンドウィン河、雲南、アキャブの各方面から一斉に連合軍が攻めてきた。4月25日、裏切りを未然に防ぐため参謀部情報班の浅井得一がバー・モウの暗殺未遂事件を起こした。日本と心中するつもりはないアウンサンは8月に反ファシストを掲げ、対日戦に協力する条件でイギリスに交渉を持ちかけた。12月にAFOが再度連合国と接触し、大規模な寝返りの用意があると呼びかけたが、時期尚早だとしてイギリスに反対されている。
それでも1945年初頭にビルマ中部で最初の蜂起が行われた。国防軍の士気は軒並み低く、2月28日にはメイクテーラ駐留の歩兵連隊が集団脱走を起こしている。第55師団歩兵兵団長の桜井徳太郎少将は、「ビルマ国防軍が日本への忠誠を保てるかどうかは、マンダレー以北に英軍を釘付けに出来るかどうかである」と絶えず注意していたという。
1945年3月17日、ラングーンで国防軍の出陣式が行われた。そしてアウンサンは1万1000名の兵士とともにイギリス側に寝返り、郊外でイギリス軍と合流。日本軍を攻撃してきた。この日は現ミャンマー国軍の記念日となっている。第28軍の幕僚は寝返りを予期していたが、タイに向かって敗走中の日本軍にとって国防軍の反乱は痛手となり、またイワラジ会戦の敗北によって中部の要衝だったメイクテーラを失陥してしまった。一方、1940年から南機関による軍事訓練を受け、日本軍と親交があったオン・サンは蜂起した後も日本軍に危害を加えなかった。「この段階で日本に協力するという事はビルマの崩壊を招く」「我々の独立を保つには、英軍と協力しなければならない。しかし私の南機関への信頼は崩れていない」と語っている。5月頃には日本軍の大部分が放逐され、終戦まで補給線を脅かされ続けた。ビルマの村落はそっくりそのまま敵の諜報機関に変化し、情報収集も難しくなっていった。
ビルマ国のバー・モウ首班は日本側に留まり続けたが、ラングーンも安全な場所ではなくなってきた。日夜激しい爆撃が行われた結果、2月以降は電灯すら点かなくなった。3月22日には水道も止まった。参謀長の田中新一中将は、東アジア100万の戦力を以って逆襲する事を唱えたが、ラングーンを破壊に繋がるとしてバー・モウは拒否した。最終的に4月22日に撤退が決まり、翌23日夜からバンコクに向けて退却が開始された。空からは敵機が飛来し、爆撃や機銃掃射を受け続けた。放棄されたラングーンは治安が悪化、暴徒と化したビルマ人たちが略奪を繰り返した。5月、ビルマ国政府はラングーンから日本へ亡命。バー・モウ首班はタイまで逃亡した後、8月に日本へ亡命した。
6月頃、アウンサン率いる抗日勢力はイギリス軍に認められ、愛国ビルマ軍に名称を変更。敗走中のビルマ方面軍を攻撃して1000~4700名の日本軍将兵を殺害した。その一方で、イギリス軍から匿ってくれたり優しく接してくれたビルマ人がいたと戦後復員した元兵士らが証言している。
そして8月15日に日本が降伏した事で事実上の解体と相成った。
崩壊後
終戦後、南機関を率いていた鈴木大佐はBC級戦犯に指定され、わざわざビルマに移送してラングーンの刑務所に収監。イギリスから見せしめにされてしまう。だが、この事にアウンサンは「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か!」と激怒し、猛抗議のすえに鈴木大佐を釈放させたエピソードがある。
何だかんだで独立したビルマであったが、間もなく独立を取り消され、再びイギリスの傘下に収まった。イギリスはビルマの独立を中々認めず、アウンサンが本国まで直談判しに行っている。そんな中、植民地主義のチャーチル首相が選挙で破れ、後釜には穏健派のアトリーが座った。また世界は冷戦に向かっており、共産主義が台頭する前にビルマを独立させるべきだとアトリー内閣は考え、1948年に独立した。現ミャンマー政府は独立を1948年としており、ビルマ国との関連性は無いと表明している。召還命令に答え、イギリスに逮捕されたバー・モウは「植民地のくびきから、最終的にビルマを救ってくれたのは日本である」と書き残している。日本の軍国主義は嫌いだったが、飯田祥次郎中将を始めとする個々の軍人とは大変親しかった。解放された後は帰国したが、ネ・ウィン元大佐による軍事政権によって2年間収監された。
戦後の日本はビルマと積極的に関係を結び、BIA出身の要人は好感を抱いた。1966年、鈴木大佐ら元関係者をビルマに招待。1981年4月、独立に貢献したとして元日本軍人7名にアウンサン・タゴン勲章という最高の栄誉を与えた。
関連項目
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