海鷹とは、大日本帝國海軍が保有した商船改造航空母艦の1隻である。1943年11月23日改装完了。帝國海軍最小の空母でありながら献身的に任務を全うし、終戦直前の1945年7月28日に大破着底した。8月9日に偶発的とはいえB-25が接触・墜落するという奇異な戦果を得ている。
海鷹の前身は大阪商船が保有していた豪華貨客船あるぜんちな丸。
1938年から「優秀船建造助成施設」という制度が始まった。これは高性能な商船を建造する際、建造費の8割を海軍が補助する代わりに有事の際は海軍に徴用されるというもので、設計段階から空母への改装が想定されている(後に予算不足で6割に減ったが)。この制度を初めて使用して建造されたのが大阪商船のあるぜんちな丸とぶらじる丸であり、両船は大阪商船最大の船舶でもあった。あまりの大きさに関西地区には彼女を収容出来るドックが存在せず、当時取引が無かった播磨造船所に依頼して相生工場に第二ドックを作って貰って急場を凌いだ。
日華事変で物資が乏しくなる中、大阪商船は諸外国に日本の工芸技術水準が高い事を知らしめるべく「純和風」にこだわり、人員と内装に力を入れた。苦労して調達した物資は概ね日本製の物を使用、外国の豪華客船にスタッフを派遣してサービスの向上に努め、乗務員はイケメンを取り揃えるなど内外ともに涙ぐましい努力を重ねて珠玉の豪華客船を作り上げる。しかし「優秀船建造助成施設」制度を使用した事により帝國海軍から度々高性能の要求があり、それらに合わせた結果、軍艦の性能と商船の性能が入り混じって豪華客船単体としては不満足なものになってしまったという。客船としては20ノットあれば十分だったのだが、空母化を見越した海軍から21ノット以上を要求され、ディーゼル機関は当時最大出力の8250馬力を誇った三菱長崎造船所製作のエンジンを2基採用。ところがその代償に激しい振動を引き起こしてしまったため同じく長崎造船所製の振動抑制装置を組み込んで問題を解決。またエレベーターを設置するべく、スペース確保の目的で船倉口の長さを大きく取るなど設計には大きな苦労を払った。姉妹船ぶらじる丸ともども南米移民航路へ投入された結果、同航路の居住性と輸送能力が格段に改善。優美な船体は好評を呼んだとされる。
要目は排水量1万2755トン、全長155m、全幅21m、深さ12.6m、出力1万6500馬力、最大速力21.48ノット。定員は一等101人、特三等138人、三等662人。
1938年2月5日、優秀船舶建造助成施設第118号として三菱重工業長崎造船所で起工。同年12月9日に進水してあるぜんちな丸と命名され、1939年5月31日に竣工を果たして船籍港を大阪に定めた。総工費は1013万円。6月11日に神戸へ回航されて調度品の積み込みを行い、6月17日から23日まで芝浦でお披露目会を実施、7月3日から6日まで神戸でもお披露目会が行われておよそ10万人が招かれた。日本における1万トン級客船の建造は実に8年ぶりであり、それだけに船舶業界や国の期待は大きかった訳である。
そして7月11日15時、あるぜんちな丸は横浜を出港して処女航海兼西回り世界一周を始める。四日市、神戸、香港、シンガポール、コロンボ、ダーバン、ケープタウン、リオデジャネイロ、サンスト、モンテビデオを巡航し、8月27日にブエノスアイレスへ到着した。しかし大いなる期待を背負った彼女の道筋に暗雲が立ち込める。9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発したのである。日本はドイツと同盟関係にあったため対日感情の悪化を招き、中立である事を示すためにブエノスアイレス港内で船腹に日の丸の塗装、緊急避難や航路の変更を検討しながら本国へ戻る事になった。パナマ運河を通過する際アメリカに拿捕される危険性もあったが何事もなく通過してロサンゼルスに寄港。そして10月17日午前、横浜に入港して世界一周を成し遂げた。
11月14日に南米への移民を乗せて横浜を出発し、二度目の西回り世界一周をしながらブラジルを目指す。12月27日、モンテビデオ近海を通った際にラプラタ沖海戦で自沈したドイツ海軍の装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーの残骸を目にする。翌日ブエノスアイレスに到着。帰路はパナマ運河とアメリカ西海岸を経由して横浜に戻った。
