一式戦闘機 単語

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一式戦闘機とは、大日本帝国陸軍が採用していた戦闘機である。称(ペットネーム)は『はやぶさ)』。呼称・略称は「一式戦」、「ヨンサン」。連合コードネームOscarオスカー)。陸軍の試作機機体通し番号であるキ番号は「キ43」。中島飛行機開発

概要

一式戦闘機とは帝国陸軍を代表する戦闘機として、大東亜戦争における事実上の力機として使用された。総生産機数は約5,700機で、日本海軍戦闘機としては海軍零式艦上戦闘機に次いで2番に多く、陸軍機としては第1位

名称

一式戦闘機とは皇紀2601年(昭和16年)に採用されたので、皇紀の下一ケタを取って「一式」と名づけられた。

戦中の日本では部隊内部や新聞上において、陸軍航空部隊自体や各飛行部隊航空機から中勤務者などの喩表現として「(荒・陸)」「」「」「翡翠」といった鳥類の呼び名が盛んに用いられており、かつ日本戦闘機にも欧の「スピットファイア」や「ハリケーン」のような称が欲しいというを受け、陸軍航空本部発表の正式な称として一式戦は「」と命名、開戦まもない1942年3月8日には「新鋭陸、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。この「」の名は一式戦をもって南方作戦で活躍した第64戦隊の隊歌冒頭から取られたものとされている。

開発・採用

1937年日本陸軍航空隊の力は固定脚(輪がそのまま出ている事)の九七式戦闘機だった。
登場当時は九七戦は、速度・上昇・旋回力は一流だったが、後にMe109メッサーシュミット)やホーカーハリケーンスピットファイアなどの引込脚(輪を収納する)が出現すると陸軍航空本部は保守的な設計で将来性が乏しい九七戦の後継機を開発した。

そのため九七戦採用と同である12月陸軍航空本部は中島に対し一社特命でキ43の試作内示を行い、1939年末の完成して開発が始まった。な要仕様は以下の通りとされている。

①最大速度 - 500km/h

②上昇力 - 高度5,000mまで5分以内

行動半径 - 800km以上

運動性 - 九七戦と同等以上

⑤武装 - 固定機関銃2挺

⑥引込脚を採用

引込脚以外の基本構造は九七戦を踏襲していたので開発は順調に進み、1938年には試作一号機が完成している。だが、同年5月ノモンハン事件で九七戦が旋回力を得意とした戦術で戦果を挙げると、軽戦闘機・重戦闘機として中途半端な機体と見做されていたキ43の採用は危ぶまれた。

そのため、同年11月、審の結果を受け胴体以下各部を改め全体のスタイルがのちの採用機相当となった増加試作1号機(通算試作4号機)が完成したものの、ノモンハン事件の戦訓として次期戦闘機には更なる高速化・武装強化・防弾装備がめられたこともあり、今だキ43の審は長引いていた。

三次計画を経て、軽戦・重戦の双方から中途半端とみなされたキ43試作機をそのまま制式採用することは見送り、より強力なエンジン(ハ105)に換装して高速化を図った、キ43性向上第二案の開発を進めることが決定された。

速度と上昇力と航続距離の向上を重視する実用側の明飛校審員間においてもこのエンジン換装案は支持され、直後の研究会において第二案の開発が確定した。このため、中島のキ43設計務者の小山技師もキ43再設計を開始している。

採用

1940年、参謀本部は南進計画に伴い南方作戦緒戦で上陸戦を行う団を南部印より掩護可、また遠隔地まで爆撃機護衛および制することが出来る航続距離の長い遠距離戦闘機を要仮想敵であるイギリス軍新鋭戦闘機スピットファイアに対抗可と考えられ、本来は陸軍戦闘機となるべきキ44(二式戦)の配備が間に合わないことと、陸軍飛行実験実験隊のトップである今川一策大佐の進言もあり、一転してキ43試作機に一定の改修を施した機体を制式採用することが決定。

