PQ17船団とは、第二次世界大戦中の1942年7月4日に出発した連合軍の援ソ船団である。ドイツ軍の猛攻で23隻が物資ともども沈没し、連合軍のトラウマとなった。
概要
第二次世界大戦真っ只中の1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を発動して独ソ戦が勃発。攻め込まれる形となったソ連軍は大粛清の影響や準備不足によって連戦連敗し、領土の奥深くにまで侵攻を許した。イギリスやアメリカはソ連に対し無条件の援助を約束。陸路はドイツ軍によって封鎖されているため輸送路は専ら海路のみに限定され、アメリカ軍が進駐しているアイスランドから北極海を通ってソ連領のムルマンスク及びアルハンゲリスクへ入港する航路が定められた。締結された協定ではソ連の船がイギリスやアメリカの港まで物資を取りに行く事になっていたのだが、ソ連船舶の少なさからやむなく米英の船が投入されている。
イギリス方面から出発した往路の船団はPQ、復路の船団はQPと名付けられ、バルバロッサ作戦開始から2ヵ月後の8月より運航が始まった。レイキャビクやイギリスから出港した援ソ船団は北極海を通ってソ連の港に武器や弾薬を降ろし、代金代わりの金塊を米英の港に持ち帰った。船団の出発間隔は40日であったが、スターリンの強い要求により10日(実際は約15日)間隔に短縮。当初ドイツ軍は援ソ船団に無警戒であり、冬特有の長い闇夜の恩恵も受けられたため1942年春までに103隻が通過。失われた船舶はたった1隻のみと順調な滑り出しを見せる。とはいえドイツ軍の襲撃が少なくても道中は過酷なものだった。航路の北極海は常に暴風が吹き荒れ、波は20mを超し、海水のしぶきはすぐに凍って大砲やデッキを厚い氷で覆った。さらに夏場は白夜となり、一日中太陽が落ちない日が出てくる。これは襲撃者側のドイツにとって大変有利な要素であった。
そしてついに連合軍が恐れていた事が現実味を帯び始めた。1941年12月27日にイギリスのコマンド部隊がボクセイ島を奇襲した事で悪い意味でドイツ軍を刺激してしまう。総統大本営で行われた48時間の会議の結果、ヒトラー総統はイギリス軍のノルウェー来襲を警戒し、同方面に戦力を集中させ始めたのである。戦艦ティルピッツ、重巡アドミラル・ヒッパー、アドミラル・シェーアといった有力艦がノルウェーに進出し、バレンツ海とムルマンスクの航路には常時3隻のUボートが遊弋するようになるなど北極海の航路は急激に危険度が増した。連合軍は護衛戦力の拡充で対抗しようとしたが、航続距離の関係から駆逐艦や巡洋艦程度の護衛しか置けず、また制空権は完全にドイツ軍が握っていたためにイギリス海軍は虎の子の空母を出せず防空任務すら出来なかった。春を迎えると船団を覆い隠してくれていた闇夜が期待できなくなり、白熊の記章をつけたUボート北洋戦隊の動きが活発化。それでも船団には不思議な加護が付与されているかのように被害は出ず、1942年3月にドイツ海軍と空軍が大規模攻勢を仕掛けた時でさえ決定的なダメージは無かった。故にドイツ側は攻撃したPQ23船団計20隻のうち、5隻を撃沈できた事は大きな戦果だと喧伝せざるを得なかった。だがイギリス軍はこの損害を不吉の前兆と捉え、実際それは当たっていた。次のPQ24船団とQP10船団もまた5隻の犠牲を出し、軽巡洋艦エジンバラを失った。加えてドイツ軍が繰り出す水上艦、Uボート、航空機の連携が回を重ねるごとに緊密になっていて、英海軍省は「ノルウェー北部の飛行場がドイツ軍に使用されている限り、船団の派遣はやめるべき」と強く要請したが、ソ連を援護する政治的考慮が強かったために取りやめられる事は無かった。遅かれ早かれ、いずれ身の毛がよだつ大損害が出るだろうと薄々感じながら…。
