枢軸国(英:Axis Powers)とは、第二次世界大戦中に連合国と戦った国の事である。
概要
ドイツを盟主とした、第二次世界大戦の主要陣営の一つ。日独伊の三国が中心となり、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ王国、そのほか多数の傀儡政権が参加した。枢軸の由来は、1936年にイタリアの首相ムッソリーニが出した「ローマとベルリンを結ぶ線は、協調と平和の意志を持つヨーロッパの国々がその周りを回る事が出来る枢軸である」という声明から。要するにローマ=ベルリンの線を枢軸にヨーロッパが回るという意味である。
第二次世界大戦開戦劈頭はドイツと傀儡のスロバキアしかいない小さな陣営だったが、ポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ルクセンブルク、ベルギー、フランス、ユーゴスラビア、ギリシャを次々に粉砕。精強なドイツ軍のおこぼれに預かろうとイタリア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、クロアチア独立国、フィンランドなどが枢軸国に加わった。1941年12月8日の真珠湾攻撃によって大日本帝國が、翌1942年1月にはタイ王国が枢軸国に加入。のちに自由インド仮政府、ビルマ国、中華民国南京国民政府も参加している。枢軸国vs連合国の戦争により欧州戦線、北アフリカ戦線、東部戦線、ビルマ戦線、中国戦線、太平洋戦線といった主要戦線が世界中に構築され、豪雪地帯から砂漠に至るまであらゆる場所が戦場となった。イギリス、自由フランス、アメリカ、中華民国、オランダ、オーストラリア、カナダ等からなる連合軍は1943年前半まで枢軸軍に大きく振り回され、少なくない損害を出している。
しかし物量に勝る連合軍の反攻が始まると次第に劣勢となっていく。1938年の時点で枢軸国の人口は2億5890万人なのに対し、連合国は(共産陣営のソ連を除いて)6億8970万人であり、植民地の広さも圧倒的に連合国有利であった。このため長期戦になればなるほど国力差が顕著になってしまう。また欧州の枢軸国の燃料事情はかなり悪く、ルーマニアが保有するプロイェシュティ油田に頼り切りという有り様だった。日本はタラカンやバリクパパンといった東南アジアの油田地帯を確保していたが、本土や各基地に輸送するための船をアメリカ軍の潜水艦にやられ、十全に活かせていなかった。まず1943年9月に日独伊三国軍事同盟の一角イタリアが降伏し、枢軸側に留まったイタリア社会主義共和国と連合側に寝返ったイタリア王国に分裂して内戦状態となる。更に1944年6月にソ連軍が大反攻作戦に転じて東部戦線が崩壊、戦況が挽回不能にまで陥ると東欧の枢軸国が次々に寝返り、極東方面においてもビルマ国が寝返った。そして1945年5月に枢軸の盟主ドイツと、最後まで裏切らずに抵抗していたクロアチア独立国が降伏した事で、ヨーロッパから枢軸国が消滅。太平洋方面では大日本帝國、自由インド仮政府、タイ王国が絶望的な抵抗を続けていたが、1945年8月に日本が降伏。タイ王国も降伏するとともに後ろ盾を失った自由インド仮政府と南京国民政府は崩壊し、極東方面の枢軸国も消滅。こうして第二次世界大戦は枢軸国の消滅という形で終結したのだった。
参戦こそしなかったが親枢軸の立場を取った中立国も存在し、スペイン、ポルトガル、ヴィシーフランス等が該当する。先のスペイン内戦で独伊に助けられたスペインはその恩義から積極的に便宜を図り、基地の提供、逃げ込んできたUボートやFw200の修理、義勇軍の派遣等を実施。極東方面でもフィリピンのスペイン国民会議(ファランジュ)に働きかけて日本軍のフィリピン侵攻作戦や占領政策に協力している。親独政権のヴィシーフランスもまた物資や労働力の供出といった様々な面で対独協力を行った。同じファシスト政権であるポルトガルは目立った支援はしなかったものの、枢軸国が樹立させた傀儡政権の国家承認をしている。また強固に反対したにも関わらず連合国に植民地の東ティモール島を奪い取られた恨みから、のちに大日本帝國陸海軍が同島に攻めてきた時は無抵抗で明け渡した。
欧州戦線と太平洋戦線があまりに離れすぎていた事もあり、欧州方面と太平洋方面の枢軸国が協同軍事作戦を行ったケースは殆ど無い。ただ列強レベルの海軍力を持っていた日独伊は互いに艦艇を派遣し、インド洋を舞台に通商破壊を実施して大戦果を挙げたり、封鎖突破船による物資及び人員の交換を行うなど海軍に限れば協同軍事作戦を実現していた。日本側は神戸、横浜、ペナン、シンガポールを受け入れ港に指定していたため横浜や神戸の地にドイツの封鎖突破船やUボートが訪れた事もあった。一応陸軍も中東や中央アジアでドイツアフリカ軍団と合流する計画があったが、こちらは北アフリカ戦線の悪化で頓挫してしまっている。
結成までの経緯
日独伊の接近
始まりは第一次世界大戦後の1920年代初頭、世界大戦が終結した直後の混迷期にまで遡る。
イタリアの総統ベニート・ムッソリーニは、対フランス戦略の一環で敗戦国となったドイツとの同盟を企図し、1923年より密かに武器の供給を始めてヴェルサイユ条約で大幅に弱体化したドイツ国防軍を支援し始めた。ドイツ側としてもフランスに復讐したいが武器がとても足りなかったため、イタリアの武器供給はとてもありがたいものだった。この頃から既に独伊の協力関係が始まっていたと言える。イタリアはヴェルサイユ条約が切れる1935年をフランスに対する決戦の年と定め、それまでにドイツを鍛え上げたかったが、1929年9月に発生した世界恐慌によって全てが混沌を極める事に。全世界へ不景気の波が押し寄せ、多くの銀行が倒産するなど経済はメチャクチャとなり、国内は失業者で溢れかえった。