南米に続々と移民を送っていたあるぜんちな丸だったが、対米関係の悪化によって優秀船舶が外地に取り残される事を懸念した日本政府は1941年1月12日に近海の大連航路へと再就役させ、2月20日より実際に運航を開始。だが戦争の足音が大きくなる一方で、5月頃には帝國海軍による徴用・空母改装化が検討されていた。そして9月29日、海軍に徴用されて横須賀鎮守府所管の一般雑用船となり、神戸へ入港した時にあるぜんちな丸は客船としての華やかな生涯を終えた。
開戦直前の12月4日、前進拠点であるトラック諸島に軍需品を送り届けたあるぜんちな丸は横須賀に向けて出港、道中の12月6日に機密横須賀鎮守府命令作第14号により直卒部隊補給部隊に編入され、12月7日へ横須賀に帰投した。
1941年12月8日、大東亜戦争運命の開戦を横須賀軍港内で迎える。
すぐさまサイパン行きの航空資材とトラック行きの航空油3000缶、機銃弾425箱、信管95箱を積載し、12月17日に横須賀を出発。12月23日にサイパンへ寄港して航空資材を揚陸、続いて12月28日にトラックへ入港して残りの積み荷を全て降ろした。
年が変わって1942年1月8日にトラックを出発、1月10日、占領に成功したグアム島(大宮島)へ立ち寄って同日午後に出発し、多度津、釜山、呉を経由したのち1月25日に横須賀へ帰投する。1月28日に補給部隊から外されるが今度は運輸機密第103番電により軍需品と人員輸送に従事。2月1日、横須賀を出港。まず2月6日にサイパンへ寄港し、2月8日から14日までトラックに寄港、2月16日にボナペ寄港、翌日出港してブラウンに寄港してマーシャル諸島進出する。2月20日、第6艦隊の司令部があるクェゼリンに入港。ここからルオット、タロア、イミエジ、ウォッゼなど中部太平洋の島を転々として輸送任務に励む。3月2日にトラックへ寄港。帰り道は南鳥島に立ち寄り、3月13日に横須賀へ帰投した。3月21日に横須賀を出発し、翌日釜山に寄港。その後は再度中部太平洋方面に向かい、メレヨン、トラック、ミレ、ルオットに寄港。4月7日に東南アジアのミリに寄港したのち、4月14日に横須賀へと戻った。
5月1日、戦時編制によって連合艦隊に編入され、特設運送船に変更。これに伴って監督官の渡部威中佐が乗船する。5月5日午前8時50分から14時30分まで、広島湾で砲術訓練に従事。呉に戻った後、軍需品、弾薬、酒保品、呉第5陸戦隊向け食糧品を満載。続いてミッドウェー島の占領を担当する第5陸戦隊員816名を便乗させる。5月15日午前7時、ミッドウェー作戦に参加するため呉を出発。護衛隊に編入される。経由地のサイパン島を目指したが、5月20日に敵潜水艦が出現したとの報が入り、翌21日に急遽寄港先をグアムに変更し、午前10時40分に入港。真水を供給した。5月23日正午、グアムを出港。本来の寄港先であるサイパンへは5月24日午前1時に到着、物資を揚陸する。5月28日17時40分、他の船団や占領隊、航空隊とともに出港。サイパン近海を遊弋する敵潜水艦の目を欺くため、テニアン島の西側を南下する偽航路を使用。14時以降は厳重な無線封鎖を行った。翌29日午前1時に北東へ変針し、6月1日朝に針路75度に変更。ミッドウェー島に向かった。航空隊や駆逐隊の支援を受けながら、敵潜水艦が潜む海域を渡っていく船団。
6月4日午前6時15分、船団はカタリナ飛行艇に発見され、航空機5機による執拗な触接を約1時間に渡って受ける。防空を担当する航空隊から迎撃機6機が上がったが、性能差もあって捕捉できなかった。ミッドウェー島まで約670海里。ここはもう敵の庭だった。13時頃、B-17爆撃機9機が襲来。輸送船に向けて多数の爆弾を投下してきたが、いずれも被害は無かった。あるぜんちな丸は装備していた固定の機銃2基と陸戦隊の助力で対空戦闘。あるぜんちな丸は710発、陸戦隊は2514発を発射して難を逃れた。夜になっても敵の航空攻撃が続き、23時に清澄丸が、23時54分にあけぼの丸が被雷するなど被害が相次いだが、幸い致命傷には至らなかった。しかし6月6日午前0時47分、突如としてミッドウェー作戦の中止命令が下った。味方空母を失った事で完全に敵の制空圏内と化した危険な海域から素早く退却し、6月13日15時30分にグアムへ入港。6月17日に出港し、6月21日に横須賀へ帰投した。6月28日、急遽占領する事になったアリューシャン列島のキスカ島に兵力を送るべく出港。アリューシャン方面は敵の警戒が手薄だった事もあり、7月5日に無事キスカに入港。7月9日、湾内で駆逐艦電に燃料補給を施した。翌10日、軽巡洋艦阿武隈、駆逐艦若葉、電に護衛されて出港。途中で阿武隈が護衛より離脱したものの、7月15日17時に横須賀に帰投した。
