奴隷とは、人間であるにもかかわらずその人格を否定もしくは制限され他者の所有の対象とされる者を指す。
人間を奴隷とすることは有史以来行われてきた労働形態の一つである。歴史的には戦争で敗北した者(戦争捕虜)、債務を払えなくなった者(債務奴隷)、共同体内部で形成された被差別階層に属する者などが奴隷とされてきた。奴隷制社会は多くの場合捕虜獲得のための戦争と奴隷売買貿易の発展を伴うとされる。大航海時代後にはアフリカからの労働奴隷輸出が一大産業として世界的な貿易の一翼を担った。
一般的に奴隷制といえば、その非人道的な取り扱いが想起されるが、これは多くアメリカ黒人奴隷の悲惨な境遇のイメージに拠っている。実際には地域や時代によって奴隷の待遇や地位は異なる。古代ギリシア・ローマ時代には高い教養を持ち教師や秘書として主人に仕えた奴隷もいるし、イスラム世界では奴隷身分から執政官や君主になる事例もあった。オスマン帝国では奴隷としてハレム(後宮)に入れられたのち、スルタンの正妻、そして次期スルタンの母となった女性も存在する。ただし、そのような時代であろうとも農場や鉱山で酷使される奴隷は変わらず存在し続けており、すべての奴隷の待遇が良かったわけではない。
いずれにせよ他者の所有の対象であって、自由を制限され差別の対象となっていることに変わりはなく、多くの場合過酷な労働を強いられ、虐待(性的なものを含む)されることもあった。
現在、世界の多くの地域で奴隷制は公的に廃止されている。一方で、人身売買や略取などによって奴隷状態に置かれている人々も多く存在する。また、女性や子供を被所有物とみなす慣習、労働制度の欠陥、権力による強制労働などによって職業選択の自由を喪失した状況を事実上の奴隷状態とみなすことも可能である。
有史以来、歴史の記録が存在する文字が生まれたころから『奴隷』の記録は存在する。
有名なハンムラビ法典でも奴隷の扱いについて言及されている。ハンムラビ王の統治期間である紀元前1792年から紀元前1750年ごろに定められた法律に『他人の奴隷の目を潰したり骨を折った者は奴隷の値段の半分を支払うべし』と書かれている。世界最古の文明を作ったシュメール人の社会の中にも既に奴隷が存在していたのである。なおこういった暴力の制裁金の法律は身分によって違い、『貴族が貴族の目を潰したら潰した側も目を潰されるべし』、『貴族が平民の目を潰したり骨を折った場合は銀1マナを潰した者に払うこと』といった具合に身分によって制裁の基準が違う身分社会であったことも覚えておきたい。ハンムラビ法典には奴隷に関する法律も盛り込まれており、借金が返せなくなった者は貸した者の奴隷になると定められるが、それも終身ではなく借金が返し終わったら、もしくは3年経ったら解放されるとも定められている。
金持ちが奴隷を多数集めて力を握って一種の勢力になるのを防ぐためで、ハンムラビ法典を作ったハンムラビ王自身が王に君臨するまでにメソポタミア文明の中で分裂した都市国家同士で戦乱と勢力争いの末に天下を取った経緯があるからである。
ハンムラビ法典はハンムラビ王が支配するバビロニアの滅亡後のヒッタイト、アッシリア、イスラエルの時代も国家の法律の基準にされ、その後も小国家の運営の法制度の参考になり現代にいたっている。
国家観の戦争がメソポタミア文明の都市国家同士での戦争から、ヒッタイトやアッシリアのような大規模な王国同士での戦いになると、奴隷制度の形は現代人がイメージとするような一生道具扱いの奴隷の制度に変わってくる。こういった奴隷が出てくるのはアッシリア王国が頭角を現した紀元前1300年ごろであり、このころには既に奴隷商人が存在して、性の道具として若い女性や労働力として男性が奴隷商人によって捕らえられ、金で売り買いされて逃亡でもしない限り主人の道具として扱われるのである。
アッシリア王国はこの奴隷市場を管理して抑え、奴隷売買の収益から税を取って王国の繁栄に使った。国家権力による奴隷制と搾取の時代の始まりである。
なお奴隷売買のスタイルを確立したアッシリアもまた紀元前612年に首都ニネヴェが陥落し、市民は捕らえられて奴隷にされ、アッシリアを倒した新バビロニア王とメディア王の所有物として外国に売られ、新たに誕生した王国の資金源にされた。皮肉なものである。
この時代以降、奴隷狩りから奴隷売買のスタイルはエーゲ海文明のギリシャからペルシャ帝国まで共通で、このスタイルは後世も国家権力の下で奴隷狩りと奴隷売買をするシステムが確立されていく。このシステムは既にアッシリアの時代から古代インドにまで通じ、紀元前2000年ごろからあった中国の黄河文明の奴隷制と陸続きになり、当時のユーラシア大陸全土に奴隷システムが定着した。
奴隷狩りと奴隷売買は近代の19世紀まで形を変えながら世界各国で行われ、現代でも紛争が絶えない中近東やアフリカなどでは小規模ながら現地住人や交戦相手国の住人などを対象にした奴隷狩りや奴隷売買が行われている。現在も国際問題になっている難民のなかにもそういった勢力から逃れるために国を捨てて流浪の生活をしている人たちがいる。
大航海時代にアメリカ大陸を発見したスペイン人とポルトガル人は、中南米の国々を軍事力で滅ぼして植民地にし、奴隷狩りを行って現地人のインディオたちを奴隷にして植民地に住みついたスペイン人やポルトガル人のために働く道具にしていた。が、あまりにもその酷使が苛烈を極めたのと疫病が流行ったなどの理由のためにほとんどの奴隷が死んでしまった。労働力不足に困ったスペインやポルトガルは大航海時代に植民地にしたアフリカの黒人をアメリカ大陸に輸送して奴隷にした。これがアメリカ大陸での黒人奴隷の始まりである。
なぜ黒人が奴隷になったのか、それは当時の黒人とヨーロッパの白人の力量差があまりにも大きかったからである。実際に奴隷狩りを行って捕らえた黒人を奴隷売買したのは同じ黒人の地元勢力であるが、ここでも国家間の戦争のあとに負けた国の国民が奴隷狩りで奴隷にされて売買されるという構造がそのまま受け継がれているのである。
北アメリカではイギリス国教会の抑圧から逃れてきたプロテスタントのイギリス人が入植してきて東海岸一帯がイギリスの植民地になるが、原住民であったインディアンたちは中南米のインディオたちが白人に奴隷にされて次々に死んで滅んで行っていることを知っているので、白人とは付き合っても侵略してきたら抵抗するようになっていた。
奴隷狩りがうまく行かないうえに、既に中南米ではスペイン人たちが黒人奴隷をアメリカ大陸に持ち込んで奴隷売買するシステムが構築されていたので、スペイン人から黒人奴隷を輸入するようになり、そのうちにイギリスが自らアフリカの植民地に赴いて奴隷狩りをしてアメリカに輸送する態勢に変わっていく。アメリカに輸送された黒人は奴隷として品物であることを示す焼印が押され、奴隷市場で富裕層を中心に労働力として売り払われる。奴隷には一切の人権が無く動物も同然であり、どんな苦役を指せようが持ち主の自由であり、仕事が遅ければ鞭で叩き、抵抗すればリンチするも自由、殺しても罪になることはなく、女の奴隷が子供を生んだら子供は奴隷の持ち主のものとなり、持ち主の判断で売ることも出来た。もはや家畜なのである。そんな黒人奴隷は白人にとっては有益な労働力としてアメリカの開拓とともに需要は高まり、イギリス領時代だったころの1680年には60万人程度だった黒人奴隷は独立後の1820年になると320万人にまで増加し、奴隷制が廃止される1860年代までに約950万人の黒人奴隷が輸入されたと考えられている。
16世紀から200年にわたって続いた奴隷貿易も19世紀に入ると急速に衰えて終焉の時代を迎える。
原因は1781年の奴隷船保険金殺人事件「ゾング号事件」であり、アフリカからアメリカ大陸に向けて400人余りの奴隷を積み込んだ船が航海中に船内で疫病が発生し、船内で蔓延して60人余りの奴隷の死者が出た。奴隷が商品にならないと判断した船長が奴隷船と奴隷に多額の保険がかけられていることから病気や体調不良とみられる奴隷を縛って海に放り込んで殺して保険金を得る方針に切り替えて、130人余りの奴隷を生きたまま海に放り込んだ。