先の大戦で敗戦国になった国、特にドイツは世界恐慌の余波をモロに受け、巨額の赤字を抱えて経済が破綻、実に3人に1人が失業者という一縷の光も無い暗黒期と化した。そのドイツから賠償金を取っていたイギリスとフランスも一緒に経済が壊れた。戦勝国だったが植民地の少ないイタリアもまた不況に耐えられず経済破綻。同じく戦勝国の日本は中国大陸にこそ進出していたが、昭和恐慌と呼称される経済不況のあおりを受け、農村不況が慢性化。世界中に植民地を持つ「持てる国」アメリカ、イギリス、フランスはブロック経済を構築し、他国を排他的に扱う事で自国の経済を守り抜いた。しかし日独伊のように植民地に乏しい「持たざる国」は大不況に立ち向かえるだけの国力が無かった。このため武力で諸外国を侵攻し、強引に原料や資材を手に入れようとした。これらの行為を行った日本、ドイツ、イタリアは国際社会の非難を浴びて国際連盟から離脱。孤立した三国は次第に緊密な関係となっていき枢軸国の骨子が作られた。
また、1933年に政権を取った国家社会主義ドイツ労働者党(以下NSDAP)のアドルフ・ヒトラー首相は最初こそイタリアとの同盟を望んでムッソリーニとの良好な関係を築いていたが、オーストリアを併合したいドイツとそれに反対するイタリアとの間で意見が対立。1934年6月にヴェネツィアで会談を開くも友好的には進まず、妥協を求めるヒトラーの要請をムッソリーニは断固拒否。オーストリアを併合しようとドイツが7月25日に首相ドルフースを暗殺した結果、オーストリアの独立を尊重したいイタリアを怒らせ、速やかに航空隊と陸軍師団を国境線沿いのブレンナー峠に派遣。一時は独伊との間で戦争が起こるとさえ言われたが、1935年に行ったイタリアのエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)をヒトラーが唯一支持した事で何とか回復した。
1935年、大島浩外交官がベルリンにてヨアヒム・フォン・リッペントロップ外相と会談。その時に大島側から対ソ連を見据えた日独同盟の締結を持ち掛けて交渉に入った。ドイツを規範としてきた日本陸軍や一部の超国家主義者は概ね支持した一方、イギリスを規範とした日本海軍は全面的に反対、政府としてもイギリスとの関係悪化に繋がるとして反対を掲げた。ドイツでも意見が分かれ、NSDAP上層部は歓迎したが、中国と敵対する日本との同盟は外務省、陸軍、経済界が反対している。この日独同盟の話はイタリアの耳にも届いた。日英は長期的な緊密関係にあり、同盟に加わる事でイギリスに圧力をかけられ、地中海での優勢を獲得できるとして密かに関心を寄せていたのである。1936年夏、ガレアッツォ・チアーノ外相は駐イタリア日本大使に「対ソ連で日独が合意に至ったので、その同盟にイタリアを加えるのが自然だと思う」と加盟を提案したが、日本側の対応は否定的だった。というのもイタリアのエチオピア侵攻の際、日本はエチオピア側を応援しており、またイタリアと同盟を組めばイギリスとの関係悪化は免れないなど懸念材料が多くあったのだ。にも関わらずイタリアは日本に対して友好的なアプローチを続けた。
1936年7月17日、スペインにてフランシスコ・フランコ総統率いる反乱軍(国粋派)が共和国政府に挙兵してスペイン内戦が勃発。反乱軍は電撃作戦による短期決戦を目指したが政府軍の反撃で失敗、窮地に立たされたフランコ総統は独伊に救援を求め、快諾した両国から義勇軍が派遣された。第二次世界大戦の前哨戦とも呼ばれるスペイン内戦は新兵器の実験や兵士の訓練に最適であり、ここぞとばかりにドイツ軍は数々の兵器を投入してメキメキと練度を高めた。スペイン近海ではドイツとイタリアの艦艇が一緒に行動し、ナポリの海軍基地をドイツ海軍に貸し出すなど協同で軍事作戦を展開、その甲斐あって11月1日に独伊は軍事同盟締結に至る。ムッソリーニ総統はミラノでの演説でローマ・ベルリンを結ぶ線は世界を回す枢軸だと強調した。続く11月25日に日独防共協定(反共産主義・対ソ連想定の盟約)が締結。これまでにないほどの強い結びつきを得た。
スペイン内戦が続く1937年8月13日、第二次上海事変が勃発。これがきっかけで大日本帝國は中華民国と事実上の戦争状態に入り、中国大陸への侵攻を開始した事で国際社会から非難を浴びた。この際、イタリアが日本をかばった事でようやく対伊感情が良好となり、不可侵条約や中立条約の締結を提案。11月6日に日独防共協定へイタリアも加入して三国枢軸体制が成立した。
ドイツは第一次大戦で不当に奪われた領土を奪還するべく、民族主義を掲げて周辺国を併合し始めた。手始めに1938年3月12日、ヒトラー総統の悲願だったオーストリアを併合(アンシュルスとも呼ばれる)。次にチェコスロバキアのズデーテン地方に目を向け、一時は戦争に発展しかけた事からズデーテン危機と言われたが、総統の巧みな政治手腕と世界大戦の再来を恐れる英仏の弱腰姿勢により孤立無援となったチェコスロバキア政府は膝を折り、10月10日にズデーテン地方はドイツに割譲された。1939年3月15日にはチェコスロバキアそのものを併合。3月22日、リトアニアから西部の港湾都市メーメル返還の打診を受けて併合し、東部領土の大半を奪還する事に成功した。これらの併合は力ずくではなく、事前に行った国民投票の結果だったので、進出してきたドイツ軍は歓呼の声で迎えられた。だが、ドイツは破綻確定の無謀な経済政策を将来の戦争を前提に推し進め、一方で国民には危機的財政を隠蔽した挙げ句に虚偽の景気回復を演出・喧伝し人心を掌握。暴走を始めていく。