8月1日午前、門司を出港して佐世保へ回航。東南アジア方面行きの338名の便乗者と1607トンの物資を積み込む。8月3日15時に佐世保を出港し、8月6日午前10時30分に香港に到着。乗客3名と貨物600kgを揚陸して翌7日18時に出発。8月11日17時、シンガポールに入港して40名の便乗者と1121トンの物資を揚陸。新たに159名の便乗者と2トンの貨物を載せた。8月15日正午、シンガポールを出港したあるぜんちな丸は東航。8月18日午後12時55分にマカッサルに寄港し、便乗者114名と貨物2トンを揚陸。新たに160名と472トンの貨物を積載して8月22日午前10時に出発するが、スラバヤに向かう途中で寄港中止となって反転。マカッサルに戻った後、スラバヤに行くはずだった124名と214トンの貨物を降ろし、代わりにスラウェシ島南東ポマラに向かう72名と物資319トンを積載。8月24日21時30分、マカッサルを出港。翌25日15時30分にポマラへ到着し、便乗者75名と物資319トンを揚陸した。8月27日17時にポマラを発ち、翌28日午前10時にマカッサルに回航。現地で日本本土に持ち帰る銅62トン、コプラ25トン、塩100トン、ココナッツシェル75トン、その他物資18トンを積載。8月31日午前8時にマカッサルを出発するが、9月8日午前4時25分に黄島沖で敷設船燕と衝突事故を起こす。幸い大事には至らず、同日中に佐世保へ帰投。物資を揚陸して輸送任務を果たした。余談だが、唯一無二の姉妹船ぶらじる丸は8月4日に米潜水艦グリーンリングの雷撃で沈没している。
輸送任務を終えたあるぜんちな丸は、10月3日に佐世保鎮守府信電令作第93号により高雄への人員輸送が命じられ、横浜を経由したのち佐世保へ回航。予備学生531名、准士官以上9名、下士官117名、家族42名を乗船させ、10月4日に佐世保を出港。台湾近海では既に米潜水艦が出現し始めていたが、何事もなく10月6日に高雄へ入港した。人員輸送を終えた後、10月15日に呉へ入港。10月29日以降は神戸港内に留まる。
ミッドウェー海戦の大敗により空母の補充が急務となった帝國海軍は、戦艦大和の艦上で6月20日と21日に航空母艦改良研究会を開いた。ミッドウェーで得た手痛い戦訓を基に誘爆の危険性を除去しつつ、急速に空母を大量建造する方針を固めた。6月下旬、軍令部と海軍部の関係者が五昼夜に渡る不眠不休の作業で具体化。1943年度にあるぜんちな丸を空母化し、極力工事を促進する事が策定された。この案は嶋田海軍大臣の決裁を受け、6月30日に改装が決定。
1942年12月10日、海軍が船体を買い取って三菱重工長崎造船所に回航。仮称1005号艦の名を与え、昭和18年7月完工を目途に12月20日から改装工事が始まった。小型なので飛行甲板はなるべく長くするよう計画していたが、それでも搭載機の発艦には速力が足りないと判断された。速力不足を補うべく主要機関をディーゼルエンジンから陽炎型の機関に変更。速力23.1ノットに向上したが、主機換装が工事期間の長大化に繋がってしまった。機関を変更した事で今度は船体中央部の重量が減少し、重心の上昇を招いたため船倉にバラストを搭載。水菅缶4基を二区画に収め、機関室の両側に縦壁を設けて重油タンクとし、燃料の搭載量を増やしつつ復元力を強化した。右舷の湾曲煙突には熱煙冷却装置を装備。低い凌波性を考慮し、高角砲を後方に集めた。160mの飛行甲板を設置し、九七式艦攻12機を常用搭載。元が大型客船なので船体が安定しており、航空機の発着艦が容易に行えた。洗面所や調度品は客船時代のものを流用しており、帝國海軍の艦船にしては居住性に優れていた。瑞鳳から転任してきた士官は、あてがわれた私室の豪華さに驚いたという。
1943年11月8日と15日に伊予灘で全力公試を実施。そして11月23日に工事完了となり、軍艦海鷹と命名されて横須賀鎮守府に編入。帝國海軍最小の空母として生まれ変わった。鈍足かつ小型だったため九九式艦爆の発艦すら出来ず、船団護衛に投入される事になった。
