小錦とは、大相撲の四股名である。幕内力士となった小錦は以下の3人いる。
- 初代 - 第17代横綱。愛称は狂える白象。引退後は年寄・二十山を襲名して二十山部屋を創設した。
- 2代 - 最高位は小結。初代の弟子。愛称は団子山。師匠の死後に二枚鑑札として土俵に上がりながら二十山を襲名した。
- 6代 - 最高位は大関。現在はタレント小錦八十吉(前芸名はKONISHIKI)として活動している。本項で解説。
概要
ハワイの高校時代は重量挙げやアメフトの選手として活躍。当時本人は弁護士を目指していたが、高見山にスカウトされ1982年に高砂部屋に入門する。
当時の新弟子検査の体重計では150kgまでしか計れず、急遽二つの体重計を用意して175kgと測定される。さらには腕が太すぎて血圧計が巻けないなど当時から破格ぶりを披露する。同年7月に初土俵を踏む。入門後は主に押し相撲を指導され、初期は高見山にも稽古をつけてもらい、日本語や日本の習慣についても色々教えられた。
1984年月には新入幕。同年9月には入幕2場所目で前頭6枚目ながら、当時の横綱隆の里、千代の富士を倒して2つの金星を獲得し、上位をなぎ倒す。結果は12勝3敗で優勝は逃すものの殊勲賞と敢闘賞をダブル受賞する。この時千代の富士は初対戦で小錦になすすべなく完敗しており、最終的には小錦に大きく勝ち越しているが、後に彼が31回も優勝する大横綱になる上で小錦の与えた衝撃は相当大きかったと言える。
1987年5月には、外国出身力士初となる大関昇進。大関昇進後はなかなか優勝戦線に絡めなかったが、1989年11月に念願の初優勝。優勝を決めた取り組みの後、土俵下で大粒の涙を流した姿は大きく取り上げられた。後年本人はこれは歓喜の涙ではなく「もっと早く優勝出来なかったのか」という悔し涙だったと述懐している。翌1990年1月は綱取りがかかるが、10勝5敗でならなかった。
その後、1991年5月から1992年3月まで極めて高い成績を連続する(この間優勝2回)が連続優勝はならず、その後は体重の増え過ぎもあってどうしても稽古量を減らさざるをえず、この後は優勝戦線に絡むこともなかった。
1993年11月に、ハワイの後輩曙に負けた一番で大関陥落が決定。以後は二桁勝利もほとんど無くなったが、以前と変わらぬ絶大な人気を維持し続けた。1997年11月場所を最後に引退。引退後は年寄佐ノ山を襲名するが、1998年相撲協会を退職。以後はタレントとして芸能界で活躍している。
横綱昇進は叶わなかったが、知名度、人気面は横綱級であり、相撲ファン以外にも広く知られた存在であると言える。現在はかなり痩せており、その姿に驚く人も多いが、病気ではなく増えすぎた体重を減らすために胃の縮小手術などを行った結果であり、本人は至って健康である。
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関連項目
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