1939年4月1日、スペイン内戦は独伊が支援した国粋派の勝利に終わり、貴重な戦闘データとともに軍が凱旋帰国。政権をフランコ総統が握った事でスペインは独伊に恩返しとして様々な便宜を図ってくれるようになった。急速に勢力を拡大するドイツに倣い、イタリアも4月7日にアルバニア王国へ侵攻。全土を占領して傀儡政権を打ち立てた。5月22日、独伊は鉄鋼同盟を締結して枢軸同盟を正式なものにする。一方、イギリスとフランスは平和を維持するためチェコスロバキアを生け贄にしたり、ヒトラー総統の無茶な要求を受け入れるという弱腰姿勢を続けており、国内に存在する平和団体の影響もあって独伊の跳躍を押し留める事が出来ず指を咥えて見ているだけだった。そしてこの過ちこそが二度目の世界大戦を招く事になってしまう。
第二次世界大戦前夜
1938年10月、ヒトラー総統は隣国ポーランドに対し、ヴェルサイユ条約で割譲したダンツィヒ(現グダニスク)の返還を要求する。ダンツィヒはドイツにとって本国と飛び地の東プロイセンを陸続きに繋げる上で必須な土地の上、同地の割譲は忌々しきヴェルサイユ条約の象徴とも呼べるものだったため、是が非でも奪還しておきたかったのである。
1939年3月21日に二度目の割譲要求を行ったが、5月にポーランド外相が国会でこれを拒否する演説を実施。内陸国のポーランドにとってダンツィヒは唯一の港であり国益の面でも返還には応じられなかった。交渉決裂。ここに至りドイツはポーランド侵攻作戦を企図し、8月26日を攻撃予定日としていたが、ポーランド側も英仏と同盟を組む事でドイツに対抗。イギリスから睨まれたドイツはやむなく攻撃を延期、イギリスの態度が変わるまで待ち続けた。しかしいつまで経っても変わらなかったため遂に侵攻に踏み切った。
1939年9月1日、ドイツはポーランドに対して宣戦布告。先陣を切ったスツーカによる急降下爆撃を号砲として侵攻作戦が開始された。二週間前にポーランドと同盟を組んでいたイギリスとフランスは9月3日にドイツに宣戦布告、こうして人類史上最大の戦い、第二次世界大戦が幕を開ける。
電撃戦・破竹の快進撃
1939年
当時イタリアとは同盟関係にはあったが参戦しておらず、枢軸国はドイツとその影響下にあったスロバキアのみであった。
ドイツ軍は世界最強の陸軍と近代兵器を保有しており、昔ながらの騎兵突撃が主体のポーランド軍を容易に粉砕。空中においてもドイツ空軍機は無敵を誇り、開戦から数日でドイツ空軍に制空権を奪われ、至る所でスツーカが急降下爆撃を仕掛けてポーランド軍を痛めつけた。この時、ドイツ軍の機甲戦力のうち80%がポーランド侵攻に投じられており、もし英仏連合軍がその隙を突いてドイツ本国を攻撃していれば戦争は短期間で終わっていた。しかし英仏は最大の好機を活かさず、傍観者に徹し、チェコスロバキアのようにポーランドも見捨ててしまった。ドイツは事前にソ連と不可侵条約を結び、モトロフ・リッベントロップ協定を締結。密かに独ソでポーランドを仲良く半分こする事を決めていた。
9月17日、協定に呼応してソ連軍もまたポーランド東部への侵攻を開始。大国に挟撃されたポーランドは死の淵に立たされ、勇戦むなしく9月27日に首都ワルシャワを失陥。政府はルーマニアに亡命して降伏に至った。続く10月7日、ポーランド全土はドイツ軍とソ連軍に占領されてしまった。ポーランドの降伏後、ドイツは敵対国になった英仏と睨み合いとなるが、大きな戦いは生起しなかった。英仏連合軍は開戦後においても第一次世界大戦のような大戦争の再来を恐れており、積極的な攻勢に出られなかったとされる。あまりにも戦闘が起きないので、いつしか「まやかし戦争」と呼ばれるようになった。
一方、北大西洋や北海といった海での戦いは熾烈だった。イギリスは島国なので植民地から資源を送るには輸送船が必要なのだが、その輸送船をドイツ海軍のUボートが襲撃し、片端から沈めていった。第一次世界大戦ではUボートによる通商破壊がイギリスを締め上げる効果を発揮したため、今次大戦においても実践しようとした訳である。当初は連合軍も護衛に注力しておらず被害が増大。加えてドイツ海軍は駆逐艦17隻を使ってテムズ川に磁気機雷を敷設(西の壁作戦)。イギリス軍に掃海の術は無く、商船67隻、駆逐艦3隻、補助巡洋艦6隻が撃沈された。余談だが11月21日、ロンドンに向かっていた日本郵船の照国丸がハーウィッチ港外で触雷して沈没。当時まだ日本は参戦しておらず、中立国の扱いだった。抗議する日本政府に対し、独英は互いに責任を押し付けあった。ちなみに乗客と乗員は全員助かっており、鉄道でロンドンに送られた。
ヒトラー総統は英仏との和平を望んでおり、ポーランド攻略後に和平交渉を持ちかけたが、蹴られている。
イギリス海軍の一大拠点スカパ・フローに潜入したU-47が停泊中の英戦艦ロイヤルオークを撃沈したり、北海で独巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウが英特設巡洋艦ラワルピンディを撃沈するなど、兵力差を覆してドイツ海軍は暴れまわったが、イギリス海軍も装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーを南米まで追い詰めて自沈させており、やり返している。
