大レースでの好走を目の当たりにすれば、わかっていても期待してしまう。
そんなファン心理をあざ笑うかのように、一番人気の目黒記念でも、平気で最下位でゴール。まるで競馬新聞を読めるかのよう。そんなささやきが聞かれたのも無理はない。しかし、決めるときは決める。もちろん、人気薄でだが。
カブトシローとは、1962年生まれの競走馬。元祖「新聞の読める馬」の異名でも知られる。
主な勝ち鞍
1965年:カブトヤマ記念
1967年:天皇賞(秋)(八大競走)、有馬記念(八大競走)
八大競走のうち2つを制した文句なしの名馬でありながら、これほどエピソードの多い馬はそういないと言うくらい、色々やらかした迷馬でもあった。
父*オーロイ、母パレーカブト、母父イーストパレードという血統。父は「ニシノ」「セイウン」の冠号で有名な西山正行氏が輸入した種牡馬で、母も西山氏の所有馬である。西山氏は実は色々冠号を使い分けていた馬主で、その中に経営していた高級クラブの名前を取った「シロー」もある。
なお、本馬は青森県産馬である。西山氏は今でこそ自らの牧場である西山牧場が有名であるが、本馬が産まれた当時はまだ牧場を開く前(西山牧場の開場は1966年)で、パレーカブトも青森県の牧場に預託されていた。
生まれた時はあんまり見栄えが良くなかったカブトシロー。期待もまるでされていなかったが、新馬を3着とすると2戦目に勝ちあがっているのだから立派なものだ。
しかし、期待されていなかったからかカブトシローは走らされまくる。2歳一杯でなんと10走。見るからに「出走料だけでも稼いどこう」という感じである。3歳になっても1月2月で3走。3走目のすみれ賞では4コーナーでつまづいて落馬競走中止の憂き目にあっている。
そして問題のレースがやってきた。たちばな賞。50万下条件の何の変哲も無いこのレース。カブトシローは2馬身差で久々に勝利した。それだけなら何の問題も無かった。
ところが、このレースから半年以上経った9月、鞍上だった山岡忞(つとむ)騎手が逮捕されたというのである。なんとくだんのたちばな賞で八百長をおこなったというのだ。しかし、勝ち馬であるカブトシローの側が八百長に関与したというのは奇妙に思える。
相撲のような1対1の競技であれば勝つ側負ける側双方が事前に気脈を通じておくものだが、最低でも5頭以上で争われる上に馬という生き物を間に挟む競馬では、八百長といえば通常は負ける側だけが関与し「レースでわざと負ける」片八百長である。この場合、負ける側は勝つ側からではなく、外部の第三者から利益を供与される。もちろん買収側は負けるとわかっている馬を外してそれ以外の馬の馬券をしこたま買い漁るのである。このため、八百長が行われるレースでは、競馬新聞の予想印や出走馬の近走成績からは理解できないようなオッズが生まれることが多い。
山岡騎手の容疑は、「暴力団員と手を組んで同じレースに出走していたサンキュウプリンスの中沢一夫騎手を買収しようとし、それを渋ったとみるや監禁して暴行を加え脅迫した」というものであった。しかしながら、以下のような疑問も残る。
前述の通り、特定の馬1頭を買収したところで他の馬が思い通りに勝つかといえば、競馬ではそんなことはない。このレースでサンキュウプリンスが圧倒的な存在であったと言うならまだ話は通るが[1]、サンキュウプリンスは4番人気でしかなく、そのレベルの馬をわざと負けさせる意味があるのか、という疑問もある。
作家の寺山修司は「たちばな賞と同じ東京競馬場の芝1700mの特別戦で連続2着しているサンキュウプリンスがここで4番人気だったなのはおかしい」と後に書いているが、上位人気3頭はいずれも前走を勝ってここに出ているので、寺山が言うほどおかしくはないようにも思われる[2]。
このため、競馬界では「このレースのパトロールフィルムを見直しても、どこに八百長の疑いがあるのかさっぱりわからない」という意見もあった。
このような疑問の声がありつつも、最終的には山岡騎手自身が容疑を認め、刑事裁判で有罪判決を受ける。この結果山岡騎手と中沢騎手、そしてサンキュウプリンスの前走に騎乗していた関口薫騎手の3名がJRAから永久追放となってしまい、競馬界を揺るがす大事件となってしまった。