同年11月、『キ43遠戦仕様書』が中島に示され、翌1941年3月に改修機が飛行実験実験戦闘班に引き渡され再度試験が進められた。キ43性向上第二案開発中であった当時、不採用であるキ43原試作機を急遽採用する行為に対して開発・審側では反対や混乱が起きている。またキ43原試作機の採用が凍結され、中島による根本的な再設計が行われていたためキ43原試作機生産のための治具は片付けられていた。

なお陸軍航空隊はあくまでキ43は不満足な「原試作機」を採用することは本来はせず、「性向上」の開発・審を再度行ったのちこれを採用する方向であったため、決して「キ43自体」の開発お蔵入りになっていたわけではない。

かつて問題となっていた九七戦との運動性の較については、戦闘ラップを使用しなくとも方向でなく上昇力と速度を生かした「垂直方向」の格闘戦に持ち込むことで、不利な低位戦であっても圧倒可と判断されている。これはノモンハン事件におけるソ連戦闘機I-16の戦法を参考にしたものとされ、飛行実験テストパイロット譲三大尉研究結果であった。

これらの結果を受けて1941年5月、キ43は陸軍軍需審議会幹事会において一式戦闘機として仮制式制定(制式採用)された。参謀本部の要請からキ43の採用を望んでいた航本総務部は、制式決定を待たず中島に対して400機生産の内示を出したとされており、一式戦量産1号機は同年4月完成6月時点で約40機がロールアウトしている。

戦歴

初期~中期

制式採用の遅れから、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊飛行第59戦隊飛行第64戦隊の僅か2個飛行戦隊(第59戦隊2個中隊21機・第64戦隊3個中隊35機)であった。しかし、南方作戦においてこれらの一式戦は戦において喪失で約4倍の数を、対戦闘機戦でも約3倍の数の連合軍機を確実撃墜、以下の記録は開戦日である南方作戦期間中たるマレー作戦開始から作戦終了にかけて、当時の日本軍連合軍が残した戦闘記録較調により裏付の取れた一式戦の確実な戦果である。

さらに、「南方の確保」という理由で始められた南方作戦において、その開戦理由かつ陸海軍作戦における戦略上の最重要攻略標たる、オランダ領東インド(現インドネシアスマトレンバンの田・製所・飛行場を陸軍落下部隊とともに制圧するなど(パレンバン作戦)、一式戦は陸軍が想定していた以上の々しい戦果を挙げた。1942年後半以降は旧式化した九七戦に替わり改変が順次進められ、名実ともに陸軍航空部隊戦闘機となっている。一式戦は北は千島列島、南はオーストラリア、西はインド、東はソロモン諸島、とほぼ全ての戦域に投入された。

最初期の頃は配備数の少なさ故に一式戦の存在自体が日本軍内でもあまり知られておらず、さらに当時の陸軍機は胴体に標識の日章を記入することをやめていたため、海軍ばかりか身内の陸軍操縦者からも敵新戦闘機と誤認され、味方同士の真剣戦が起こるなどの事もあった。このため1942年中後半頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。南方作戦一通り終了した1942年3月に一式戦は「」と名付けられ大々的に発表され、以降陸海軍内でも知名度を上げていった。

中期~後期

一式戦は特筆に価する点として、大戦初期に限らずビルマ(現ミャンマー)やその南東、中国戦線では大戦後期・末期である1944年後半以降においても連合戦闘機との戦において「互ないしそれ以上の勝利」を重ね、また、スピットファイアP-38P-47P-51P-51アリソンエンジン搭載A型のみならずマーリンエンジン搭載B/C・Dをも含む)といった新鋭戦闘機との対戦でも「互の結果」を残していることが挙げられる(中でもビルマ航空戦ではこれらの全新鋭機を一式戦は初交戦にて一方的に確実撃墜している)。これらの記録日本軍連合軍側の戦果・損失記録較により裏付も取れている。一例として、以下の記録1943年7月2日から1944年7月30日にかけてビルマ方面の一式戦が記録した裏付の取れている確実な実戦果・実損である。