枢軸国ぞくぞく参戦
1940年
1940年2月16日、中立国ノルウェーの領海を航行していた独補給艦アルトマルクが英駆逐艦コサックの襲撃を受け、輸送中の捕虜を奪還される事件が起きる(アルトマルク号事件)。これに激怒したヒトラー総統はノルウェーとデンマークを保護下に置く事に決め、ヴェーゼル演習作戦を5時間で練らせた。対するイギリスもスウェーデンから輸出されるドイツ行きの鉄鉱石を遮断するためノルウェー進駐を企図し、本国艦隊が出撃。ところが、僅かの差でドイツが先に動いた。
4月9日、ドイツの陸海軍がノルウェーとデンマークに電撃的侵攻を開始。デンマークは僅か6時間で降伏した。ノルウェー軍は(ドイツと同じ進駐目的で近くにいた)イギリス軍に助力を求め、連合軍の強力な加勢を受けてドイツ軍を迎え撃つ。首都オスロはドイツ本国に近かったため早々に陥落し、王室はイギリスに亡命。一方で北部の要港ナルヴィクでは一度占領に成功したドイツ軍を倒して奪還に成功、激しい反撃でK級巡洋艦2隻、重巡洋艦ブリュッヒャー、駆逐艦10隻を撃沈するなどドイツ海軍を大いに苦しめた。
ノルウェー軍がまだ戦っている5月10日、ドイツ軍は突如フランス本土への侵攻を開始。オランダ、ベルギー、ルクセンブルグを降伏させ、進軍路を確保すると側面からフランス軍に襲い掛かった。第一次世界大戦のダメージから立ち直っていないフランス軍は連戦連敗し、各地で壊走していった。フランス侵攻により英仏連合軍はノルウェーに構ってられなくなり、アルファベット作戦を発動して足早に撤退。見捨てられる形となったノルウェー軍は6月9日に降伏した。更に6月10日、勝ち馬に乗りたいイタリアと傀儡国アルバニアが枢軸国側に参戦し、英仏へ宣戦布告。イタリア軍は南フランスに侵攻するとともに地中海に浮かぶ英領マルタ島を空襲した。準備不足の中で強引に参戦したため逆にやられかけたのは内緒。追い詰められたイギリス軍はフランスを見捨てて本国へ退却を開始、フランス政府は中立国アメリカに救援を求めたが、応援メッセージが返ってくるだけで何もしてくれなかった。6月22日、パリを占領されたフランスは独伊と休戦条約を結び、連合軍から脱落。残余の連合軍は北部の都市ダンケルクから脱出し、西ヨーロッパから完全に追い出されてしまった。
フランスでは後継政権として親独反共のヴィシー・フランスが樹立。アメリカやソ連から国家承認を受けて正統な国となった。そんな中、フランス海軍の艦艇は本国の降伏に伴って海外領土に脱出。地中海の入り口に位置しているメルセルケビールには多くのフランス艦艇が身を寄せていたが、これを脅威と捉えたイギリス海軍が攻撃を敢行(メルセルケビール海戦)し、在泊艦艇に大打撃を与える。かつての仲間に銃を向けるイギリスの傲慢な振る舞いに激怒したヴィシー・フランスは断交を発表、英仏の関係に亀裂が入った。
開戦から1年も経たないうちにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスを軍門に下らせたドイツ軍の精強さは全世界に知れ渡った。ドイツ軍の勢いに乗っかって自国の利益や領土を増加させようとする国が現れ始め、ドイツに急接近していく。
フランスの沿岸まで勢力圏に収めたドイツ軍は、ブレスト、ロリアン、ボルドーといった有力な軍港を接収し、Uボートの基地として活用。わざわざドイツ本国に帰投する必要が無くなり、燃料の節約や戦果の拡充に大いに役立った。この頃はまだイギリス海軍も護衛に無関心であり、「第一の黄金期」と称されるほどの大戦果をUボートにもたらした。ただフランスの軍港はイギリス本国の眼前に位置しているため、激しい爆撃を受ける羽目になり、トート機関がUボートを保護するためのブンカー建設に着手している。
ここでもヒトラー総統はイギリスに和平交渉を持ちかけ、「フランスからの撤兵」という勝利を無にするような破格の条件まで盛り込んでいたが、願い虚しくイギリスに蹴られ、戦争終結のチャンスは失われた。
7月10日よりイギリス本島への空襲を開始する(バトル・オブ・ブリテン)。ドーバー、ポートランド、ホーンチャーチなどに空襲を加えたが、イギリス空軍もベルリンを空襲して反撃。ゆくゆくはイギリスに上陸する予定だったが、イギリス空軍の激烈な抵抗を受けて多くの爆撃機が撃墜された。元気に反撃してくるイギリス軍に手を焼くヒトラー総統は、イタリアに北アフリカのイギリス軍を攻撃して後方かく乱するよう要請。9月9日、イタリア領リビアから英領エジプトを目指して進軍を開始。北アフリカ戦線が構築された。しかしイタリア軍は弱く、潤沢な物資を持つイギリス軍に腹筋ボコボコにパンチ喰らって逆にリビアを奪われかけた。イタリア軍が期待通りの活躍をしなかったのと、イギリス軍の抵抗が強すぎたため10月12日にイギリス本土上陸は無期限延期となった。10月28日にはイタリア軍が北アフリカ戦線放り出してギリシャへ侵攻。しかしここでもイタリア軍は敗北し、アドリア海に突き落とされそうになる。仕方なくドイツ軍はイタリア軍の援護に回り、12月20日にシチリア島へ進出。
少しさかのぼること9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結。日本が正式に同盟国となった事で、ドイツ本国は日本と敵対する中華民国に力を貸していたファルケンハウゼン軍事顧問団を撤収させた。11月20日にはハンガリーが参加し、続いてルーマニア、スロバキアが参加。徐々に勢力を拡大していく。同盟国になったとはいえ日本はまだ第二次世界大戦に参戦していない中立国であり、独伊に対する援助は限定的だった。ヨーロッパでは手に入りにくい希少資源を求めて独伊から封鎖突破船が送られ、日本側は神戸や大阪を受け入れ港にして貨物の積載を手伝った。
1941年
1941年3月1日、日独伊軍事同盟にブルガリアが参加。ドイツの圧力により3月26日にユーゴスラビアが参加したが、反枢軸のセルビア人が軍事クーデターを起こして政権が転覆。これに激怒したヒトラー総統はユーゴスラビア侵攻を命じ、4月6日にドイツ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアがギリシャとユーゴスラビアへの攻撃を開始した。ユーゴスラビア軍は粉砕され、瞬く間に降伏。4月10日にザグレブで独伊の傀儡国クロアチア独立国が誕生し、続いてモンテネグロ王国とセルビア救国政府も樹立された。4月27日にはドイツ軍がアテネへ入城し、ギリシャも降伏。傀儡のギリシャ国を樹立された。ギリシャ政府や王家はクレタ島へ逃亡。
5月20日、地中海に浮かぶ英領クレタ島へ空挺降下。イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、ギリシャからなる連合軍とドイツ軍が交戦した。イギリス地中海艦隊は優勢な艦隊を派遣したが、ドイツ空軍の猛攻により軽巡洋艦1隻と駆逐艦3隻を喪失。クレタ島の連合軍も撃破され、脱出できなかった者は山中でゲリラをする羽目になる。6月15日、クロアチア独立国が日独伊軍事同盟に参加し、枢軸国に加わる。
6月22日、独ソの国境線に集結したドイツ陸軍300万が突如として越境。不可侵条約を破ってソ連への侵攻を開始した(独ソ戦)。ドイツは最大の物資・燃料資源輸入元であったはずのソ連に対して宣戦布告し、全世界を驚かせた。独ソ戦の勃発に伴って東欧の枢軸国も次々に宣戦布告し、第二次世界大戦最大の地上戦が幕を開けた。冬戦争でソ連によって不当に領土を奪われたフィンランドも参戦し、スカンジナビア半島からドイツ軍とともに侵攻を開始。フィンランドはドイツと同盟を結んでおらず、「これは冬戦争の継続であり、ナチスドイツとは無関係」と発表したが、連合国からは無慈悲の枢軸国判定を受けた。当時のソ連軍は独裁者スターリンによって実施された大粛清で、大幅に弱体化していた。加えて不可侵条約締結国かつ燃料の生命線たる自国をドイツが攻めるはずはないと油断していたため、精強なドイツ軍の華麗な電撃戦によって、ソ連軍は大敗北。開戦劈頭に数百万の捕虜を出す結果となった。8月初旬にドイツ軍はスモレンスクを占領。9月にレニングラードの包囲網が完成し、ドイツ軍とルーマニア軍によってキエフを占領。11月にはドン川沿いのロストフを占領し、首都モスクワに迫った。しかし例年より早い冬将軍の到来によりドイツ軍の進軍が停止。更にモスクワからの反撃を受け、12月6日に撤退を強いられた。
時の大統領ルーズベルトは欧州戦線に参戦しない事を公約に掲げて当選したため、アメリカは中立国の立場を取り続けていたが、その裏では露骨なまでにイギリスを援助。大西洋に海軍の艦艇を派遣し、Uボートを見つけるとイギリス海軍に通報したり、攻撃を仕掛けるなど中立とは名ばかりの国際法違反を繰り返した。もしドイツ側が反撃してきたらそれを口実に参戦しようとしていた訳なのだが、対するドイツ側は冷静に対処。度重なる挑発にも関わらず、ヒトラー総統はアメリカ艦艇への攻撃を禁じていた。それでも現場ではアメリカの蛮行に怒りを募らせており、9月4日にU-652が米駆逐艦グリアに雷撃したグリア号事件が発生。この時は双方被害は無かったが、続く10月17日のカーニー号事件ではU-568が米駆逐艦カーニーを雷撃して大破させ、10月31日にU-552によってとうとうルーベン・ジェームズが撃沈された。ルーズベルト大統領は早速反独の材料にしてラジオ演説を行ったが、思いのほか国民が冷静だったため開戦には至らなかった。この時点で米独は既に宣戦布告無き戦争状態に入っており、開戦は時間の問題だった。ヒトラー総統もかなり頭に来ていたようで、後の対米宣戦布告の理由にカーニー号事件を挙げている。
そして12月8日、大日本帝國が真珠湾攻撃を敢行。アメリカ・イギリス・オーストラリア・オランダに宣戦布告して大東亜戦争が始まった。これにより日本が枢軸国として、アメリカが連合国として参戦し、名実ともに世界規模の大戦争となった。日本は東南アジアの資源地帯の確保・大東亜共栄圏を掲げ、開戦と同時にマレー半島やフィリピンに上陸。現地植民地軍と交戦状態に入った。その日本と軍事同盟を結んでいたドイツ・イタリアも12月11日にアメリカへ宣戦布告し、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、クロアチア独立国も同様に宣戦布告した。
帝國(日本)陸海軍はウェーク島、グアム、マキン、タラワ、香港を電撃的に占領。12月10日にはマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈し、南方の制海権を一気に奪取する。12月21日、日泰攻守同盟締結によりタイ王国が枢軸国として参戦。さらにアメリカ西海岸に9隻の伊号潜水艦が出現し、市民が見ている中で堂々とタンカーを撃沈。5隻撃沈、5隻撃破の戦果を挙げて凱旋帰国した。
