サラエボ事件 単語


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サラエボジケン

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サラエボ事件とは、オーストリア=ハンガリー帝国の第一皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻が
帝国領サラエボ(現・ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で暗殺された事件である。

※この記事は、オーストリア側(フェルディナント大公側)からの視点を中心にしています。それ故に、人によっては不快感を感じます。ご了承ください。

概要

事件が発生したのは1914年6月28日。

後に第一次世界大戦の発端となった、と言われている事件である。

この記事では事件の犠牲者であるフランツ=フェルディナント大公と、妻ゾフィー・ホテクの過去、そしてオーストリアの歴史を含めて説明したい。

そして物語をいくつかの章に分ける。
事件の要素を知りたい方は四番目~六番目のみを観賞を推奨する。

1.ハプスブルク家の歴史 - 彼らが生まれる以前のハプスブルク君主国の成り立ち。
2.二人の誕生 - フェルディナント大公とゾフィーの出生・経歴。
3.皇位継承者 - フェルディナントが皇位継承者となった以後、ゾフィーと結婚し、日々を過ごすまで。
4.プリンツィプ動く - 暗殺犯の一人、ガヴリロ・プリンツィプの経歴と行動。
5.そしてサラエボへ - 黒手組による暗殺計画と事件前日の様子。
6.運命の日(1914年6月28日) - 暗殺当日の出来事。そして事件直後。
7.Strömung von Österreich(東国の歩み) - 第一次世界大戦後のオーストリアの運命。

なお、以下で記述されている登場人物の言葉のほとんどはフィクションです。

ハプスブルク家の歴史

まず手始めにハプスブルク家が君主を務めるハプスブルク君主国と呼ばれる国についての歴史を紹介したい。

ルドルフ1世とその後のハプスブルク家

欧州王家屈指の名門といわれたハプスブルク家。
発端は今のドイツ・オーストリアに存在した神聖ローマ帝国の皇帝として、
1273年に初めてスイスの小領主であるルドルフ・フォン・ハプスブルク伯爵が、
ルドルフ1世として即位したことに始まる。

ルドルフ1世の即位当時、すでに帝位にあったホーエンシュタウフェン家は断絶。
帝国内は混迷を期し大空位時代と呼ばれる各領主が帝位の獲得をめぐる
権力闘争の戦国時代を迎えていた。

その中で教皇や他の諸侯らが弱小勢力であったハプスブルク家に目をつけ、後押しした。

しかし彼はとても優秀な人材であった。そして諸侯らの傀儡になることはなかった。
また、帝位獲得を狙う最大の宿敵、ボヘミア王オタカル2世を敗死させた。
こうしてルドルフ1世はオタカル2世の所有していたオーストリアの領地を獲得。
ハプスブルク家の本拠地をオーストリアを含めたドイツ地方に置き、
神聖ローマ帝国の皇帝として堂々と君臨。ハプスブルク家の基盤を作り上げた。

それ以後、ハプスブルク家は1438年以降神聖ローマ帝国の世襲君主家となり、
ナポレオン1世率いるフランスに敗北し神聖ローマ帝国が解体した後も、
オーストリア帝国の皇帝となり、その統治は最終的には七世紀間にも及んだ。

傾国のオーストリア帝国

だが安定した、と見えたものには必ず綻びが生じる。
19世紀に起きた産業革命に乗り遅れ、また政略結婚など中世と変わらぬ政策を採る
このオーストリア帝国は「遅れた封建国家」などとよばれた。

また1848年にはオーストリア帝国内で少数民族らによる革命が発生。(1848年革命
ハンガリーや北イタリアのロンバルディアが共和制国家として独立を宣言。
新帝となったフランツ=ヨーゼフ1世皇帝により鎮圧したものの、
この後、イタリア統一戦争でサルディーニャ王国に敗北したオーストリア帝国は
ロンバルディアを完全にサルディーニャ王国に割譲することとなった。

この後、サルディーニャ王国はイタリア半島の全領域を征服し、イタリア王国となる。

また中欧のドイツ地方(ドイツ語を話す民族が主流の地域の総称)の主導権を、
プロイセン王国と抗争し、1866年に普墺戦争が起きるもプロイセン王国に敗北した。
この後、プロイセン王国はドイツ全般の主導権を握り、他のドイツ人諸侯を纏め上げ、
プロイセン国王がドイツ皇帝を兼任することでドイツ帝国が誕生した。

