イタリア社会共和国(英:Repubblica Sociale Italiana)とは、第二次世界大戦中の1943年9月から1945年4月まで存在した国家である。略称はRSI。
第二次世界大戦も佳境に入った1943年7月10日、連合軍はイタリア領シチリア島に上陸。本土の眼前に橋頭堡を築かれたイタリアは絶望的な戦局に陥り、国内では首相ムッソリーニへの反発と不満が高まった事で、ファシズム代表議会はムッソリーニの逮捕と幽閉を決議し、7月25日に軍事クーデターが勃発。徹底抗戦を訴えるムッソリーニは首相は解任され、後任にはピエトロ・バドリオ元帥が就いた。バドリオ政権は表向きこそドイツと友好関係を続けていたが水面下では連合軍と密かに接触。シチリアのカッシビレで休戦協定に署名する準備を進めていた。
そして9月3日に全ての準備が整い、9月8日にイタリアは休戦を発表(とはいえ条件的に無条件降伏に近かった)。枢軸国から脱落する事となる。
しかし、イタリアが水面下で休戦協定の準備を進めていたのを事前にドイツ側は把握しており、しばらく泳がせながら事態に備えていた。イタリア休戦の報が届くとドイツ軍は間髪入れずに動き始め、イタリアを電撃的に制圧するアクゼ作戦を開始。北部にはエルヴィン・ロンメル元帥の部隊が、南東部にはアルベルト・ケッセルリンク元帥の部隊が進出し、イタリア軍を武装解除するとともに軍需品を全て確保。北部の主要な工業地帯を手中に収めた。休戦後、ドイツ軍に対する明確な命令を受けていなかったイタリア軍は大した抵抗を見せなかったという。
連合軍も9月9日にスラップスティック作戦とアバランチ作戦を開始して要所の確保に動く。9月10日、枢軸国側のクロアチア独立国はイタリアの混乱を突いて領土問題を解決しようと、ローマ条約でイタリアに割譲されたダルマチア地方の一部を奪還。更にザラ地方の併合も試みたがこちらはドイツによって阻止された。このクロアチア独立国の動きに激怒したイタリア側は公然と非難を浴びせ、外交関係を結ぶ事を拒絶している。
バドリオ政権はドイツ軍によるムッソリーニ奪還を恐れ、ポンツァ島、ラ・マッダレーナ島、そしてグラン・サッソの山頂と幽閉場所を転々とさせた。最終的には身柄を連合軍に引き渡す予定だったが暗号解析によってドイツ軍はムッソリーニの幽閉場所を突き止める。ムッソリーニを生きたまま救出するという前代未聞のミッションに挑むのは、武装親衛隊の若き大尉オットー・スコルツェニーが率いるコマンド部隊であった。9月12日、スコルツェニー大尉は行動を開始。ムッソリーニが幽閉されているスキー客専用ホテルはアプルッツォ州にあるアペニン山脈の最高峰グラン・サッソ山頂にあった。イタリア軍の将軍ソレティの協力を受け、コマンド部隊を乗せた軽飛行機が山頂付近に着陸、中から飛び出したドイツ兵が短機関銃を構えながらホテルに向かう。同時にソレティ将軍が「撃つな!」と連呼して警備兵の注意を引いた。スコルツェニー大尉はホテルの1階に入り、すかさず無電装置を破壊。無事ムッソリーニを発見して「ドゥーチェ(総統)、総統が私を派遣されました。あなたは自由です!」と手を差し伸べた。こうしてムッソリーニは無事に救出された。この時、ドイツ兵と一緒になって警備のイタリア兵までナチス式敬礼をして出迎えている。いや止めろよ。また一緒に記念撮影を撮るなど兵士の風上にも置けない連中だった。
救出されたムッソリーニは空路でバイエルンに向かった後、東プロイセンのラステンブルグでヒトラー総統と会談。ムッソリーニは体調を悪くしていて休養を望んでいたが、ヒトラー総統は国防軍の保護下で新たなファシスト政権の樹立を望んで意見が対立。そこでヒトラー総統は「もし要求が吞めないのなら、イタリアは占領国と同じ扱いにする」と言い、ミラノ、ジェノヴァ、トリノを破壊すると脅迫。渋々要求を受け入れ、ムッソリーニはミラノへ戻っていった。