1942年
1942年1月8日、米英軍がタイ国内を攻撃し始めたため、1月25日にタイは米英に宣戦布告した。ドイツもまた対米戦を開始し、パウケンシュラーク作戦を展開。同月中旬にUボート5隻がアメリカ東海岸沖やメキシコ湾に出現して大暴れ。17隻(13万4000トン)の連合軍商船を沈めた。
帝國陸海軍は破竹の快進撃を見せ、東南アジアの連合軍を次々に撃破。まず1月2日にフィリピンの首都マニラを占領。1月23日にはラバウルとカビエンを占領し、資源地帯を防衛する城門を獲得した。2月15日、東洋のジブラルタルと呼ばれたイギリス軍のシンガポール要塞を攻略し、約13万名の英印兵を捕虜にした。この大敗はウィストン・チャーチル首相に「イギリス史上最悪の敗北」と言わしめた。3月9日にオランダ軍の中枢であるジャワ島が白旗を揚げ、東南アジアの連合軍はコレヒドール要塞とバターン半島で抵抗する米比軍を除いて駆逐された。資源地帯を手中に収めた日本は奪還に現れるであろう英東洋艦隊を撃滅すべく、4月上旬にインド洋へ南雲機動部隊を派遣。セイロン沖海戦で英東洋艦隊を半壊させ、南アフリカへと後退。イギリス軍は戦争末期になるまで本格的な反攻に出られなくなった。この結果は北アフリカ戦線にも少なからず影響を与えたようである。決死の抵抗を続けていた米比軍も5月に降伏し、東南アジアとインド洋は日本の勢力下に収まった。
5月7日、ポートモレスビーの攻略を目指す帝國海軍と、それを阻止しようとするアメリカ海軍が珊瑚海にて激突。人類史上初の空母対空母の海戦が生起した。日本側は小型空母祥鳳を失ったが、米大型空母レキシントンを討ち取った。だが本命のポートモレスビー攻略は中止となり、快進撃を止められた。
連合国の反攻
1942年6月5日に生起したミッドウェー海戦により、帝國海軍は敵空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈したが、空母4隻と重巡1隻を失う。また体勢を立て直した連合軍の反攻は、日本の見立てより早かった。8月7日、飛行場を建設していたガダルカナル島にアメリカ軍が大挙襲来。島を巡って熾烈な争奪戦が始まった。第一次ソロモン海戦では日本側が完勝、4隻の連合軍重巡を撃沈したが、第二次ソロモン海戦は痛み分け、第三次ソロモン海戦ではアメリカ軍の高級将校2名を戦死させるも戦艦比叡と霧島を失う被害を受け、両軍とも多くの艦艇が海の底に沈んだ。国力に劣る日本は増大する損害を補填できず、潤沢な連合軍を相手に押されるようになる。9月に伊25潜によるアメリカ本土爆撃が行われ、損害は軽微だったが戦争中唯一アメリカを爆撃したケースとなった。
一方、欧州戦線もターニングポイントを迎えていた。10月23日、エジプトのエル・アライメンでの戦闘で独伊軍が敗北。これを機に独伊軍の崩壊が始まり、北アフリカ戦線の主導権をイギリス軍に握られる。トドメとなったのが、11月8日に米英軍が行ったヴィシーフランス領モロッコ、アルジェリア、オランへの侵攻であった。エジプト方面から迫るイギリス軍とアルジェリア方面から迫る連合軍に挟撃され、北アフリカの独伊軍は窮地に陥った。あっけなく降伏したヴィシーフランスを制裁するため、本国の独伊軍は南フランスを占領し、全土を支配下に置いた。
独ソ戦ではドイツ軍がコーカサスの奥地に進撃し、スターリングラードの包囲を始めていた。だがソビエトの物量と国土の広大さ・寒さ・そして地形や厳しいインフラ事情に苦戦。それでも包囲網を完成させ、一時はソ連軍を撃破してスターリングラードを占領したが…。12月、後方地域に集結していたソ連の大軍が一気に反撃を開始し、ルーマニア軍やハンガリー軍を撃破。市内にいるドイツ軍の退路を断ち、窮地に陥れた。かくして枢軸国の鮮やかなまでの快進撃は鳴りを潜め、失速していく。
1943年
1943年1月30日、スターリングラードに取り残されたドイツ軍の将兵約30万がソ連軍に投降して独ソ戦の転換点を迎えた。太平洋戦線でも多くの駆逐艦と兵士を失い、ガダルカナル島争奪戦に敗れた日本が三度に渡る撤退作戦を決行。レンネル沖海戦の勝利によりアメリカ艦隊の北上を阻止した事で想定以下の損害で撤退に成功し、2月7日に完了。防衛線をコロンバンガラ島まで下げた。この1943年から枢軸国側が押されるようになる。
スターリングラード攻防戦での敗退以来、独ソ両軍で消耗戦が始まる。この頃に至り、ソ連軍は大粛清やドイツからの不意打ち宣戦の衝撃から完全に立ち直り、前線から離れた安全地帯であるウラル山脈へ疎開させていた工業力が発揮され始め、加えてイランに進駐したイギリスとアメリカから大量の武器弾薬の供給(レンドリース)を受けたことで、歩兵はもちろん、戦車を中心とする機甲師団も充実していった。戦争初期には弱体であったソ連軍は文字通り覚醒し、質・量共に世界最強の戦力へと化けていった。