オーストリア=ハンガリー帝国建国

オーストリア帝国は幾多の戦争に敗北し、
北イタリアやドイツ地域の主導権を奪われてしまった。

また1848年以降国内で十二の少数民族が自治権を要求する中、
支配階級であるドイツ系オーストリア人(ドイツ人)たちは、妥協案を探していた。

最終的にはドイツ系にと同じく国内で二番目に多い、
マジャール人(ハンガリー系)と友好関係を築くことにした。

国家を大きく、オーストリア帝国(ドイツ人主導)と、
ハンガリー王国(マジャール人主導)に分け、同じ君主を擁く同君連合として
ハンガリー系国民に対して軍事・外交・財政を除く、大幅な自治権を与えた。

こうして1867年にオーストリア皇帝ハンガリー国王が存在する
連邦制・同君連合のオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。

この後、ハンガリー政府は王国内における確固たる安定のため
ハンガリー王国に取り込まれた、クロアチア地方にすむクロアチア人と手を組み
ナゴドバ法というクロアチア人の自治・参政権を大幅に認める法令を出した。

ハプスブルク家は国内のマジャール人、クロアチア人に対して大幅な自治権を与え
内政の窮地を一時的に脱したと思われたが、
未だに産業革命から遅れ、近代軍備力も劣り、
中世から引き継いだ旧体制から抜き出せない境地にあることには変わりはなかった。

このような時代の中、フランツ=フェルディナント皇子は生まれた。

二人の誕生

フランツ=フェルディナントの誕生

1863年12月18日。日本が明治時代を迎える5年前。
オーストリア帝国南東部の都市、グラーツにて
皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の次弟カール=ルートヴィヒ大公と妻マリア=アンヌンツィアータとの間に長男が生まれた。この日生まれた彼がこの歴史物語の一番の要たる人物フランツ=フェルディナントであった。

この当時、即位15年目を迎えた伯父フランツ=ヨーゼフ帝には、皇后エリーザベトとの間に5年前に生まれた皇太子ルドルフがいた。

実母マリア=アンヌンツィアータはイタリア統一による侵略で滅亡した両シチリア王国の王女であった。

本来、この時点でフランツ=フェルディナントはオーストリア帝位とは程遠く無縁であると考えられていた。

ゾフィー・ホテクの誕生・幼少期

1868年3月1日。
フランツ=フェルディナントの誕生から5年後。
隣国、ドイツ帝国シュトゥットガルトにて、ある一人の女児が生まれた。
彼女が後に大公と運命を共にする女性、ゾフィー・ホテクである。

父はホテク伯爵家当主、ボフスラフ・ホテク伯爵。母は伯爵夫人のヴィルヘルミナ。
ホテク家はチェコ人の血統を持つ帝国領ベーメン(現・チェコ領ボヘミア)の貴族であった。しかし伯爵の称号を持つもののとても貧しく、どちらかというと没落貴族に等しかったといわれている。

そのためゾフィーも、外交官である父から教えられた学問を生かし
成人後はハプスブルク家の傍系であるハプスブルク=トスカナ家の帝国陸軍の軍人、フリードリヒ大公の妻イザベラの女官(家庭教師)をして生活を支えていた。最終的には筆頭女官にまでのし上がる。

フランツ=フェルディナントの幼少期

フランツ=フェルディナントは九歳の時、実母が結核にかかり死別する。
そして継母としてブラガンサ家(ポルトガル王家)からマリア=テレサ王女が迎えられた。
彼にとって継母は8歳しか離れていないので、母というよりも姉に近かった。
そしてマリア=テレサは義理の息子であるフェルディナント大公たちにも
実母の様に優しく接し、フェルディナント大公の手紙からも慈悲深き母上と記されている。

良家の出らしく、おっとりしているように見えて
息子たちに問題が起こると、一緒に悩み、協力してくれる母は、
後にフェルディナント大公の結婚に大いに賛同し、助力を与えるがそのことは後に記そう。

またフェルディナント大公は、傍系ながらも王家の血筋を引く者として多くの学問に打ち込んだ。
ラテン語、フランス語をはじめとした語学、政治学、社交界に出るためのマナーなど覚えることはたくさんあった。

彼の性格は、何といっても勤勉であり、また一度決めことは、それを徹底的に貫き通すという神経質な部分があったと、歴史家たちは語っている。

ちなみに彼の長弟オットー皇子がそれとまったく正反対の遊び人(愛称は麗しのオットー)であったことは参考程度に述べておく。

そして成人後、フェルディナントは皇族の義務・儀礼の一環として帝国陸軍の軍役に属し、訓練を受けていた。

皇位継承者

マイヤーリング事件

1889年1月30日。(フランツ=フェルディナント 25歳)
その日に起きた事件は、彼の運命を一変した。

ルドルフ皇太子心中事件(通称、マイヤーリング事件)である。

皇太子ルドルフは母の愛を受け、成長したフランツ=フェルディナントとは
全く対照的に幼少期から不遇の人生を送ってきた。
彼の祖母ゾフィー皇太后は、母エリーザベト皇后からルドルフを引き離し、
自分の意思の下、家庭教師により、軍隊の如く徹底したスパルタ教育を強いた。
これに対して、父フランツ=ヨーゼフ帝は母の言うことには逆らえなかった。

