トーマス・ミュラー(Thomas Müller, 1989年9月13日 - )とは、ドイツのサッカー選手である。
ドイツ・ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘン所属。元サッカードイツ代表。
ドイツ・オーバーバイエルン州ヴァイルハイム出身。西ドイツの往年の名ストライカーであるゲルト・ミュラーと同じ姓であることから後継者として若い頃から期待されていた。
2000年にバイエルン・ミュンヘンの下部組織に入団して以降、22年間バイエルン一筋でプレー。2008-09シーズンにトップチームに昇格し、長年主力として活躍。ブンデスリーガ優勝11回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝2回と数々のタイトル獲得に貢献しており、2013年と2020年の二度三冠獲得を経験。ルイス・ファン・ハール、ユップ・ハインケス、ジョゼップ・グアルディオラ、ハンジ・フリックといった歴代の名将から重宝されている。
ドイツ代表には、2010年にデビュー。20歳で初出場となった2010 FIFAワールドカップでは5ゴールを決め、史上最年少での得点王となる。2014 FIFAワールドカップでも5ゴールを決める活躍によってドイツに4度目のワールドカップ優勝をもたらしている。さらに、ブラジルを相手に7-1と大勝した「ミネイロンの惨劇」の先制ゴールを決めている。
攻撃的なポジションならどこでもこなすことができ、得点力もさすことながらベテランの域に差し掛かってからはアシストの多さが際立ち、「世界最高のチャンスメーカー」と称されている。2019ー2020シーズンには、ブンデスリーガ史上最多となる21アシストを記録している。
バイエルンでの背番号は25、ドイツ代表での背番号は13で定着している。
ミュンヘンより南西に40km離れたペールという小さな村で誕生。両親は熱心なローマ・カトリックの信者であり、厳格な家庭で育っている。ちなみに父親の名前は1970年代に活躍した西ドイツの伝説的なストライカー、ゲルト・ミュラーと同姓同名。そんな家庭環境のおかげで幼少時代から落ち着いた、礼儀正しい子供であり、2つ年下の弟とサッカーの練習に励んでいた。
4歳の頃に地元のTSVペールというクラブに入り、本格的にサッカーを始める。この頃からすでに高い技術を披露していた。また、責任感が強く、負けず嫌いな性格であったため他の選手以上にハードワークを発揮。同時に味方のためにスペースを作る賢さも持ち合わせ、その後のプレースタイルの土台は子供の頃にはすでに培っていた。同年代の子どもと比べてもスキルとスピードが飛び抜けており、対戦相手からはいつも2、3人からマークされていたが、シーズンで160ゴール以上を記録したこともあるほどだった。
10歳になった2000年、ペールでの神童ぶりが認められ、ドイツ最大のクラブであるバイエルン・ミュンヘンの下部組織へ入団。地元から50km離れた環境で挑戦することとなったが、ドイツ中から優れた才能を持った子供が集まるバイエルンのユースでもミュラーの才能は埋もれることがなかった。
年齢を重ねるとともに順調に上のカテゴリーへとステップアップしており、2007年のU-19世代の全国リーグ戦で準優勝。2007-08シーズンになると、リザーブチームのバイエルン・ミュンヘンⅡで試合に出場するようになり、2008年3月には4部に相当するレギオナルリーガの試合で初ゴールを決めている。
2008年夏のプレシーズンではトップチームに帯同しており、8月15日のブンデスリーガ開幕戦ハンブルガーSV戦でトップチームの試合に出場し、ブンデスリーガでのデビューを飾っている。もっとも、2007-08シーズンの主戦場はリザーブチームであり、ドリッテリーガ(3部)の試合に出場。ここでもチームのキープレイヤーとして活躍し、15ゴールを記録。2009年2月には、ユース時代からの同僚だったホルガー・バトシュトゥバーと共にプロ契約を交わしている。3月10日のスポルディング・リスボン戦でUEFAチャンピオンズリーグにもデビュー。将来を嘱望される期待の若手と見られていた。
