「北条氏政」(ほうじょう・うじまさ 1538 ~ 1590)とは、戦国時代の関東の覇者「後北条氏」の四代目である。
彼以前の3人(北条早雲・北条氏綱・北条氏康)は弄りにくく、次の5代目・氏直は空気すぎてつまらない為か、後北条氏のネタ方面を360度あらゆる方向から担当している、生まれる時代を間違えた男。
「北条記」においては、
四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪い企みに惑わされ、国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、どうやら無事であった。
と言う歴代当主中、最低の評価が下されており、唯一「君」で呼ばれていない。
しかし実際は、
じゃあなんでこんな風に書かれてるのよ?というと
と言った訳である。
だが大半の人間にはそんな事が分かる訳もなく、氏政の業績についてはある事ない事誇張されており、暗愚・凡愚・老害な扱いをされる事が多い。
北条氏政の逸話として有名な、食事の際に飯に味噌汁を二度かけた事から、父・北条氏康に
毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか。
(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない)
と呆れられたとされる話は、「北条記」等の所謂「軍記物」に出てくる後世の創作であり、これらは揃いも揃って完璧超人な早雲・氏綱・氏康の三代と、病死しなければ豊臣秀吉によって後北条氏を再興して貰った筈だと言われる氏直に対して、唯一「家を滅ぼした」と言う傷をもつ氏政をスケープゴートにし、滅亡した側の鬱憤を晴らしている様な物と言える。そもそも味噌汁と政治になんの関係があるというのか。
同様に、農民が刈り取っていた麦を、
あの取れたての麦で昼飯にしよう
といって刈り取ったらすぐ食べられる物だと思っていたと言う暗愚っぷりを表す逸話も、その内容の信憑性が疑わしい後世の著作「甲陽軍鑑」に記載されている物であり、「甲陽軍鑑」が武田家を主人公にした創作作品である事から、やはり改変しにくい氏康に対して脛に傷持つ北条氏政を武田家の相手ではない奴だったとする捏造を行っていると考えられる。
ま、こういう貧乏くじばかり引く人って実際いるよね。
曽祖父・早雲が基礎を築き、祖父・氏綱が飛躍させ、父・氏康が関東の覇者の位置を確立させた北条家の次男に生まれる。
兄・氏親が夭折した為、嫡男そして後継者として扱われるようになると、16歳の時に甲斐の武田信玄や駿河の今川義元と北条氏康との間で甲相駿三国同盟が成立し、武田信玄の娘で当時12歳の黄梅院と結婚する事となった。
政略結婚ではあったが両者の仲は良く、後の氏直ら子供達にも恵まれて幸せな家庭を築いていった。
父・氏康が45歳の時に隠居し、まだ20代前半の氏政が後北条氏の家督を譲り受けた。
「御本城様」と呼ばれた北条氏康の後見を受けながらではあったが、後北条氏の代替わり時に発生するイベント「検地して基本台帳を作り直す」作業を行って、納税の状況や家臣の担当割振の整理を行って「小田原衆所領役帳」に纏める等、父の民政家の面を引き継いだ腕を振るった。
また越後の軍神・長尾景虎が、父が川越夜戦でフルボッコにした山内上杉氏・上杉憲政から関東管領職を譲られて名を上杉政虎と改め、関東管領の名において関東に秩序を取り戻すと言う大義名分の元、関東を牛耳る不届き者の後北条を征伐するとして里見氏や佐竹氏を引き連れて進撃して来た事から、第二次国府台合戦にて雌雄を決する事になった。
父・氏康と共に迎え撃った氏政は、義堯・義弘の里見親子の奮戦により一度は敗走した物の、里見氏の油断とソナエイエローこと北条綱成の挟撃策により里見氏の軍勢を総崩れに追い込み、岩付城のドッグブリーダー太田資正を攻撃して佐野昌綱・北条高広・簗田晴助らを内通させて見事軍神を越後に撤退させて勝利を掴み取った。
