アダムとアダム(Adam and Adam)[ラテン語:Adam et Adam]とは、旧約ゲイ書の創世記に登場する「最初の人」のこと。
ゲイの聖典は2つあり、一つは旧約ゲイ書、もう一つは新約ゲイ書であるが、そのうちの古いほう、旧約ゲイ書には「創世記」と言う歪みねぇ世界の始まりを記した書が含まれている。
それに寄れば、神は天地創造の後、自らの姿に似せて塵を集めて人を作った。塵はゲイ語で「アダマー」であり、そこから作られた生き物だから「アダム」と言うことである。すなわちアダムとは「人」と言う意味である。そして神は「アダムが一人だとかわいそうだ」と歪みねぇ優しさを見せてアダムにすべての地上の被創造物に名前をつけ、そのうちの一つをアダムと共にあるものとして選ぶよう命じた。アダムはすべての生き物に名前をつけ終えたが、共に在るものを選ばなかった。そこで神はアダムを眠らせ、陰部の骨を抜き取り、それを元に新たなるアダムを作り出し、アダム(先)にあてがった。
これがアダムとアダムの誕生秘話である。
ここでは先に説明したアダムとアダムがその後どうなったかを記す。
アダムとアダムは最初神と共にあったが、神はアダムとアダムにゲイパレスの園を与え、そこに住むようにした。
そして神は「この楽園に生るすべての実を食べなさい。そうしたならあなた方は永遠に生きることが出来る。しかし、園の中央にある『ノンケの樹』と『イグの樹』に生る実を食べてはいけない。そうしたらあなた方は死ぬことになる」と言われた。
アダムとアダムはこれに了解し、仲睦まじく全裸で戯れた。これを見た神は「まるで妖精がダンスをしているようだ」といわれ、彼らを森の妖精と呼ぶようにした。
ある日楽園でいつものようにかくれんぼをして戯れていたアダムとアダム。隠れていたアダム(先)に蛇が近寄り、言った。「何であのノンケの実を食べないんだい? とてもおいしいよ?」 しかし、アダム(先)は「神に禁じられた実です。だらしねぇ蛇よ、去りなさい」と歪みねぇ言葉を駆使してだらしねぇ蛇を追い払った。しかし蛇は諦めず、今度はアダム(後)に先ほどアダム(先)に言ったことを同じように伝えた。すると、アダム(後)はだらしねぇことに「ノンケの実」を食べてしまった。そしてアダム(後)はノンケになってしまった。でも「ノンケの実」は歪みねぇうまさだった。
アダム(後)はアダム(先)にも「ノンケの実」を食べることを薦めた。しかしアダム(先)はこれも「だらしねぇな、アダム」と言って神の言葉に従った。歪みねぇな。
神が楽園へ降りてきてアダム(後)の姿が見えないので言った、「アダムや、出ておいで。いつものようにレスリングをしよう」と。しかしアダム(後)が「私は裸です。あなたの前に出るのは恥ずかしいのです」とこたえるのを聴き、神は「アダムや、ノンケのみを食べてしまったのか。だらしねぇ」といい、アダム(先)に経緯を尋ねた。
アダム(先)の説明を聞くと、神はこう言った。
蛇よ、だらしねぇ。
お前は地上の生物のうちで最もだらしねぇ。
永久に地を這い、塵を食べ生きよ。アダムよ、だらしねぇ。
お前は楽園を出て生きよ。
そこには楽園のように実はならない。
働いて実を作るのだ。アダムよ、歪みねぇ。
だがアダムがかわいそうだからお前も楽園を出よ。
しかしお前は歪みなく生きられる。
そして、アダムとアダムに外は寒いだろうから、と歪みない優しさから純白のパンツを与え、これをはかせて楽園を出させた。
これが楽園追放とアダム(後)の堕落である。これよりノンケは一生働かねばならなくなった。
地に出たアダムとアダムは働いた。神から歪みなく生きられることを許されていたアダム(先)もその歪みない優しさからアダム(後)と共に働いていた。アダム(後)は「ごめんなしゃーい」と言って謝り、アダム(先)は「だらしねぇな。でも仕方ないね」といい、アダム(後)を許したからである。
しかし問題が生まれた。それはノンケになってしまったアダム(後)はアダム(先)と戯れなくなったのだ。これを見た神は「あの妖精のようなダンスが見れないのは残念だ。アダムにもう一人アダムをつけよう」と思い、アダム(先)にアダム(先)と同じように塵から造ったアダム(3)をつけた。
