正親町天皇(1517~1593)とは、106代目の天皇である。
概要
織田信長や豊臣秀吉の同時代人であるため、室町時代以降の天皇の中では高い知名度のある人物の一人。
幕府の在りし日
後奈良天皇と万里小路栄子(吉徳門院)の間に生まれた第二皇子。本名は方仁で、正親町は仙洞御所の北面の町名にちなむらしい。兄弟では比叡山延暦寺が織田信長に焼かれた時の座主だった曼殊院門跡覚恕法親王などが有名。
そんな彼が後奈良天皇の崩御によって天皇の位につくと、そもそも問題だったのは征夷大将軍である足利義輝が三好長慶との対立で京都にいなかったことである。このため問題となったのは金銭以前に、彼の践祚に伴って改元をしようにも協議する天下人が欠けてしまっていたのだ。
そこで正親町天皇ら朝廷は三好長慶と協議して弘治4年(1558年)に元号を永禄に改める。これに激怒したのが足利義輝である。足利義輝とその派閥はこの改元を無視して弘治元号を使い続けたのであった。
足利義輝と三好長慶の和平の結果、この直後の永禄元年(1558年)のうちに足利義輝が帰京し、毛利元就の支援でようやく即位礼が行えた。しかし、永禄7年(1564年)が変乱の象徴である甲子であったため、本来なら改元を行うべきだったのが、足利義輝は特に何もしなかったのである。松永久秀らがこの対処に当たるも結局改元は行われず、明治維新以前に甲子改元をしなかった唯一の事例となった。
そして、永禄の変によって足利義輝が殺されてしまうと、征夷大将軍に任じた足利義栄は入京しないまま没し、変わって足利義昭と織田信長が入京する。この二人によって朝廷への支援が行われ、永禄13年(1570年)4月に元亀に改元された。
ところが、この年のうちに足利義昭が改元を申し出、結局足利義昭が費用などを提出しなかったことでこの作業は何年も停滞してしまう(この件は後に織田信長が十七条の意見書の中で批判している)。結局足利義昭が追放されると織田信長が朝廷を支援し、元亀4年(1573年)に天正への改元が行われたのであった。以後、本能寺の変を除けば京都が焼かれることはなかった。
天下人と正親町天皇
織田信長と正親町天皇の関係は研究された時代によってだいぶ揺れた評価となり、現時点では協調的な関係とされている。この例とされているものに足利義昭追放後の後花園天皇以来120年ぶりの譲位の実現に向けた動きがある。正親町天皇はこれを朝家再興の実現に向かうと快く動き始めるも、信長包囲網への対処で織田信長が全然京都にいなかったため、先送りにされてしまった。
さらに織田信長が天正6年(1578年)に右大臣・右近衛大将を辞官し無官の正二位となってからしばらくした天正9年(1581年)に、織田信長は安土城で行った左義長を京都でも行おうと思いつき、かの有名な馬揃えが実現する。この直後、正親町天皇は織田信長に左大臣を申し入れるも、譲位が実現してからと先延ばしする。これに対して今年は禁忌の「六金神」の年であったため、正親町天皇は来年への延期を申し出、織田信長もこれを承諾した。
しかし、三職推任の答えも見せないまま織田信長は本能寺の変で討たれ、2人がどのような構想を持っていたか永遠に明らかになることはなかった。
そして豊臣秀吉が天下人となると、関白になったこともあって彼は積極的に朝廷の再建に取り組む。天正12年(1584年)にはさっそく仙洞御所が造営され、翌年からは先例のアーカイブ化を進めていく。しかし、天正13年(1585年)11月29日に天正大地震が起こる。さらに翌天正14年(1586年)には皇太子であった誠仁親王が死没。結局正親町天皇はこの年に、70歳になってようやく孫の和仁(後陽成天皇)に譲位できたのであった。
譲位後の正親町天皇の動向は、2010年代に『院中御湯殿上日記』の研究がようやく進んだことで明らかになりつつある。上皇は公家や公家成大名の参礼を受けつつ、治天の君としてふるまっていたようである。なお、この史料には前近代の日本史上の人物には珍しく、誕生日祝いの宴の記録が見られる。そのまま文禄2年(1594年)に77歳で亡くなった。
正親町天皇の遺した史料
東山御文庫には正親町天皇の遺した日記の残存したわずかなものが存在している。朝廷に属する人物の日記には珍しく、公的なものというよりは親王時代の日常生活を描いたものである。
また、この中には兄弟の曼殊院門跡覚恕法親王から書写した『足利義昭入洛記』が存在する。他にも正親町天皇が控えた織田信長への口宣案など武家政権と関わる史料も多数見られる。正親町天皇は朝議の復興のため、自ら筆を動かしたのであった。
関連項目
- 戦国時代の人物の一覧
- 後奈良天皇
- 覚恕
- 誠仁親王
- 後陽成天皇
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