甲相駿三国同盟を結んでいた駿河の今川義元が織田信長の奇襲により田楽狭間で討ち取られ、後を継いだ今川氏真だったが、国衆による今川への大規模な叛乱(3年間)があった。永禄6年を機に甲斐の武田信玄は今川氏との関係を改めて考えるようなったとされる。永禄8年、今川氏から娘をもらっていた武田義信(武田信玄の嫡男)が謀反の疑いにより廃嫡となった(二年後に東光寺で病死)。主に外交方針の相違があったと言われており、義信は織田と武田の同盟に反対していたとされる。信玄が織田信長や徳川家康と同盟した事や、氏真が氏康と共に永禄10年に甲斐に対して塩止め(塩の禁輸政策)を行った事や義信の件を機に上杉謙信との同盟を考え始め、氏真と謙信で内密に交渉を行う(この時、氏真が北条や武田との協議事項や機密事項を上杉側に漏洩する重大な同盟違反をしている)など、甲斐と駿河の関係が緊迫する状態が続き、永禄11年に信玄は今川と上杉の交渉に関する情報を得ていたとされる。信玄は「今川と上杉が通じ、示しあわせて武田を滅亡させようとしている」と北条氏に理解を求める書状を送っている。足利義昭と織田信長の仲介によって徳川と武田で同盟を結んだ後、永禄11年に信玄が駿河に侵攻した。
氏真が氏康の娘婿だった事もあり、援助を求められた氏政は援軍を送った物の、氏真は武田の軍勢に居城を落とされ、朝比奈泰朝が守る掛川城へと逃げ延びる事となり、氏康は武田信玄との同盟破棄を決めた。
かくして甲相駿三国同盟は消滅したが、夫婦が離縁する事は無く氏政は愛妻・黄梅院と共に仲睦まじく北条家で過ごしていた。しかし黄梅院は永禄12年に小田原城で27歳で死去(病死と言われている)。氏政と信玄の双方が彼女の墓を立てて弔っている。
※近年の論文、史料の再検証と供養記録の検証、氏政・氏直の研究により黄梅院は離縁も送り返されても無い事が明らかになっており、北条家で亡くなったと判明している。(1970年代に史料誤読があった事が原因と指摘されている)
甲相駿三国同盟の崩壊により、甲斐の虎・武田信玄と言う強大な敵が出現した為、氏政は、氏真と共に上杉謙信に援助を求め、頼まれたら断らない謙信の援護により、武田信玄を駿河から甲斐へ撤退させた。
その後、嫡子・氏直を氏真の養子にし、上杉謙信の元に弟(後の上杉景虎)を人質として送る等して越相同盟を結んだ所に、武田信玄が逆襲とばかりに小田原城へ攻めてきた為、長期戦に持ち込んで一度は撤退させたが、北条氏政が軍を率いた三増峠の戦いでは武田信玄に一敗地に塗れる。
その後も信玄が伊豆方面へと進軍してくると、伊豆衆と共にこれに対抗して頑強に抵抗して撤退させ、北関東に進軍すれば上杉謙信と連動して撤退させ…とそうこうしている内に徳川家康との戦いが激化した事で信玄の侵攻は収まった。
愛妻・黄梅院は27歳の若さで亡くなり、父・氏康も53歳で病死、
越相同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶ様に。
との父の遺言に従った北条氏政は、弟・上杉景虎を切り捨てる形で越相同盟を破棄し、信玄との間に甲相同盟を復活させた。
※武田側より庇護していた氏真を捕縛する必要を迫られたが、早川殿の機転・・・というかごり押しで小田原を脱出した氏真は家康を頼った。
同盟を一方的に破棄された物の、結局は悪役と言うことで納得したのか、謙信が関東出兵を再開して上野へ攻めてくると、対陣した北条氏政は結城晴朝を味方に付けて状況を有利に持ち込み、佐竹義重の軍勢に勝利して、上杉謙信を撤兵させた。
その後、武田信玄が没して四男の勝頼が嫡孫・信勝が独り立ちするまでの間と言う期限付きで武田家当主代行を務める事となり、氏政は妹を勝頼に嫁がせて甲相同盟を強化した。
※この頃、嫡男の氏直が初陣を飾っている。
武田信玄に続いて越後の軍神・上杉謙信が倒れると、軍神の養子となっていた長尾政景の子・上杉景勝と、氏政の弟・上杉景虎の間で後継者争いとなる「御館の乱」が勃発した。
当初は景虎が優勢だった物の、景勝が押して来る様になり、景虎からの救援依頼を受けた氏政は勝頼に援軍を依頼した。
しかし勝頼は既に景勝より多量の金品を贈られて同盟を結んでいた為援軍を送らず、氏政は妹の嫁ぎ先と言う事を忘れたかの如く怒って甲相同盟を破棄し、弟の中でも武勇の誉れの高い氏照と氏邦の二人を景虎の援軍に向かわせるも間に合わず、景虎は自害して果てた。