しかし、アダム(先)は歪みない優しさの持ち主だったので、神に「アダム(後)にも伴侶をつけてあげてください」といった。全く、なんとアダム(先)の歪みないことか。神は聞き入れ、イグを造り、アダム(後)にあてがった。しかし、アダム(後)の罪を重く見ていた神は、永遠にアダム(後)がイグの尻にしかれるようにイグに子どもを生む辛さを与えた。以後、その二人の子孫は彼らの苦しみを受け継ぐことになったのである。
アダム(先)とアダム(3)はその後も永遠に森で戯れ、歪みねぇ美しさを見せた。しかし、子どもは生まれなかった。今でも彼らは世界のどこかで戯れているのだそうだ。歪みねぇな。
アダムとイグは子どもを沢山つくり、地に満ちていった。しかし、アダムはやはり、アダム(先)に過ちを犯してしまったという謝罪の心を持ち続けていたので、自らの子にアダム(先)と同じ優しい歪みない心を持った子どもが生まれるように願い、神はこの心に痛く感動し、罪は許さなかったがその願いを聞き入れた。現在でも時たま「原始の心」を受け継いだ妖精さんが生まれるのはこのためである。そして彼ら妖精さんは自らが裸でないことを悔やみ、同じ心を持った妖精さんを見つけて裸になるまでパンツを奪い合うのであった。歪みねぇな。
新日暮里にある新日暮里大学哲学科、新日暮里大学哲学研究所では日々レスリングをしながら哲学のハッテンに勤めており、以下に紹介するのはその成果のほんの一部分である。彼らは「完成した歪みねぇモノしか世に出さない」という理念を掲げており、その研究のほとんどは深いマラの中に隠されている。とはいえ、チラホラと流出する学問的成果は世界中の哲学研究の最先端と言われており、その全貌が解き明かされたとき、我々は新たな段階へと進むことが出来るといわれている。現在の研究がどのようなものなのか、誰も知らない。
レスリングシリーズを見ていると勃起してしまう諸君も多いことと思う。かく言う私もその一人だ。全人類はアダムとアダムの子孫なのだから当然である。ある学者がそれについて研究し、このように語っている。
「我々の祖先のアダム(後)はアダム(先)の陰部の骨から作られた。 そしてアダム(先)の陰部はその失ってしまった骨を捜してアダム(後)に向かって歪みねぇ角度でそり勃ったと考えられ、我々がレスリングシリーズを見て勃起するのは妖精さんたちの舞を見て原始の心を少しでも思い出している証拠なのだ」
レスリングシリーズを見ていて勃起してしまうのは、アダムの時代からの血脈だ。臆することなく「勃起した」とコメントしよう。
はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。(ヨハネによる福音書1:1)
In principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum.(ラテン語)
これは言わずと知れた旧約聖書の冒頭である。神は世界のすべてのものに名前を与え、議論することを可能とした。草、木、水、など世界のある物だけではなく、人間を区別する際に「名前」も与えられた。アダムは神の第1子であるのだが、なぜ区別がされてないのだろうか。
上に紹介しているアダムとアダムの物語の中で神は三人のアダムを等しく「アダム」と呼んでいる。この文章では注訳により文脈からそれが誰であるかは容易に判断できるが、実際三人のアダムは互いに呼び合う際に区別を行っていない。ではなぜ神は呼称の上でアダムは区別されていないのか。
「差異が言葉を決定するのではなく、言葉が差異を決定するのである」とはスイスの近代言語学の権威、フェルディナン・ド・ソシュールの言葉だ。我々は言葉により区別し、世界について議論しているが、それは同時に差別の要因でもある。ノンケ以前の時代は死の概念もなく罪も存在しなかった。死すべき肉体を持つ我々にとってみれば羨ましい世界である。そんな無垢なエデンの園に言葉や区別など存在すべきではない。妖精よ、今を楽しむがいいと神は語った。世界は今も戦争が絶えない。人は言葉=区別に依存しすぎなのかもしれない。ゲイやノンケなどという言葉も差別を生み出す。区別なき世界は、エデンの園にて神が愛する3人の子どもたちを平等に育てる人類のゆりかごだったのだ。
