花吹雪とは、太宰治の短編小説である。1944年8月20日に発表された。
黄村(おうそん)先生シリーズの第二弾。
作者の逝去から70年が経って著作権が消滅しているので、青空文庫やAmazon・Kindle版にて無料で読むことができる。
あらすじ
太宰治は久しぶりに黄村先生の家を訪れたのだが、そのとき黄村先生は4人の大学生を相手に気炎を上げていた。話の内容が面白いので、太宰は手帳を取りだし、速記者となって黄村先生の論説をメモしていった。
黄村先生によると、世の中の男子の真価は武術にあり、強くなくてはならぬという。
体が弱く、武術なんてからっきし駄目な太宰治の心には、黄村先生の教えが身にしみた。
宮本武蔵の独行道を読んで、その立派さに感嘆する太宰。宮本武蔵に比べて太宰はというと
一、世々の道は知らぬ。教えられても、へんにてれて、実行せぬ。
二、よろずに依怙の心あり。生意気な若い詩人たちを毛嫌いする事はなはだし。内気な、勉強家の2~3の学生に対してだけは、にこにこする。
三、身の安楽ばかりを考える。一家中において、子供よりも早く寝て、そうして誰よりもおそく起きる事がある。女房が病気をすると怒る。早くなおらないと承知しないぞ、と脅迫めいた事を口走る。女房に寝込まれると亭主の雑事が多くなる故なり。思索にふけると称して、毛布にくるまって横たわり、いびきをかいている事あり。
といった調子である。ああ、なんと情けないことか。
嘆息していると、黄村先生から手紙がやってきた。候文(そうろうぶん。江戸時代の武士が用いた文体)の読みにくい文章を頑張って読んでみると、なんと黄村先生は大学生たちや太宰に言ったことを実践しようと弓の道場に通い、そして酒場で不遜な態度を示してきた杉田という無頼漢に喧嘩を挑んだというではないか。果たしてその結末は・・・
本作品に現れる太宰治の恋愛観
本作品には太宰治の恋愛嗜好を示す文章があり、太宰治研究のための重要な資料となっている。
女は、うぶ。この他には何も要らない。田舎でよく見かける風景だが、麦畑で若いお百姓が、サトやああい、と呼ぶと、はるか向うでそのお里さんが、はああい、と実になんともうれしそうな恥ずかしそうな返事をするね。あれだ。あれだよ。あれでいいのだ。諸君が、もし恋愛小説を書くんだったら、あのような健康な恋愛をこそ書くべきですね。男と女が、コオヒイと称する豆の煮出汁に砂糖をぶち込んだものやら、オレンジなんとかいう黄色い水に蜜柑の皮の切端を浮べた薄汚いものを、やたらにがぶがぶ飲んで、かわり番こに、お小用(トイレ)に立つなんて、そんな恋愛の場面はすべて浅墓(あさはか)というべきです。
先日、私は近所の高砂館へ行って久し振りに活動を見て来たが、なんとかいう旧劇にちょっといい場面が一つありました。若侍が剣術の道具を肩にかついで道場から帰る途中、夕立になって、或る家の軒先に雨宿りするのですが、その家には十六、七の娘さんがいてね、その若侍に傘をお貸ししようかどうしようかと玄関の内で傘を抱いたままうろうろしているのですね。あれは実に可愛かった。私はあの若侍を嫉妬しました。女は、あのようでなければいけない。若い男のお客さんにお茶を差出す時なんか、緊張のあまり、君たちの言葉を遣(つか)えば、つまり、意識過剰という奴をやらかして、お茶碗をひっくり返したりする実に可愛い娘さんがいるものだが、あんなのが、まあ女性の手本と言ってよい。
豆知識
黄村先生のお喋りパート
本作品の題名となっている花吹雪というのは、平安時代後期の武将である源義家が由来である。
1083年、源義家は京都からはるばる東北地方にやってきて、そこで東北地方の豪族と戦い、勝利した。戦った後に、勿来の関(「なこそ」と読む。ここから北の人は来るな、という意味)を通りがかり、そこで桜の花吹雪を浴びながら「吹く風を なこその関と 思へども 道もせにちる 山桜かな」(「来る勿(なか)れ」という名の勿来の関なのだから、吹く風も来ないでくれと思うのだが、道を塞ぐほどに山桜の花が散っているよ)という和歌を詠んだ。
源義家は後々の源氏の始祖となったので、日本の武士の象徴とも言える存在である。その源義家が花吹雪を和歌にして詠んだのだから「花吹雪=日本の武士」というものが一種の共通認識となった。
黄村先生の住居は阿佐ヶ谷にあるという設定である。ちなみに太宰治の自宅は三鷹にある。阿佐ヶ谷~三鷹の一帯には文学者たちが集まって住んでおり、「阿佐ヶ谷文士村」と呼ばれた。この中に、井伏鱒二や太宰治も所属していることになる。
活動とは「活動写真」の略で、映画のこと。
旧劇とは、能や狂言や歌舞伎といった日本古来の演劇のこと。これの対義語は新劇で、新劇とは明治時代以降に導入された西洋風の演劇のことを示す。
新体詩とは、西洋の形式を取り入れた詩のこと。明治時代以降に形作られていき、昭和時代の頃には「詩」といえば新体詩のことを指すようになった。明治時代以前の「詩」といえば、もっぱら漢詩のことを指していた。
太宰治の懺悔パート
「本郷三丁目の角で、酔っぱらった大学生に喧嘩を売られて・・・」とある。この大学生はおそらく東京大学の学生であろう。ちなみに太宰治は、東京都文京区本郷七丁目に位置している東京大学の文学部フランス語学科に無試験で入学し、成績不振で中退している。