5月13日、チュニジアで最後の抵抗をしていた独伊軍が降伏し、北アフリカ戦線終結。眼前に敵が迫ったイタリアは本土防衛戦の準備を始めるが、国民の間では厭戦気分が広がっていた。7月10日、イタリア領シチリア島に連合軍が上陸。8月中旬までに守備隊を撃破し、シチリア島を足がかりにしてイタリア本土への攻撃準備を始めた。イタリアではクーデターが発生し、ムッソリーニ総統が政界追放及び逮捕される。後釜に座ったバドリオ政権が連合軍と休戦条約を結び、9月8日に無条件降伏。ついに枢軸国の一角が脱落し、ナポリ近郊のサレルノに連合軍が上陸した。イタリアの降伏と同時にドイツ軍が動き出し、迅速に北中部を占領。主要な工業地帯を手中に収めた。さらに幽閉されていたムッソリーニ総統をコマンド部隊を送って救い出し、サロの町に首都機能を置いたイタリア社会主義共和国を樹立。脱落したイタリア王国に代わって日独伊同盟に加わり、連合国に下った南イタリアと戦争する内戦状態になった。
太平洋戦線では日本の支援によって、8月1日にビルマ国が独立を宣言。即日米英に宣戦布告した。10月21日、同じく日本の支援でスバス・チャンドラ・ボース率いる自由インド仮政府が樹立。24日に米英に宣戦布告し、インドを目指してビルマ国のラングーンに進駐した。11月、中部太平洋で連合軍が反攻に転じ、11月23日にギルバート諸島のマキンとタラワを失陥。伊175の雷撃で護衛空母リスカム・ベイを撃沈するも、焼け石に水だった。
1944年
1944年1月、マーシャル諸島に来襲したアメリカ軍によりクェゼリン、ルオット、ヤルートを失陥。2月17日と18日に行われたトラック大空襲により南東方面の補給基地だったトラックが機能を失い、3月30日のパラオ大空襲でパラオも機能を喪失。帝國海軍の拠点は東南アジアにまで後退した。その東南アジアにも米潜水艦が侵入してきており、決して安全な場所ではなかった。
6月4日、ローマを連合軍に奪取される。ここを足がかりに、ドイツ東部への爆撃を開始。6月6日にはフランス北方のノルマンディーに連合軍が上陸。後方地域だったフランスに第二線が構築され、本格的な大規模反攻作戦が始まった。6月22日、ベラルーシ方面でソ連軍がバグラチオン作戦を開始。一気に攻勢へと転じた。中央軍集団が半壊し、東部戦線の崩壊が始まった。ついにドイツは東と西と南から同時に攻められる事になり、7月25日に連合軍はノルマンディーを突破。パリへ向けて東進する。
太平洋戦線でも6月19日にマリアナ沖海戦が生起。情報戦では制していたが、敵の圧倒的な戦力を前に帝國海軍は虎の子の大型空母3隻と400機以上の航空機、700名の搭乗員を失う大敗を喫し、7月7日に絶対国防圏の要だったサイパン島を失陥。アメリカ軍に本土空襲の足がかりを明け渡した。本土に迫り来る連合軍を迎撃すべく、日本は沖縄と硫黄島の防御を固め始めた。
ソ連軍の矢面に立たされる事になった東欧では、降伏や寝返りが相次いだ。8月23日、ルーマニアでクーデターが発生し、イオン・アントネスク首相が失脚。新政府が連合国に降伏し、枢軸国から脱落。ドイツに宣戦布告した。それから間もない26日、パリが奪還されドイツ傀儡のヴィシー政権が崩壊。フランス本土は連合国側の自由フランスのものとなった。8月30日、ドイツ軍がブルガリアから撤退。9月2日にブルガリアが中立化したが、構う事無くソ連軍が侵攻。共産主義者によるクーデターによって対独宣戦布告する。ソ連軍と寝返ったルーマニア軍に襲われるハンガリー王国もソ連と休戦しようとしたがドイツ軍のクーデター(パンツァーファウスト作戦)が入り、摂政ホルティを解任。親独組織である矢十字党とその指導者サーラシが新政権を樹立してドイツとの共闘を続けた。9月10日、追い詰められたフィンランドがソ連と休戦。国内のドイツ軍を追い出し始めた(ラップランド戦争)。ただドイツ・フィンランド軍の司令官はあらかじめ撤退の協議を行っており、戦うふりをしながらスムーズにノルウェーへと退いていった。10月14日、イギリス軍によってギリシャ国が降伏。連合国側となった。
ソ連軍の勢いは凄まじく、ついに東プロイセンに到達。同地のドイツ国民はパニックに陥り、我先に本国へ脱出しようとした。ドイツ海軍のカール・デーニッツ元帥は生き残っていた戦闘艦から漁船まで動員し、難民を救出を試みた(ハンニバル作戦)。輸送船が民間人を運搬し、リュッツォウやアドミラル・ヒッパーといった戦闘艦が迫り来るソ連軍を砲撃して時間稼ぎに当たった。このハンニバル作戦は終戦まで続けられた。
地球の反対側では10月20日にアメリカ軍がフィリピンのレイテ湾スルアン島に上陸。残存艦艇をかき集めてアメリカ軍に一大決戦を挑み、10月24日にレイテ沖海戦が生起。護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦3隻を撃沈したが、航空機の援護が一切無かったため戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦9隻、駆逐艦8隻、潜水艦6隻を喪失。これにより帝國海軍は事実上壊滅し、散発的な抵抗しか出来なくなる。それでもフィリピンの防衛目的とした輸送部隊をオルモック湾へと送り続けた(多号作戦)。何回か成功し、駆逐艦竹が敵駆逐艦クーパーを撃沈する戦果もあったが、殆どが失敗に終わり、多数の駆逐艦と輸送艦を失って頓挫した。レイテ島に上陸したアメリカ軍はじわじわと版図を広げ、日本軍の重要拠点であるマニラを狙って進軍を続けた。レイテの敗北により本土と南方の資源地帯は遮断され、補給路は途絶えた。12月26日、ミンドロ島サンホセに築かれた物資集積所を帝國海軍の挺身隊が砲撃。駆逐艦1隻を失うも輸送艦4隻を沈めた(礼号作戦)。これが事実上最後の日本の勝利だった。また12月から回天攻撃が開始され、伊47が補給艦ミシシネワを撃沈している。
