趙匡胤 単語

2件

チョウキョウイン

3.1千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

趙匡胤(ちょうきょういん)は中国歴史上の人物。五代十国時代の争乱をおさめて天下統一前に亡くなったものの、宋王朝太祖皇帝として、その基礎を築いた。生年927~976年。在位期間960~976年。

出自

唐に仕えた高祖以来、代々軍人や官吏を輩出した柄の出身である。殷の頃には唐は滅亡して、五代十国戦国時代に突入しており、勇猛な武人であった殷は後唐、後周といった五代王に仕えて重用されていた。殷の次男(長男折)として927年に趙匡胤は生まれる。

後周に仕える

趙匡胤はに似てすぐれた勇者だったが、若い頃は仕官せずに各地を遊覧してまわっていたという。ある時に「北に行けば良い事がある」という怪しい僧侶の言葉を聞き、後漢光武帝が建てたとは別)というに赴いて有者の威に仕えた。やがて威は後漢乗っ取り後周を建する。威の後は甥の栄が継いだ。この栄は世宗と呼ばれ、五代十国で随一の名君とされる人物である。

趙匡胤は威と栄に付き従って軍功をあげていき、頭をあらわしていく。後周は中原を押さえ、河北地帯を支配する大となり、まだ若い栄の導で天下統一の機運が高まっていく。趙匡胤も30才前半の若さ殿前都点検(近総司令官)となり、軍の巨頭としての地位を固めていた。

陳橋の変

だが、栄は征の最中に病に斃れてしまう。栄の息子宗訓はまだ7才と幼く、皇帝として即位するものの、将軍たちの反応は冷めていた。北の大軍が攻めてきたという情報をうけて、趙匡胤は迎撃のため陳へと駐屯したが、そこでクーデター?が起きてしまう。

趙匡胤は将軍たちに「幼では理です。是非とも皇帝となってください」と迫られ、袍(非売品)まで着させられて皇帝にさせられてしまった。最初は渋っていた趙匡胤であったが、彼らに「今後は私の言うことに従ってもらう。違えたら一族皆殺しにするぞ」と条件をつけて了承する。

これが「陳の変」のあらましであるが、あまりにもワザとらしいので、実は関係者たちがグルであったという説が濃厚である。首都の開封へ進撃した趙匡胤は、宗訓から譲をうけて正式に皇帝となる。趙匡胤は手荒い事はするなと固く言い含めていたので、ほぼ血で易姓革命を成功させた。

960年に宋王朝が建皇帝となった趙匡胤は、内の整備と周辺諸定に乗り出す。

開国

趙匡胤が開いた宋王朝は文治を旨としていた。ブレーンとして趙匡胤が下級役人から見出した宰相の普が大きく関わっていたとされる。

唐以来、巨大なを持ち、を大きく動かしてきたのは節度使の存在である。彼らは固有の兵を持つ実者であり、趙匡胤自身も節度使であった。趙匡胤は新時代に節度使は不要と考え、かつての同僚の節度使たちを宴に招いて「年金をやるから軍権を返してくれないか」と丁寧に言い聞かせので、節度使たちもこれに従った。

それまで貴族階級の横があって、実効が伴わなかった科挙(役人の登用試験)の制度を大きく善した。基本的に科挙に合格するがないと、政治に携わる事は許されない実義が打ち出され。中国の王朝の中でも最も官僚機構が栄えた時代ともされる。官僚は貴族や驕兵とも違う皇帝ありきの存在であり。文武の実権は皇帝に束ねられる事となった。

趙匡胤は名君として内の安定と発展に尽くし、その治世は「建の治」と称えられた。や唐に並ぶ繁栄となり、300年の歴史を重ねる事となる。

群雄討伐~死

962~972年の戦役で荊南、後、南唐は滅ぼされて、越は臣従を誓った。残る敵対勢は北だけとなったが、問題は北バックであり、万里の長城を越えて「十六州」まで侵食してきているモンゴルの強の存在であった。976年に趙匡胤自らへの遠征を行うものの、中途の宿営中に突然死する。

好きの趙匡胤がなんらかの発病したとする見向きもあるが、趙匡胤の死に一立ち会った義の暗殺説も有である。実際、次の皇帝は成人している趙匡胤の息子ではなく義(太宗)が即位しており、義は甥たちを冷遇して皇統を自分の子孫に伝えている。あまりにも怪しいが確たる拠もないので「千載不決の議(千年たっても結論は出ない)」との言葉が生まれた。

かれる事が多い義であるがの補佐役として有能で、皇帝になってからも辣腕を発揮して、天下統一宋王朝完成に務めており、栄=信長。趙匡胤=秀吉義=家康になぞらえる説もある。

石刻遺訓

趙匡胤が代々の皇帝(と極一部の側近)にのみ閲覧を許した秘蔵の遺言。石碑に刻まれており、即位する皇帝はこれを見る習わしがあったという。

  1. 氏子孫有罪、不得加刑、犯謀逆,止中賜盡、不得曹刑戮、不得連坐支屬(後周の面倒を見ろ)。
  2. 不得殺士大夫、及上書言事人(言論によって士大夫を死刑にしてはならない)。
  3. 子孫有渝誓者、必殛之(これを守らないと天罰があたるぞ)。