到着時には奴隷の数は半分に減っており、船長は保険会社に請求したが異常な死亡数だったことから不審に思った保険会社は支払いを拒否して裁判になり、この奴隷船裁判が進むうちに乗組員の取り調べも進められ、やがて奴隷たちを生きたまま海に放り込んで阿鼻叫喚の中殺した事実が判明してくる。するとイギリスでは即座にマスコミが新聞で報道され、凄惨な殺人行為がセンセーショナルに伝わって社会問題化した。結局、奴隷船を持っていた貿易会社はイギリス国民の猛バッシングを受けて裁判も敗訴、保険金は支払われなかった。
やがて奴隷狩りから奴隷貿易までの奴隷の扱いや苛烈極まる労働に売買の現場などが当時の絵師によって細かく新聞に載せられて世間に知れ渡るとイギリスの聖職者を筆頭に奴隷廃止の国民運動が巻き起こった。当時イギリスは産業革命の真っ最中で、一般人は資本家の利益のために最低賃金で1日14時間労働を強いられて過労、労災、職業病などで苦しめられていたため黒人奴隷に共感して奴隷制反対運動が巻き起こり、何度も議会で否定されながらも粘り強く奴隷廃止運動が続き、1807年にイギリスで奴隷貿易が廃止された。それにアメリカが続き、ハイチで黒人奴隷の反乱がおきたフランスでも奴隷貿易は廃止された。
奴隷貿易は廃止されたが欧米諸国とその植民地には奴隷制度自体は残り、存在し続けた。
しかし奴隷貿易の廃止にいち早く動いたイギリスの動きに感化されてヨーロッパ各国で奴隷制廃止の声が高まり、フランスが奴隷制を廃止、中南米のスペインの植民地では独立戦争の際に奴隷だった黒人たちも参戦していたことから独立した際に黒人たちが奴隷に戻ることを拒否したため奴隷制が成り立たなくなり相次いで奴隷制を廃止していた。そしてアメリカ、キューバ、ブラジルだけが1850年代に入っても奴隷制を維持していた。
アメリカではのちに大統領になるリンカーンが22歳のとき、ニューオーリンズで生まれて初めて奴隷市場を見た。人種は違えど同じ人間が鎖で縛られてセリにかけられ売り買いされて持ち主に焼き印を押されるところを見て衝撃を受ける。その後リンカーンは25歳でイリノイ州議員、27歳で弁護士になり奴隷制が黒人への人権蹂躙でありアメリカの恥だと世間に向かって解くようになり、アメリカ国内に奴隷制廃止を訴える動きが起きる。
しかし奴隷制廃止に動いたのは工業化が進んで奴隷よりも黒人を労働力として取り込みたかった北部であり、農業中心だった南部では賃金が要らない無料の労働力としての奴隷を維持しようとして反発し、北部と南部で利害を含めた対立が深まった。
言うまでもないが南部の言い分は黒人の立場や意見など全く無視した南部白人の身勝手な言い訳である。現に南部では白人よりも黒人奴隷の方が人口が多くなった州もあり、各地で奴隷の反乱が起きていたほどで実態とはかけ離れた主張であった。
リンカーンが大統領に就任すると、奴隷制廃止に動くことを恐れた南部の奴隷州がサウスカロライナ、フロリダ、ジョージアを皮切りに次々にアメリカ合衆国を脱退し、南部の奴隷州が集まってアメリカ連合国を形成し、大統領選を行ってデービス大統領が就任し事実上の独立を果たした。
これ以上の分裂を許すわけにはいかないリンカーンは最初は奴隷解放を口にしなかったが、南部のアメリカ連合国は軍事行動に出て南部サウスカロライナ州にあるアメリカ合衆国の軍港の要塞を攻撃して制圧してしまう。軍事行動に出られたことでリンカーンはアメリカ連合国のメリーランド州とバージニア州に取り囲まれた首都ワシントンが連合国に襲われることを恐れ、ワシントンに合衆国の軍を集結させて首都防衛に動いた。その後まもなく戦闘が始まり、アメリカ合衆国VSアメリカ連合国の戦争、いわゆる「南北戦争」が口火を切った。
