社会主義(英: socialism)とは、生産手段の共有化や社会福祉制度でもって平等な社会を実現しようと言う思想もしくはそれに基づいた運動である。
19世紀に資本主義が発展するとともに、そこに生じた社会的矛盾を解消しようという機運から生まれた思想・政治運動・社会体制である。大まかには共産主義と社会民主主義に2分される。この2派は冷戦時代に東西に分かれて対峙していた。
ソ連共産党はロシア革命を成功させてソ連を建国し、多くの国を影響下におき20世紀後半の世界情勢を特徴付ける事となった。この一派を特に共産主義と呼ぶが、日本で単に社会主義と言った場合、この共産主義を指す事も多い。ソ連、中華人民共和国、キューバ、北朝鮮、東ドイツ、旧ユーゴスラビアやチェコスロバキアをはじめとする東欧諸国、ベトナムなどが主な共産主義国家であった。アフリカや東南アジア、中南米でも共産主義を採用する政権が存在したが、東欧革命以降に次々と崩壊し、残る中国やベトナムなどが市場経済を推し進めている現状では、共産主義と言える社会体制を維持しているのは北朝鮮やキューバなど僅かとなっている。
他方マルクス主義から転じたドイツ社会民主党、そもそもマルクスの影響の薄いイギリス労働党などの、共産主義とは異なる一派があり、これらは社会民主主義と呼ばれる。議会制民主主義を重んじ、社会福祉政策などで資本主義を適宜修正していく事によって平等な社会の実現を目指す政治思想である。
- ゴルバチョフ
戦後の日本では社会民主主義勢力は内輪もめを繰り返し政権を取るには至らなかったが、55年体制下の自民党が年金や健康保険などの社会民主主義的な政策を熱心に実行したために、結果的に社会民主主義国といえるような社会体制が整えられるに至った。
主流二派とは別に、イデオロギーは右でありながら、富国強兵などの目的から社会主義的な経済政策(計画経済)のみを実行するという考え方もあり、これは国家社会主義と呼ばれる。ナチスがその典型とされるが、日本でも、戦前の革新官僚と呼ばれた一群がそれであり、その政策は戦後の自民党にも引き継がれ、中でも岸信介は戦後総理大臣となり、左派とは別のスタンスから日本を社会民主主義的な国家へと変貌させていった。
市場経済システムは、自然発生的なシステムであって、無計画的な社会である。その結果として、資源を浪費したり、過剰な競争をもたらしている。そうしたムダを排して、合理的に社会を統治することはできないか、といった方向で理想の社会を追求するのが、社会主義といえる。
社会主義経済の特徴は、生産手段の公有(社会的所有)と計画経済にある。そこでは、私有財産制と利潤追求の自由は否定され、財の生産と分配は、中央政府の計画と指令に基づいて行われる。この結果、景気循環や失業はなくなるとされた。
究極的には、世界全体を、それが不可能であれば、国家や連邦というものを単位として計画経済を営む。これまで国家単位ないしは連邦単位による生産手段の国有化が主張されてきた(国家主義)。現実的には、資本主義と社会主義の混合経済を運営する事が目標とされてきた。混合経済システムをストレートに擁護する立場は、社会民主主義と呼ばれることもある。
資本主義を廃止し、社会主義制度を打ち立てる革命のことをいう。その基本的特徴は、労働者階級の権力の確立、生産手段の社会化、生産力の豊かな発展をもたらす社会主義的計画経済である。資本主義の下で組織された労働者階級は、都市・農村の勤労大衆と同盟して、資本家階級の支配を廃止し、労働者階級の権力を打ち立てる。そしてこの権力によって、人間による人間の搾取そのものを根絶し、共産主義を建設することを最終目標とする。
社会主義への移行の道筋と形態は国によって異なる。高度に発達した資本主義国であり、対米従属にある日本の場合は、アメリカ帝国主義と日本独占資本の二つの支配を打倒する民族民主革命が必要だとする。
1976年に出され、現在も有効とされている、日本共産党の「自由と民主主義の宣言」においては、経済の重要部分を握る大企業の社会主義的国有化が中心とされ、中小企業や農業、中小漁業などの部門では、私的所有と私的経営が広く残されるとしている[1] 。
歴史的には、社会主義の思想は、18世紀の産業革命期における「不平等」や「貧困」を克服するという関心から生まれている。社会主義という言葉そのものは、1830年前後に、フランスのシャルル・フーリエやサン=シモン、イギリスのロバート・オーエンなどによって提唱された政策思想を指す言葉として用いられた。
ところが、1848年になると、カール・マルクスはフリードリヒ・エンゲルスとの共著『共産党宣言』において、それまでの社会主義を「空想的社会主義」と呼び、これに対して自分たちの立場を「科学的社会主義」と呼んで、それまでの社会主義は人間主義的で道徳的な観点から資本主義を否定してきたに過ぎないと批判した。これに対して自身の思想は、科学的分析に基づいたもので、歴史の法則的な発展の分析から、社会主義の社会は歴史必然的に実現するはずだ、と主張した。
「カール・マルクス」の記事も参照。
1864年になると、「第一インターナショナル」と呼ばれる協会が結成され、イギリスとヨーロッパ大陸の労働者の代表者と少数の知識人が国際的な社会主義の運動を開始する。ドイツでは1869年に、マルクスの影響を受けたアウグスト・ベーベルやヴィルヘルム・リープクネヒトが「社会民主党」を結成し、1890年に「社会主義鎮圧法」が廃止されると、翌年には、「階級の廃絶」を目指すマルクス主義的な綱領(エルフルト綱領)が採択されている。同党は1912年になると、ドイツの帝国議会で最大多数派を占めるようになり、社会主義政策を部分的に取り入れることに成功した。
