吉村貫一郎とは、新選組隊士である。諸士調役兼監察、新撰組撃剣師範を務める。氏の名は浅田次郎の小説『壬生義士伝』により、一躍有名になった。
概要
肩書は諸士調役兼監察、さらに新撰組剣撃師範。沖田総司、永倉新八、斎藤一などという、幕末屈指の剣豪が揃っていた新撰組に於いて剣撃師範という重役に就いていたにも関わらず、その動向は文献の少なさ故、今日には殆ど伝わっていない。
天保11年(1840年)、奥州は盛岡藩の下級武士の家庭に生まれる。文久2年(1862年)、藩を脱藩し、大阪に赴いたとされる。彼の流派は幕末当時、最もポピュラーであった北辰一刀流(奇しくも後に粛清される伊東甲子太郎と同門)であったという。
慶応元年(1865年)、新選組に入隊。この時に「誠を貫く」という意志から「貫一郎」の名前を名乗ったとされる。現在では甚だ疑問視されているものの、脱藩の際に国元に残してきた妻子がいたとされ、洛中においても家族への送金を欠かさなかったという。近藤勇らの長州尋問使に同行し、著名な幹部である山崎烝(肩書は同じ、諸士調役兼監察)と共に長州藩の動向を調査していたことが『中山忠能履歴資料』という史料によって確認されている。諸士調役兼監察(つまり、敵方の密偵と、隊内の不穏分子を調べ上げる憲兵的役割)、剣術師範という重役を務める傍ら、様々な対外交渉の度に駆り出されていることから、文武に優れた士であったことが忍ばれる。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦い後、新撰組本隊とはぐれた吉村は途方に暮れ、大阪の盛岡藩邸に逃れて帰藩を願い出たという。だが、蔵屋敷差配役を務めていた南部家家臣・大野次郎右衛門(架空の人物とされる)に「武士としてあるまじき行為」と咎められ、藩邸内にて自刃したとされる。享年29。自刃の際、その亡骸の傍らには家族への送金を願う旨の遺書とともに、幾許かの銭が揃えて置いてあったという。
以上は子母沢寛などの作家によって創作されたものであることがわかっており、実際は鳥羽・伏見の激戦の最中、銃弾に斃れたとする説が今日では一般的である。「妻子を養うための送金」「盛岡藩邸に逃れ自刃」というドラマチックな顛末も、実際は創作と思われる。諸士調役兼監察、新撰組剣撃師範という重役に就いておきながら、吉村貫一郎という人物について分かっている事は非常に少なく、南部藩側の資料によれば、本名も吉村貫一郎ではなく嘉村権太郎であったと言われている。
小説『壬生義士伝』のドラマ版ではハリウッドスター・渡辺謙が、日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した2006年の映画『壬生義士伝』では、中井貴一が彼を演じた。
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