当初は工業力と経済力で大きく勝る合衆国軍が勝って短期で終わると考えられたが、連合国軍はリー将軍を中心とする有能な軍指導者によって効果的な戦略と戦術を取って合衆国軍に大損害を与え、リンカーンにとっては想像以上の難敵となっていた。リンカーンは1863年1月にアメリカ全土に向けて奴隷解放宣言を出し、既に奴隷制を廃止していたイギリスとフランスが支持して世論を完全に味方を付けると合衆国軍の士気が向上、ペンシルベニア州ゲティスバーグで連合国軍と合衆国軍が総力戦の激しい戦闘になり両軍2万人以上の死者を出す死闘になったが、ここで連合国軍の進撃を止めたことで合衆国と連合国の戦況が逆転した。この激戦で連合国軍は大きく戦力を消耗し、長引く戦闘で工業力で劣る連合国軍は戦力の補充が衰えていき、リー将軍をもってしても敗色が濃厚となって行った。
1864年、リンカーンが2期目の大統領選で当選すると既に選挙区は合衆国軍が圧倒していたことから再び奴隷解放を強く訴える演説を行い、合衆国軍は連合国軍を追い詰め、アメリカ連合国の首都リッチモンドを総攻撃するために周囲を制圧させて孤立させる戦略を取った。
1865年に入るとリッチモンド制圧も間近に迫り、リンカーンは3月の大統領就任式で大統領演説を行い、南北の禍根を消そうとアメリカ連合国に融和的な態度を取って、アメリカの再統一を強く訴えた。なおこれがリンカーンの最後の演説となった。
その後まもなく連合国の首都であったリッチモンドが陥落、リンカーンは占領したリッチモンドに赴くと黒人たちから大歓迎を受けた。
1865年4月9日にリー将軍が降伏してアメリカ南北戦争は事実上終結、しかし南北戦争が終結した僅か6日後に、リンカーンはワシントンのフォード劇場で南部白人俳優の凶弾によって暗殺されて56歳の生涯を閉じる。その僅か2か月後にアメリカは再統一が宣言され、黒人たちは市民権を得た。しかし黒人たちは市民権は得ても全く経済力のない無力であったために南部では白人の言うことを聞かざるを得ず、実質的な自由はなく黒人は差別され続け、現在に至るまで人種差別は残っている。
日本にも当然ながら奴隷は存在していた。アメリカの黒人奴隷を引き合いに出して日本には奴隷は存在しなかったなどという論調があるが、全くのデタラメであり古代から日本にも奴隷は存在し奴隷身分も存在した。名目上は禁止されても波及することなく奴隷狩りと奴隷売買のシステムは存在していたのである。
古くは律令制が誕生する前の邪馬台国の時代で既に奴隷は存在し奴婢(ぬひ)と呼ばれた。卑弥呼が当時三国時代の中国の魏王朝に奴隷を貢物に差し出しており、律令制が始まる奈良時代、平安時代にも農民の有力な地主の下で働かされ、それらは所従もしくは下男と呼ばれ寝食を与えられるだけで無給で働かされていた。このスタイルは鎌倉時代から室町時代にかけても続いており、そういう所従や下男は奴隷狩りを家業とする人さらいが農民を拉致して人身売買を営む人買いに売り、人買いが裕福な家に売ることで奴隷となる。
要は前述した奴隷狩りと奴隷売買のスタイルは古代から中世にかけても日本で存在していたのである。当時の鎌倉時代の奴隷システムの悲劇を描いた民話があるくらいで、なかでも『山椒太夫(安寿と厨子王)』は有名である。
戦国時代においても敵国に攻め入った際には「乱捕り」と呼ばれる略奪が行われるが、略奪対象は金品物資だけでなくそこの住民を捕えて人身売買の商品とする事も多かった。戦国最後の戦となった大坂夏の陣でも人をも摑まえる乱捕りが行われていたことが『大坂夏の陣図屏風』に描かれている。
江戸時代になると身分制が整備されて奴隷制は事実上廃止されたが、それでも借金のカタという名目で若い娘などが人買いに売られる人身売買は後を絶たず、農村にも貨幣経済が定着するとともに借金のカタと言うことで土地を失った農民が土地を買い集めた有力農民の地主の下で働かされる小作人による関係が生まれた。つまり借金を理由とした人身売買は続いていたのである。
また、江戸の吉原や京都の島原など遊郭ではやはり若い女性が借金のカタなどで売られ、遊女として性接待を生業としていた。