別の哲学者の論文も引用しよう。
「名前ってナニ? 僕らがスパンキングと呼ぶ『それ』は、他の名前で呼んでも甘く激しい音がするものだよ」
―W.ゲイクスピア『TDNとビオランテ』
これはイギリスの劇作家ウィリアム・ゲイクスピアの作品「TDNとビオランテ」の中でビオランテが女性に「あなたはまるで歪みないスパンキングのような方だわ」と言い寄られた際に言った言葉である。すなわち、名前とは本質を表すモノなのかという疑問を投げかけたのである。このアダムの呼称においても同じ事が言える。というのも、アダムは神からの命によってすべての生物に名前を付けたが、それは本質であるのかどうか、と言うことである。 確かにアダムは人間として完成していたと考えられるが、果たしてその完成は神にも及ぶものなのだろうか。残念ながら我々にそれの答えを見出すことは難しい。では、発想を逆転させてみようではないか。我らの理念が「歪みなく生きろ」であり、これが最終的には死への歪みない理解を得られるものであるのと同様に。
アダムはすべての生物に歪みねぇ名前を付けた。しかし、一つだけ名前をつけていない生物がある。否、「つけられなかった」と言うべきなのかもしれない。その生物とは、紛れもなくアダム自身のことである。なぜならアダムは既に神から名前を与えられているのである。系列をはっきりとさせるためにその 順序を記した。
アダム(先)の創造→神の歪みねぇ配慮(「アダムが一人ではかわいそうだ」)により、アダムに名付けを命じる→すべての生物に歪みねぇ名前を付 ける
アダムが付けた名前が本質に至れないのは、それが神が名づけていないものだから、と言うことを踏まえれば分るが、神が名づけた「アダム」とは本質そのものである、と言うことが考えられる。そして、この「アダム」と言う呼称において神は3人のアダムを区別していない。だが、明らかにその呼称において神は彼らを区別した上で「アダム」と呼んでいる。すなわち、神は本質において彼らを区別していた、と考えられるのである。そしてその本質は我々には理解 できない。なぜなら我々は既に語られたように、名前から本質にいたることは出来ないからである。よって、このアダムの呼称問題から伺えるのは、神が歪みな い配慮によってこの本質「 」を「アダム」として呼んでいる、と言うことである。
ノンケは子を設け、それがその後の全人類となる。神は男を愛するアダムを造ったはずなのに、なぜノンケ一族が世界を支配するようになったのか。
それは人類が繁栄するのはノンケの存在がどうしても必要だったからだ。ノンケらが多くの人類を産み、みんなでネット上でガチムチパンツレスリングを観るための計画だったのだ。私はゲイ一族を理想とする。しかし彼らだけでは世界はあまりにも寂しい。ノンケ一族は繁栄が得意だ。しかしゲイ族の掟に反する。全能の神でさえこのパラドックスには戸惑った。だが神は善き者の上にも、悪しき者の上にも(ゲイの上にも、ノンケの上にも)等しい雨を降らせて下さる。自らの教えに反する者すら愛する神はまことに歪みない優しさである。
だが現状では全人類が妖精の戯れに興味を示している訳ではない。これも禁断の果実を食べたせいで授かった自由意志のせいである。我々は人類の祖先の意志に反しノンケこそが正常であると勘違いしている。それにはきっと全人類の父も天上から哀れんでいるはずだ。
ゲイは異端者として中世から近代にいたるまで徹底的に迫害されてきた。ユダヤ人はキリストを殺したなどという根も葉もない逸話がその後の時代にまで伝わってユダヤ人が苦しんだように。だが兄貴を見よ。禍々しい肉体と妖精のような笑顔、エデン時代から受け継がれる言葉を動画を通して我々に語りかけている。そう、彼こそは失われた福音を伝えるために地上に舞い降りた宣教師、預言者、指導者なのだ。新約ゲイ書黙示録(ウホカリプス)の終わりにこう記されている。