同様に、以下は大戦末期1944年8月18日から終戦間際の1945年8月13日にかけて、ビルマを初めとする東南アジア方面(ビルマフランスインドシナマレーインドネシアタイ)を担当する第3航空軍戦域における、一式戦の確実な実戦果・実損である。

末期においても圧倒的不利な状況にて一式戦が活躍していた事例として、以下の戦闘記録が存在する。1945年3月15日バンコク付近にて飛行第30戦隊の一式戦2機が「第二次世界大戦最優秀機」と評されるアメリカ陸軍航空軍のP-51D 8機と交戦、この一式戦2機は中退避中にP-51D 4機編隊の奇襲を受けた劣勢にも関わらずまずその一撃離脱攻撃を回避、続く別のP-51D 4機編隊の攻撃は得意とする域機動によってこれも回避、一式戦は反撃し1機を確実撃墜。

特攻機として

1944年11月陸軍中央は、海軍が小回りの利く零戦などの小機による特攻で成果を挙げていることを知って、明野教導飛行師団で一式戦闘機などの小機を乗機とする特攻隊を編成し、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。

名前の由来は日本書紀の「八紘をもってとなす」(八紘一宇)による。アメリカ軍レイテ上陸により、一時部をネグロスに移転していた第4航空官の富永恭次中将が、マニラ部に戻ると、「八紘隊第1隊」「八紘隊第2隊」などと呼ばれていた各隊を八紘隊、一隊、靖国隊、護隊、心隊、石腸隊と命名し「諸子のあと第4航空軍の飛行機が全部続く、そして最後の1機には富永が乗って体当たりをする決心である。安心して大任を果たしていただきたい。」と訓示励し、軍官自ら隊員一人一人と握手し、士気を鼓舞している。

後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸導飛行師団・下志飛行師団・田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され、丹心隊、勤皇隊、一隊、殉義隊、皇隊、進襲隊と命名された。

八紘隊各隊は「十神十機よく十艦を屠る」と称されたほど、陸軍特攻隊では最も大きな戦果を挙げた部隊と言われている。

以下は全て確実な戦果として、11月27日に八紘隊が戦艦コロラド」、軽巡洋艦セントルイス」、軽巡洋艦「モントピリア」に突入し損を与え、駆潜艇SC-744」を撃沈。

11月29日靖国隊(一式戦「」)が戦艦メリーランド」、駆逐艦「ソーフリー」、駆逐艦オーリック」に突入し損を与えている。

さらに12月には一隊(一式戦「」)あるいは海軍特別攻撃隊第2金剛隊が軽巡洋艦ナッシュビル」に、1月5日には重巡洋艦「ルイビル」に石腸隊あるいは進襲隊(九九式襲撃機)。

1月8日には軽巡洋艦コロンビア」に心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、1月9日には戦艦「ミシシッピ」に一隊(一式戦「」)がそれぞれ突入し損を与えた。

なかでも、靖国隊の一式戦「」が40.6cm(16インチ)を備えるに突入した戦艦メリーランド」は大破炎上し、修理のため翌1945年3月まで戦列を離れている。メリーランドに突入した一式戦「」は、の中から現れて急降下で同艦に突入する寸前に、機首を上げて急上昇をはじめ、尾翼下に垂直上昇してまたに入ると、1後には太陽を背にしての急降下で、メリーランドの第2に突入した。その間特攻機は全く対射撃を浴びることはなかった。その見事な操縦を見ていたメリーランド兵は「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一の栄きとなって消えたかったのだ」と日記に書き、その特攻機の曲芸飛行を見ていたモントピリアの艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している。

その後

一式戦は改良開発配備されるも大戦中期以降は旧式化し、戦況自体の悪化や連合軍が改良機・新鋭機を大量投入し戦術も変更するようになってからは苦戦を強いられるようになった。

1944年後半以降は新鋭の四式戦「疾風」(キ84)が量産されこれに順次改変されているため配備数上では帝国陸軍一の戦闘機ではなくなった。カタロスペック上では大戦後期には全に旧式化した一式戦だが1945年まで生産が続けられ、そのような機体を末期まで生産・運用したことを陸軍の不手際と評価する見方もある。