相変わらずドイツ軍の攻撃は続いたが思うように戦果が振るわず、辛酸を嘗めさせられたデーニッツ提督は敵の護衛艦艇の敢闘を称えた。5月27日にPQ16船団へ108機の独爆撃機が攻撃するも、戦果は6隻撃沈のみに留まった。少ない損害が続いたので英海軍省でも安堵の声が聞こえるようになった。
しかし、その後には悲劇の極致と言えるPQ17船団が待っていた。
悲劇の船団
1942年6月27日、PQ17船団がアイスランドのハヴァルフィヨルドを出港。船団は36隻の商船、3隻の救難船、2隻の給油艦で構成されていて、総指揮はジョン・ダウディング提督が執っていた。積み荷はソ連向けの各種航空機297機、戦車594輌、車両4246両、軍需物資など計15万6492トン。今までムルマンスクが主な受け入れ港だったが、ドイツ空軍の爆撃により港湾施設が破壊されたため、より遠いアルハンゲリスクまで行かなければならなくなった。季節は夏だったため氷原が北方に移動し、夏場限定の航路が姿を現す。PQ17船団はそこを通って、遠きアルハンゲリスクを目指すのである。しかしPQ17船団の出港はドイツ軍のスパイによって把握されており、直ちにノルウェー方面のドイツ軍に通報された。
翌28日、米輸送船リチャード・ブラントが暗礁に触れて損傷し船団から離脱。駆逐艦エクスフォードもまた流氷に触れて損傷、港へ引き返した。ドイツ軍はノルウェーを基地としているので、なるべく北方寄りの航路を選択したがこれが災いして濃霧に遭遇。2隻の商船が浮氷に衝突、アイスランドのレイキャビクに引き返した。デンマーク海峡を通過する時に悪天候と流氷に遭遇してしまい、更に2隻が損傷して脱落。またPQ17船団はU-456に発見され、継続的な追跡を受けるように。護衛を担当するのはイギリス海軍のルイス・ハミルトン少将率いる部隊で、6月30日に駆逐艦6隻、コルベット4隻、潜水艦2隻、防空艦2隻が合流した。小型艦艇が多く占めているのは、「アイスランド近海までドイツ軍がやって来る事は無い」というイギリス海軍の油断からであった。船団はジグザグ航行をしてUボートに備える。
7月1日、ドイツ空軍機とUボートがPQ17船団を捕捉。いよいよ船団は包囲下に置かれる事となった。同日中にアイスランドから後詰めの巡洋艦部隊が出港し、PQ17船団の背中を負った。しかしドイツ軍が支配する東経25度以東には侵入しないという制約がついており、形だけの護衛部隊であった。7月2日、帰路についていた帰路のQP13船団とすれ違う。この日の夕方18時、船団は初めてドイツ軍の襲撃を受ける。9機のHe115水上機から雷撃されるも練度の低さから命中には至らず、対空砲火で逆に1機を撃墜して追い払った。7月3日にPQ17船団はベア島北方56kmを通過したが、これに呼応するかのようにドイツ海軍も動き始めていた。同日、ドイツ海軍は船団を迎撃するためのレッセルシュプルンク作戦を発動。トロンヘイムとナルヴィクから戦艦ティルピッツ、重巡アドミラル・ピッパー、リュッツォウ、アドミラル・シェーアなど有力艦が一斉に移動を開始し、アルタ・フィヨルドに集結。攻撃命令を今か今かと待っていた。午後、イギリス軍は偵察によってティルピッツの移動を悟った。
7月4日、アメリカの商船が真新しい星条旗を掲げて独立記念日を祝った。だが、この日は悪夢の日に転じてしまうのだった。早朝、ベア島北方で再びHe115水上機が襲撃を仕掛けてきた。対空砲火で2機を撃墜したが、米リバティ船クリストファー・ニューポートが被雷して航行不能となり、午前8時8分にU-457が放った魚雷により沈没。これがPQ17船団最初の犠牲者で、恐怖の始まりだった。夕刻には6機の独爆撃機が現れたが攻撃は不成功に終わった。