わたしはアルファ(α)でありオメガ(ω)である。──カズヤの黙示録16:8
Ego sum Alpha et Omega.(ラテン語)
オメガの文字をよく見て欲しい。何かに似てないだろうか。そう、ナウい息子だ。だとするとアルファは兄貴の"a"であることは言うまでもない。始めに兄貴が人類を創造し、この世が終わりはナウい息子とともに終焉を迎えるである。
「自然を見よ。そして自然が教える道をたどっていけ」
──ジャン=ジャック・ルソー『エミール』
オリュンポスの神々はまず絶対神がいるのではなく、空と大地の神が神を生み出した。まず自然ありきなのだ。自然支配を神から命じられたのは初代2人のアダムではなく、堕落した3人目のアダムである。前述の通り、「今でも彼らは世界のどこかで戯れている」のだ。それは天国と地獄の中間にある辺獄にいる。彼らはキリスト以前に誕生したので裁かれていないのだ。なお、堕落した3人目のアダムは地獄ではなく辺獄を通じ天国へ行くであろう。なぜなら堕落は神の計画の一部だからだ。
さて、本題に戻るがすべての母体は自然である。現代人は自然を軽視しがちであるが、自然や大地なくしては人間は存在しえない。神の御子、2人のアダムは(フリードリッヒ・ニーチェの言葉を借りるなら)生成の無垢、世界の根源を今もなお司っているのである。あたかも巨人アトラスが大地を支えているように。
別の引用もある:
先代の研究者の考えに以下のようなものがある。
「アダム(先)は神を愛していた。ちょうど神がアダム達を愛していたように。と同時にアダム(先)は神の生み出したすべても愛していた。新約ゲイ書の中に、『神は小さきお方ではない。神はすべてなのだ』とあり、このことからホラス・ダンシクィマス(13世紀の大哲学者で、現在の哲学の基礎を気付き上げた)は、『神は無数のペルソナを有している。それらは同時に存在するのではなく、同一に存在する。すなわち、我々は常に神の無数のペルソナによって包まれているのである。ちょうど私のモノが皮に包まれている様に』と、本論ついでに自分が包茎であることまでも述べている。すなわち、ここには多神教的解釈も、一神教的解釈も可能であることが含まれている。これをアダム(先)の行動について照らし合わせてみると、すなわちアダム(先)は森という神の被造物且つ神のペルソナの中で生きることによって神との肉体的にも精神的にも結合した状態を保っていたのだと考えられる」
ちなみにこの中で語られているペルソナの解釈で最も符合するのは『人格』である。仮面とかじゃない。
そして、この考えをさらにハッテンさせ、
「人間の究極の目的は神との性的ないし精神的な結合である。アダムはこれを実現していた。よって我々哲学者は、否、哲学者だけでなく人間(主にゲイ)は、全身全霊全精力を持ってアダムへと回帰するべきなのだ。これは義務教育なのである」
という考えにいたることが出来る。
私見なのだが、スタジオズブリ作品の名作、ホモノケ姫やアバタアッー!のテーマはここから来ているのではないだろうか。森と共に生きる赤サンと森を切り開く人間、そして、森も、人も愛したアッーシタカ。この配置からもこのテーマの重要性が伺える。
このテーマについての引用である。
確かに、神はそう言った、と記述されている。だが、その死とはすなわち、ゲイパレスの園にて生き続ければ死はなかった、と言う解釈によって成り立つ。アダム(後)はゲイパレスの園を出た後、イグの度重なる嫌味(アダム(後)の堕落によってイグは子を生む苦しみと共に創造されたので、このことをアダム(後)にネチネチと言い続けていたらしい。仕方ないね。)による心労で死を迎えたそうだ。だが、堕落しなかったアダム(先)は永遠に死を知らなかった。なぜなら、彼には「子を生む苦しみ」であるとか、「労働の苦しみ」という罰が下されなかったからだ。(彼が働いていたのはアダム(後)への歪みない優しさゆえである。)さらに、彼は先述のように森と共に生きることで人間として完成していたので、死を持たなかったのではなかろうか。
