- プロ野球選手一覧 > 林安夫
林安夫(1922年4月3日-1944年)とは、愛知県出身の元プロ野球選手(投手)である。
概要
|
太平洋戦争の真っただ中、選手不足のプロ野球(職業野球)において連投につぐ連投で孤軍奮闘した投手。1942年におけるシーズン投球回数531.1回、対戦打者数2079人、シーズン先発回数51回は今でもNPB記録であり、不滅の大記録と言っていいだろう。
しかし応召され、フィリピンへと出征し、行方不明となった。実働僅か2年という、流星のように輝いて消えた名投手。
経歴
スピードある速球と抜群のコントロールが武器で、春の選抜では一宮中のエースとして投げ、決勝で敗れるが準優勝を果たした。
1942年、朝日軍に入団。時は太平洋戦争の最中で応召される選手も多く、朝日軍もかなりの選手不足に悩んでいた。そのため故障も恐れずに登板を重ね、その中で成長していった。
その結果、プロ1年目で71登板、先発51回、完投44回、投球回数541.1回、防御率1.01という前人未踏の大記録を打ち立てた。32勝22敗の成績を残し、前年までBクラスだった朝日軍をAクラスへ引き上げる原動力となった。今こんなことやったら選手を壊す気かと批判されるだろうが、時代が時代であったためにこの記録が生まれたと言える。実況パワフルプロ野球のペナントモードで投球回の歴代シーズン記録を見てぶったまげた人も多いのではあるまいか(相当特殊なプレーをしないとこの記録は破れないだろう)。参考に2021年の最多投球回は山本由伸の193.2回と言えばぶっ飛びぶりが分かるだろう。ちなみに投球回数の2位は同じく1942年の野口二郎の527.1回。この部門の上位はほぼ1930年代~1940年代で占められており、13位でようやく権藤博(429.1回、1961年)が登場するが、ベスト100は全て1970年以前の数字である。戦争という背景が生んだ、今後破られてはいけない記録かと思われる。
1943年シーズンでは前年の酷使がたたったのと投手に真田重蔵が加入したこともあって、そこまで飛びぬけた数字は残さなかったが、それでも先発31回、完投27回、完封12回、防御率0.89、20勝11敗とチームの軸として活躍した。(当時の野球ボールは質が悪くて飛びにくく、かなり投高打低になっていた影響もあるが)
しかし時代の流れには逆らえず、応召がかかる。1944年、フィリピン方面へ出征したきり行方不明。戦死したものと考えられている。享年22。あまりにも若すぎる死であった。なお弟の林直明もプロ野球選手である。
成績
年度別投手成績
年度 | 球団 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1942年 | 朝日 | 71 | 51 | 44 | 12 | 32 | 22 | --- | --- | .593 | 541.1 | 134 | 145 | 105 | 61 | 1.01 |
1943年 | 38 | 31 | 27 | 12 | 20 | 11 | --- | --- | .645 | 294.0 | 57 | 94 | 41 | 29 | 0.89 | |
通算:2年 | 109 | 82 | 71 | 24 | 52 | 33 | --- | --- | .612 | 835.1 | 191 | 239 | 146 | 90 | 0.97 |
関連項目
- 0
- 0pt