趙匡胤(ちょうきょういん)は中国の歴史上の人物。五代十国時代の争乱をおさめて天下統一目前に亡くなったものの、宋王朝の太祖皇帝として、その基礎を築いた。生没年927~976年。在位期間960~976年。
唐に仕えた高祖父以来、代々軍人や官吏を輩出した家柄の出身である。父の趙弘殷の頃には唐は滅亡して、五代十国の戦国時代に突入しており、勇猛な武人であった趙弘殷は後唐、後周といった五代王朝に仕えて重用されていた。趙弘殷の次男(長男は夭折)として927年に趙匡胤は生まれる。
趙匡胤は父に似てすぐれた勇者だったが、若い頃は仕官せずに各地を遊覧してまわっていたという。ある時に「北に行けば良い事がある」という怪しい僧侶の言葉を聞き、後漢(光武帝が建てた国とは別)という国に赴いて有力者の郭威に仕えた。やがて郭威は後漢を乗っ取り後周を建国する。郭威の後は甥の柴栄が継いだ。この柴栄は世宗と呼ばれ、五代十国で随一の名君とされる人物である。
趙匡胤は郭威と柴栄に付き従って軍功をあげていき、頭角をあらわしていく。後周は中原を押さえ、河北地帯を支配する大国となり、まだ若い柴栄の主導で天下統一の機運が高まっていく。趙匡胤も30才前半の若さで殿前都点検(近衞軍総司令官)となり、軍の巨頭としての地位を固めていた。
だが、柴栄は親征の最中に病に斃れてしまう。柴栄の息子の柴宗訓はまだ7才と幼く、皇帝として即位するものの、将軍たちの反応は冷めていた。北漢の大軍が攻めてきたという偽情報をうけて、趙匡胤は迎撃のため陳橋へと駐屯したが、そこでクーデター?が起きてしまう。
趙匡胤は将軍たちに「幼帝では無理です。是非とも皇帝となってください」と迫られ、黄袍(非売品)まで着させられて皇帝にさせられてしまった。最初は渋っていた趙匡胤であったが、彼らに「今後は私の言うことに従ってもらう。違えたら一族皆殺しにするぞ」と条件をつけて了承する。
これが「陳橋の変」のあらましであるが、あまりにもワザとらしいので、実は関係者たちがグルであったという説が濃厚である。首都の開封へ進撃した趙匡胤は、柴宗訓から禅譲をうけて正式に皇帝となる。趙匡胤は手荒い事はするなと固く言い含めていたので、ほぼ無血で易姓革命を成功させた。
960年に宋王朝が建国。皇帝となった趙匡胤は、国内の整備と周辺諸国の平定に乗り出す。
趙匡胤が開いた宋王朝は文治を旨としていた。ブレーンとして趙匡胤が下級役人から見出した宰相の趙普が大きく関わっていたとされる。
唐以来、巨大な力を持ち、国を大きく動かしてきたのは節度使の存在である。彼らは固有の兵力を持つ実力者であり、趙匡胤自身も節度使であった。趙匡胤は新時代に節度使は不要と考え、かつての同僚の節度使たちを酒宴に招いて「年金をやるから軍権を返してくれないか」と丁寧に言い聞かせので、節度使たちもこれに従った。
それまで貴族階級の横槍があって、実効が伴わなかった科挙(役人の登用試験)の制度を大きく改善した。基本的に科挙に合格する能力がないと、政治に携わる事は許されない実力主義が打ち出され。宋は中国の王朝の中でも最も官僚機構が栄えた時代ともされる。官僚は貴族や驕兵とも違う皇帝ありきの存在であり。文武の実権は皇帝に束ねられる事となった。
趙匡胤は名君として国内の安定と発展に尽くし、その治世は「建隆の治」と称えられた。宋は漢や唐に並ぶ繁栄となり、300年の歴史を重ねる事となる。
962~972年の戦役で荊南、後蜀、南唐は滅ぼされて、呉越は臣従を誓った。残る敵対勢力は北漢だけとなったが、問題は北漢のバックであり、万里の長城を越えて「燕雲十六州」まで侵食してきているモンゴルの強国の遼の存在であった。976年に趙匡胤自ら遼への遠征を行うものの、中途の宿営中に突然死する。
酒好きの趙匡胤がなんらかの発病したとする見向きもあるが、趙匡胤の死に唯一立ち会った弟の趙匡義の暗殺説も有力である。実際、次の皇帝は成人している趙匡胤の息子ではなく趙匡義(太宗)が即位しており、趙匡義は甥たちを冷遇して皇統を自分の子孫に伝えている。あまりにも怪しいが確たる証拠もないので「千載不決の議(千年たっても結論は出ない)」との言葉が生まれた。
叩かれる事が多い趙匡義であるが兄の補佐役として有能で、皇帝になってからも辣腕を発揮して、天下統一と宋王朝完成に務めており、柴栄=信長。趙匡胤=秀吉。趙匡義=家康になぞらえる説もある。
趙匡胤が代々の皇帝(と極一部の側近)にのみ閲覧を許した秘蔵の遺言。石碑に刻まれており、即位する皇帝はこれを見る習わしがあったという。
趙匡胤には3人の皇后(とおそらくは何人かの側室)と四男六女の10人の子供がいた。しかし2人の皇后には先立たれ、6人の子供も夭折している。前述のように次代からの皇位は弟の趙匡義が取って変わった形になったが、南宋の時代には趙匡胤の系統が皇位を多く占める事となった。