しかし、重戦たる二式戦は運動性に優れた機体に慣れた操縦者の中には使いにくいと評価する者がおりまた離着陸の難度が高く、エンジンの信頼性にも問題があり 三式戦「飛燕」(キ61)は搭載エンジンハ40の信頼性・生産性に問題があり全体的に稼働率が低くまた離昇出力も低く、1944年半ばより「大東亜決戦機」たる戦闘機として重点的に量産された四式戦はそのバランスの取れた高性と実戦での活躍によりアメリカ軍から「日本軍最優秀戦闘機」と評されるものの、ハ45の不具合や高品質潤滑・高オクタン価燃料・交換部品の不良不足によりこちらも信頼性に難があった。三式戦二(キ61-II改)をベースエンジン112-IIに換装、速度と引換に「軽戦」などと評された運動性と較的良好な稼働率を得た五式戦闘機(キ100)の配備は1945年までずれ込んだ。

そのような中で立川の生産ライン活用し三の量産が可であった一式戦は全期間を通じて安定した性を維持しており、信頼性も高く、新人操縦者にも扱い易く、その運動性の高さを武器に最後まで使用は継続された。末期には特別攻撃隊が運用する特攻機としても多用されている。

機体性能

飛行性能

速度

ハ25(離昇950力)を搭載した一の最大速度は、低質のオクタン価87の燃料を使用した数値では495km/h/4,000mにとどまる。一方で、オクタン価92の航空九二揮発を使用した場合の最大速度500km/hをえる。ハ25は二一以前の零戦に搭載された栄一二とほぼ同じものであるが、燃料が統一される開戦直前まで、陸軍では海軍より低オクタン価の航空八七揮発を使用していたため、これがカタロスペック上での零戦との最大速度の違いとなっている(改修前の零戦二一の最大速度は509km/h)。

エンジンをより高出力のハ115(離昇1,150力。海軍の栄二一とほぼ同じ)に換装し、3翅プロペラを装備した二(キ43-II)試作機の最大速度は515km/h/6,000mに向上。増速効果のある推力式集合排気管の後期で536km/h、推力式単排気管の最後期では548km/hの数値を記録している。

メタノール噴射装置を有す更に高出力なハ115-IIに換装した三(キ43-III)では560km/h/5,850mに向上(メタノールタンク容量は70l、最大速度はその残量範囲内で有効)。

速力に優れるP-38(Lで約667 km/h)やP-51(Dで約708 km/h)には及ばないものの、運動と加速力(後述)を合わせれば実際の戦では十分な性であった。

上昇力

軽量な機体であるため上昇力は良好であり、数値は一が5,000m/5分30、二が5,000m/5分49(試作)ないし5,000m/4分48量産型)・8,000m/11分9、三が5,000m/5分19・8,000m/10分50となる。三は機体重量が増したことから上昇力は一と同程度に留まっている。

加速力

最大速度では連合軍の戦闘機に見劣りしていた一式戦だが、機体が軽い、プロペラの直径が較的小さい(効率は低いが加速に有利)等々の理由で低速域の加速性に優れていた。連合軍は戦訓として(一式戦は240km/hから400km/h程度への加速が速いため)「低速飛行中の一式戦に不用意に接近するのは危険」という認識を持っており、その加速性は2,000力級のエンジンを搭載したP-47にも劣らず、低においてP-47が急加速した一式戦に引き離されたという事例も報告されている。

ただし、二・三と改良はされているものの降下性・「急降下時の突っ込み」は二式戦・三式戦・四式戦や連合軍機とべ悪い。そのため、連合戦闘機戦で一式戦に捕捉された場合は高速降下により戦闘を離脱するという戦訓を確立していた。また機体構造が強化されていない一、特に初期生産はその軽さと脆弱性ゆえに急降下時の加速に対する機体剛性に劣り、これが大きな弱点となっていた。