2009-10シーズンになると、この夏就任したルイス・ファン・ハール監督からプレシーズンでの活躍が高く評価され、正式にトップチームへの昇格が決定。9月12日のボルシア・ドルトムント戦では途中出場ながらもブンデスリーガ初ゴールを含む2ゴールの大活躍を見せ、その名が広く知れ渡る。3日後のCLマッカビ・ファイファ戦でも2ゴールを決めると、そのままレギュラーの座を勝ち取る。12月には、高校時代から付き合っていたモデルのリサにプロポーズし、20歳で既婚者となる。ファン・ハールからの寵愛を受けたミュラーは、その後も攻撃陣に欠かせない選手となっていき、実質プロ1年目にして13ゴール11アシストという成績を残し、バイエルンの2シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。プロとして最高のスタートを切り、キッカー誌によるシーズン最優秀若手選手に選出される。
2010-11シーズンは、夏に出場したワールドカップの疲れを引きずったこともあって序盤8試合ノーゴールと不調に苦しむ。一発屋という心無い批判もされたが、ウィンターブレイク明けのシーズン後半戦になるとコンディションが回復し、1年目に見せた得点感覚を取り戻すようになる。チームはシーズン無冠に終わったものの、最終的には公式戦19ゴールと1年目と同じ数字を残して批判を黙らせている。
2011-12シーズンには、ユップ・ハインケスが監督に就任し、セカンドトップに加えてウイングなど様々なポジションで起用されることになる。しかし、決定的なシュートを何本も外して批判されるなど思うようなペースでゴールを重ねることができず、プロ3年目にして初めてリーグ戦一桁ゴールに終わる。チームとしても全てのコンペティションで準優勝という結果となった。
2012-13シーズンのバイエルンは、開幕前に大型補強をおこない、シルバーコレクターと揶揄された前のシーズンの雪辱を狙う。1トップに入ったマリオ・マンジュキッチの下のポジションが定位置となったミュラーは、神出鬼没の動きでピッチに顔を出し、チームの売りであったアリエン・ロッベンとフランク・リベリーの両翼をサポートしながら自らもゴール前に顔を出して決定的な仕事をおこなう。圧倒的な強さを誇ったこの年のバイエルンを黒子的な役割で支え、史上最速でのリーグ優勝に貢献。CL準決勝では、当時世界最強と言われていたFCバルセロナを相手に1stレグで2ゴール、2ndレグでも重要なゴールを決め、決勝進出に貢献。同国対決となった決勝のボルシア・ドルトムント戦でも自らの役割を全うし、自身初のビッグイヤー獲得に貢献。この年、シーズントータルで47試合23得点という成績を残しており、バイエルンの中心選手としての地位を不動のものとしていた。また、DFBポカールも制し、クラブ史上初となるシーズン三冠(トレブル)獲得の原動力となった。
2013-14シーズン、栄光を手にし勇退したハインケスに代わり、バルセロナの黄金期を作り上げたジョゼップ・グアルディオラがバイエルンの監督に就任。インテリジェンスの高さと判断力の的確さはグアルディオラのチームにおいても欠かせない重要なピースとして重宝され、リーグ戦連覇に貢献。DFBポカール決勝のドルトムント戦では、追加点を決めて優勝に貢献。ブンデスリーガにおいては13ゴール11アシストを記録したが、特にチームにとって重要な試合での決定的な仕事が目立っていた。
2014-15シーズンには、ライバルチームであるドルトムントからロベルト・レヴァンドフスキが加入。開幕前はポジションを失うことも懸念され、マンチェスター・ユナイテッドからオファーも届いていたが、グアルディオラの説得もあってチームに残留。レヴァンドフスキとは縦関係でいい関係性を築き、11月8日の第11節フランクフルト戦ではハットトリックを達成。2月14日のハンブルガーSV戦では2ゴール3アシストの活躍を見せる。ブンデスリーガでは穴の無い完璧な強さで開幕から独走し続け、4試合を残して三連覇を達成。リーグ戦では13ゴール15アシストという成績を残し、この年から少しずつ自らのサッカーIQの高さをレヴァンドフスキの得点力を活かすために使うスタイルにシフトしていた。
2015-16シーズン第3節バイヤー・レヴァークーゼン戦でブンデスリーガ200試合出場を達成。この試合で2ゴールの活躍を見せ、自ら記録達成を祝っている。このシーズンは、怪我人の多さがチームに目立ち、特にロッベンとリベリーが揃って長期欠場と言う事態に陥る。そのため、これまで以上に多くの役割が課されることとなったが、持ち前の運動量と質の高い動きで主力が欠場した分まで結果を出し、リーグ戦でキャリア初となる20ゴールの大台に乗せる。CLでも8ゴールを記録しており、公式戦通算32ゴールというキャリアハイの成績を残したシーズンとなった。
2016-17シーズンは、前年とは対照的にゴール欠乏症にかかり、シーズン前半戦に999分間無得点というスランプに陥る。シャビ・アロンソの欠場が多かったことで低い位置まで下がってビルドアップに参加することが多くなっていたが、その分ゴール前での仕事量が減ったことは否めなかった。12アシストとチャンスメイクでは貢献していたが、ゴール数は5ゴールと大幅に減ってしまったことでメディアからの評価も高くはなく、クラブのレジェンドであるローター・マテウスからは「チームに居場所はない」と批判された。
