森中千香良(もりなか ちから)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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森中千香良 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県奈良市 |
生年月日 | 1939年10月20日 |
没年月日 | 2008年4月14日 |
身長 体重 |
175cm 74kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投両打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1958年 |
引退 | 1975年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
奈良商業高等学校に進学。同校ではエースとして活躍するも、甲子園大会には縁が無かった。
1958年、南海ホークスの入団テストを受験。制球力に難があったものの合格し入団。
入団からしばらくは選手としてではなく打撃投手として起用された。2年目の1959年、ウエスタン・リーグで防御率0.90という好成績を残し最優秀防御率のタイトルを獲得。
1960年、一軍で登板機会を得て、30試合で5勝5敗、防御率2.36という成績を残した。
1961年、先発投手陣の一角として起用されるようになり、11勝10敗、防御率3.02と活躍し、南海のパ・リーグ制覇に貢献。
1963年、初めて規定投球回に到達し、17勝8敗、防御率2.60、勝率.680で最高勝率のタイトルを獲得している。
その後はやや低迷し、1966年に開幕投手を務めたが5勝10敗と負け越してしまい、オフにトレードで放出されることが決定。争奪戦となったが、森中の希望が通り大洋ホエールズへの移籍が決まった。
大洋移籍初年度には開幕投手を任され18勝14敗、防御率2.96と好成績を残し、大洋投手陣を支え、翌1968年も開幕投手を任され8勝11敗、1969年には9勝9敗とまずまずの成績を残したが、1970年以降は失速。
1972年、東映フライヤーズへ移籍。初年度は金田留広に次ぐチーム2位の11勝を挙げたが、その後はパッとせず。1975年に大洋に復帰したが、ここでも今一つな成績に終わり、同年限りで現役を引退している。
引退後は主に解説者として活動。1996年から1997年には中日ドラゴンズの投手コーチを務めた。
体を目一杯使うダイナミックなフォームから力強いストレートと変化球のコンビネーションで打者を打ち取った右腕。晩年には技巧派に転向している。大洋時代には巨人キラーとして名を馳せた。
引退後に解説者を長く務めたが、ベンチリポーターを務めることが多く、解説席に座る際も雨天中止の予備カードや所謂裏送りと言われる中継での解説が中心という、スポットの当たりにくい放送を担当することが多かった。
口は悪いが茶目っ気があり、高齢になってからも若手の選手や関係者と友達感覚で話せる陽気にな人物であった。晩年には糖尿病を患いお酒が飲めない状態ながらも飲み会に参加し、烏龍茶を飲みながら座を盛り上げていたというエピソードも残っている。
通算:16年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 517 | 58 | 13 | 114 | 108 | --- | --- | .514 | 1947.0 | 560 | 1292 | 858 | 755 | 3.49 |
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最終更新:2024/05/02(木) 12:00
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