9月15日に要請通り共和ファシスト党を創設し、9月18日に同盟国のドイツや大日本帝國と戦争を再開すると宣言。この日、ムッソリーニは逮捕後はじめて公の場に姿を現し、降伏したローマ以南のイタリア王国を「不名誉な裏切り」と非難する演説を行った。9月23日、イタリア北部ロンバルディア州ブレシア県サロでイタリア社会共和国(RSI)を樹立した。内閣はドイツから派遣された人物で占められ、ムッソリーニは首相と国家元首を兼業。ちなみにムッソリーニに反対票を投じた者が19人いたが、1人を除いて全員死刑宣告を受けている。首都は未だ枢軸軍の支配下にあるローマにしたかったようだが、そのローマは連合軍の戦線に近いうえ攻略目標となっていたためミラノとヴェネツィアの中間にあるガルダ湖畔の小さな街サロが選ばれた。新たに誕生したイタリア社会共和国に対し、枢軸国のドイツ、日本、ブルガリア、クロアチア独立国、スロバキア、ハンガリー、満州国、タイ王国が国家承認を行い、日本はヴェネツィアに大使館を設置。ドイツは協同体国家と位置付けた。非公式ながら中立国のスペイン、ポルトガル、アルゼンチン、スイスも承認。対する連合国は当然承認せず、サロ共和国という蔑称を付けていた。イタリア王国がドイツに宣戦布告したため、日独伊三国軍事同盟が破綻。抜けた王国の代わりに共和国が加盟した。協同体国家とは表面的なだけで、その実態はドイツの傀儡国であった。ムッソリーニが胃病で精神的に疲れ果てているのを良い事に、工業地帯や農業地帯、果ては美術品までドイツに接収された。
遣独潜水艦作戦の一環で、日本勢力圏下の東南アジアを訪れていたイタリア潜水艦にも本国降伏の報が届き、乗員は拘束。潜水艦はドイツ海軍に接収された。王国か社会共和国かの忠誠を問われ、王国に忠誠したものは収容所送りとなり、社会共和国に忠誠を誓った者は解放されて潜水艦の乗員に復帰。しかし多くの欠員を出してしまったので、乗員は独伊の混合となっている。またイタリアが中国の天津に持っていた租界は日本傀儡の中華民国再編国民政府に譲渡された。
イタリア軍にとって休戦条約は事前に知らされていない突然の出来事だった。ムッソリーニ国家元首率いるイタリア社会共和国と、バドリオ将軍と国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世率いるイタリア王国は互いに自身が正統なるイタリアを主張している上、どちらがの側につくか十分な時間が与えられなかった。国王への忠誠のためイタリア王国についた者もいれば、ドイツとの同盟を尊重してイタリア社会共和国についた者もいた。
しかし全体でみれば軍人の多くは敵である王国側に味方した。高級将校は共和国に合流せず、南部の王国軍に加勢した事から共和国軍は三軍ともに深刻な人手不足に悩まされた。残された空軍機とパイロットでは制空権の維持は不可能で、工業都市を重点的に防衛して他は切り捨てざるを得なかった。海軍艦艇は連合国との休戦条件に従うべく港を出発し、大半が投降。残っていたのは修理中や建造中で出港できなかった航空母艦アクィラや、少数の巡洋艦と駆逐艦くらいで、RSI海軍は駆逐艦以下の小艦艇が主力という有り様だった。一方、ボルドーのBETASOM(ベタソム)基地司令エンツォ・グロッシ大佐がRSIに味方してくれたため大西洋方面の潜水艦は丸々残った他、同盟国ルーマニアのコンスタンツァに出張していた黒海潜水艦隊、ラ・スペツィアやヴェネツィアの駆潜部隊、デチマ・マスがRSI海軍に残った。