2017-18シーズン序盤からチームはまさかの低空飛行が続き、2017年9月28日に監督のカルロ・アンチェロッティが解任。このとき、アンチェロッティと主力選手たちの間で確執があったと報じられていたが、造反した首謀者の1人だったと伝えられる。その真相は定かではないが、フィリップ・ラームの引退によってチームがまとまりがなくなっていたのは明らかだった。だが、10月6日に一時は監督業を引退していたハインケスが監督に復帰すると、躍動感を取り戻すようになる。チームもすっかり復調し、8ゴール14アシストとチャンスメイクで貢献し、バイエルンのリーグ6連覇に貢献。
2018-19シーズンは、2018年9月12日のCLベンフィカ戦でCL100試合出場を達成。12月15日の第15節ハノーファー戦ではブンデスリーガ通算300試合出場を達成する。この年チームは安定感を欠き、CLではラウンド16でリヴァプールに敗れてしまう。それでもシーズン後半戦になって調子を取り戻し、第28節のドルトムント戦で5-0という衝撃的な大勝を飾ったことでリーグ戦7連覇を達成。チャンスメイクでの貢献が増えたミュラーは、18アシストと自己最多のアシスト数を記録している。
2019-20シーズン序盤は、監督であるニコ・コバチと起用法を巡って対立。リーグ戦6試合連続でスタメンから外されるという屈辱を味わう。チームが不振に陥ると、「何かを変えなくてはいけない」と監督交代をほのめかすような発言をしてしまう。だが、コバチが解任となり代表のアシスタントコーチであったハンジ・フリックが監督に就任すると風向きが変わる。フリック就任2試合目となった2019年11月9日のドルトムント戦では2アシストを記録し、通算のアシスト数が101を記録。さらにこの試合でバイエルンでの公式戦500試合出場を達成する。フリックからはトップ下の定位置を与えられると、水を得た魚のように躍動。必要な場所に顔を出し、レヴァンドフスキら攻撃陣に決定的なパスを出してアシストを量産。「世界最高のチャンスメーカー」としてミュラーの働きが再評価されるようになる。2020年6月6日のレヴァークーゼンでの2アシストによってシーズンでのアシスト数が20に到達。最終的に21アシストを記録し、ケヴィン・デ・ブライネが保持していたブンデスリーガでのシーズン最多アシスト数を更新することとなった。また、CLにおいても8月14日の準々決勝バルセロナ戦で2ゴール1アシストの活躍によって8-2という歴史的な大勝に貢献。フリックが監督に就任してからは攻守に躍動し続け、キャリアハイと言える日々を過ごす。結果、クラブにとっても自身にとっても二度目となるCL、リーグ、カップの三冠を達成。
2020-21シーズンも前年の好調ぶりを維持しており、相棒のレヴァンドフスキとの阿吽の呼吸で王者の攻撃をリードし続けた。記録に表われない部分でも、数多くのゴールチャンスを演出しており、EURO2020に向けてレーヴ監督が追放扱いとされていた代表に呼ばざるを得なくなるほどの圧巻のパフォーマンスを見せ続ける。また、この年41ゴールとブンデスリーガ記録を塗り替えたレヴァンドフスキの偉業を誰よりもサポートしていた。最終的に18アシストと二年連続でアシスト数トップに君臨。ゴール数も5年ぶりに二桁に到達と並外れた数字を残し、バイエルンのリーグ9連覇に貢献。自身10度目の優勝となり、同僚のダヴィド・アラバとともにリーグ史上最多の優勝経験がある選手となった。
2021-22シーズンには32歳とベテランに差し掛かっていたが、変わらずチームに欠かせない重要なプレイヤーであり続ける。第6節グロイター・フュルト戦のゴールでバイエルン歴代3位の得点記録保持者となり、第17節ヴォルフスブルク戦でリーグ通算400試合出場の節目を迎える。また、開幕から積み上げてきたアシストは、前半戦だけで15を記録。ユリアン・ナーゲルスマン監督は「彼はとてつもなく賢い。ピッチ上の監督のようだ」と最大級の賛辞を送っている。最終的に18アシストを記録し、3シーズン連続でリードトップのアシスト数を残し、ブンデスリーガ10連覇に貢献。