越後の景勝と甲斐の勝頼が結んだ事から、氏政は家康との関係を強くする為に使者を送り、父と同じ様に、19歳の嫡男・氏直に家督を譲って後見役となった。
そして織田信長が武田家を滅ぼし、重臣のタッキーこと滝川一益を管領に任命して関東に送りこんでくると氏政は一益と戦いながらも、織田家の外部勢力として関東を分国化する方策を示して信長の元で生き残らんとした。しかし交渉が捗らずにいた所、織田信長が本能寺の変で死亡。この織田家の混乱に乗じて勢力拡大を優先して上田の真田昌幸らを引きこんで一益を攻略し、総崩れとなった一益は関東から撤退し、永年謙信らと争った地・上野地方を手に入れた。
更に氏政は信長の突然の死により混沌な状況となった信濃を手に入れようと、弟の氏照と氏邦に信濃攻略を命じて諏訪地方に進出したが、甲斐へと乱入した家康と対決する事に。前線は当主の氏直と軍事に精通する氏照・氏邦に任せて、氏政は小田原城にて補給と募兵に専念した。
長期戦となった家康との戦いは昌幸が徳川方についた事をきっかけに沈静化し、家康の娘・督姫を氏直の嫁に向かい入れて和睦と同盟を結んだ。
※この時に、せっかく入手した信濃の領土を家康に渡すと共に、昌幸が沼田を渡す事を拒否して上杉氏に走り、領土問題を抱えてしまったことが、滅亡への伏線となった。
傀儡としていた古河公方・足利義氏が死ぬと、その権力を掌握して関東における最高権力者の身分を手に入れた氏政は、利根川と常陸川の流通を掌握して関東の国人や豪族に後北条氏に従うか否かの選択を強い、那須氏と組んで下野の南半分を奪取する等、信濃をとられた腹いせとばかりに勢力拡大に尽力し、それまでの、
にプラスして
を支配下に置き、後北条氏では最大の版図を築いた。
その頃、信長の事実上の後継者となった豊臣秀吉が時の権力者にのし上がり、氏政・氏直親子に上洛を迫ったが、成り上がりの秀吉に対して氏政が弟の氏照・氏邦と共に空気が読めないかの如く強硬姿勢を取り、空気を読める氏直や氏規との間で意見が纏まらなかった。その間にも関東で小競り合いを続けていた為、いつ自分に火の粉が降ってくるかと考えた同盟者である家康より、
との絶縁状ともとれる起請文が送られた。
流石の氏政も家康まで敵に回すのはまずいと思ったのか、まずは弟の氏規を上洛させ、沼田の真田領を名実共に北条領に帰属させてくれるなら北条氏政が上洛するとして、北条氏規が交渉している間に小田原では臨戦態勢を整えた。
そんな一触即発な中で、弟の家臣だった北条一の駄目武将振りに定評のある猪俣邦憲が、真田領の名胡桃城を攻略し、城主の鈴木重則が落城の責任をとって自害すると言う事件が発生した。
※猪俣邦憲の件は、後北条氏との間で領土問題を抱えていた昌幸が後北条氏を滅ぼす為秀吉に喧嘩を売る事になる様に仕組んだと言う説がある。
事ここに至り、秀吉は小田原征伐を決定して宣戦布告。対する氏政は、重臣・松田憲秀の献策を受けて(←フラグです)、信玄や謙信も攻略できなかった広大な北条領の100ヶ所に及ぶ城全てを籠城させて長期戦に持ち込み、豊臣軍が撤退する所を追撃する、という作戦をとった。
一般にこの戦いにおいて、豊臣秀吉は豊富な財力と動員力を活かし、20万を超える大軍勢にきちんと補給を行き渡らせていたとされているが実際はそうではなく、時間経過と共に豊臣軍からは脱走者が増えていった。氏政の作戦は決して間違っておらず、勝算はあったのである。
しかし小田原城の目の前に石垣山一夜城を築かれると、鉢形城を守備していた弟・北条氏邦が開城して前田利家に降り、韮山城を守備していた氏規も開城した。さらに秀吉から氏政の元に、籠城を進言した松田憲秀らが秀吉側に通じている書状を送りつけられる。
この時点で、小田原城と忍城が籠城戦を続けていたが、当主の氏直が自らの切腹と引き換えに籠城している者たちの助命を乞い、降伏した。
※この逸話により「小田原評定」とは、延々議論を重ねても結論が出ない悪い例として使われる言葉となったが、本来は後北条氏が定期的に行っていた評定の事である。