要目は排水量1万3600トン、全長165.55m、全幅23m、水線幅21.9m、最大速力23ノット、出力5万2000馬力、航続距離7000海里(18ノット時)、搭載機数24機、乗員587名。武装は12.7cm連装高角砲4基、25mm三連装機銃8基。
こうして誕生した海鷹は11月24日、徳島を出港して呉に回航された。12月3日から10日まで、瀬戸内海西部で各種試験に従事する。12月15日に大鷹や神鷹とともに船団護衛を担当する海上護衛隊に編入。
1944年1月4日に呉を出港。瀬戸内海西部で相方の神鷹と合流し、1月7日に岩国沖へ回航して第23航空隊の九七式艦攻12機、九九式艦爆、月光を積載。駆逐艦雷、電、薄雲の3隻を護衛に引き連れて1月8日に出発した。ところが出発直後に神鷹が機関不調を訴え、佐伯湾に仮泊。結局神鷹は呉へ引き返す事になり、雷と電を伴って1月12日に再出発。空母になってから初めての外洋航行に臨んだ。翌13日、ヒ33船団と合流して一緒に南下を始めた。1月14日19時30分に高雄へ寄港。最初の目的地であるマニラに向かって出発した。1月16日、マニラへ到着。航空機を揚陸して同日中に出港したが、舵が故障したためシンガポールまでの航行に耐えられなくなり、深夜頃にマニラへ再度入港。応急修理を受けた後、1月18日に駆逐艦響と電を伴って出発した。東南アジアへの敵潜の侵入が既に始まっていたが、平穏な航海が続いた。1月21日、シンガポールのセレター軍港に到着。運んできた航空機を降ろし、代わりにサバンから移動する第551航空隊の天山21機を積載。天山は両翼を折りたたむ事が出来るため、海鷹でも21機の積載が可能だった。1月31日に出港した海鷹は2月3日にタラカンへ寄港して燃料補給を行い、翌4日に出発した。2月8日、パラオに寄港。天山の一部を降ろし、同日中に出港してトラック諸島を目指した。
あと少しでトラックに到着できるところで、最初の試練が訪れる。2月10日23時15分、トラックの南方を哨戒していた米潜水艦パーミットのレーダーに捕捉され追跡を受ける。翌11日午前0時57分、海鷹の右絃側から4本の魚雷が伸びてきて、午前1時5分に3回の爆発音が確認された事からパーミットはダメージを与えたと主張したが、実際は命中していなかった。何とか敵潜を振り切り、2月11日に無事トラック諸島へ入港。天山を降ろした。だが一大拠点のトラックにも大空襲の兆候があり、決して安全な場所とは言えなかった。2月13日、駆逐艦響と電に護衛されて出港。本格的な空襲が始まる前に海鷹は出港でき、難を逃れた。しかしせっかく運んだ天山は、2月17日のトラック大空襲で18機が破壊されてしまった。2月15日にサイパンへ寄港し、夜遅くに出港。2月20日に呉へと帰投して最初の輸送任務を完了させた。2月23日に日立造船因島工場に回航され、3月2日まで入渠整備。出渠後は因島を出発して呉へと戻っていった。
3月頃、マーシャル諸島に停泊するアメリカ艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける雄作戦が立案された。この計画に海鷹も投入され、第一航空艦隊の艦載機を搭載する予定になっていた。ところが海軍乙事件で古賀長官が殉職したため作戦は立ち消えとなってしまった。もし実行されていれば、艦隊決戦に参加していたと思われる。
内地の海鷹は第931航空隊を乗せ、3月10日から佐伯湾で発着艦訓練を始めるが、事故により殉職者を出す。翌11日、海防艦倉橋が訓練の支援に参加。訓練は3月16日に完了した。
3月17日午前8時に呉を出港して徳山に回航。3月29日未明、徳山を出港して門司港に向かう。道中で第931航空隊の九七式艦攻12機が海鷹に着艦。同日午前8時に門司港へと到着した。現地には大連から来た輸送船9隻からなるヒ57船団が待っており、護衛戦力には海防艦択捉(旗艦)、壱岐、占守、第8号、第9号海防艦、水雷艇鷺が投入された。
4月1日に出港するも、悪天候に阻まれて一旦門司に引き返さなければならなかった。天候が回復したのを見計らって4月3日午前6時に再出発。南方航路には米潜水艦が跋扈しており、少しでも危険を回避すべく大陸沿いの航路が選択された。大陸沿いであれば片側だけの警戒で済む利点もあった。4月5日、神州丸が雷跡を確認したため、海鷹の艦載機が対潜掃討を行っている。しかしアメリカ側の記録によれば当時そこには潜水艦はいなかったという。4月7日14時50分、ヒ57船団は経由地の高雄に寄港。三日間荷物の積み下ろしを行った。船体が大きいので揺れ幅が少なく、船酔いは起きなかったという。ここで第8号海防艦がタサ17船団護衛のため離脱。4月10日に高雄を出発し、4月12日19時30分にカムラン湾へ寄港。翌20日正午に出発する。