デビューから9戦連続で中沢騎手が鞍上だったサンキュウプリンスに関口騎手が乗ったのは前走の1度きりで、その前走はカブトシローの山岡騎手が落馬したすみれ賞、そしてこのたちばな賞には関口騎手はそもそも出ていないにも関わらず関与の事実が認定された、ということを考えると、この事件は相当念入りにかつ大掛かりに仕組まれたものであった、ともうかがえる。
ただ、山岡騎手はこの事件のあと、名字を変えて職を転々とした末に、最終的には西山氏の所有する西山牧場の分場の場長になっており、少なくとも西山氏は山岡騎手の潔白を信じていたことがうかがえる。
もちろん、馬であるカブトシローは、この事件のことなど何も知らない。しかし、このおかげでカブトシローには「あの事件の……」という暗い影が付きまとう事になる。
そのような人間の視線をよそに、カブトシローは次走も勝利し、2連勝を飾る。めでたくオープン入りして皐月賞とダービーに出走し、ダービーでは5着に健闘している。
その皐月賞とダービーの間にも2走しているし、ダービー以降も走ること走ること。3歳時は18回もレースに出ている。もっとも、カブトヤマ記念で重賞勝利し、3歳時までに5勝もしているのだからもっと評価されるべきだろう。
ところが、この頃から彼には、後々まで言われ続けるある傾向が出だすのだった。
それは「人気薄で好走。人気になると凡走」という馬券師泣かせの傾向である。
4歳のアメリカジョッキークラブカップ。彼は4番人気で2着に突っ込んだ。これが評価されて次の東京新聞杯では1番人気に支持される。しかしここを4着に負けやがるのである。おい。2番人気の目黒記念でも4着。ところが3番人気に人気を落とした次走の平場で勝っちゃうのだ。
9番人気の天皇賞(春)で3着に激走したかと思えば、1番人気のオープン戦で5着。かと思えば12番人気のオールカマーで3着。7番人気の有馬記念で2着。あんまり人気を裏切りまくるのでカブトシローは「馬房の中で競馬新聞を読んでやがるに違いない!」と噂されたのだった。
5歳になり、カブトシローは本格化。3・3・3・2・2・3・3着と好走する。この中には天皇賞(春)の2着が含まれている。
ところが、なぜかその天皇賞(春)の直後、西山氏はカブトシローを別の馬主に売り飛ばしてしまう。これには色々複雑な事情があったらしいのだが、西山氏は一応売る時に「売るのは良いけど、地方競馬で使ってね」と言ったらしい。ところが、なぜかカブトシローは以降も中央で走り続けるのである。ちなみに値段は当時としてはかなり高値の1000万円。参考までに当時の有馬記念の優勝賞金が1200万円。西山氏は内心「儲けた」と思っていたかもしれない。
ところが、カブトシローはこれ以降にその真価を発揮するのだった。いろんな意味で。
一番人気となったステイヤーズステークスを6着、目黒記念は最下位と大きく人気を裏切る。これでは買えんと続く天皇賞(秋)では8番人気だった。この年の秋の天皇賞は中山競馬場での開催だった。
ここをなんと内から鋭く伸びて勝っちゃうのである。まじっすか? ファンはあきれ果てたであろう。特に目黒記念で買ってたファンは。続く有馬記念。いいや、だまされん! もうだまされないよ! こいつは買うと来ないんだから! そう思ったファンが多かったか、直前の天皇賞勝ち馬が4番人気に留まってしまう。
もちろん、この馬は人気が無ければ勝つのである。しかも向こう正面で一気に行って、2着以下を6馬身後方に葬って圧勝した。ファンはやっぱりな。と思い、あ! でも分かっててもこれじゃあこいつの馬券永遠に買えないじゃん! と気が付いて愕然としたことだろう。そう、ファンの裏をかくからこそ「新聞を読む馬」なのである。
まさかの八大競走2連勝。売っちゃった西山氏は憮然。だから地方で走らせてくれと言ったのに……。新しい馬主は西山氏と顔を合わせないように逃げて歩いていたという。ちなみにその馬主、なんと1000万円を払いきる前に破産してしまい、西山氏に入ったお金は実際には500万円ほどだったという。踏んだり蹴ったりとはまさにこのことである。
年度代表馬こそ逃したものの、名実共に現役最強馬となったカブトシロー。だったはずなのだが、この後は重賞では凡走。オープン戦では勝つというパターンで5勝を上げたものの、大レースには勝てずに終わった。ちなみにこの当時、天皇賞は勝ち抜け制で二度と出られなかった。このため、6歳時には宝塚記念と有馬記念しか現代で言うところのGIレベルのレースには出ていない。