歴代中国王朝の創始者の中でも屈指の穏健派で、人格の暗さを見せる事はほとんどなく、有能な軍人であるにもかかわらず血の匂いを非常に嫌っていた。朱全忠や柴栄といった革命児が先だった事もあって無理をする必要はなかったが、武よりも文や徳を重んじた人間性は高く評価されている。攻め滅ぼした国への残虐行為を許さず、粛清などは行なわなかったという。軍紀には非常に厳しく、逃げる兵士や略奪暴行をはたらく者には容赦しなかった。
君主としては模範的人格者であったが、個人としてはかなり血の気の多い性格で、若い頃はやんちゃで悍馬を乗りこなそうとしたり、暴れ鳥を退治しようとして他人の家を壊したりしたという。貴顕となっても驕る事はなかったが、お忍びで出かけるという娯楽を邪魔された時には、皇帝である事を笠に着て聞く耳を持たなかった。
しかし、黒いところもあった。後周の韓通は趙匡胤と並ぶ将軍であり、水軍の趙匡胤と陸軍の韓通として兵権を二分される程であった。陳橋の変で韓通はただ一人趙匡胤の登極に反対し抵抗したので、王彦昇により家族まで皆殺しにされた。趙匡胤は激怒して以後は王彦昇を重く用いる事はなく、韓通を丁重に弔った。…はずなのだが、そもそも韓通を暗殺したのは趙匡胤の命令ともいわれる。後日、趙匡胤はある寺を訪ねたところ、韓通親子の像が建立されていたのを見て撤去させてしまったという。
主筋にあたる後周の柴家には大変配慮しており、退位させた柴宗訓は大貴族として安穏と暮らせるように計らった。不幸にも柴栄の子供たちの多くは早くして亡くなったが、系統は崇義公として宋末まで存続している。水滸伝の柴進も末裔のひとりという設定となっている。また、降した国の皇帝たちにも生命と地位を保証しており、それまで廃帝は殺す事をデフォとしていた五代十国の慣例に倣う事はなかった。
弓馬にすぐれ並ぶものはない程の腕前だった。拳法の達人でもあり「太祖長拳」という流派を興したとも、多節棍を考案したとも、若い頃は少林寺に出入りしていたという伝説まである。義侠の人でもあり、諸国を放浪していた頃に、賊から助けた少女を故郷まで送り届けあげたという「趙太祖千里送京娘」という逸話が伝わる。
掲示板
29 ななしのよっしん
2024/05/20(月) 03:50:24 ID: BCzdqoXrL1
・最高権力者なのに全然威張らない
・どんなに気に入らない相手でも死刑にしないことを次代以降の皇帝にも厳命したというこの時代にありえない人権意識の高さ(しかも宋王朝の歴代皇帝はそれをちゃんと守った)
・あまりに人望が凄いので部下に強引に皇帝にさせられる
・皇帝しんどくてなるんじゃなかったと不機嫌になる
・軍人として超有能であったが略奪や虐殺は大変に嫌っていた
・私生活ではお茶目エピソード多め
ラノベ主人公みたいな人
ヤンウェンリーの人物像とかこの人がモデルだったりしない?
30 ななしのよっしん
2024/05/25(土) 22:34:16 ID: c96TJlNtTl
>>29
あと、この度量の広さを示すエピソードも好き
臣下の趙普がとある人物を重要な役職に就けたいと思って趙匡胤に推挙する書類を提出したところ却下して、翌日になってまた同じ書類を提出したところ、これも却下。
また翌日、趙普が同じ書類を三度提出したら大いに怒ってその書類を破り捨てた。
趙普は顔色一つ変えずに破れた書類を拾い集めて、その書類を貼り合わせてまた同じものを提出した。
これには趙匡胤も根負けして趙普の推挙した人物を登用した。
(『続資治通鑑』)
31 ななしのよっしん
2024/05/28(火) 23:11:57 ID: BCzdqoXrL1
>>30
これが曹丕が楊俊を処刑したのと対照的なお話ですね
楊俊は能力も人格も高く評価された人物であったが、曹丕よりも曹植を皇帝位に推していたため、皇帝になった曹丕の不興を買い処刑された(曹丕の部下は額から血を流すほど頭を打ち付けて楊俊を擁護したがそれでも曹丕の決意は変わらなかった)
逆に趙匡胤は気に入らなくても部下がそこまで言うならと折れた
自分の感情より部下の説得を優先できる趙匡胤という人物の器がそれほどに大きかったという話ですね
まあ皇帝の意思は天の意思であるのだから最優先であるべきだという当時の価値観を鑑みれば曹丕のほうが正しいのかもしれないが…私は曹丕より趙匡胤にトップに立ってほしいと考えますね
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最終更新:2024/06/03(月) 12:00
最終更新:2024/06/03(月) 12:00
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