シンガポールに向かっていた4月15日、南シナ海で海鷹艦載機が敵潜発見の報を出して爆弾2発投下。直ちに占守、択捉、壱岐、第9号海防艦が急行し、28個の爆雷を投下したが戦果不明。記録によると米潜水艦はいなかったらしい。潜水艦の脅威に曝され続けた航海も終わりの時が近づき、4月16日午後12時40分にシンガポールへ入港した。輸送船が燃料を積み終わるまでの間、海鷹は待機を命じられた。
4月21日午前7時、今度は輸送船7隻からなるヒ58船団を護衛して出港。道中の4月24日18時30分、サイゴン東岸で上空援護中の九七式艦攻が船団の後方15海里より浮上追跡してくる米潜水艦ロバロを発見。ロバロは急速潜航したが、深度16mで投下された250kg爆弾が左舷前部の至近で炸裂。深度調整機能が一時的に失われ、多くの機器が不調に陥った。更に九七式艦攻は応援要請を発し、海防艦壱岐と第9号海防艦が分派。爆雷投下によってロバロは甚大な被害をこうむり、慌てて撤退した。海鷹側は撃沈を報じ、第一海上護衛隊も認定した。念のため翌25日、カムラン湾に退避する。4月29日、高雄に寄港。5月3日に門司まで辿り着き、護衛成功。午後遅くに呉へ回航された。だが海鷹に休息の時間は無く、すぐに次の護衛任務が舞い込んだ。5月24日に呉を出港して翌日門司に回航。
5月29日午前6時、輸送船12隻からなるヒ65船団の護衛に参加して門司を出港。伴走者は練習巡洋艦香椎、海防艦淡路、千振、第19号海防艦、機雷敷設艦燕、第60号駆潜艇である。しかし道中の6月2日午前2時40分、台湾海峡にて米潜ピクーダから襲撃を受ける。放たれた6本の魚雷により海防艦淡路が沈没し、回避の際に有馬丸と神州丸が衝突して小破。神州丸の舵が故障してしまったため香椎が曳航して基隆に退避し、有馬丸も追随した。午前5時15分には米潜ギターロが襲ってきたが、こちらは護衛艦艇と九七式艦攻の爆雷攻撃で撃退した。午前6時4分、海鷹が放った対潜哨戒機が船団の800m以内に敵潜水艦を発見し、目印を投下。第19号海防艦が急行するとともに44個の爆雷を投射して追い払った。その後、第19号海防艦は撃沈された淡路の生存者5名を発見して救助。数々の襲撃を受けながらも、6月4日午前6時に台湾の高雄へ寄港。1万500トンのタンカー仁栄丸と護衛の第7号、第11号海防艦を加えて同日中に出港する。第19号海防艦は機関不調のため高雄に留まっている。
そして、その爪牙は海鷹にも剥けられた。6月8日午前9時6分、インドシナ沖で米潜水艦ガンネルが潜望鏡で海鷹を視認。知らず知らずのうちに追跡を受ける。ところが海鷹は強運を持っていた。ガンネルのレーダーに航空機の機影が映り、焦った甲板士官は判断ミスを犯す。ガンネルは急速潜航を始め、せっかくの好機を自ら手放す形となった。浮上した時には既に水平線の彼方へ逃げられており、ガンネルのハンティングは失敗に終わった。かろうじて敵潜の魔手から逃れた海鷹は、6月11日13時50分にシンガポールへ到着した。帰路はヒ66船団の護衛に加わり、6月17日午前4時に出港。巡洋艦香椎、海防艦千振、第7号及び第11号海防艦とともに船団を護衛する。敵潜の襲撃を避けるため大陸沿いの航路を選択し、敵が潜める深い海域を極力回避した。これが功を奏し、帰路は敵襲を受ける事無く6月26日13時に門司へ入港した。7月2日から5日にかけて呉工廠に入渠。
マリアナ沖海戦での敗北により、帝國陸海軍はフィリピンの防御を固める方針を打ち出した。7月9日、新たな輸送任務を受けて呉を出発。大鷹とともにルソン島行きの航空機を満載し、護衛艦ではなく輸送艦としてヒ69船団に加入した。代わりに哨戒を引き受けたのが神鷹であった。
7月13日16時、ヒ69船団は門司を出発。だが、南シナ海は日を追うごとに危険な海域へと変貌しつつあった。それを証明するかのように7月18日早朝、米潜ロック、ソーフィッシュ、タイルフィッシュからなるウルフパックに捕まってしまう。午前6時頃、高雄近海で機関不調により落伍していた2TL戦時標準型タンカーはりま丸に向けてロックが魚雷4本を発射。これは失敗に終わったが、次にソーフィッシュが襲来して9本の魚雷を発射。午前8時50分にはりま丸が被雷するも、幸い致命傷ではなかった。午前10時55分、今度はタイルフィッシュが雷撃を行い、対潜掃討中の第17号海防艦の艦首を吹き飛ばして大破させられる。神鷹の九七式艦攻が駆けつける前にタイルフィッシュは潜航した。あまりにも敵襲が相次いだ事で損傷艦を除いて高雄への寄港をやめ、直接目的地のマニラを目指す。辛くも敵の包囲網を脱したヒ69船団は7月20日21時にマニラへ入港。さっそく海鷹と大鷹が分離し、零戦55機と彗星10機を陸揚げした。ここで船団の再編成が行われ、シンガポールへ向かうヒ69船団と神鷹、先行して台湾に戻る大鷹と別れる。
帰り道は単身マモ01船団を護衛して7月25日午前4時に出港。駆逐艦秋風、初霜等と一緒に護衛を担当した。7月27日14時に高雄へ寄港し、翌28日に出発。無事にマモ01船団を門司に護送して護衛任務を完遂させた。
8月1日に呉へ回航して若干の整備を受けた後、8月4日に新たな船団護衛のため門司に移動。しかしハードスケジュールが祟ったのか、機関が不調を訴える。やむなく護衛任務を断念して呉で修理を受け、8月25日に佐世保へ回航。9月6日から11日にかけて乾ドックで入渠修理を受ける。9月29日に岩国沖で機関の試験が行われた。修理を完了させた海鷹は10月2日に関門海峡へ回航。
10月12日から16日にかけて生起した台湾沖航空戦により、現地の航空隊は物資と稼働機を損耗。緊急輸送が必要となり、内地に留まっていた龍鳳とともに輸送任務に投入された。10月17日に連合艦隊へ編入。
10月22日に呉を出港し、佐世保へ回航。レイテ沖海戦が生起した10月25日午前10時、高雄航空廠の機材を輸送する龍鳳を護衛して出港。駆逐艦桃、梅、樅、榧とともに九七式艦攻で支援する傍ら、海鷹も12機の航空機を運ぶ。ところが入港先の台湾が空襲を受けたため、船団は一時避難を強いられる。9月27日午前10時に基隆港へ辿り着き、物資を降ろした。帰路はアルコールや砂糖を積載し、10月30日に出発。平穏な航海を経て、11月2日に呉へ帰港。今回も護衛を成功させた。その後、呉海軍工廠に入渠して11月21日まで整備を行った。整備を受けている時に神鷹が撃沈されてしまい、海鷹は大鷹型最後の生き残りとなる。
11月22日、呉を出港。徳山で燃料補給を行ったのち門司へ回航される。
11月25日20時、ヒ83船団を護衛して六連島を出港。最後の船団護衛に臨む。マニラ行きの増援部隊である陸軍第10師団を載せた輸送船5隻と、シンガポール行きの輸送船3隻から構成されていた。レイテ沖海戦の敗北により南シナ海の制海権は危うくなり、南方航路が閉ざされつつあった。11月30日午前6時、ヒ83船団は高雄に寄港。海鷹は沖合いに投錨して一晩を明かした。ここでマニラ行きの輸送船と別れ、1万トン級タンカーみりい丸と第102号哨戒艇を加えて12月1日に高雄を出発した。
12月3日未明、米潜水艦4隻からなるウルフパックに捕まってしまう。午前6時7分に護衛の第64号海防艦がパイプフィッシュに撃沈され、午前6時30分に誠心丸が損傷した。恐れていた敵襲を受けたため、ヒ83船団は海南島の楡林へと退避。12月8日に出港する。退避によって予定に狂いが生じたため、船団は速力を上げて危険海域の突破を試みる。12月12日18時45分にシンガポールへ無事到着。海鷹は整備のためセレター軍港に移動した。
帰路では大規模なヒ84船団を護衛するという重大かつ過酷な任務を課された。パレンバン油田から産出された重油や、連合軍捕虜476名を運ぶのである。12月26日午前11時58分、ヒ84船団とともにシンガポールを出発。護衛は海防艦沖縄、第27号及び第63号海防艦、第102号哨戒艇のみと頼りない陣容だった。敵艦載機の襲撃を警戒して大陸側の航路を取り、12月29日午前11時57分にサンジャックへ寄港して16時52分に出港。12月30日、ヒ84船団は南シナ海で戦艦伊勢、日向、重巡洋艦足柄、軽巡洋艦大淀、駆逐艦朝霜等と遭遇した。夜遅くにインドシナのビンホアン湾に寄港。翌31日午前7時45分に出港する。ところが午前10時41分、ヒ84船団が米潜水艦デースに発見される。デースは海鷹に狙いを定めていたが、上空を旋回する九七式艦攻が目を光らせていたため適切な雷撃位置につけなかった。発見から9分後、デースは海鷹に3本の魚雷を発射するが全て回避された。デースは海鷹の事を「千歳型航空母艦」として報告、補給のためサイパン島に後退した。18時4分、クインホンに寄港する。
