父は光仁天皇(第49代)、母は高野新笠。子に平城天皇(第51代)、嵯峨天皇(第52代)、淳和天皇(第53代)、そして平氏の祖先である高望王など。
概要
784年に長岡京を、794年に平安京を造営した天皇として小学校の教科書にも出てくる数少ない天皇のひとり。
(そして、現在のところ「武」の名を冠した最後の天皇である。)
737年生まれ、天智天皇の子孫。天武系の天皇が長く続いていたため当初は傍系のいち親王に過ぎず、本人も官僚としての出世を目指していたが、第48代の称徳天皇を最後に天武系の子孫が途絶えたため、父の白壁王が62歳にして光仁天皇として即位。さらに当初立太子された異母弟の他戸親王が大逆の罪で廃された結果立太子され、781年に即位した。当時の政争のゴタゴタの末に、当初の立場からすればかなりタナボタ的に即位した天皇である。
母が身分の低い帰化氏族だったことや、それまで傍系だった天智系の天皇であるということから、自らの天皇としての権威をアピールすべく積極的に親政を行った。二度の遷都や、坂上田村麻呂を征夷大将軍としての東北の平定、全40巻からなる勅撰史書『続日本紀』の編纂、最澄と空海の保護などが有名。
一方、他戸親王や、藤原種継暗殺の罪で流罪とし死なせた弟の早良親王の怨霊に生涯悩まされ続けた天皇でもある。怨霊を怖れて長岡京が僅か10年足らずで廃された後も、富士山の噴火など天変地異が続き、どうにか怨霊を鎮めようと早良親王を崇道天皇と追号したりした。
精力旺盛で少なくとも36人の子供がいたと言われており、それは後に政争の火種になった。
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