引退後は九州で種牡馬入り。北海道に比べて不利な九州から重賞勝ち馬を出すなど期待以上の活躍を見せた。アングロアラブの偽証登録疑惑(テンプラ)に巻き込まれ、アングロアラブの名馬スマノダイドウは本当はカブトシローが父なのではないかと疑われたりもしたが詳細は不明。1983年種牡馬引退。悠々自適の生活に入る……
……と、言いたいところだったのだが、なんと危うく殺処分にされかかる。これを知った寺山修司以下ファンが猛抗議してなんとかこれを免れ、功労馬として余生を送る事が出来た。1987年死亡。最後まで話題の絶えない一生であった。
通算、69戦14勝。なんというか、とんでもない出走回数である。昔の話だからと思う無かれ。同時期に走ったスピードシンボリは7歳まで走って47戦。やっぱりカブトシローの出走回数は破格に多いのである。彼は450kg台の小さな馬だった。そんな馬体で良くがんばったなぁと思える。彼はこの小柄が災いして、斤量泣きする馬であった。彼が人気で凡走したのは、当時の重賞はほとんどハンデ戦で、人気馬には重い斤量を背負わせたからではないかと言われている。
あと、彼は物凄く気性が荒い馬で、騎手が抑えるのが大変だったらしい。それが嫌われたのか乗り替わりが非常に多く、なんと通算11人の騎手が騎乗したという。引退後に世話をした人を噛んで流血させたこともあるとか。故にレース振りが極端で、それが成績のむらに繋がったということもある。
但し、むらが多すぎる成績の原因である「泣き言を言い過ぎる」が無ければ、天皇賞や有馬記念と言った大レースを勝てるだけのポテンシャルがあったのもまた事実。そう考えると、引退年に騎手デビューした福永洋一の全盛期モードとのコンビが成されていたら、馬の才能を見抜く天才の福永なら最後まで読めなかったエリモジョージですら天皇賞と宝塚記念を制した事を鑑みると、カブトシローの長所を見抜いた上でソレを引き出し現実よりも優秀な成績を残していた可能性も微レ存かも知れない。
競馬史上ネタ馬は数あれど、彼ほどネタエピソードの多い馬はそうはいないだろう。ロボットアニメの金字塔的存在であるマジンガーZの主人公・兜甲児の弟の名の由来となる程の人気を鑑みると、この当時に某巨大掲示板があれば競馬板は彼のスレッドで埋め尽くされたに違いない。無論、今でも往年の名馬特集となると癖馬枠の代表格として駆り出される事確実の人気者でもある。この様にネタ馬として扱われるのがお約束であるカブトシローだが、69戦も走り、その間大きな故障もなく、さまざまなトラブルにもめげず、ついに天皇賞、有馬記念の栄冠に輝いたという、実は感動的なほどの頑張り屋でもあったのである。
希代の個性派名馬カブトシロー。彼ほどのムラ馬はめったに現れないと思うし、そうそう現れてもらっても困る。
*オーロイ Auroy 1957 鹿毛 |
Aureole 1950 栗毛 |
Hyperion | Gainsborough |
Selene | |||
Angelola | Donatello | ||
Feola | |||
Millet 1949 鹿毛 |
Mieuxce | Massine | |
L'Olivete | |||
Kannabis | Phideas | ||
Hempseed | |||
パレーカブト 1955 栗毛 FNo.27-a |
イーストパレード 1944 鹿毛 |
アヅマダケ | *トウルヌソル |
*星浜 | |||
エツフオート | *シアンモア | ||
越竜 | |||
明徳甲 1941 鹿毛 |
カブトヤマ | *シアンモア | |
アストラル | |||
*メイビイソウ | Jack Atkin | ||
Eureka | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:シアンモア 4×4(12.50%)、Gainsborough 4×5(9.38%)
掲示板
提供: まひつよし
提供: カミカゼ
提供: 璽武
提供: トキ
提供: みそ
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/24(月) 19:00
最終更新:2025/03/24(月) 19:00
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