角川源義(かどかわ げんよし)とは、出版人、国文学者、俳人でもあり角川書店(現:KADOKAWA Future Publishng)の創業者であり初代代表取締役社長である。
概要
1917年生まれ、1975年没。富山県出身で、実家は地主の家系であり鮮魚商を営んでいたが米穀商に転換する家に三男として生まれる。幼い頃から俳句に親しむほか、中学を卒業する頃には文学に熱中しており予備校通いのための浪人による京都滞在を経て上京し、國學院大学予科に入学した。柳田邦夫や折口信夫に師事するが、太平洋戦争勃発により、臨時徴兵制度により大学を繰り上げ卒業となってしまう。大学生活は充実したものだったのか、折口の短歌会に入会するなど、文学者との知己を得る。
戦後1945年11月に出版社『角川書店』を設立する。雑誌『表現』を創刊ののち、出版レーベル『角川文庫』を創刊した。岩波文庫と新潮文庫で市場は占有されていたが開拓に成功し大成功を納める。角川文庫の巻末にある角川源義の署名のある創刊の辞はあまりにも有名であり、現在の角川文庫と支レーベルの角川スニーカー文庫などの巻末にも掲載されている他KADOKAWA公式サイトにも公開されている。
また1952年に雑誌『俳句』、1954年に雑誌『短歌』を創刊し1955年には角川俳句賞、角川短歌賞を創立しその後にも賞を設立するなど俳句短歌文化の発展に尽くしている。
1952年に刊行した昭和文学全集シリーズが大ヒットし中堅出版社として評価を固めた。
経営者としては角川天皇と呼ばれるほどワンマンであり国文学、文学作品や俳句短歌以外の出版物はほとんど認めなかったとされ、漫画も拒否していたという。信賞必罰とされ、春樹は自身が企画した出版物が大ヒットした場合は昇進するなど取り立てられたが、失敗した場合は即降格させられたという。
角川書店の経営理念として俳人・松尾芭蕉の俳句理念の『不易流行』を据え、現在まで経営理念は削除されず引き継がれている。
出版人・国文学者として、作家や書店経営者との交流は深く、特に紀伊国屋書店の社長の松原治とは家族ぐるみの付き合いで、源義没後にの勃発した角川お家騒動においての角川書店の支援や角川春樹(角川春樹事務所)・角川歴彦(メディアワークス)への支援に繋がっている。
没後
源義の没後、長男の春樹は横溝正史のミステリー作品を元にした映画メディアミックスが大成功し、大衆文学と映画メディアミックス路線に突き進み、次男の歴彦はザ・テレビジョンや東京ウォーカー等クロスメディア系情報誌やTRPGを紹介し、ライトノベルの開発に進んで行くことになる。
なお現在のKADOKAWAにも角川源義が創業した当時の角川書店の部分は残されており、ワンカンパニー化する前のかつての角川学芸出版が刊行していた俳句短歌の刊行や角川ソフィア文庫の形で残されている。
角川家が住んでいた家と庭は杉並区に寄贈され角川庭園として2009年より開設されている。また、角川文化振興財団が運営し、KADOKAWAのところざわキャンパスがある、ところざわサクラタウンの『角川武蔵野ミュージアム』では角川源義の住んでいた家の庭の風景を模した『源義庭園』が開設されている。
私生活、出版
社業以外でも国文学の研究、俳句短歌への探求は進めており、投句するなど俳句同人活動は続けていた。俳誌『河』の主催を没前まで務めている。1961年には國學院大学より博士号の学院を授与される(論文博士)。
また俳句研究や批評などいくらか著書が出版されており、一部は角川ソフィア文庫にて2015年に復刊されている。
角川源義の私生活は人生で二人の妻を迎え、離婚した前妻の間に長女の角川真弓(作家の辺見じゅん)、長男の角川春樹、次男の角川歴彦を儲けている。後妻で俳人の照子との間にも一男一女を儲けているが成人前に没している。しかし、源義は癇癪持ちでありつつ、女性関係では奔放であったとされ、複数の愛人を抱え私生児(非摘出子・未認知)もいたといい家庭を省みない父の行動を長男の春樹からは反発されていたという。
創作物での登場人物として
没後、角川書店から刊行された作家・博物学者の荒俣宏による小説シリーズ『帝都物語』や井沢元彦の小説『GEN-源氏物語』において作中の登場人物として登場する。
関連動画
関連リンク
関連項目
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