12月16日、ドイツ軍がアルデンヌで反攻開始(バルジの戦い)。しかし24日に攻勢が停止し、翌25日より連合軍の反撃が始まる。同日中にモスクワで樹立したハンガリー臨時政府が対独宣戦布告。
敗戦
1945年は枢軸国にとって終末の年と言えた。アメリカやイギリスの圧力で、中立を保っていた国々が一斉に日独への宣戦布告を始めた。その様相は全世界を敵に回しているかのようだった。
1月12日、ソ連軍が更なる攻勢に転じてワルシャワとクラクフを奪取。2月13日にハンガリーの首都ブタペストを占領し、ドイツ軍と対独協力者のハンガリー人を追放。ハンガリー王国も脱落したが、矢十字党の残党がドイツ軍とともに西方へ脱出し、抵抗を続けた。4月4日、ブラチスラヴァを占領された事によりスロバキアが降伏。同月13日、ウィーン占領によりオーストリアも降伏した。そして4月16日、ついにドイツの首都ベルリンがソ連軍に包囲される。4月27日、北イタリアとスイスの国境に程近いコモ湖で逃亡中のムッソリーニが捕縛され、翌28日に処刑された。これによりイタリア社会共和国は崩壊。4月30日にはハンガリー西端で抗戦していた矢十字党も倒れた。猛攻の末、5月7日に枢軸の盟主ドイツが降伏し、同日中にクロアチア独立国も共産系パルチザンに降伏。欧州の枢軸国は完全に消滅する事となった。
欧州戦線は決着したが、太平洋戦線では日本とタイが枢軸国として残っていた。しかし3月3日にフィリピン首都マニラを、3月26日に硫黄島を失陥。4月7日には連合艦隊の象徴と言うべき戦艦大和が撃沈された。残余の艦艇は燃料不足から動く事が出来ず、擬装用のネットを張ってアメリカ軍の目から隠した。東南アジアに残された独伊の潜水艦を接収し、大量の特攻機や回天搭載型伊号潜水艦を使ってアメリカ艦隊に抗していたが、6月22日に沖縄が陥落。日本本土は毎日のように爆撃及び艦砲射撃を受け、都市部の殆どが焼け野原と化す。8月6日にロンボク海峡で米潜ブルヘッドを撃沈した事が最後の戦果となった。
そして8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏。後ろ盾を失ったビルマ国、自由インド仮政府、蒙古聯合自治政府、満州国は崩壊していった。9月2日、戦艦ミズーリの艦上で調印式が行われ、ここに第二次世界大戦が終結。枢軸国は完全に消滅する事になった。
ユダヤ人の扱い
ユダヤ人に対する迫害や虐殺と言えばドイツによるホロコーストが大変有名だが、枢軸国全てがドイツと足並みを揃えていた訳ではなく、彼らの扱いに差があった。
枢軸国の盟主ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、クロアチア独立国、ヴィシーフランス、セルビア救国政府などは積極的にユダヤ人の排除を実施。ドイツは各地に強制収容所を作り、計画的に虐殺を実施。今や世界で最も有名な虐殺劇を繰り広げたとして今なおも語り継がれている。ハンガリーでは戦争中期までは比較的穏やかであったが、1944年10月にドイツの支援で矢十字党が政権を握ると苛烈な虐殺を開始。警察は勿論、カトリック教の司教まで加担しており8万人がアウシュヴィッツ収容所に送られ、10~15万人が殺害された。クロアチア独立国は「バルカンのアウシュヴィッツ」と形容されるほど虐殺を行い、その激しさたるやドイツがドン引きしたほど。国を率いるウスタシャはユダヤ人以外にも反体制派のクロアチア人やセルビア人も殺害していて、その数は計測不能と言われる。ドイツの支配下にあるヴィシーフランスもまたドイツに倣って迫害政策を実施。国内のユダヤ人を国外追放にした他、1943年に治安部隊ミリス・フランセーズを結成してユダヤ人やパルチザンの摘発している。セルビア救国政府ではドイツと共同で5~8万のユダヤ人が殺害された。
一方でユダヤ人の排除に消極的あるいは友好的に接したのはイタリア、フィンランド、アルバニア、日本など。イタリアの総統ムッソリーニはユダヤ人に好印象こそ抱いていなかったが、友人にユダヤ人がいた事で迫害には消極的だった。ドイツから引き渡し要請を受けた際には沿岸のユダヤ人を内陸に引っ越しさせて避難させた。フィンランドも引き渡し要請を断固拒否している。アルバニアは唯一ヨーロッパでユダヤ人を受け入れた国で、引き渡し要請に対しては公文書を偽造して彼らを守り抜いた。結果、戦前よりもユダヤ人人口が増えていたという。迫害の原因であるキリスト教が大して浸透していない日本ではユダヤ人に対する怨恨は無く、むしろ日露戦争でユダヤ人投資家が戦時国債を買ってくれた事もあって友好的だった。このためユダヤ人側も日本を経由して中国やアメリカに逃げる逃走ルートを使用しており、およそ2万4000名が脱出に成功。このうち半分近くが日本国内や満州に留まって定住した。
枢軸国一覧
- ドイツ国(ナチス・ドイツ、ドイツ第三帝国)
- イタリア王国(イタリア社会共和国)
- 大日本帝國
- ハンガリー王国(矢十字党)
- ルーマニア王国(ルーマニア鉄衛団)
- ブルガリア王国
- フィンランド共和国
- クロアチア独立国(ドイツ・イタリアの傀儡国)
- ギリシャ国(ドイツ・イタリア・ブルガリアの傀儡国)
- イラク王国(厳密には枢軸国ではないが親枢軸で、独伊の援助で連合軍と交戦)
- タイ王国
- 自由インド仮政府
- ビルマ国
- ベトナム帝国
- ラオス王国
- カンボジア王国
関連項目
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