※氏直ではなく氏政が最初に切腹を申し出るべきではとも思われるが、当時の北条家当主は氏直なので、当主を差し置いて隠居人の氏政が敗れた武家の棟梁の最期のケジメである切腹を申し出るのは、当主を蔑ろにする行為になる。
当初は家康の尽力によって氏直は助命されるかにみえたが、小田原征伐の責任をとるという名目で、
という処分を下された。そして氏政も切腹を命じられた。
最期の日、弟・氏照と共に、沐浴して辞世の句を詠んだ氏政は、助命され後北条氏を残す事になる弟・氏規の介錯をうけ、氏照と共に医師・田村安栖の宿所で切腹した。享年53歳。
こうして治世であれば名君の評価を欲しいままにしたであろう仁政家は、身を滅ぼしたのだった。
「雨雲の おほへる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空より来り 空に帰れば」
高野山に追放された氏直は、秀吉より大名として復活させる話が出た頃に病死した為、戦国大名の後北条氏は完全に滅亡し、氏規らの家系のみが残った。
※その他「北条氏政」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
『北条五色の力、結集させよ!』
声:梶裕貴
Ver1.2で追加された北条家のスーパーレアとして登場。色は黄色。
イラストレーターは、織田信勝などイケメン武将に定評のある黒葉.K先生(弟の上杉景虎も担当)。
信長の野望やBASARAとまったく違う、覇気にあふれた超イケメン武将である。
コスト2・槍足軽・武力6・統率7・防柵・魅力持ち。やはりコスト2・武力6はやはり足を引っ張る。というか盾槍もくれ。
計略「五色の采配」は、北条家の味方の武力が上がる大名采配。範囲内に北条家の武将が5部隊(以上でも以下でもなく五色でもなく)いるときは、さらに統率力が上がる。
統率+を生かした計略コンボを生かすと良いかもしれない。
中でもR北条氏康のコンボである牙城五色は範囲外に押し出せないなどデスコンの一つとして数えられている。
北条家に使いやすい大型采配がこれしかなかったことが幸いして(というか北条家はカード数が少ない)、Verを下るごとに効果時間が削られ、全盛期は三国志大戦で言う「劉備の大徳(範囲が超でかい円形)」と見紛うばかりの範囲も今はかなり狭くされてしまっている。更に統率上昇値まで削られた。氏政は泣いていい。
その後範囲と統率上昇値は戻され、2.2現在は先祖の北条早雲のお供として採用される事もある。
余談だが戦国大戦での五色備の総コストは10であり、氏政も含めると12(登録出来るのは通常9コストまで)。よって五色備全部入れての五色という事はできない。というかそれだと6部隊になるし。
Ver2.1では壮年期の氏政が登場している。青年期のイケメンっぷりは見る影もなく、白目を剥いたマッチョになっている。どうしてこうなった。
騎馬隊であり武力と統率のバランスが良く、更に柵も持っている。総合スペック的には優秀である。
計略「孤塁の采配」は北条家の味方の武力を上げ、更に騎馬隊であれば突撃した時の敵の吹き飛びが大きくなる。ふっ飛ばし効果の方はそれほど大きくないが、それよりも士気6で武力+5という一般的な大名采配に求められるものを満たしているのが大きい。効果時間も長め。
最強戦法「獅子天雷閃迅槍・絶牙」
・・・「槍衾之二」です。と言うか・・・この盆暗顔を描いたのは誰だ!
※能力値もひどいことに・・・体験版だからだと言ってよコーエーさん!
革新 | 統率 | 75 | 武勇 | 51 | 知略 | 69 | 政治 | 83 |
天道 | 統率 | 47 | 武勇 | 51 | 知略 | 23 | 政治 | 45 |
製品版発売後、この凡愚な氏政はチュートリアル限定であることが明らかに。能力値もむしろ革新よりUPしてました。
※同じコーエー作品であるGREEの100万人の戦国無双では、いとしのカミさんに似たのか、お茶漬け片手に、爪も牙もなさそうなボーっとした男の子として登場。このまま本編に出して良いのか!?コーエーさん!?