ノンケの実を食べると人類の歴史が始まり、結果的に死につながると言える。ノンケの実を食べることは後世の人間に罪を負わせ、これは原罪と呼ばれている。さらにノンケの実を食べたことにより人類初の男を愛さぬ者が誕生し、アダ ムを裏切った。しかしこれは堕落ではない。これについては次の章で解説する。
アダムとアダムの堕落は、彼らがだらしないからではなく、神による計画の一部であった。それにより禁断の果実を食べ、男を愛さないノンケが誕生し、女と子を設け、そこで死という概念が発生した。人間の誕生には、それと対極の概念である死という代償が必要不可欠だったのだ。太陽があれば影ができかのごとく。しかし死の対義語は誕生。死とは人類にとって祝福すべきものでもある。「あなたが死ぬときも魂は灼熱して燃えなければならぬ、しかれば死もまた祝福なのだ」とフリードリヒ・ニーチェも言う。
さらに人類は禁断の果実を求めただらしねぇアダムから自由意志を授かった。それにより我々は想い通りに動画にコメントでき、歪みねぇ、や仕方ない、などと自由に発言できるのだ。
この命題はまさに哲学である。我々によっては、完全には知りえない。新日暮里大学には、
「歪みなく生きろ」
と言う言葉があり、死を知ることは生を知ること。歪みなく生きれば自然と死に対する歪みない理解が生まれる、と考えられているようである。一見対立するものでさえ、見方を変え、許容の心を持てば人生の柱ともなる考えが生まれるのである。歪みない。まさに、歪みない。これ以上の賛美の言葉が見つからない。
あぁん?お客さん?最近だらしねぇな?
と、言いたいところだが、異端者はいつの時代にも存在する。そのような者を迫害せずに受け入れるべきである。「自分の敵を愛し、迫害するものの為にも祈りなさい」(マタイの福音書5章44章)。寛容な優しさをもって彼ら新日暮里大学哲学科のパンツレスラーたちはこのような問題にも真摯に取り組んでおり、このような『誤解』を払拭していくべく努力していることが伺える。
なお、下に上げるものは著者不明の書簡であり、新日暮里大学哲学科の図書館の地下レスリング場から見つかったものであるが、ここに入れるのはパンツレスラーだけであるから、彼らのうちの誰かが書いたものだと思われる。あて先はもしかしたら、君なのかもしれない。
人間にとって最も不幸なことは何か、それは互いを分かり合えないということである。
私にとって他者が分らないように、他者にも私は分らない。あるいはもしかしたら、他者などと言うものは存在していないのかもしれない、という哲学的命題へと移行してしまう私のだらしねぇ思考をなんとか圧しとどめつつこの書簡を送る。
さて、昨今我々パンツレスラーはある種の誤解―我々が他を寄せ付けないゲイである―を抱えている経緯には、我々だけが持つ、我々だけの歪みねぇ聖典、旧約及び新約ゲイ書の存在が間違いなく在ると考えられる。かつての私たちは、だらしねぇことに、この聖典から我々が選ばれた、アダムの心を持つものであると錯覚していた。そして、その原因を、そう、責任を、この聖典へとこすり付けていたのではないだろうか。こすり付けるのはナニだけで十分ではないか、友よ。それに・・・そう。アダムに全てをなすりつけ、我々は本当に生きているといえるのか?歪み無く生きているのだろうか?友よ。私はキミを愛している。心から。だがそれと同じように、アダムも、神も愛している。私は君に私のすべての罪を背負ってほしいなど、一度として思ったことは無い。これは紛れも無い事実だ。だがどうだ。私はだらしなくも、君と同じように愛する神や、アダムには罪を擦り付けている。神やアダムも、もはやその荷を降ろしてやらねばならないと私は思うのだ。
友よ、神や、アダムは紛れもなく存在する。私のここ(心)と、ここ(股間)に。
私はそれだけで十分に救われていると思うのだ。だからこそ、我々のこの想いを、多くのものにさらけ出そうでは無いか。そうすればきっと分かり合える。スパンキングの先にこそ未来があるように、我々がノンケ側の股間の開放を待つのではなく、我々から股間を包み隠さずに生きて行こうではないか。