また北部イタリアに潜むパルチザンは苛烈な抵抗運動を行い、ドイツ軍と共和国軍を悩ませた。連中は決して表に出ず、小グループや単独で行動し、霧や闇に紛れてドイツ兵を殺害した。さらにパルチザンは獄中にあった共産党員を解放し、各都市で蜂起。傍若無人な破壊活動を繰り返した。無論、ドイツ軍が黙っているはずがなく、1名殺害されるたびに無作為に選び出した10名の老若男女を殺害するという報復方法でパルチザンに対抗した。RSI軍も徹底的にパルチザンの弾圧を行い、ドイツ軍の援護と治安の維持に注力。
多くのものを失ったものの、それでも半数以上のイタリア軍が社会共和国側につき、総兵力は55万8000名に達した。女性だけで構成された補助部隊も結成され、およそ6000名が志願。勇猛果敢に最後まで戦ってくれた。北中部に進駐したドイツ軍は強靭な防衛線を十重二十重に敷き、連合軍と王国軍を相手に勇戦した。
イタリアの休戦条約締結に伴い、連合軍は南部の各所に上陸。サレルノ、タラント、バーリ、ブリンディジなどが占領された。足掛かりを作るため徐々に浸透していく連合軍をドイツ空軍機が迎撃する。特に大規模な反撃を受けたのはサレルノで、9月13日より空軍機が本格的な爆撃を開始。海からは地中海に展開中のUボートが襲い掛かり、英軽巡洋艦ペーネロペーを始めとした艦船や輸送船を撃沈。一時は弾薬不足になるほど顕著な被害を与えた。しかし連合軍機の跳梁を押さえられず、また海からは熾烈な艦砲射撃を受けたためドイツ軍は撤退を決意し、9月18日頃に闇夜に紛れて退却。翌19日、サレルノを確保した連合軍は次なる目標を要港ナポリに定めて進撃。タラントを占領していた連合軍と合流しながら道中のアセルノとアヴェッリーノを占領していく。その頃、ヒトラー総統は北イタリア方面軍司令エルヴィン・ロンメル中将の意見具申を呑み、ローマ以南の防衛線を放棄してバルカン半島への連合軍上陸を防ぐ事を決めた。防衛の総指揮はアルバート・ケッセルリンク元帥に一任。
10月1日、連合軍は要港ナポリへの侵攻を開始。ここはシチリアからの支援戦闘機がギリギリ届く最北端の港であり、制空権が得られるという事で攻略目標に選ばれたのだった。街では反ファシスト派が蜂起し、守備するドイツ軍は大変苦しめられた。徹底的な弾圧を行ったにも関わらず反ファシスト派は持ちこたえ続け、退路を断たれる危険性からドイツ軍は施設を破壊した上で退却。10月3日にアメリカ軍が占領し、約1ヶ月で復旧させられた。
イタリア半島は山が多く、防御側に有利であったため連合軍の侵攻は非常にゆっくりとしたものだった。ドイツ軍はテルモリ、シキレ北方、ヴォルトゥルノ川北岸にかけてヴィクトール・ラインを敷いて抗戦。しかし連合軍の猛攻を受け、10月15日にドイツ軍が退却を開始。19日に突破されてしまった。次にドイツ軍は山間部にバルバラ・ラインを敷いた。ここでは遅延戦闘に努め、連合軍の侵攻を押し留めて11月初旬にグスタフ・ラインへ後退した。ドイツ軍の強い反撃を受け、イタリア方面の連合軍は苦戦を強いられた。1943年9月には占領できるとされたローマが未だ奪取できておらず、テヘラン会談ではどうにかしてローマを占領する方針を固め、グスタフ・ラインへの攻撃とその後方地域アンツィオへの上陸が決定した。
11月5日、アメリカ第5軍は、国道が走る要衝ミニャーノ渓谷を守るためにドイツ軍が敷いたベルンハルト・ラインへの攻撃を開始。ところがドイツ軍の反撃を受けて撃退され、10日後に後退。11月28日、イギリス軍がグスタフ・ラインに攻撃。12月2日にアメリカ第5軍が再度ベルンハルト・ラインに攻撃を仕掛けた。12月27日、グスタフ・ラインの後方地域であるオルトナを占領したが、アペニン山脈が邪魔で包囲殲滅は出来なかった。