恐怖の幕開け
7月4日20時20分、25機のドイツ軍雷撃機がPQ17船団を襲撃。対空砲火で4機を撃墜したが、2隻撃沈と1隻大破の損害を負った。とはいえ既に全行程の7割を終え、犠牲は3隻のみだったので船員の間には楽観ムードが漂い始めていた。
21時11分、英海軍省から「巡洋艦部隊は西方へ退避せよ」という背筋が凍るような電報が届いた。これはノルウェーからドイツ海軍が誇るリヴァイアサン――戦艦ティルピッツが出撃した事を意味していた。ティルピッツの影に怯えるイギリス海軍は損害を避けるために巡洋艦部隊を引き下げたのである。続く21時23分には「船団はドイツ水上部隊の襲撃に備え、分散してソ連の港へ向かえ」という電報が届き、13分後にも分散を改めて強調する命令が届いた。分散命令に伴って護衛部隊は引き上げてしまい、PQ17船団の無力な商船たちは各々単独で暗闇の中で彷徨う羽目になってしまった。
商船によっては北上したり、東進してノバヤゼムジャ島を目指したり、そのまま南東へ直進してアルハングリスクに向かったりして思い思いの針路を取った。ばらばらになった商船はまさに空軍機とUボートの格好の獲物で、度重なる襲撃で多くの船が犠牲となった。「多数の飛行機に襲われている」「氷の中で燃えている」「船を放棄する」「6隻のUボートに追跡されている」といった悲鳴のような通信が相次いで飛び込んできたという。ドイツ空軍は200回以上に及ぶ出撃を行い、わずか5機の喪失で大戦果を収めた。34隻いた船舶のうち23隻(旗艦含む)が撃沈され、戦車430輌、航空機210機、車両3350両、物資10万トンがソ連に届かなかった。これは戦車一個軍に相当する。幸運にも生き残った11隻の輸送船はムルマンスクやアルハンゲリスクへ入港し、物資を降ろした。船団が分散していたので戦果や損害が確認されるまでに2週間の時間を要した。
ちなみにティルピッツら水上艦艇は攻撃命令の発令が遅れに遅れ、出撃した時には既に時機を逸していた。さらにリュッツォウが暗礁に乗り上げて中破するなど被害が出ている。
その後
PQ17船団の壊滅は連合軍の大敗だった。ウィストン・チャーチル英首相は「戦争全体の中で最も憂鬱な海軍のエピソードの一つ」と語り、アメリカ海軍のダン・ギャラリー提督は「海軍史における恥ずべきページ」と落胆。ソ連政府は1回の運航でこれだけの大損害が出るとは信じられず、米英が嘘をついていると非難。ソビエトと連合国の関係悪化に繋がった。物資を渇望していたスターリンは激怒し、米英に強硬な抗議を行った。
またこの惨敗は連合軍のトラウマになったようで、次のPQ18船団が出発したのは9月2日と大きくズレこんだ。PQ18船団はガチガチに防備が固められた上に護衛空母アヴェンジャーが参加して防空能力を付与。襲撃してきたドイツ軍機40機以上とUボート3隻をやっつけたが、船団側も12隻の船舶と1隻の給油艦を失う大損害を受けた。これを機に援ソ船団の名前をPQからJWに変更。
この時の遺恨は戦後まで続いていて、船団壊滅についてアメリカとソ連の双方が非難し合った。1968年にはティルピッツに怯えて護衛戦力を引き下げたイギリス海軍のブルーム中佐(当時)を中傷する本が出版され、怒ったブルームが名誉棄損で訴訟を起こして4万ポンドの損害賠償金を得た。
関連項目
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