1945年1月1日にトゥーランへ寄港し、翌2日に出港。1月3日、みりい丸が触雷。機関室が浸水してしまい、船団から落伍。海鷹は残りの船舶を護衛して進み続け、1月4日23時に香港へ到着。翌5日午前2時に出発した。1月9日午前11時20分から翌10日午前7時20分まで、舟山列島に寄港。1月13日17時25分、苦難の旅路を経て門司へ帰投。翌14日に呉へと回航され、1月17日より呉工廠に入渠。噴進砲4門と25mm単装機銃10丁を装備する工事を受けた。これ以降は深刻な燃料不足と南方航路の遮断により二度と外洋へ出る事は無く、海鷹の護衛任務は終わりを告げた。去年12月に桜花をフィリピンに運んでいた雲龍が撃沈されたため、海鷹と龍鳳で台湾に再度輸送する計画が立てられたが、実行には移されなかった。
1月17日、海鷹に新たな命令が下った。空母鳳翔、標的艦摂津、旧型駆逐艦夕風とともに瀬戸内海での標的艦や航空機の訓練任務に割り当てられたのである。出渠した海鷹は2月23日と24日に広島湾で試験航海を実施。3月18日、第1海上護衛隊から除かれ、呉鎮守府部隊に転属する。海鷹は呉に入港して空母天城と葛城の近くで投錨した。
3月19日朝、中部軍司令部より敵艦載機120機が松山上空を通過したとの情報が入った。間もなく「総員戦闘配置」のラッパが鳴り響き、慌しくなる。見張り員が灰ヶ峰上空を西へ向かうグラマンの編隊を発見。そのまま広島市へ向かうかと思われたが、先頭が突如反転して襲い掛かってきた。艦長が砲撃を命じ、海鷹の火砲が一斉に解放された。周囲の僚艦も射撃を開始する。敵機は四方八方から襲来し、超低空で機銃掃射や投弾を仕掛けてくる。至近弾で築かれた水柱が、飛行甲板より高く伸びる。やがて海鷹に爆弾が直撃するが、甲板を貫通し海の中で炸裂したため被害は少なかった。次に第二波の100機が襲撃してきた。再び全対空砲火を解放するが、右舷から突っ込んできた敵機がロケット弾を発射。左舷中央部をかすめて至近弾となった。この余波で銃撃中の乗員1名が死亡。左主機関室と14番タンクに浸水が始まった。その影響で左舷への傾斜が始まったが、幸い16度で停止した。辛くも空襲を乗り切った海鷹だったが港内に留まるのは危険と判断。宵闇の中、右舷機関だけで出港し、江田島西岸へ避難。排水作業が行われ、400トンを排水して傾斜を元に戻した。
3月21日に呉へ戻り、呉工廠で修理。3月28日には呉鎮守府へ転籍となっている。4月13日、江田島沖で擬装を行い係留。飛行甲板上に植物が設置され、島の一部であるかのように見せかけた。4月20日、呉工廠第三船渠で緑色に塗装。同日中に別府湾へ回航し、発着艦訓練の場を提供した。4月28日、入渠のため別府湾から呉に戻り、3月19日の空襲で負った傷を完全に修復する。5月5日、呉工廠で入渠中にB-29の爆撃に遭遇して対空射撃を行っている。5月17日に修理を終えた。
5月20日、大分航空隊の搭乗員に発着艦の場を提供する訓練艦に指定。同日中に呉を出港して別府湾に移動する。6月1日から29日まで大分県日出町沖で訓練を実施し、時には伊予灘で零戦や天山による特攻の標的艦をも務め上げた。食糧や飲料水は別府市内から供給してもらい、燃料は油槽船から補給している。7月からは大神基地と協力し、特攻兵器回天の標的艦も担当。搭乗訓練を修了した特攻隊員の卒業訓練で標的艦となり、貴重な経験を与えた。他にも海鷹に特攻隊員を招き、空母が取る回避運動を教授した。
7月18日19時38分、佐田岬灯台の沖合いで触雷し小破。行動に支障は出なかったため、翌19日に豊岡町島山沖へ駆逐艦夕風と一緒に避難し、松の枝などで擬装を行った。しかし海鷹の存在はすぐに把握され、それから毎日のように空襲された。アメリカ軍は空母を最重要目標に定めていたからだった。7月24日正午、別府湾が米第38及び第57任務部隊の空襲を受ける。海鷹にはエセックス艦載機5機が襲い掛かり、損傷。敵哨戒機の目から逃れるべく別府湾を脱し、小さな漁港で身を潜める事を決断する。16時30分、山口県室津沖への退避を開始するが、18時30分に大分県関崎の沖合いでB-29が敷設した磁気機雷に触雷してしまう。舵機が破損し、機関室の蒸気管が破裂して大破航行不能に陥った。自力ではどうする事も出来ないと悟った海鷹は19時25分に救援要請を送る。訓練のため大分航空基地に向かっていた駆逐艦夕風が要請を受領し、海鷹のもとへ駆けつけてくれた。発光信号で駆逐艦夕風を呼び寄せ、協議を行った。その結果、夕風が別府湾まで回航する事になり、23時50分より曳航を開始。何とか別府湾まで戻る事が出来た。もし曳航に失敗し船体が漂流していれば犠牲が多くなっただろうから、海鷹乗員は夕風に感謝した。余談だが、島山を海鷹と誤認して攻撃した米軍機もいたとか。