運動

一式戦は1,000力級エンジンを装備した戦闘機としては非常に軽快な運動性を持っていた。しかし、試作機の最大速度が九七戦とさほど差がなかったことから、旋回性についても九七戦と同等以上の確保が要されたため、キ44用に開発されたラップが装備された。このフラップ戦闘ラップ戦フラップ)としても使用することが可で、旋回半径を小さくするのに効果的であったが扱いが難しいため、熟練者でなければ実戦で上手く活用することは難しかったとされている。鹵獲一式戦をテストした連合軍は旋回性に対して「とくに"戦闘ラップ"を使用したときの旋回力はきわめて高く、ジーク零戦)に勝る」と評価している。

先述の通り、九七戦との較についてはのちに戦闘ラップを使用しなくとも、方向でなく垂直方向の格闘戦に持ち込むことで圧倒可と判断されている。一式戦一面荷重は102kg/m²、二型117kg/m²、二式戦一型は171kg/m²、Bf109-Eは170kg/m²であり、一式戦の数値は群を抜いている。ちなみに零戦二一型は107.89 kg/m²、F4Fは115kg/m²、スピットファイア Mk. IXe149 kg/m²であり、各国戦闘機の設計思想がうかがえる。

一式戦は操縦性・安定性もきわめて高く、機体構造が強化されて以降は危険な飛行特性くなり、離着陸時の操縦性・失速特性も良好であった。

連合軍は一式戦の低高度・低速域における運動性・加速性の高さを脅威と見なしており、そのため「格闘戦を避け一撃離脱戦法の底」「速力と高高度性を生かし高速・高高度を維持する」「一式戦が不得意な急降下による離脱」といった対策を心がけるようになっていった。

■固定機関銃

「軽単座戦闘機(軽戦)」と定義される一式戦は、「運用的を対戦闘機戦闘に絞ることで武装の限定等の軽量化を可とし、低出力エンジンでも一定の性を確保する」という思想の元で開発されたため、並行開発中の「重単座戦闘機(重戦)」である二式戦とは異なり、開発当初は武装は(7.7mm・7.92mm級)機関銃と軽装とされていた(『陸軍航空兵器研究方針』)。当初はドイツ製のMG17 7.92mm機関銃が予定され、実際に試作1~3号機に2挺ずつ搭載されていた。

この機関銃は口径こそ従来の7.7mm機関銃と大差ないが、より発射速度と弾丸威力の大きい新で九八式固定機関銃の名で制式採用となった。ところが、使用するバネの産化が上手くいかずプロペラ同調に狂いが生じたため、4号機以降の増加試作機や一甲には従来の八九式固定機関銃(口径7.7mm)が機首に2挺装備された。

しかし1939年ノモンハン事件の戦訓や欧機情勢の研究によって陸軍はより威力の大きい口径12.7mm機関の搭載を模索、ホ101・ホ102・ホ103・ホ104の4種類の試作が始まった。

102イ式重爆撃機としてイタリアより輸入したBR.20搭載のSAFAT 12.7mm機関銃で、増加試作機の7号機と10号機に搭載して試験が行われた。ホ103は、アメリカM2 12.7mm機関銃航空機であるAN/M2 12.7mm機関銃(MG53-2)を参考に、ブレダSAFATの弾薬筒規格(もともとはイギリスのヴィッカーズ12.7mm×81SR弾。AN/M2 12.7mm12.7mm×99弾を使用)に変更・開発されたものであり、これは一式十二・七固定機関(一式固定機関)の名称で制式採用され、のちの陸軍航空機となる。

なお、1936年陸軍は「機関」と「機関銃」の区分を改正、「」に類似した構造機のものは「機関」および「」に類似した構造機のものは「機関銃」とすることとし、名称も制定時に振り分けられることとなっている(従来は口径11mm以下を一に「機関銃」と定義)。そのため口径12.7mmでありながら後述の榴弾を有するホ103は「機関」とされた(反対に榴弾は有しないものの口径13.2mmで、かつては「機関」であった九二式車載十三機関・ホ式十三高射機関は、それぞれ九二式車載十三機関銃・ホ式十三高射機関銃と「機関銃」に改称)。