このような日々が続き、ルドルフは疑心暗鬼と恐怖心が強く相当内気で、暴力的な性格になってしまった。

後に母エリーザベト皇后の働きかけで、
7歳のときに、祖母のスパルタ教育方針からは解放されたものの
エリーザベトは義母ゾフィー皇太后と徹底的な嫌悪関係となり、教育などをすべて家庭教師などへ押し付け、
公務と育児を放棄し、帝都ウィーンを忌避し、旅行にふける毎日を過ごしていた。
また母が付けた家庭教師が保守的な王室儀礼を貫く祖母とは全く正反対の
自由主義者であったことから、保守的なハプスブルク帝国を求め続ける父帝とは悉く対立した。

成人後、ルドルフ皇太子はベルギー王女シュテファニーと結婚し、
一女を授かるも、性格の不一致などから夫婦関係は冷めていた。

そして1889年1月30日。
オーストリア北東部の都市マイヤーリンクの狩猟館において
ヴェッツェラ男爵家の娘マリーと、ルドルフ皇太子が血まみれで絶命しているのが発見された。

このことは妻との婚姻関係や、市井の多くの愛人関係との狭間に悩んだ挙句、
皇太子がマリー・フォン・ヴェッツェラと無理心中をしたのではないか?と噂になったが
1世紀以上たった今でも真相は明らかにされていない。

ただ紛れも無くルドルフ皇太子が亡くなったのは事実である。
一人息子の急逝という知らせを聞いた時、父帝フランツ=ヨーゼフ1世は言葉を失った。

皇位継承者フランツ=フェルディナント

次の後継者は誰になろうか…


フランツ=ヨーゼフ1世には三人の弟がいた。
このうち長弟のマキシミリアンはフランス皇帝ナポレオン3世の要請により
メキシコ皇帝マキシミリアーノ1世となっていたが、1867年に共和主義者たちに捕らえられて銃殺されてしまった。

次に皇位継承候補としてあがるのが次弟カール=ルートヴィヒ大公であるが
彼は特に偉業を成し遂げたわけでもなく民意から離れており、彼自身も皇帝になる気は無かった。

三弟ルートヴィヒ=ヴィクトルは同性愛者であり、スキャンダルを起こしたため
長兄自らの手でウィーンから追放された。

そこで残った候補が次弟カール=ルートヴィヒの長男フランツ=フェルディナントである。
そうして彼は思いがけず、次期皇位後継者に認定されたのである。

各国の視察

こうしてフランツ=フェルディナント大公は次期皇帝に認定されたが
長らく軍役に課せられていたので、教養が足りないと思われていた。
そこで次期皇帝として帝王学を身に付けるために1892年(29歳)から数年間、世界旅行をすることになった。

立ち寄った国はイギリス、ドイツ、ロシア、清国、英国領エジプトなど数カ国数地域にも及び
翌1893年には日本にも立ち寄っており、香港から長崎港に上陸し、京都、大阪から名古屋、横浜、東京、日光にまで立ち寄り、明治天皇と会談したり、日本陸軍の様子を視察。
その他観光めぐりや都市の様子を視察した後に、横浜港からアメリカに向かった。

彼が一番驚いたのは隣国ドイツの様子であった。
ドイツ帝国はプロイセン王国が主導のもとに諸侯国をまとめ、約20年前(1871年)に統一したばかりの新しい国だが、鉄血政策や急激な工業化で、目覚しい発展を遂げていた。

「なんと…ドイツは新体制の下、産業を発展し続けたと聞いたがこれ程とは…。
イギリスやフランスをも抜きん出た大国になっているではないか…!
それに比べて我がオーストリアは旧体制を維持し、産業にも軍事にも乏しく
王侯貴族たちは毎夜、宴にうつつをぬかす始末…この差は一体何だ。」

そし大公は皇帝ヴィルヘルム2世と会談し、
ドイツとオーストリアの軍事同盟の強化や様々なことについて語り合った。
ヴィルヘルム2世とは狩りをともにして、とても親密な間柄となった。

「殿下。ドイツの様子は如何ですかな?」
「はい、皇帝陛下。ドイツは凄い。オーストリアとは大違いです。
見るものすべてが驚きでした。特に造船所と海軍は感銘を受けました。
しかし奇しくもオーストリアは旧体制から抜き出ることができていません。
オーストリアはどうなってしまうのだろうか…」

