「赤松晴政」(あかまつ・はるまさ 1513 ~ 1565)とは、室町幕府の侍所頭人に任じられた四家の一つ赤松氏の当主。
といった戦国時代の大波に翻弄されながら、嫡男・赤松義祐に追い出されて無念のうちに没した悲運の人。
室町幕府の三管四職の一つで播磨守護の赤松宗家・赤松義村の子に生まれ、父が播磨守護代の浦上村宗に敗れて強制引退させられた為、8歳で家督を継いた。
※はじめは赤松政村を名のったが、後に室町幕府将軍・足利義晴より「晴」の字を賜り赤松晴政と改めた。
9歳の頃、浦上村宗により父を暗殺されてしまうと、赤松晴政も拘束され、復権の機会を待ちながら傀儡として日々を送っていたところ、浦上村宗が細川高国を擁して細川晴元に対抗する為に摂津に攻め込んだ事を好機と見た赤松晴政は、細川晴元に通じて実権を取り返す。このことにより摂津天王寺の戦いにて宿敵浦上村宗は戦死した。
しかし、浦上村宗の子・浦上政宗や腹黒い家臣に定評のある浦上宗景ら両浦上氏との対立が続き、出雲のハルヒこと尼子晴久の侵攻により他の赤松氏や年寄衆の多くが尼子晴久についた為、播磨を捨てることになる。赤松晴政は、別所就治の三木城から淡路へそして堺へと逃亡した後、室町幕府の援助と毛利元就に敗れて播磨から尼子晴久が撤退したのをうけて播磨に復帰し、尼子晴久についた一族を討った。
別所就治や明石祐行ら守護代級の国人が離反した際は、三好長慶の協力によりこれを鎮圧したが、尼子晴久が備前と美作の守護に任命され、赤松晴政の権限が取り上げられると、赤松宗家の主導権は浦上政宗に掌握された。
浦上政宗が擁立した嫡子・赤松義祐により追い出された赤松晴政は、娘婿の龍野赤松氏・赤松政秀を頼り、浦上政宗を赤松政秀が討ちとり、再度の復権を目指したもののかなわず、失意の中で龍野城にて没した。
※その他「赤松晴政」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
▼一条兼定の下に集ったダメ君主の一人として登場する「ダメ君主の野望」
▼能力値ではあらわせない名君ぶりを見せるも、赤松滅亡と共に悲しい最期を遂げた「美希の天下創世」
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング中国編にワースト2位で登場。
▼「信長の野望革新PK」駄目武将ランキングでは、全国ワースト14位。
※何度も自国から逃げ出したりしている上に赤松氏の滅亡を決定づけて失意のうちに没した為かとても低い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 65 | 戦闘 | 31 | 智謀 | 36 | 政治 | 37 | 野望 | 43 | ||||
天翔記 | 戦才 | 70(C) | 智才 | 52(C) | 政才 | 100(B) | 魅力 | 70 | 野望 | 38 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 27 | 戦闘 | 16 | 智謀 | 22 | 政治 | 30 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 15 | 智謀 | 13 | 政治 | 26 | 野望 | 11 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 14 | 知略 | 26 | 政治 | 26 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 14 | 知略 | 24 | 政治 | 26 | 教養 | 32 | ||||||
革新 | 統率 | 16 | 武勇 | 21 | 知略 | 27 | 政治 | 29 | ||||||
天道 | 統率 | 16 | 武勇 | 21 | 知略 | 27 | 政治 | 29 | ||||||
創造 | 統率 | 24 | 武勇 | 36 | 知略 | 35 | 政治 | 37 |
掲示板
提供: ver
提供: こっそりぬるぽ
提供: ミサキ
提供: ななななおっさん
提供: mokke
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/27(木) 00:00
最終更新:2025/03/26(水) 23:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。