こう言った人身売買は戦前の昭和まで続き、昭和恐慌の時代には生糸の暴落で困窮を極めた東北地方の農家では若い娘を人買いに売りに出す農家が続出し、娘の身売りは社会問題化した。売れたのは若い女だけであり、人買いに売られた少女は都会に連れていかれ、それまでの旅程で甘いお菓子や綺麗な服を人買いから与えられて、貧しい農家の生活から解放されると期待して人買いについて行き、都会で人買いから売られたときに、それまで買い与えた費用に暴利な利子を付けて請求されて借金を背負わされる。その借金を肩代わりするという名目で少女は莫大な借金を返すために無給で働かされる。何も知らない若い少女を甘いエサで釣って奴隷に落とすのである。
こうして売り物にされた少女は夜の街の歓楽街で風俗店や料亭などで性接客をさせられ、莫大な借金には法外な金利を付けられて一生払い終わることのない借金と過酷な仕事に苦しめられ、多くが絶望して自殺して行った。昭和初期には海辺で若い少女の自殺した死体が引き上がることが多かった。
こうした金に絡んだ人身売買も戦後はGHQによって禁止され、現在は人身取引は人身売買罪が成立し、警察庁によって厳しく取り締まられ処罰対象になっている。
その後もアジア人やアフリカ人の貧困住民を低賃金労働者の移民という名目で実質的な奴隷船として輸送する例は後を絶たなかったが、戦後は国連によって人身売買は全面的に廃止が進められ、毎年7月30日を人身売買反対世界デーと称して国連事務総長が人身売買の撲滅と反対を宣言する声明を出している。
現在でも犯罪という非合法の形で人身売買は存在し、それらの被害に遭うのは決まって何も知らない子ども、多くは女の子である。無知に付け込んだ人身売買と奴隷化を許さないために、国際社会は常に声を上げ続けなくてはならない。
ボンデージ/SMにおける性的なモチーフとして、対象の人格を否定し、服従させた状態を奴隷と呼ぶ場合がある。性的倒錯の形態としては比較的広く認識されており、成人向けゲーム・漫画などでよく取り上げられる題材である。紳士淑女諸君においては奴隷と聞くとこちらの意味にとる方が多いかもしれない。
相手の同意を得たロールプレイ(ごっこ遊び)ならともかく、同意のない相手を何らかの手段で現実に奴隷とし拘束することは法律に抵触し処罰の対象となりうる。
辞書によっては結婚を「奴隷、女奴隷、主人、女主人からなるが、総計すると二人しかいない」と定義している場合がある。この定義は結婚を解消する自由が存在し行使可能な限りにおいて不正確である。
物語の中でも、「奴隷」という存在は様々な形で扱われている。
史実の中での奴隷を描いた作品としては、黒人奴隷の悲劇を描いた『アンクル・トムの小屋』は南北戦争直前のアメリカで大きな反響を起こした。
現代日本を舞台とした作品では奴隷という制度は存在しないが、いじめの一環や非合法組織の手法として人を「奴隷」扱いする作品は多い。
現代に書かれた物語に登場する奴隷は、救われるべき哀れな存在か、あるいは主人に反逆し自らの奴隷と言う立場からの脱却を図るものが多い。奴隷・奴隷制は批判されるものであり、それを打破する事が物語の王道と言える。逆に、奴隷・奴隷制を肯定的に描く作品は極少数である。なぜなら、現代を生きる人間にとって、奴隷とはすでに克服した過去の過ちだからである。
したがって、奴隷に関して読者の共感を得て物語の登場人物に感情移入してもらうためには、奴隷・奴隷制を否定することが求められる。物語上、大きい声を上げての奴隷の存在や奴隷制の否定ができない設定であろうとも、悪人側が奴隷に対して非道な扱いをしているのを強調し、主人公側はせめて奴隷制に内心は反対している程度の描写は入れなくては登場人物に正当性を与えることは難しいだろう。
奴隷制を大声を上げて否定できない物語などで、代替的に「奴隷にやさしい主人」の描写が使われることがある。たとえ主人公が奴隷を所有していようが、彼らによい待遇を与えているから問題ない、という手法である。が、この描写は裏を返せば「主人がやさしければ奴隷制も悪くない」とも取れてしまう事には注意が必要である。
