イタリア社会共和国 単語


ニコニコ動画でイタリア社会共和国の動画を見に行く

イタリアシャカイキョウワコク

2.6千文字の記事
これはリビジョン 2756560 の記事です。
内容が古い・もしくは誤っている可能性があります。
最新版をみる

イタリア社会共和国とは、第二次世界大戦中の1943年9月から1945年4月まで存在した国家である。
別名サロ政権。

概要

成立まで

第二次世界大戦も佳境に入った1943年7月、連合軍はイタリア領シチリア島に上陸。本土の眼前に橋頭堡を築かれたイタリアは絶望的な戦局に陥り、国内では首相ムッソリーニへの反発と不満が高まった。ファシズム代表議会はムッソリーニの逮捕と幽閉を決議し、7月25日に軍事クーデターが勃発。徹底抗戦を訴えるムッソリーニは首相を解任され、後任にはピエトロ・バドリオ将軍が就いた。そしてすぐに連合軍と接触し、9月8日にイタリアは無条件降伏。枢軸国から脱落した。

ムッソリーニ解任の報が届くと、ドイツ軍は間髪入れずに動き始めた。無条件降伏後、北部にはエルヴィン・ロンメル元帥の部隊が、南部にはアルベルト・ケッセルリンク元帥の部隊が進出しイタリア軍を武装解除。瞬く間にイタリア北中部を占領し、北部の主要な工業地帯を手中に収めた。バドリオ政権はドイツ軍によるムッソリーニ奪還を恐れ、ポンツァ島、ラ・マッダレーナ島、そしてグラン・サッソの山頂と幽閉場所を転々とさせた。最終的には身柄を連合軍に引き渡す予定だったが、暗号解析によってドイツ軍はムッソリーニの幽閉場所を突き止める。武装親衛隊からオットー・スコルツェニー率いるコマンド部隊を派遣。アプルッツォ州グラン・サッソの屋敷からムッソリーニを無事救出する事に成功する。警護にはイタリア兵が展開していたが、何故か無抵抗でムッソリーニを渡し、一緒に記念撮影までするなど兵士の風上にも置けない連中だった。

9月18日、ヒトラー総統からの要請を受けて共和ファシスト党を創設。9月23日にイタリア北部ロンバルディア州ブレシア県サロでイタリア社会共和国(RSI)を樹立し、枢軸国側として参戦。降伏したローマ以南のイタリア王国を「不名誉な裏切り」と非難し、ドイツ軍の支援を受けて裏切り者と連合軍の群れと戦う事になった。こうして新たに誕生したイタリア社会共和国に対し、同盟国のドイツと日本は国家承認を行い、日本はヴェネツィアに大使館を設置。ドイツは協同体国家と位置付けた。対する連合国は当然承認せず、サロ共和国という蔑称を付けていた。

内戦

1943年10月13日、ムッソリーニ率いるイタリア社会共和国と、バドリオ将軍と国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世率いるイタリア王国が激突。内戦状態になった。イタリア王国がドイツに宣戦布告したため、日独伊三国軍事同盟が破綻。抜けた王国の代わりに共和国が加盟した。協同体国家とは表面的なだけで、その実態はドイツの傀儡国であった。ムッソリーニが胃病で精神的に疲れ果てているのを良い事に、工業地帯や農業地帯、果ては美術品までドイツに接収された。

共和国軍は三軍ともに深刻な人手不足に悩まされた。国王への忠誠から高級将校は共和国に合流せず、南部の王国軍に加勢。また北部イタリアに潜むパルチザンは苛烈な抵抗運動を行い、ドイツ軍と共和国軍を悩ませた。連中は決して表に出ず、小グループや単独で行動し、霧や闇に紛れてドイツ兵を殺害した。さらにパルチザンは獄中にあった共産党員を解放し、各都市で蜂起。傍若無人な破壊活動を繰り返した。無論、ドイツ軍が黙っているはずがなく、1名殺害されるたびに無作為に選び出した10名の老若男女を殺害するという報復方法でパルチザンに対抗した。

それでも半数以上のイタリア軍が社会共和国側につき、勇猛果敢に最後まで戦ってくれた。北中部に進駐したドイツ軍は強靭な防衛線を十重二十重に敷き、連合軍と王国軍を相手に勇戦。10月1日、連合軍がナポリに侵攻してきたが、ドイツ軍の強固な抵抗により撃退。イタリア半島は山が多く、防御側に有利であったため連合軍の侵攻は非常にゆっくりとしたものだった。1944年1月17日、ローマを目指す連合軍とドイツ・イタリア社会共和国軍との間でモンテ・カッシーノの戦いが生起。ここで独伊軍は恐るべき強さを発揮し、猛爆撃に耐えながら約4ヶ月ものあいだ連合軍を釘付けにした。しかし遂に連合軍の攻勢に屈し、6月4日には首都ローマを奪取されたため、中部にまで後退。新たに四重の防衛線を敷いて連合軍を迎え撃ったが、7月27日にピサを、8月4日にフィレンツェを失陥。苦しい戦いを強いられたが、長期の雨季と南フランス上陸作戦の準備のため連合軍の進撃が一時停止。

1945年1月に中部の防衛線を全て突破される。戦いの舞台は北部に移ったが、再び独伊軍は四重の防衛線を敷いて抵抗。しかしノルマンディー上陸によりフランスの隣接地方が敵手に落ち、限定的な抵抗しかできなかった。加えて東の国境からはユーゴスラビアで猛威を振るったチトー率いるパルチザンが侵入。多くのファシスト党員と共和国兵士が虐殺された。4月9日、ポーランド人部隊がコマッキオ防衛線を突破、4月11日にニュージーランド軍がサンテルノ川を渡河し、4月19日にアメリカ軍がボローニャに到達。この街のパルチザンは苛烈極まりなく、ドイツ軍の奮戦で2000名以上を討ち取ったが、アメリカ軍到達前に撤退させられた。トリエステもチトーのパルチザンによって失陥。勝敗が決し、勝ち誇ったパルチザンはミラノ、コモ、レッコの中心に武器を捨てて投降するよう呼びかけた。素直に投降すれば処罰しないという条件をつけて。更にはミラノ及びトリノの突破を許し、ついにフランス方面とイタリア方面の連合軍が合流。イタリア社会共和国は事実上瓦解し、機能を喪失した。

4月25日にベルリンが包囲されると、パルチザンは信号を上げて一斉蜂起を行った。これによりイタリア社会共和国が握っていた多くの市町がパルチザンの手に落ち、ミラノとヴェネツィアが失陥。退路を断たれた北西イタリアでは投降が相次ぎ、ゼノアでは共和国軍の守備隊4000名がイギリスの連絡将校とパルチザンに投降している。この日が社会共和国の滅亡日とされている。4月27日、北イタリア・スイスの国境に近いコモ湖でムッソリーニが拘束され、翌28日にギウリーノで私刑に処された。これにより指導者も失い、完全に地上から消滅した。

関連動画

関連項目

  • イタリア
  • 枢軸国
  • 第二次世界大戦

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/06(土) 10:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/06(土) 10:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP