順徳天皇(1197~1242、在位:1210~1221)とは、日本の第84代天皇である。諱は守成。
概要
生母・修明門院重子が後鳥羽天皇の寵愛が深かったことから、兄の土御門天皇が即位した翌々年には皇太弟となり、1210年には父の意向で天皇に即位する。父譲りの才気煥発な人物であり、性格も父と同様に激しい気性の持ち主だったと言われる。
しかし、政治の実権は父・後鳥羽院が握っていたため、彼の才能はむしろ和歌や有職故実で発揮された。10代の頃から歌壇の中心人物に名を連ね、和歌を藤原定家から師事を受けた。歌論書「八雲御抄」をまとめた他、有職故実の研究書「禁秘抄」を著し、鎌倉幕府に対して朝廷・宮中の文化の優位性を示そうとした。
順徳天皇は父・後鳥羽院と共に倒幕を計画し、1221年に突如、皇太子でわずか4歳の懐成親王(仲恭天皇)に譲位する。上皇という天皇より自由な立場で、鎌倉幕府を追討するためである。しかし、この承久の乱は朝廷の敗北に終わり、順徳院は佐渡に流された。現地でも「八雲御抄」の著作を続けた彼だが、我が子・九条廃帝(仲恭天皇)や父・後鳥羽院の死によって次第に気力を失い、流罪になってから21年後に崩御した。京に戻る望みを失って、食を絶ち餓死したとも、頭に焼いた石を乗せて壮絶な最期を遂げたとも言われている。
百人一首では、ラストの100番に彼の歌が載せられている。「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」と歌ったこの歌詞は、宮中の屋根にもシノブの草が生え、宮中はおろか朝廷そのものが古くさびれている有様を嘆いた内容となっている。彼の苛烈な性格とは対照的に、昔を懐かしむ言葉が並び、今ひとつ覇気が感じられない。承久の乱の5年前に詠んだ歌であるが、この時点で負けフラグが立っていると思ってしまうのは編集者だけだろうか?それはともかく、後鳥羽院と同じく彼の和歌は「新勅撰和歌集」では幕府をはばかって選ばれず、百人一首が初出かつ「続後撰和歌集」に載せられている。百人一首の冒頭が、天皇中心の政治を形作った天智天皇・持統天皇の和歌に始まり、朝廷の衰退と没落をしのぶ後鳥羽院と順徳院の和歌で百人一首が締めくくる構成も、定家が意図したものだと考えられている。
関連項目
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