日本人にとってはピンと来ないかもしれないが、上であげた『アンクル・トムの小屋』でさえ、本国アメリカの黒人の間では「やさしい白人の主人のもとで幸せに暮らす黒人奴隷」という描写は奴隷制を肯定するようでよくない、と批判されている。アンクル・トムという呼び名は「白人に迎合する黒人」として蔑称にもなっている。
現実世界とは別の世界を舞台とするハイファンタジーにおいても、奴隷が登場する作品も多い。複数の種族が存在する設定であるならば、特定の種族が奴隷とされていることもある。
なろう系小説では奴隷を仲間にする展開がちらほら(特に復讐系)
仲間になる奴隷は獣人などの亜種族かつ女性であることが多いがたまにガタイのいいオスケモ獣人が仲間になったりもする。
奴隷だった少年が立身出世して英雄になる物語は王道であり、あるいは元奴隷が過酷な扱いをした主人に復讐をする物語というのもありふれている。
主人公が奴隷扱いだったキャラクターを解放して、そのまま仲間にするというパターンもある。
史実に倣って、性行為目的で女性を奴隷とする作品がある。いわゆるピカレスク的で露悪的な作品であり、嗜虐的な性癖や支配欲を満足させるために女性を人扱いしない作品が多い。場合によっては王族などの高貴な立場の女性をあえて奴隷という最下層に落とすことを楽しむ作品もある。それを手っ取り早く達成する手段として、魔法が存在するファンタジー作品では奴隷を制御するための便利な魔法が開発されていることも多い。
その一方で、奴隷として買った少女をひたすら愛でる『奴隷との生活 -Teaching Feeling-』が大ヒットするなど、上記にある「奴隷を解放して仲間に」の変形で「奴隷を解放してヒロインに」というムーブをする作品もある。
上記の「奴隷を解放して仲間に」「奴隷を解放してヒロインに」のさらに変形として、「奴隷を買って仲間に」「奴隷を買ってヒロインに」という作品もある。古くは『ランスシリーズ』のシィル・プラインが当たるが、近年では異世界転移・異世界転生の物語でも採用されることがある。
掲示板
287 ななしのよっしん
2025/02/26(水) 21:14:03 ID: yU2VLKqjSE
288 ななしのよっしん
2025/02/28(金) 16:25:46 ID: U7KHcRiBNz
古代ローマは生産性ということに関しては庶民から支配者層まで全然考えが及ばず生産量を増やしたいんならそのぶん侵略してぶんどってあとは奴隷を使えばいいと技術革新があまり進まなかった
反面、中世ヨーロッパでは奴隷を大量動員する力がなかったし侵略して土地を増やすみたいな解決ができなかったので生産性を上げざるを得ず水車風車みたいな生産性の技術の開発が進んだと聞いてだから日本は生産性の面で進歩がなかったのかと納得した
氷河期や実習生のようにいくらでも代わりはいるんだよとなるなら誰も非効率なやり方を改める努力もいらないし石油のような天然資源といい奴隷といいサボれる安易な要素があると社会そのものが停滞するんだなと
289 ななしのよっしん
2025/03/19(水) 08:01:51 ID: Qt0SpGcp9j
識者ぶって「歴史的に奴隷制度は悪いことではなくて〜」って奴隷肯定みたいなこと言っている奴に言いたいんだが、
仮に現代に奴隷制度が復活したとしてもお前らはどう考えても美少女奴隷なんか持てない、奴隷として使われる側だぞ
それもサブカルに出てくる「ご主人サマに甘やかされるペット」じゃなくて死ぬまで強制的に働かさせられて、最後には雑にゴミ収集車に放り込まれるタイプの
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最終更新:2025/03/23(日) 17:00
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