一式戦は開発中だったホ103の生産にめどがついたことから機首左側の八九式をホ103へ換装することになり、これは順次施され一と称された。大東亜戦争開戦時までには全ての第一線機が最低でも機首右側に八九式を1挺、左側にホ103を1門装備の一となっており、7.7mm(八九式)2挺のみの一式戦は実戦には事実上投入されていない。八九式とホ103の交換は容易に可であるが、初期のこの混成装備のな理由はホ103は新鋭兵器であるゆえに数が不足しており、信頼性も考慮したためとされる。

一方で、開戦前に一式戦を受領する第64戦隊加藤建夫少佐は「自分がまず試し、いずれ全機を機関2門にしたい」と航空本部に上申し、戦隊長機たる自身の搭乗機にホ103を2門装備させている。第64戦隊長となる前の加藤少佐は航本部員であり、航本教育部員時代には性不十分なキ43自体の制式採用や、重量が重く新兵器ゆえに信頼性にも劣る機関の装備にも反対していたが、戦隊長として航本の頼美夫大尉(航本総務部員として一式戦採用に携わる。)から一式戦への機種改変を知らされた際には一切の不を言わず機体の研究に励み、他の操縦者達がホ103に対し信頼を抱かせるように機体受領時の時点で2門装備とさせている。

のちの一からは機首2門ともホ103装備となるが、上述の通りホ103(12.7mm)と八九式(7.7mm)の換装は第一線飛行部隊でも容易に実施可な作業であり、第64戦隊加藤少佐機のように既に開戦前にホ103 2門装備の機体も存在しているため、といったものは便宜的な区別に過ぎない。

103は発射速度も良好で、モデルとなったAN/M2 12.7mmにはない榴弾(炸裂弾)であるマ103が使用可かつ、より小軽量という長所がある一方で、軽量弱装弾のため威力や有効射程に劣るという短所もあった。初期はマ103機械式信管の不具合により、弾丸が身内で破裂して機体を破損するケース(腔発)が多発しており、このため、初期には身に鉄板を巻くことで腔発時の被害を少しでも軽減する措置がとられた。

しかしながら、ホ103・マ103の量産と並行してこれらの不具合も徐々に改良されていき、1943年後半には新103(新マ弾)が実用化され同年末から早急に実戦配備されている。この新103陸軍で新開発された空気式信管を使用することにより暴発事故減、かつ生産効率が(従来の複雑な機械式信管とべ)8倍に上がり、さらに信管機構が単純化されたことにより弾丸にスペースができ炸が増量されたため火力が増大した。当然ながら、大で重量のある弾丸を持ち炸および装量も多い本格的な20mm榴弾とべ、新103といえど12.7mm弾にすぎない本弾薬筒の威力には限界があるものの(高威力を望む陸軍は続いてホ103ベースとする口径20mmのホ5 二式二十固定機関開発・採用している)、実戦で新103を使用する一式戦と交戦したアメリカ軍機乗員は、その破壊力から「20mm弾が命中した」とよく誤認・報告していることが確認出来ている。

一式戦が搭載するホ103の装弾数は1門につき計270発で、弾種は基本的に一式徹甲弾弾薬筒・マ103・マ102(マ103と同じマ弾でありこちらは焼夷弾)の3種類を各割合1で使用していた。

■防弾装備

一式戦は1939年の試作段階から陸軍示により、被弾時の燃料漏れによる火災を防ぐため、燃料タンクの外装を薄い積層ゴム(3層)・フェルト布で包んだ7.7mm弾対応のセルシーリング式防弾タンク(防漏タンク・防火タンク・自動防漏式タンクとも)を有しており、これは制式化されたのちの一全機が装備している。