2022-23シーズンは腰の負傷に悩まされながらも例年通り攻撃陣を牽引し続けていたが、2022年10月上旬に新型コロナウィルスに感染。さらに10月14日のCLグループステージ第4節ビクトリア・プルゼニ戦でゴールを決めた後に腰の負傷を悪化させて交代となり、その後はコンディション不良が続いてワールドカップまでの中断期間までのリーグ戦7試合、CL2試合をいずれも欠場する。後半戦は戦列に復帰するが、ローテーションによって出場時間を制限することも増え、不安定な戦いを続けるチームの中で以前ほどの存在感を見せられなくなる。それでもここぞというときは決定的な仕事を果たし、最終節で逆転してのリーグ11連覇に貢献。
2023-24シーズンは開幕からスタメンを外れることが増えたものの、出場すれば違いを生み出す働きを見せ、2023年10月28日のブンデスリーガ第9節ダルムシュタット戦では24分間の出場ながらも1ゴール2アシストの働きを見せている。12月には2025年までチームとの契約を延長。その後もムシアラにポジションを譲ることが増えながらも、限られた出場時間で違いを生み出し、公式戦10アシストを記録。
2024-25シーズンは2024年9月1日のブンデスリーガ第2節フライブルク戦で途中出場し、バイエルンの公式戦歴代最多出場記録となる710試合出場を達成。さらにはリーグ戦通算150ゴールとなるゴールも決めている。
2004年にU-16ドイツ代表に選ばれると、U-19、U-20、U-21と各世代のドイツ代表に選出された経験のあるエリート。
2009年10月、プロデビューして間もない時期にも関わらずバイエルン・ミュンヘンでの活躍がヨアヒム・レーブ監督に認められ、初めてドイツ代表に選出される。期待の若手として選ばれたこともあって最初は出場機会を得られなかったが、2010年3月3日のアルゼンチンとの親善試合でフル代表デビューを果たす。
2010年6月に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップのメンバーに選出される。代表合宿中に自転車から転落する事故に遭うも、これまで攻撃の要だったミヒャエル・バラックが怪我で欠場となったことでレギュラーに抜擢される。ちなみに背番号はバラックが背負った番号であり、同姓のゲルト・ミュラーの番号でもあった13番を背負い、その後もこの番号で定着。すると、初戦のオーストラリア戦で代表初ゴールを決める。ラウンド16のイングランド戦では後半に立て続けに2ゴールを決め、MOMに選出される。さらに、4-0と快勝したアルゼンチン戦でも先制ゴールをマーク。累積警告で出場停止となった準決勝でドイツはスペインに敗れるが、3位決定戦のウルグアイ戦で大会5得点目となる先制ゴールを決める。大会を通して攻撃の核となり、ドイツの3位入賞に貢献。ダビド・ビジャ、ディエゴ・フォルラン、ヴェスレイ・スナイデルという名だたる選手と並んで得点王を獲得するが、アシスト数で上回ったことでゴールデンブーツ賞を受賞。ちなみに20歳での得点王はワールドカップ史上最年少での快挙であり、大会のベストヤングプレイヤー賞も受賞する。
その後も代表の主力として定着し、2012年6月に開催されたEURO2012に出場。グループリーグではスタメンとして出場するがプレーに本来のキレが無く、3試合ノーゴールに終わると決勝トーナメントに入ってからは控えに回る。ドイツは準決勝でイタリアに完敗し、自身も結局無得点で大会を終えたことでメディアからの批判を受けることになる。
2014年にはブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップに出場。初戦のポルトガル戦では、試合中にポルトガルのペペから頭突きを見舞われながらハットトリックの大活躍を見せ、4-0での大勝に貢献。最高のスタートを切るが、第2戦のガーナ戦では終了間際に顔面を負傷するアクシデントに見舞われる。だが、大事に至らず第3戦のアメリカ戦に出場し、決勝ゴールを決めるとグループリーグ3試合で2度目のMOMに選ばれる。後に「ミネイロンの惨劇」として語り継がれた準決勝のブラジル戦では大量7ゴールの口火となった先制ゴールを決めている。決勝のアルゼンチン戦では120分間を戦い抜き、ドイツの4度目のワールドカップ優勝に貢献。2大会連続得点王こそ逃したが、今大会でも5ゴール3アシストという数字を残し、ドイツの世界一獲得に欠かせないプレイヤーとなっていた。さらには1トップ、右WGと2つのポジションで起用されながらも流動的なドイツのスタイルを体現するキーパーソンとして躍動し続けていた。
2014年9月から2015年5月に開催されたEURO2016予選では、チーム最多となる9得点を決め、ドイツの首位通過に貢献。2016年6月のEURO2016では、準決勝までの7試合全てにスタメンで出場するが、決定的なシュートを外してしまい、準々決勝のイタリア戦ではPKを失敗するなどまたしても無得点に終わる。ドイツ代表は準決勝で開催国のフランスに敗れ、大きく期待を裏切ったミュラーは前回に続いてまたもEURO敗戦の戦犯扱いを受けてしまう。
