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この記事は曖昧さ回避です |
タタール(韃靼)とは、以下のことを表す。
1は語源のモンゴル系一部族としての、2はモンゴル全体を指す意味での、3-5はモンゴル帝国から転じて現在の東欧系テュルク系民族を指す意味でのタタール。単純にモンゴル系テュルク系の遊牧民程度の意味で使われることも多い。
突厥碑文にはウイグル可汗国の東方、キタイ(契丹)人やタタビ(奚)人の北にオトゥズ・タタル(三十姓タタル)が存在することが記されており、これが最初のタタル部であると考えられている。
キタイ帝国(遼)の崩壊後、モンゴル高原に統一的勢力が存在しなくなるとタタル部は高原東部の最大勢力として成長し、モンゴルのカンを殺すなどした。このため、元朝秘史などではタタル部はメルキト部などと並んでモンゴル部の宿敵として扱われている。
しかし、テムジン(後のチンギス・カン)が登場すると彼の率いるモンゴル部によって宿敵タタール部は虐殺される。これ以降、わずかに残ったタタール部はモンゴル部に同化されてモンゴル高原における「タタール」はほぼ消滅する。
この後モンゴルはユーラシアにまたがる大帝国を作る。その結果、洋の東西でテュルク系モンゴル系民族に対してタタール部に由来する呼び方が使われるようになった。
モンゴル帝国崩壊後、韃靼(タタール)は遊牧明の総称/モンゴル人の代名詞として使われるようになった。特に明の時代にはモンゴルを指して韃靼と呼ぶようになる(後述)。
日本においてはそこからさらに派生して、韃靼人は満洲人を初めとするトゥングース系民族も含めた北方民族の総称としても使われていた。
一昔前の書籍では漢文史料に基づいて北元の皇帝トグス・テムルの死によって北元(モンゴル帝国)は亡び、韃靼(タタール)部と瓦剌(オイラト)部の二強時代に入ったと説明されていた。
が、これは誤解である。オイラトは旧ケレイト部・ナイマン部などと合同して独立行動をとるようになるが、残されたモンゴルの部族はモンゴルを自称し続けた。そもそもこの時点ではフビライの王統が断絶しただけで「モンゴルのハーン」はこれ以降も続く(モンゴルの歴史も参照)。
モンゴルの歴史書ではこの時代をさしてドルベン・オイラート(四部オイラート)とドチン・モンゴル(四十部モンゴル)の時代と呼ぶ。そしてモンゴル人は満洲人への降伏をもって「モンゴル帝国は滅亡した」と考えている。
王朝史観に基づいて「天命を受けたからこそモンゴル帝国は中国を支配し、天命を失ったから明の時代が訪れた」と考える漢民族は形の上だけでもモンゴルが亡びたことにしようとしたため、あえて「蒙古」を遊牧民の総称「韃靼」と呼び変えたと考えられている。そのため、後世の人々が勘違いしたというわけである。
例えるなら、今から500年後にハングル史料だけを読んで「日本の天皇は敗戦を切っ掛けに日王と名のるようになった」と誤解するようなものである。
現在では韃靼(タタール)を「北元」と記す書籍も多いが、未だに北元はタタールとオイラートに分裂したと勘違いしている人も多いようである。
ルーシでは13世紀、突如として攻め込んできたモンゴル人のことをタタール人と呼んだ。これはルーシの南にいたテュルク系遊牧民キプチャク人に倣ったためと考えられており、さらにルーシ以西ではタルタロス(地獄)を連想させるタルタル人としてモンゴルは知られるようになった。このため、モンゴル帝国によるルーシ支配は「タタールの軛」と呼ばれる。
モンゴル帝国はフビライの時代に分裂を始め、ルーシ周辺はジョチ・ウルス(ロシアではゾロタヤ・オルダ即ち金帳汗国と呼ばれた)が支配することとなった。ジョチ・ウルスはキプチャク諸侯は廃して直接統治したがルーシ諸侯は従臣として間接統治した。そのため、ジョチ・ウルスのモンゴル系支配層は急速にテュルク化し、やがてタタール人は「テュルク(トルコ)系遊牧民」の総称になっていった。
現在でも東欧の各地でタタール人は少数民族として暮らしている。
最も主流なタタール人で、ジョチ・ウルスの後継政権の一つヴォルガ・ブルガールを征服したカザン・ハン国の住民を先祖とする集団。ロシアでタタール人といえば基本的にヴォルガ・タタール人を指し、ロシア連邦内でタタールスタン共和国を持つ。
ロシア帝国の支配下に入った後は帝国内のムスリム同士の交易を担当したため、ロシア内の少数民族では最も経済的に安定している。
中国の少数民族の一つとして数えられる塔塔尔(タタール)族は中国に移住したヴォルガ・タタール人の子孫であり、上述の1,2の韃靼(タタール)とは関係ない。
ジョチ・ウルスの後継政権の一つ、キプチャクを征服したクリミア・ハン国の住民を先祖とする集団。ウクライナのクリミア半島にクリミア自治共和国を持つ。
クリミア・タタール人は代々クリミア半島周辺に住んできたが、第二次世界大戦後にスターリンによって対独協力の罰として中央アジアに移住させられてしまう。
スターリンの死後、帰国事業は進められたが今でもクリミア自治共和国内のタタール人人口は一割程しかいない。
主にリトアニア・ポーランドに移住したタタール人。15〜17世紀にはポーランド・リトアニアに忠誠を誓い、軽騎兵隊を率いて戦闘に加わった。
掲示板
8 ななしのよっしん
2016/06/10(金) 01:09:14 ID: vMKo67TPD5
>>3
> この状態でモンゴル帝国は続いたという方が世界的には無理じゃないか?
> 王朝は途絶えて帝国は維持したなんてちょっとへんだぞ
むしろ世界的には王朝と帝国/王国の存続期間って違うことの方が多いぐらいじゃない?
中華文化圏以外だと国が単一王朝を前提としていないことが多いし、君主制じゃない帝国だと王朝すらないし、君主制であっても選挙君主制なんかのように世襲制でないことがあるし。
まあ、マムルーク朝みたいに血縁関係がない(dynasty ではない)のも「王朝」って呼んだりするときがあるけど。
9 ななしのよっしん
2018/12/23(日) 13:12:22 ID: VX35JZvJCn
10 ななしのよっしん
2023/07/28(金) 02:32:45 ID: 9pF/QGVd40
スラブ人に首輪を嵌めてたのが今は首輪嵌められてスラブ人の代わりに積極的に戦場で使い潰されていると
そんな状況なのに日本向けの親露工作アカウントが日本人とタタール人の二人三脚状態とバレたアカウントがあったり
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最終更新:2025/03/15(土) 05:00
最終更新:2025/03/15(土) 04:00
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