山下虎雄(やました・とらお;偽名)とは、沖縄戦の際に波照間島民をマラリアと飢餓の地獄に陥れた陸軍軍曹である。
概要
1945年、波照間島に青年学校指導員山下虎雄を名乗る若い代用教員が現れた。
山下氏は来島当初は好人物を装い島民を油断させたが、軍人として本性を現すようになると島民に軍刀を振り回すなどして脅迫し軍命として西表島南風見田への疎開を強制して家畜等食糧を略奪した。
当時の西表島はマラリア感染の危険が高く、実際に島民はマラリアに感染し次々倒れていった。山下軍曹は沖縄戦終了を密かに知った後も八重山守備軍の帰島許可に反してまで波照間帰島を許さず、島民全員の支持を得た識名信升国民学校校長らが帰島を強行するまで波照間島民は西表島に留められた。西表島・波照間島間は2艘の小舟しか輸送手段がなく帰島は難航した。波照間島の家畜は疎開前に処分され農地も放置されたため、島民は帰島後もマラリアと飢餓に苦しむことになった。
島民約1500人のうち90%以上がマラリアに罹患、死亡者は477~522人にのぼった(帰島後含む)。この被害は割合としては八重山の他島と比べて突出して高い。
山下軍曹の正体は日本軍のスパイ養成機関である陸軍中野学校出身の離島残置工作員と言われ、八重山守備隊が出した帰島許可を無視できたのもこのためと思われる。
山下軍曹は戦犯となることも島民へ謝罪することもなく本土で生き延びた。1981年に波照間島を再び訪れたものの、島民達から脅しめいた抗議書を突きつけられ追い返されたことがある。滋賀県守山市に住み[1]、電機メーカーの会長などを務めて1997年死去。
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関連項目
脚注
- *平成 1年(1989年) 第 7回 沖縄県議会議事録より https://www2.pref.okinawa.jp/oki/Gikairep1.nsf/481e05e7edaca1db49256f540004c033/6de6a9cf55a8566f492570b50027fc8d?OpenDocument&Click=
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