7月25日午前5時、F6Fヘルキャット3機が海鷹と夕風に襲い掛かってきたが、対空機銃で撃退。午前8時頃、夕風に曳航された海鷹が日出沖に到達した。沈没を避けるため、夕風に押し出してもらう形で意図的に座礁。松や杉の枝で陸地の一部を装った。艦内への浸水激しく、もはや戦闘能力を喪失したも同然の状態だった。それでも粘り強く排水ポンプで艦内に流れ込んだ海水をかき出し、少しずつだが浸水が収まってきた。しかし今度は4機のヘルキャットが襲来し、2発のロケット弾を喰らって負傷者2名を出した。
1945年7月28日、米第38任務部隊の空襲を受ける。海鷹は夕風とともに対空砲火で迎撃するが、ロケット弾3発が直撃。発電室が破壊され、動力を失った事で排水ポンプが使えなくなった。海水の流入によりゆっくりと艦尾が沈下していき、ついには着底した。加えて換気が出来なくなったため有毒ガスが発生。20名の乗組員が戦死し、有毒ガスが充満したため船体は放棄され、司令部と兵員は日出国民学校に移動した。発電機が使用不能になったので、機銃や高角砲を取り外して校庭内に設置し、動かす電力を地上送電してもらった。海鷹から降ろされた食糧などの物資は、大神回天基地に搬入されている。
多くの資料では7月28日を海鷹の沈没日としている。一方、上甲板が水上に出ていたので軍艦旗は掲げられたままになっている。沈没時には回収されるはずなので、書類上は生存扱いだったのかもしれない。
翌29日、海鷹を復旧させようと調査を行うが、機関室が満水状態で手出し出来なかった。また艦内には有毒ガスが充満しており、換気するための電力も途絶えている事から復旧を断念。追い討ちをかけるかのようにB-25爆撃機5機の襲撃を受け、更に傷つけられる。夕風が対空戦闘を行って海鷹を守ってくれたが、8月以降は空襲を避けるために夜間しか活動しなくなった。
8月9日午前9時30分、エドウィン・ヒュー・ハウズ大佐率いる第38爆撃群のB-25爆撃機12機から低空攻撃を受ける。海鷹の左舷に爆弾2発が投下されたあと、ハウズ大佐が搭乗する隊長機が突っ込んできた。この時、甲板上の支柱に接触し(カムフラージュ用の網や枝葉が翼端に接触したとも)、大きくバランスを崩した隊長機はひっくり返って別府湾に墜落。ハウズ大佐以下乗員6名全員が死亡するという思わぬ戦果を挙げた。死後、ハウズ大佐には殊勲飛行十字章が授与された。この攻撃の後、最後まで残っていた対空要員が退艦した。8月10日午前8時、右舷側に傾斜。午後12時46分に右舷飛行甲板が水没してしまった。
このままの状態で8月15日の終戦を迎えた。いよいよ軍艦旗が降ろされ、日出国民学校に避難していた乗組員たちは去っていった。アメリカに奪われるのを防ぐため、艦首から菊の御紋を外して大神基地で焼却処分された。この時、海鷹は第四予備艦の扱いだった。
11月20日に除籍。1946年9月1日に日本サルベージが現地で解体開始。1948年1月31日に完了した。
1982年11月22日、終焉の地となった日出町に軍艦海鷹之碑とその案内板が立てられた。小柄ながら最期まで戦い続けた海鷹の名は、静かに語り継がれている。
元乗組員の森山嘉蔵氏が自身の体験談に脚色を加えた戦記「終焉の夏が逝く 歴戦の空母海鷹の青春」という本を出している。
掲示板
提供: 3ゲットロボ
提供: Milky !
提供: おちこち
提供: urakata
提供: ロードカナロア
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/21(金) 21:00
最終更新:2025/03/21(金) 21:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。