マルクスは、初期においては「暴力革命による社会の転覆とプロレタリアート独裁」を唱えていたが、1860年代末になると、資本主義の十分な成熟を待ってから社会主義体制に移行するという、長期的なビジョンを持つに至った。その背景には、イギリスにおいては1867年に、都市部の労働者上層にも選挙権が与えられたことが挙げられる。
ドイツ社会民主党の理念的指導者であったカール・カウツキーは、「歴史法則の必然性」という観点から、社会主義の徹底した実現を求めた。これに対して、エドゥアルド・ベルンシュタインは、「修正主義」の観点から、より現実的な方向性を採った。この二人の対立は、1903年の党大会において、形式的には修正主義の敗北、実質的には党内における修正主義の支持という形に現れた。
国際的な社会主義を目指す第一インターナショナルが1876年に解体すると、代わって1889年に第二インターナショナルが結成され、各国の事情に合わせた運動が展開されていった。二十世紀になると、ヨーロッパ諸国では社会主義を支持する勢力が大きく台頭し、議会制民主主義の下で現実的な改良主義の政策が実現していった。イギリスでは1906年に、それまでの「労働代表委員会」が名称を改称して「労働党」が結成され、ウェッブ夫妻の影響の下で、1918年には「分配と生産手段の公有」という、社会主義の綱領を掲げるようになった。
実際の社会主義社会は、ロシアにおいて実現した。ウラジミール・レーニンは1917年の「10月革命」によって政権を握ると、同時に「コミンテルン(第三インターナショナル)」を提唱して、各国ごとに中央集権的な組織を作るように訴えた。資本主義から共産主義へ移行する際の過渡期の段階として「社会主義」という言葉をこの場合用いている。
しかし、当初は順調に進んでいた経済も、やがて工業生産の不振、生産性の低下などに苦しみ、解決のための模索がなされるようになった。
1960年代に入ると、ソ連経済には、官僚主義の非効率、労働者の勤労意欲の停滞などの問題が表面化してきた。フルシチョフによって提唱された「共産主義の展開的建設期」という考え方は次第に退潮した。そこで1960年代の半ばから導入されたのが利潤方式だった。これはリーベルマン方式といわれ、中央の計画を緩めて企業の自主性を高め、利潤率の高さに応じて企業に報奨金を与え、生産性の向上をはかろうとしたものであるが、目立った成果をあげることが出来なかった。
「ソ連」の記事も参照。
中国の社会主義経済は、1950年代まではソ連型の中央集権的色彩が強かったが、1960年代以降、次第に変わっていった。1960年代の「文化大革命」による経済的な混乱を契機として、毛沢東の死後、1977年には、農業・工業・国防・科学技術の四つの近代化が掲げられた。1980年代から、改革・開放政策により、外国の資本や技術を導入するための経済特区を設置するなど大幅な市場経済の導入が進められた。集団所有のモデルとされた人民公社も1985年に解体し、主に農業分野で家族単位で生産を請け負う生産責任体制が普及した。1992年になると、「社会主義市場経済」[2]の路線が提唱され、市場経済と国有部門運営という、混合経済が採られている。1990年代以降の中国経済は、GDPで世界第二位を達成するものの、所得格差問題や公害問題の発生という、資本主義における問題を抱えている。
旧ユーゴスラヴィアでは、分権的な経済運営が模索されたが、高い生産性を達成するには不十分であった。
ソ連ではゴルバチョフ政権によって、ペレストロイカが進められた。しかし、経済面での改革は目立った効果を上げられず、1991年にソ連は解体した。ロシアを中心とする独立国家共同体(CIS)が成立したが、社会主義から資本主義への移行は円滑には進まず、その後も混乱が続いた。
ベルリンの壁崩壊後、1990年に東ドイツは、西ドイツの資本主義経済に吸収され、統一ドイツとして、資本主義経済に移行した。他の東欧諸国でも、市場経済を全面的に採用している。また、東西対立の終結に伴い、1991年には、社会主義諸国の協力機関であった経済相互援助会議(COMECON)は解散した。ロシア・東欧ともに国営企業の民営化が進んだが、市場経済への移行は順調に進まず、所得格差も増大した。
計画経済は、なぜ効率的な生産を達成することができないのか。ハンガリーの経済学者、ヤーノシュ・コルナイは、計画経済が抱えるジレンマを次のように説明する。従来の社会主義システムにおいては、国家のパターナリズム(温情主義)によって企業に対する予算制約がゆるやかなものになり、結果として効率的な生産を促すことが出来ない。生産効率を上げるためには、自由な市場経済を通じて、非効率的な部門を淘汰するための競争が必要になる。ところがそのような競争は、「連帯」や「分配の平等」を重んじる社会主義の思想に背くことになる。効率性と社会主義の倫理は、ジレンマに立たざるを得ない[3] 。
日本の言論・政治家の発言から来る「社会主義」には、主に3つの使われ方がある。
A. 「これからの日本は社会主義(1)で行くべきだ。」
B. 「日本は資本主義国だ。社会主義(2)なんてありえない!」
A. 「いや、社会主義(1)の頃の方が日本は繁栄していた。」
B. 「戦後、日本を統治してきたのは自民党。社会党じゃない。」
A. 「だから、旧自民党の方向(3)で行けと言っている」
B.はそもそも社会主義が広い意味(1)でも使われる事を知らないようであるが、A.も保守派は社会民主主義的な政策を支持する事はあっても、それを社会主義と呼ぶ事はないという事情を無視している。
また、日本で「社会主義的」と言われる思想・政策は「官僚主義」、「大きな政府」などの意味で使われ、公的所有制の意味での社会主義とは違う路線である。
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最終更新:2025/03/16(日) 17:00
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