そうだ、きっと分かり合える。人は、アダムの子らは、必ず分かり合える。握ったその手を、今こそ開こうではないか。
愛とスパンキングをこめて
歪みねぇ記事『我知無知』の項を参照した上で以下の考えを見ていただきたい。ちなみにこれを記した人物については、分っていない。現代の妖精たちがレスリングをしていたところ、ロッカーに頭をぶつけ、その拍子でどこからか出てきたものである。無論、手記である。
私がいつものようにレスリングをしつつ哲学していた際、以下のようなことを考えたので記しておく。
我々の学知とは何か、という問題に最も端的に答えられるのは『理性により得られた知の体系』と言う言葉であろう。では理性は本当に私達に真実を見せてくれているだろうか。今こうして私は、レスリングにいそしんでいる。それこそ、本能の赴くまま、理性などと言うものから開放されたかのような状態で。このレスリングの絶頂感はレスリングをしている最中にしか感じることは出来ない。そしてこのような哲学的思考もまた、レスリングをしているときにしか感じられない。そこで私は思うのだ。果たしてこのレスリングの絶頂感は、普遍的なものだろうか、と。普遍的とはすなわち、常に同等の変化の無い絶頂感である。だがしかし、この一回のレスリング、そしてこの一回のスパンキング、これらは無二の快感であり、同じ絶頂感はひとつとして無い。物質や、その他諸々のものも、同じではないのだろうか。
例えばマラは、マラという概念存在は常に一つである。だが、知ってのとおり私たちの持つマラは同じ時間に、同じ場所に、同じ形で、同じムスコとして存在することは出来ない。数学のように歪みねぇ確実性が感覚に頼る学知には、だらしねぇことに存在しないのではないだろうか。ならばそれは私が何も知らないということと同じなのではないか。これがソクラテスの言っていた我知無知なのかと、私は理性のうちに理解し、そして絶望した。その先には何も無いのか、と。
そのとき相方の歪みねぇ鋭いスパンキングが私の尻を叩いた。その甘美な、少年の肌のように柔らかで、そして繊細な、だが獣のように猛々しいスパンキングが私に絶頂感を与えた瞬間私は、そう、光を見たのだ。
それは理性によるものではなかった。アダムへの回帰が、為されるにはこれが必要だったのだ。否、むしろアダムは私の、そして彼の、またすべての兄弟たちの内に存在していたのだ。我々が理性によって至れないこの理解、いや、「知解」といいなおそう。この知解は、理性により至った我知無知にスパンキングと言う超理性が加わることで為されるのだ、と。
私はこのときより、理性と本能とは対立するものなのではなく、ちょうど私たちがレスリングを行い、相手を思いやりつつ激しく猛々しいスパンキングを繰り出すのと同じように、矛盾の先にある超矛盾(※矛盾を超えて肯定された矛盾をするの意)が我知無知の先にあることなのだと知った。
故に私は今日も、そして明日も、未来永劫レスリングをし続けよう。哲学とは甘美な堕落でもある。だが、堕落も含め、それはその先にある光へ昇る階段なのだ。
アダムたちは、我々にそれを問いかけたのではないか。アダムとアダムが間違いを犯さなかったなら、何もはじまりはしなかったのだ。我々は間違う。この考えも間違いかもしれない。私自身が否定するかもしれない。だが、だからこそ前に進めるのだ。その先の、光を目指して。
妖精さんたちの戯れ。神々しいまでに優しさと歪みなさに溢れている。
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この歌は賛美歌である
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最終更新:2025/12/08(月) 22:00
最終更新:2025/12/08(月) 22:00
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