2018年6月にロシアで開催された2018 FIFAワールドカップでは、ドイツはまさかの史上初のグループリーグ敗退という屈辱的な結果に終わり、ミュラーも3試合で0ゴール0アシストと不本意な成績のまま大会を去ることになった。大会後、長年代表で苦楽を共にしてきたメスト・エジルが人種差別を理由に代表引退を表明したときは、エジルの主張を真っ向から否定し、「他人のことを批判する前に、自分のことを見つめ直す必要がある」と厳しいコメントを出している。
2018年11月19日のUEFAネーションズリーグ オランダ戦でドイツ代表として100試合出場を達成。しかし、ロシアW杯の敗戦を機に一度は頂点に立ったレーブの作り上げたドイツ代表は下降線を辿り、自身もワールドカップ後の代表戦で結果を残せずにいた。すると、2019年3月5日にジェロム・ボアテング、マッツ・フンメルスと共にレーブ監督から世代交代を理由に一方的に今後代表に招集しない意向を告げられる。これには流石にSNSで納得できないと怒りを吐露している。
このままミュラーの代表でのキャリアが終わってしまうかと思われたが、バイエルンでチャンスメーカーとして復活し、高いパフォーマンスを披露していたことから世論は代表復帰を熱望するようになる。チームの成績が芳しくなかったこともあってレーブもミュラーの活躍を無視することができず、2021年6月に開催されるEURO2020本大会のメンバーとして招集し、2年半ぶりの代表復帰を果たす。大会直前のラトビアとの親善試合では、およそ3年ぶりとなる代表でのゴールを決めている。しかし、EURO2020本大会ではグループリーグ3試合で無得点、ラウンド16のイングランド戦では絶好のチャンスでシュートを外してチームは敗退。これでEUROでは15試合0ゴールと相性の悪さが際立つ結果となった。
2022年11月にカタールで開催された2022 FIFAワールドカップでは、1か月ほどコンディション不良によって公式戦を欠場していたが、本大会へ間に合わすことができた。それでも出場時間は限定的となり、初戦の日本戦では後半に交代となった後にチームは逆転負けを喫する。その後の2試合は1トップで出場するもやはりコンディションに不安を抱えていたことから力を発揮できず、チームはまさかの2大会連続でグループリーグ敗退に終わる。
2024年6月に自国開催のEURO2024のメンバーに選出されるが、若いアタッカー陣の台頭によって控えとなる。出場機会は初戦のスコットランド戦と準々決勝のスペイン戦の2試合に途中出場したのみとなったが、ベンチで裏方として選手を鼓舞する姿勢が評価されている。
スペイン戦後、ドイツ代表からの引退を表明。国際Aマッチ131試合45ゴールという輝かしい記録を残し、ワールドカップでは19試合10得点をマーク。一方、EUROでは17試合に出場しノーゴールに終わっている。
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2008-09 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 4 | 0 |
2009-10 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 34 | 13 |
2010-11 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 34 | 12 |
2011-12 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 34 | 7 |
2012-13 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 28 | 13 |
2013-14 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 31 | 13 |
2014-15 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 32 | 13 |
2015-16 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 31 | 20 |
2016-17 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 29 | 5 |