改良の二では、燃料容量36l減と引き換えに耐弾防火性に優れ12.7mm弾に対応する、航技研第2部開発の13mm厚積層ゴム(外装式3層)の新防弾タンクに換装。かつ、二1943年6月よりの量産型中島製5580号機より)からは操縦者の頭部と上半身を保護するため、操縦席後部に13mm厚・合計3枚・合計重量48kgの防弾鋼(防楯鋼12.7mm弾対応)を追加装備した。実戦配備の一例として、第64戦隊1943年7月19日時点でこの防弾鋼装備を補充機として受領している。

陸軍は欧機情勢の研究、およびソ連軍を相手としたノモンハン事件の戦訓によって海軍と異なり防弾装備の重要性を痛感しており、一式戦や二式戦といった次期戦闘機のみならず、九七式重爆撃機(キ21、1939年中頃の初期量産型の時点で燃料および潤滑タンクを積層ゴム等による防弾タンク化済。

1943年中頃の二からはさらに操縦席と後上方へ16mm厚防弾鋼・70mm厚防弾ガラスを追加、防弾タンクは16mm厚積層ゴムに換装し自動消火装置も装備)や、九九式襲撃機(キ51、1939年の試作時点から防弾タンクおよび、エンジン下面・操縦席下面・操縦席背面・胴体下面・中央下面に6mm厚防弾鋼を装備)といった力重爆撃機・襲撃機(攻撃機)でも々から相応の防弾装備を要し採用している。

後継戦闘機である四式戦では、新防弾タンク・13mm厚防弾鋼に加え防前面に70mm厚防弾ガラスを追加し撃たれ強い機体となっている。

これら防弾装備が考慮されていた一式戦であっても同世代欧機の装備(防弾タンクは効果に最も優れる内装式、防弾鋼は操縦席後部に限らず前部等にも取付、前後の防弾ガラス等)に劣っていたが、タンク・鋼と合わせて一定の効果が発揮された。

■搭載線機

一式戦では対地(地対線電信および電話通信用として、一は九六式飛三号線機を、二以降は九九式飛三号線機を装備している(ないし三の一部は量産型四式戦等が装備した出力強化ほか性向上であるム4 四式飛三号線機に換装)。「飛三号(とびさんごう)」は単発単座戦闘機向け近距離用短波線機の区分であり、九九式飛三号線機の間最大通信距離は高度約3,000mで半径100km強となる。一式戦の中線支柱は機首前上部のエンジン後部、操縦席から見て右前方に位置しケーブル状の中線(アンテナ)は垂直尾翼上端にかけてられている。

当時の日本の工業力の低さにより兵器全般の品質が安定せず、単発単座戦闘機が安定した通信が可な小線機で連携を取っていた欧には及ばず、エンジンの点火系統や工作精度の低い機体結合部から発生するノイズの遮断不足・不良による雑音混入の問題すら解決出来ないため、近距離なんとか聞き取れる程度の性限界であった。さらには戦地の劣悪な環境下や部品の補給不足、用兵側の意識の低さ、傍受されるのを防ぐため進攻時には線封止を行い受信のみとするなど、運用上の制約も重なり連携を取ることも難しかった。

陸軍は一式戦などの機体開発にあたってノイズ遮断等の対策に努め、後述の言や実例のように(初期の開戦時においても)決して不通なものではなかったものの、総合的には満足できるものではなく「使えなかった」と評する操縦者が多い。そのため手信号、を振る、線電信(モールス信号)で代用するといった行為で意思疎通が行われることが多かった。

一式戦闘機『隼』の各種形式

大衆文化

大東亜戦争が開戦し、大日本帝国は怒涛の進撃を開始したが、その栄の中で大活躍した。その中でも有名なのは『加藤戦闘』であり、その活躍ぶりは映画にもなった。

軍歌もあり、『♪エンジンの音 ごうごうと』と言う歌詞から始まり大ヒットした。

九里一漫画、『大空のちかい』では主人公房一の乗機が一式戦闘機・である。

生産数も海軍機の零式艦上戦闘機零戦)の次に多いが、戦後の一般認知度は圧倒的に劣るる意味不憫な名機である。

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