森鴎外の日記に「赤坂の八百勘へ行った」という記述がある。明治時代の赤坂は芸者を抱える料理店が集まる繁華街で、近くに国会や官庁街があったことから政治家や官僚の利用客も多かった。そのなかの1つが「八百勘」で、江戸時代以来の伝統をもっており、八百屋勘右衛門の名前を代々受け継ぐ名物店だった。(資料)
于武陵(うぶりょう)という人が唐の時代に詠んだ「勧酒」という漢詩がある。「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」という文章なのだが、これを太宰治の先輩である井伏鱒二が「このさかづきをうけてくれ どうぞなみなみつがしておくれ はなにあらしのたとへもあるぞ さよならだけが人生だ」と翻訳した。太宰はこの翻訳を口ずさんで酔い泣きしたのである。
濁酒とは白く濁った酒のことで、どぶろくなどのこと。濁酒の反対語は清酒で、澄み通った液体の酒。現在では日本酒というと清酒のことを指す。清酒に比べて濁酒は漉(こ)す工程を省いており、その気になれば一般家庭でも作れてしまうので、「庶民的」「安上がり」というイメージがつきまといやすい。(資料1、資料2)
「恥ずかしながらわが敵は、厨房に在り」とある。厨房とは台所のことで、要するに、奥さんのことである。
伊呂波歌留多は、いろはカルタのこと。全国で色んなバージョンがある。Wikipedia記事には「ひ=貧乏暇なし」などが紹介されている。
黄村先生の手紙パート
森鴎外の墓がある禅林寺はこの場所にある。本作品に書かれたとおり、太宰治もこの寺に葬られることになった。
黄村先生が弓の道場に行って弓の訓練をしたとき、「南無八幡」と言っている。これは、「八幡神(武家の守護神。後世には八幡大菩薩とも呼ばれた)を信じます」という意味。源平合戦の屋島の戦いにて、弓の名手の那須与一が扇を射るときに「南無八幡大菩薩、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ」と言ったという。この故事にちなんでいる。
黄村先生が入った屋台は阿佐ヶ谷の省線踏切のそばにある。省線とは、省線電車のことで、日本国政府の鉄道省が運営した鉄道のこと。1949年に日本国有鉄道(国鉄)となり、1987年に民営化されてJRになった。
黄村先生に屋台で絡んできた無頼漢の杉田は身の丈六尺という。身長181センチメートルという意味。
赤き襟飾(えりかざり)とは、赤いネクタイのこと。
隣組とは1940年9月に始まった政府主導の町内会組織のこと。黄村先生はこの隣組の要注意リストに入ってしまっている。
隣組において日々に割り当てられた債券とは、特別報国債券のことで、1940年から日中戦争・太平洋戦争の戦費調達のため発行された。これを半強制的に購入させて、庶民の貯金を軍事費の足しにした。
八幡宮とは、この場所にある三鷹八幡大神社 のこと。戦時中は毎月八日に武運長久の祈りが捧げられた。
瓦鶏とは、瓦で作った鶏。形だけで役に立たないもののたとえ。
源平合戦の宇治川の戦いにて、佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをしていた。高綱は「老婆心ながら忠告する。馬の腹帯が緩んでいる。絞めたほうがいい」と言ったら、景季はそれを真に受けて絞め直した。そのすきに、高綱が先陣を切った。黄村先生はこの故事を例にして、杉田に向かって「老婆心とは卑劣な人間の姑息な手段である」と言った。
呉下の阿蒙とは、いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉。三国志の呂蒙に由来する。
1939年1月8日に太宰治は石原美知子と結婚した。美知子夫人は、太宰の歯が虫歯だらけの味噌っ歯であるから、入れ歯にすることを勧めた。この勧めに従い、1941年頃までに太宰は総入れ歯にした。黄村先生が入れ歯の苦労を語っているが、これはすべて太宰の実体験から来ている。
黄村先生の入れ歯は300円かかったという。このサイトによると、1940年の300円は2017年における338,600円に相当する。
関連作品
本作品は黄村先生シリーズの1つである。黄村先生シリーズは『黄村先生言行録』『花吹雪』『不審庵』の3作品から成る。『黄村先生言行録』の冒頭で「はじめに、黄村先生が山椒魚に凝って大損をした話をお知らせしましょう」と書いてあるので、黄村を「おうそん」と読むのが通例となっている。
太宰治とともに井の頭恩賜公園の水族館を訪れた黄村先生は、オオサンショウウオを見つけて興奮する。しばらくたって、太宰は山梨県の湯村温泉に行った。すぐ近くの塩澤寺で厄除け地蔵のお祭りが開かれていたのでそこに顔を出すと、なんと流浪の芸人がオオサンショウウオを見せ物としているではないか。太宰はすぐに黄村先生へ向けて電報を打つと、黄村先生は大金を持ってすっ飛んできた。黄村先生は、芸人に向かって「オオサンショウウオを売ってくれ」と頼むのだが・・・
- 不審庵 (青空文庫、Amazon・Kindle版で無料公開)
「茶道を始めた、茶会を開くから来い」という手紙を太宰治に送ってよこした黄村先生。太宰は、失礼があってはならぬとばかりに茶道の本を読みふけり、行儀作法をすべてマスターしてから黄村先生の家におもむいた。
関連リンク
関連項目
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