2017-18 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 29 | 8 |
2018-19 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 32 | 6 |
2019-20 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 33 | 8 |
2020-21 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 32 | 11 |
2021-22 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 32 | 8 |
2022-23 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 27 | 7 |
2023-24 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 31 | 5 |
2024-25 | ![]() |
バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ |
攻撃的なポジションならどこでもこなせる非常に器用な選手。トップ下、ウイング、セカンドトップ、センターフォワード何でもござれのユーティリティーなプレイヤーである。
特筆に価する程のスピードや派手なドリブルスキルなどは持ち合わせていないが、ポジショニングや基礎的な技術、オフ・ザ・ボールの動きが大きな武器。フリーランニングで味方にスペースを供給しつつ、自らもスペースを見つけて入り込む。またゴールへの嗅覚も優れており、2013年から2016年までブンデスリーガで4シーズン連続二桁得点を達成し、FIFAワールドカップでの通算得点数は10得点を記録。
常に相手が嫌がることを選択してやっているような選手で、守備側の背後をとる動きが抜群に上手い。同時に味方にとっては必要なところに顔を出し、必要なことをやってくれる気の利いた選手である。つまりはサッカーIQが際立って高いプレイヤーであり、状況を見極めてベストなポジションでプレーできる。
若い頃はPA内でスペースを見つけ、ボールを引き出しゴールを量産するタイプだったが、年齢を重ねるにつれてそのインテリジェンスを味方のために活用するチャンスメーカーへと変貌。優れた視野から決定的なラストパスを送る。特にハーフスペースを突いてラインの裏でボールを引き出し、ゴール前の味方に折り返しのクロスを入れるプレーが得意。味方の動きやプレーの質に応じて自分のプレーを適応させる能力の高さも特筆すべきものである。
前線の守備での貢献度の高さも武器であり、運動量の豊富さに加えてここでもインテリジェンスの高さを活かしたポジショニングと判断力の高さが光っており、味方にプレッシングの指示を送るなど、プレッシングのスイッチ役としても欠かせないプレイヤーとなっている。
真面目でクールな選手というイメージを持たれているが、バイエルンの先輩であるバスティアン・シュバインシュタイガーからは「お調子者でうるさい」と評されるムードメーカータイプらしい。チーム内では率先して笑いを取り、いじられることも多い。新加入選手の面倒見も良く、バイエルンに在籍した当時、孤独だった宇佐美貴史に声をかけ、一緒にゲームをしていたという逸話がある。
一方で性格が悪いと言われることもあり、ミネイロンの惨劇のときにチームメイトでもあるダンテを弄りすぎて怒らせてしまい、謝罪することになった。また、シャルケ時代の内田篤人に試合後握手を求められて拒否し、さらには握手した後手を拭く仕草がカメラに抜かれたことで人種差別者という疑惑を持たれてしまう(受け取り方の問題のようにも思えるが)。
20歳でモデルの美人妻と結婚しているが、妻が馬術の選手でもあることから自宅でも馬を飼っている。ミュンヘンから南に位置するオッターフィングの飼育場グート・ヴェトルカムで、繁殖牝馬(ひんば)、仔馬、1歳馬、そして乗馬用の馬など、50頭の馬を飼っている本格的な熱の入れようで、15ヘクタールの施設を、8人のスタッフとともに夫婦で切り盛りしている。
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最終更新:2025/03/27(木) 12:00
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