イエス・キリストとは、紀元1世紀にパレスチナで宗教活動を行ったとされる、ナザレ(イスラエル北部)出身のユダヤ人男性である。
いうまでもなく「キリスト教」における「キリスト」その人。「キリスト」とは救世主を意味する語で、つまり「イエス・キリスト」とは「キリスト(救世主)であるイエス」という意味の美称・尊称である。
その死後に弟子達やその流れを汲む者たちによって彼の言行録が著され、後に「新約聖書」としてまとめられた。彼を神聖視する宗教「キリスト教」が誕生しこの新約聖書を聖典として伝えたため、現在でもこの書物を通して彼の思想・行動・伝説などを知ることができる。例えば、分け隔てのない無償の愛(アガペー)を説いたことや、十字架での死と復活の伝承などが特に知られている。
大工ヨセフとマリアのもと、ローマ帝国の支配下にあったイスラエルのベツレヘムに生まれた。誕生日は記録に残っていないため不明。「クリスマスはイエス・キリストの誕生祭である」と聞いたことがある人も多いかと思うが、誕生日がいつか分からないので、とりあえず12月25日に祝っているだけのことである。
おそらく30歳ごろに洗礼者ヨハネから洗礼を受け、以来、当時のユダヤ教に対し改革的な運動をし始め、ペテロ(シモン)をはじめ多くの弟子と信者の信仰を得た。
おもに道徳的な指導、つまり説教をし、とくに当時社会的に低い位置にある人々(奴隷、娼婦、etc)の心を掴むのが得意だったようである。「(精神的に)貧しいものは幸いである。神の国は彼らのものである」といい、「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」と述べた他、「明日のことで思い悩むな」と語った。
彼はまたたいへん機転がきく人物であったようで、たとえばユダヤ教の一派であるファリサイ派に「この金貨は神のものか、それともカエサル(ローマ皇帝を指す語)のものとして納めるべきか」と問われた時のエピソードは有名である。当時のユダヤ人はローマに支配されていたので、単純に「神のもの」と答えた場合は権力に歯向かうものとして問題が生じる。逆に「カエサルのもの」と答えた場合でも権力に阿って信仰を曲げたとして宗教的指導者としての沽券が傷つく、つまり非常に答えにくい質問であった。これに対してイエスは、金貨の銘がローマ皇帝であったため「神のものは神のものに、カエサルのものはカエサルに返せ」と答えたとされる。
イエスはまた十字架と切っても切り離せない関係にある。十二弟子(使徒)の一人、イスカリオテのユダが銀貨30枚でイエスを裏切ったのが原因し、十字架に掛けられて処刑されたのは有名だろう。イエスは十字架で「人々の罪を贖う」形でこの世を去るが、これが十字架に処刑具としてではなくイエスの贖罪という付加価値を与え、今日の十字架の印象を形成したのである。
特筆すべき点として、新約聖書に残されている弟子達が書き記した内容によれば、処刑されて数日経った後に復活を遂げたという。この復活を祝う日として「イースター」というお祭りもあるが、日付が毎年変わることなどが関係してか、日本においてはクリスマスと比較して格段にマイナーである。
上記の内容は『キリスト教』の項の『歴史』の段にも詳しいため、そちらも参照のこと。
まず「イエス」だが、これは古代イスラエルにおいて、神とその子孫であるイスラエルの民に繋がる名である。ヘブライ語で発音するとヨシュアあるいはイェホシュア(Yehoshua)となり、アラム語ではそれが短縮されイェシュア(Yeshua)となる。これがギリシア語でイイススと音訳され、日本でイエスとなるわけである。本来は「神(ヤハウェ)は救いなり」を意味し、ヘブライ人の名前としてはごくありふれた名前であった。よって、他の「イエス」という名の者と区別するために、ナザレが出身地であったことから特に「ナザレのイエス」と呼ばれることもあった。
「キリスト」は冒頭に記載したように救世主を意味する語である。これは古代ギリシア語からの転用であり、正しくはクリストス(Khristos)と発音する。本来はヘブライ語でマシーアハ(mashiah)と言い、「聖油を注がれしもの」、すなわち神聖で特別な存在という意味であり、これが救い主と意訳されるのである。つまり、一種の称号である。
神は救い、救世主、というこれらの二語からなる名前であるから、イエス・キリストとは非常に宗教的色彩のある名といえよう。イエス・キリストはまたギリシア語の同格表現であり、救世主であるイエス、もっといえば「聖油を注がれしイエス」という表現であった。このことからイエスを「イエス・キリスト」と呼ぶことは、実のところイエスをこの世の救い主と認めることと同義なのである。
キリスト教においては教派によるが、神と同質あるいは受肉した神そのものとして扱われている。またユダヤ教においても、イエス・キリストの権威を認める教派がある。イスラム教では預言者の一人として教典に登場する。
イエスに対する考えや意見は古今東西異なるだろう。少なくとも当時のイスラエル、とりわけ彼がよく活動したガリラヤの周辺では、イエスは救世主(メシア)として多くの民に受け入れられていた。しかし一方で、ローマ皇帝や当時のイスラエル王であるヘロデ王らからすれば、「父なる神」以外を同じ人と見るイエス、および彼の思想や信者は危険因子であった。
当然ながら宗派により異なる。
カトリック教会、正教会、イギリス国教会、ルーテル教会、そして改革派教会など、一般にキリスト教でイエス・キリストは以下のように解釈されている。
「三位一体」についてだが、これは、イエス・キリストとは「父なる神」と「子(イエス本人)」と「聖霊」が一体である、という解釈である。つまりイエス・キリストは神であり神の子であり聖霊である、唯一の神ということ。「神の子がイエスなのにイエスが神? それに神様って唯一じゃないの?」と思うこと必至であろうが、ようはイエスとは、神や人の枠組みを越えたすんごい何か、ということなのだろう。三位一体を教義として採用していない宗派も少数ながらあるが、多数派からは異端視され、「もはやキリスト教とはいえない」と見なされることも稀ではない。
イスラム教では「預言者イーサー」として母のマリア共々教典であるコーラン(クルアーン)に登場する。イスラム教はムハンマドを最後にして最高の預言者とするため、イエスの立場はもちろん最高位ではないが、モーセとほぼ同等の扱いを受けているようだ。
戦国時代、フランシスコ・ザビエルらによりキリスト教が日本に伝播した。ところがご存知の通り、イエス・キリストを神として日本に宣教しても、当の日本が「八百万の神」を信仰する風土であったから、人々はイエス・キリストもまた無数の神々の一員として解釈した。現代でもこの考えの影響は少なくなく、キリスト教をカルトとしてとらえ、故にイエス・キリストを偶像視するものもいないわけではない。
日本におけるイエス・キリストに対する考えは、現代のサブカルチャーにも独特の形で表れている。RPGやカードゲームや漫画には長髪の男性として登場することがある。→『聖☆おにいさん』
またこれはキリスト教に対するものであるが、よく漫画やアニメなどでは十字架や騎士団が何かとかっこいいという理由で用いられることもある様子。他にも狂信的な神父や戦闘力の高いシスターさんなどが登場する場合もあるようだ。
→『HELLSING』『とある魔術の禁書目録』
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最終更新:2024/04/25(木) 12:00
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