1944年1月中旬、アメリカ軍はようやくベルンハルト・ラインを突破。1月17日にはグスタフ・ラインへの総攻撃が開始され、連合軍vs独伊の激戦となった。1月20日よりモンテ・カッシーノの戦いが生起。ローマ失陥を防ぐため独伊軍は恐るべき強さを発揮し、連合軍を釘付けにする。ドイツ軍の猛攻で、ラピド川を渡河しようとした米第36歩兵師団は1681名の戦死者を出して後退。1月24日にはカッシーノ山への侵入を許したが、ドイツ第44歩兵師団や第5山岳師団の攻撃により、2月11日に連合軍を山から追い出した。代わりにイギリス軍とニュージーランド軍が山へ突入。インド第4歩兵師団が偵察を出したが、2回とも撃退されている。カッシーノ山頂にある修道院が砲兵観測所になっていると見た連合軍は、2月15日に修道院を爆撃。木っ端微塵にしたが、実際には修道女と避難民しかおらず非戦闘員が多く死傷した。ドイツ軍は降下猟兵を送り、この廃墟に陣地を敷いた。2月17日夜にインド第4師団が、翌18日にカッシーノ市街へニュージーランド軍が侵入したが、どちらもドイツ軍の攻撃で撃退されている。連合軍は自由フランス軍やポーランド軍も投入したが、ドイツ軍の頑強な防御を前に攻勢失敗。5月頃まで膠着状態に陥った。しかし5月11日夜にドイツ軍が退却した事で、モンテ・カッシーノの戦いは終結した。
6月4日に首都ローマが連合軍に奪取される。だが既にドイツ軍は撤退しており、ローマはオープンシティとして開かれていたため戦闘は生起せず、無傷のまま中部にまで後退。新たにヴィテルボ・ライン、トラジメーノ・ライン、アルノ・ライン、ゴシック・ラインからなる四重の防衛線を敷いて連合軍を迎え撃ったが、7月27日にピサを、8月4日にフィレンツェを失陥。苦しい戦いを強いられたが、長期の雨季と南フランス上陸作戦の準備のため連合軍の進撃が一時停止。
1945年1月に中部の防衛線を全て突破される。戦いの舞台は北部に移ったが、再び独伊軍は四重の防衛線を敷いて抵抗。しかしノルマンディー上陸によりフランスの隣接地方が敵手に落ち、限定的な抵抗しかできなかった。加えて東の国境からはユーゴスラビアで猛威を振るったチトー率いるパルチザンが侵入。多くのファシスト党員と共和国兵士が虐殺された。4月9日、ポーランド人部隊がコマッキオ防衛線を突破、4月11日にニュージーランド軍がサンテルノ川を渡河し、4月19日にアメリカ軍がボローニャに到達。この街のパルチザンは苛烈極まりなく、ドイツ軍の奮戦で2000名以上を討ち取ったが、アメリカ軍到達前に撤退させられた。トリエステもチトーのパルチザンによって失陥。勝敗が決し、勝ち誇ったパルチザンはミラノ、コモ、レッコの中心に武器を捨てて投降するよう呼びかけた。素直に投降すれば処罰しないという条件をつけて。更にはミラノ及びトリノの突破を許し、ついにフランス方面とイタリア方面の連合軍が合流。イタリア社会共和国は事実上瓦解し、機能を喪失した。
4月25日にベルリンが包囲されると、パルチザンは信号を上げて一斉蜂起を行った。これによりイタリア社会共和国が握っていた多くの市町がパルチザンの手に落ち、ミラノとヴェネツィアが失陥。退路を断たれた北西イタリアでは投降が相次ぎ、ゼノアでは共和国軍の守備隊4000名がイギリスの連絡将校とパルチザンに投降している。この日が社会共和国の滅亡日とされている。4月27日、北イタリア・スイスの国境に近いコモ湖でムッソリーニが拘束され、翌28日にギウリーノで私刑に処された。これにより指導者も失い、完全に地上から消滅した。
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最終更新:2024/12/26(木) 21:00
最終更新:2024/12/26(木) 21:00
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