子女

趙匡胤には3人の皇后(とおそらくは何人かの側室)と四男六女の10人の子供がいた。しかし2人の皇后には先立たれ、6人の子供折している。前述のように次代からの皇位は義が取って変わった形になったが、南の時代には趙匡胤の系統が皇位を多く占める事となった。

人物

歴代中国の創始者の中でも屈の穏健で、人格の暗さを見せる事はほとんどなく、有能な軍人であるにもかかわらず血の匂いを非常に嫌っていた。朱全忠栄といった革命児が先だった事もあって理をする必要はなかったが、武よりも文や徳を重んじた人間性は高く評価されている。攻め滅ぼしたへの残虐行為を許さず、粛清などは行なわなかったという。軍紀には非常に厳しく、逃げ兵士や略奪暴行をはたらく者には容赦しなかった。

としては模範的人格者であったが、個人としてはかなり血の気の多い性格で、若い頃はやんちゃで悍を乗りこなそうとしたり、暴れを退治しようとして他人のを壊したりしたという。顕となっても驕る事はなかったが、おびで出かけるという娯楽を邪魔された時には、皇帝である事をに着て聞くを持たなかった。
 
しかし、いところもあった。後周の通は趙匡胤と並ぶ将軍であり、軍の趙匡胤と陸軍通として兵権を二分される程であった。陳の変で通はただ一人趙匡胤の登極に反対し抵抗したので、王昇により家族まで皆殺しにされた。趙匡胤は激怒して以後は王昇を重く用いる事はなく、通を丁重に弔った。…はずなのだが、そもそも通を暗殺したのは趙匡胤の命ともいわれる。後日、趙匡胤はある寺を訪ねたところ、子の像が建立されていたのを見て撤去させてしまったという。
 
筋にあたる後周のには大変配慮しており、退位させた宗訓は大貴族として安穏と暮らせるように計らった。不幸にも栄の子供たちの多くはくして亡くなったが、系統は崇義として末まで存続している。水滸伝進も末裔のひとりという設定となっている。また、降した皇帝たちにも生命と地位を保しており、それまでは殺す事をデフォとしていた五代十国の慣例に倣う事はなかった。
  
にすぐれ並ぶものはない程の腕前だった。拳法の達人でもあり「太祖長拳」という流したとも、多節棍を考案したとも、若い頃は少林寺に出入りしていたという伝説まである。義侠の人でもあり、諸を放浪していた頃に、賊から助けた少女を故郷まで送り届けあげたという「太祖千里」という逸話が伝わる。

関連項目

関連商品

この記事を編集する

掲示板

  • 29 ななしのよっしん

    2024/05/20(月) 03:50:24 ID: BCzdqoXrL1

    ・最高権者なのに全然威らない
    ・どんなに気に入らない相手でも死刑にしないことを次代以降の皇帝にも厳命したというこの時代にありえない人権意識の高さ(しかも宋王朝の歴代皇帝はそれをちゃんと守った)
    ・あまりに人望が凄いので部下に強引に皇帝にさせられる
    皇帝しんどくてなるんじゃなかったと不機嫌になる
    ・軍人として有能であったが略奪や虐殺は大変に嫌っていた
    ・私生活ではお茶エピソード多め

    ラノベ主人公みたいな人
    ヤンウェンリーの人物像とかこの人がモデルだったりしない?

  • 👍
    2
    👎
    0
  • 30 ななしのよっしん

    2024/05/25(土) 22:34:16 ID: c96TJlNtTl

    >>29
    あと、この度量の広さを示すエピソードも好き


    臣下の普がとある人物を重要な役職に就けたいと思って趙匡胤に推挙する書類を提出したところ却下して、翌日になってまた同じ書類を提出したところ、これも却下。

    また翌日、普が同じ書類を三度提出したら大いに怒ってその書類を破り捨てた。

    普は顔色一つ変えずに破れた書類を拾い集めて、その書類を貼り合わせてまた同じものを提出した。
    これには趙匡胤も根負けして普の推挙した人物を登用した。
    (『続資治通鑑』)

  • 👍
    1
    👎
    0
  • 31 ななしのよっしん

    2024/05/28(火) 23:11:57 ID: BCzdqoXrL1

    >>30
    これが曹丕俊を処刑したのと対照的なお話ですね
    俊はも人格も高く評価された人物であったが、曹丕よりも曹植皇帝位に推していたため、皇帝になった曹丕の不を買い処刑された(曹丕の部下は額から血を流すほど頭を打ち付けて俊を擁護したがそれでも曹丕の決意は変わらなかった)

    逆に趙匡胤は気に入らなくても部下がそこまで言うならと折れた
    自分の感情より部下の説得を優先できる趙匡胤という人物の器がそれほどに大きかったという話ですね

    まあ皇帝の意思はの意思であるのだから最優先であるべきだという当時の価値観を鑑みれば曹丕のほうが正しいのかもしれないが…私は曹丕より趙匡胤トップに立ってほしいと考えますね

  • 👍
    2
    👎
    0

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/06/03(月) 12:00

ほめられた記事

最終更新:2024/06/03(月) 12:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP