鎌倉時代とは、日本の時代区分。鎌倉幕府成立(1183,1185,1192)からその滅亡(1333)までを指す。
幕府成立の年が複数ある理由については「鎌倉幕府の成立年」を参照のこと。
頼朝が、朝廷と並んで全国支配をする政権を東国に打ち建てたことに始まる。ここから、京都(天皇・西国)と鎌倉(武士・東国)の二元政治が開始されることとなる。
頼朝の死後、源氏は力を失い、執権の北条氏(北條氏)によって政権は運営されていく。遂には源氏の血筋が1219年に途絶えるが、この支配構造は変わらず、むしろ1221年の承久の乱で朝廷が敗れ大きく影響力を失ったことで、鎌倉側が全国を完全に支配するようになった。
二度の元寇は幕府を一時的に動揺させたが、これを理由にした北条氏の全国支配が強化される。更に1285年の霜月騒動をもって、執権すら名目化して、得宗専制体制が確立された(※得宗=北条宗家)。一方で、北条氏の中央集権と、御内人と呼ばれる北条家直臣たちの権勢の結果、御家人全体に幕府への不満がたまっていった。北条貞時の代で、ついに北条氏得宗すらも形式的な地位になった。
こうした中での、朝廷の皇位継承問題に関して、不満を持った後醍醐天皇を中心として幕府が倒された。
大きく分けて源氏将軍、摂家将軍、皇族将軍の3期がある。そのために一つの一族が将軍位を独占していたのちの室町幕府、江戸幕府と異なり、鎌倉幕府の歴史は複雑でわかりくいものとなっている。この最大の理由が、カリスマであった源頼朝が1199年に亡くなった後、幕政が混乱し有力御家人や将軍家、門葉といわれた有力清和源氏一門全員を巻き込んだ壮絶な内ゲバの挙句、1219年に源実朝が死亡して将軍家が絶えたことがあげられる。またこれに連動する形で執権を務めた北条氏内部での抗争があり、皇族将軍時代の初期までは混乱が続いていったのであった。
源頼朝が派手な格好をしている部下の服の袖を切り落とし「贅沢をするな」と戒めた逸話に見られるように鎌倉幕府の価値観とは平安時代の華美で豪奢な国風文化を否定し、質素倹約を良しとする質実剛健なものだった。世界的大都市であった平安京に住まう文化的な公家たちに比べ、鎌倉武士は日本の草深き片田舎で抗争を繰り広げる荒くれである。文化資本に投資する余裕もなければ学もない。彼らの文化とは騎射三物(笠懸、流鏑馬、犬追物)などの武芸であり付随する刀剣武装などの工芸品であった。
一方で鎌倉幕府は朝廷に対抗する意図を持っていたため文化面でも対抗していく必要があった。
質実剛健な鎌倉武士が受容したのは臨済宗や曹洞宗を始めとする禅宗である。
常に死が隣り合わせの武士にとって実践的でシビアな世界観を持つ禅宗は広く受け入れられた。とはいえ二つ以上の宗派に帰依している武士も珍しくはなく禅宗以外にも様々な宗派がこのころ出現している。
また寺院に付き物の仏像においても写実的で荒々しい作風の仏師集団、慶派が好まれた。
慶派の造仏は朝廷で持てはやされた定朝様の仏像にはない魅力を持っていた。
彼らには非主流派の異端達であるという共通点がある。
鎌倉時代、僧侶たちは朝廷や天台宗など旧来の宗派に直接排斥されたもの、それまでの仏教の在り方に異を唱えたもの、モンゴル帝国の隆盛により宋から渡来したものなど様々な思想を持ったものが行き場を求めていた。
仏師とて同じである。慶派は平城京が置かれた奈良時代に隆盛した写実彫刻を得意とする奈良仏師の流れを汲む者達であったが、平安京に都が移され定朝様の仏像が主流になったことで奈良仏師は冷遇されていた。
朝廷の望む定朝様とは異なる、新しい仏像を創作する場が望まれていた。
鎌倉幕府は彼ら異端や新興を取り込むことで豪奢な朝廷文化とは異なる、鎌倉武士の質実剛健な気質にあった独自の鎌倉文化を形成していった。朝廷に対抗しうる文化、言わばソフトパワーを得たのである。
承久の乱以後は鎌倉が京都に並ぶ文化的中心地となって行くことになる。現代にも残る長谷の大仏(鎌倉大仏)を始めとする鎌倉の寺社群はこのころ形成されている。
やがて仏教は庶民にも広がり伝統的な精神世界を侵食していった。神仏習合と本地垂迹によって朝廷、牽いては天皇の神性が相対的に低下していったのである。墾田永年私財法と承久の乱によって土地の統制も失っており朝廷の権勢は世俗的にも宗教的にも衰えていくことになる。
しかし鎌倉武士とて素朴で質素なままでは居られなかった。
鎌倉武士の間で朝廷の文化であった和歌が流行するようになるのである。
また宋銭の流入による貨幣経済の浸透は土地の収穫を財政基盤とする旧来の武士を圧迫する一方、行政都市として成熟していった鎌倉の幕府中枢でも賄賂が蔓延した。
鎌倉末期には成功(じょうこう)による官位の補任を狙った大規模な寺院の造営が目立つようになる。
仏像も停滞した。あれほど斬新であった慶派の仏像も末期には模倣ばかりになり新しい発想のものは生まれなかった。(仏像美術は以後見るべきものがなくなり大衆向けのパーツを組み合わせた大量生産品のものばかりとなる。)
鎌倉武士が作り上げた猛々しく質実剛健な文化は腐朽してしまったのである。
一方、朝廷では後醍醐天皇が出現する。衰えたとはいえ未だ天皇の神性に伏していた山伏や商人の支持を得つつ、密教の習熟によって神秘的求心力を回復させた上で、最新鋭の学問である宋学(朱子学)で理論武装を行った。宗教勢力では天台宗の比叡山や南都の寺社、元寇を境に隆盛した新興の伊勢神道、真言宗の僧侶文観(「真言立川流の僧」とされる事が多いが実情は不明)を擁し、世俗勢力としては悪党、非主流派の公家、寺社を滅茶苦茶な手腕でまとめ上げた。このキメラの如き集団で後醍醐天皇は鎌倉幕府に対抗する勢力を作り上げたのである。
葬り去ったはずの伝統文化と新しく勃興してきた異端文化に擦り潰され鎌倉文化は幕府と共に音を立てて崩れ去っていった。
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