▼いきなり柊かがみに求婚し、幾多の激闘(笑)を越えて泉家に仕えることになった「らきすた☆立志伝」
▼愛妻の梅(黄梅院)の尻に敷かれ、あずささんに翻弄される「アイマス立志伝」
老成剛毅
第一作目「戦国BASARA」からNPCとして登場し、英雄外伝より操作可能になった。
先祖の威光にすがり、各勢力間で翻弄される情けない老将として登場する。・・・50代で死亡した史実から考えてもありえない設定である・・・なぜこうなった。
しかし3と宴では豊臣に敗北した事がきっかけか民衆思いかつ部下思いな性格が垣間見えるようになり、頼りなさそうなのは相変わらずではあるものの名君らしさを感じさせる性格に変化した。
そのせいか、味方から体を労わってもらうような台詞が増えたような・・・
やはり「家を滅亡させ己も自害に追いやられた」と言う最期が災いし、父以前の三世代には及ばない。だが決して無能では無く、近年の作品では再評価も進み、大大名北条家の当主としては十分な能力と言えよう。
作品名 | 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
全国版 | 知能 | 106 | 健康 | 91 | 魅力 | 88 | 野心 | 101 | 運 | 104 | |||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 56 | 政治 | 74 | 魅力 | 93 | 野望 | 78 | |||||||||
武将風雲録(S1) | PC | 戦闘 | 45 | 政治 | 64 | 魅力 | 79 | 野望 | 55 | 教養 | 71 | ||||||
DS | 戦闘 | 67 | 政治 | 83 | 魅力 | 79 | 野望 | 55 | 教養 | 71 | |||||||
覇王伝 | 采配 | 84 | 戦闘 | 66 | 智謀 | 51 | 政治 | 74 | 野望 | 76 | |||||||
天翔記 | 戦才 | 138(B) | 智才 | 108(C) | 政才 | 152(A) | 魅力 | 85 | 野望 | 76 | |||||||
将星録 | 戦闘 | 64 | 智謀 | 54 | 政治 | 72 | |||||||||||
烈風伝 | 采配 | 75 | 戦闘 | 52 | 智謀 | 53 | 政治 | 63 | |||||||||
嵐世紀 | 采配 | 60 | 智謀 | 46 | 政治 | 55 | 野望 | 77 | |||||||||
蒼天録 | 統率 | 57 | 知略 | 45 | 政治 | 54 | 野心 | 77 | |||||||||
天下創世 | 統率 | 63 | 知略 | 55 | 政治 | 63 | 教養 | 64 | |||||||||
革新 | 統率 | 75 | 武勇 | 51 | 知略 | 69 | 政治 | 83 | |||||||||
携帯版 | 戦才 | 69(弓兵) | 智才 | 53 | 政才 | 63 | |||||||||||
天道 | 統率 | 82 | 武勇 | 63 | 知略 | 78 | 政治 | 89 | |||||||||
創造 | 統率 | 79 | 武勇 | 62 | 知略 | 77 | 政治 | 86 | |||||||||
戦国立志伝 | 統率 | 79 | 武勇 | 62 | 知略 | 77 | 政治 | 86 | |||||||||
大志 | 統率 | 79 | 武勇 | 61 | 知略 | 79 | 内政 | 80 | 外政 | 84 | |||||||
新生 | 統率 | 80 | 武勇 | 67 | 知略 | 78 | 政務 | 81 |
一族 | 家臣 | 関連人物 | |
掲示板
316 ななしのよっしん
2023/10/13(金) 07:58:12 ID: NWoBoMPWj8
この人とゆうか、後北条氏は西日本に全く関心を持たなかったのが良くも悪くも大きかったな。
317 ななしのよっしん
2023/10/24(火) 10:02:26 ID: /DnYPNTvhy
氏康は会戦は強かったが、今川里見長尾武田と立て続けにガッツリ攻め込まれまくったあげく、そのほとんどに不利講和で実入りがないにっちもさっちもいかなさがあるんよね。
氏政は兵を動員すると弱いが、領地保全という意味では氏康より機能的に外交している。結果としては氏康より豊かで広い国を作った。
武略・内政型の氏康と、機略・外政型の氏政という像が浮かんできて、「よくわからんが戦国時代の真ん中で争覇したから氏康が優秀!」というアホな切り口は最近減ってきたように感じる
漫画センゴクでは一番しんどくて手が回らない死に方をしたのは氏康だったね
318 ななしのよっしん
2023/11/05(日) 22:15:16 ID: gR/WOdYAaN
朝か昼に燃料や保存の関係で一回炊いて保存だから冷める固まる、それを食べるための湯漬けで基本は文字通りお湯かけるだけなのになぜ味噌汁になってるんだ
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最終更新:2025/04/24(木) 08:00
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