その悩みにヴィルヘルムが答えた。
「変革すべき国家、社会があると知ったならば、皇太子である貴殿が先陣を切り、変えればよいことだ。
余とドイツは、同盟者として、いつでも殿下に協力いたしますぞ。」
「恐れ入ります。陛下。」

こうして世界各国の視察の旅が終わり、フェルディナント大公はオーストリア=ハンガリー帝国、
そしてハプスブルク家の旧体制からの脱却を目指し、奮闘することとなった。

ゾフィーとの出会い

フェルディナント大公が帰国したとき、
既に年齢は30代半ばに差し掛かっており、
結婚相手のことを考えるように老帝や重臣たちからも進言されていた。
彼らはあくまで「殿下はどこかの国の王女と結婚するだろう」としか思ってなかった。

実はこの頃、しばしば陸軍最高司令官フリードリヒ大公の邸宅をしばしば訪問していた。
そこでフリードリヒ大公は「皇太子殿下は我が娘の誰かに興味があるのだな」と考察した。

この当時、王侯貴族の間では腕時計の裏に好きな女性の肖像画を入れるのが流行だった。
そこでフェルディナント大公が腕時計をはずしている間に
フリードリヒ大公は後ろめたさを感じながらも覗き込んだ。

そこに描かれていたのは、彼の娘ではなく
妻イザベラ・ド・クロイの筆頭女官、ゾフィー・ホテクその人であった。
フリードリヒ大公は目を疑った。

そしてこのことを妻に知らせると、イザベラは驚愕した。
「ゾフィーを!?あの女官は美人でもないベーメンの田舎娘なのに…
それにしても皇太子は何故、私たちの娘ではなくあの女を…」

欺かれた気を感じたイザベラは、ゾフィーを邸宅から追放。
このことをウィーンの貴族たちに暴露した。そしてこのことは噂話として流布し、瞬く間に広まった。

フェルディナントとゾフィーの出会い

ゾフィー・ホテクの出自については前述した。
皇帝の拝謁も叶わぬ地方の没落貴族の出自である彼女が何故、皇太子と出会うことができたのだろうか。

各国の視察から帰国し、三十歳の年齢を上回っていた彼は、
プラーク(チェコ語名:プラハ)に歩兵連隊の中尉の軍務につくため駐在していた。
そして1888年にプラハ総督府で開催された舞踏会に出席した。

そこに出席していたのが、イザベル大公妃とその娘マリア=クリスティーナであるが
付き添い役として偶然ゾフィーも出席していた。

ゾフィーは男性を引き寄せる魅力というものは他の貴族令嬢に比べて
欠如していたかもしれないが、後にフェルディナントが彼女に話したとおり
知性に満ちた美しい目が特徴的な女性であったと言われる。
彼はその彼女に次第に魅入っていた。一目惚れであった。

「あの娘は?」
「はい、殿下。あれは…テシェン公妃イザベル様の侍女かと…」
「そうか。」

そしてイザベル大公妃らがいない間に、自ら話しかけた。ゾフィーは次期皇位継承者が自分に話しかけてきたことに驚いたが、彼が堅実で教養に溢れた人間だと知り、馬が合ったのか会話が弾んだ。

それから後、フェルディナントはお忍びでゾフィーと話しかける機会があった。
そして幾度にも亘り会うたびに、彼女もフェルディナントに惹かれていった。
だがゾフィーは内に秘めた恋を終わらせ、
このことを恥じて、女官をやめ、故郷のベーメンに帰る気という気も無かった。

身分など関係なく、愛した人とずっといたいというのが信念を貫き通す覚悟を持った、内に秘めた情熱的な女性であった、ゾフィーの本心からの願いであったのだ。
この夫婦にはどちらも「己が信念を貫く」という一面があった。

なお、フェルディナントは彼女の会ったときから、大のチェコ好きとなった。

許されぬ愛

そして次第に、フランツ=フェルディナントとゾフィーの仲は次第に公然とし始めた。
そのためフェルディナント大公は正式に婚約を発表した。
そしてフェルディナントはフランツ=ヨーゼフ1世に
ゾフィーとの結婚を許してほしいと言い出すと、皇帝は唖然とし、強く反対した。

「自分のしたことがわかっておるのか?フェルディナントよ。
やがて皇帝となる大公が、下級貴族の娘…それもゲルマンの血を引かぬチェコ女と結婚しようとしているのか!」

当時オーストリア=ハンガリー帝国内においてホテク家のような下級貴族は、数百といた。
しかも困窮のあまり長女を女官に出している低い家柄である。
またハプスブルク家は家訓により、
(皇太子の)結婚相手はカトリックの国の君主家から妻を迎えねばならない。
と定められていた。

このことはオーストリア国内の一大スキャンダルとして報道され隣国のドイツやロシアにまで流布した。

「考え直せ、フェルディナント。今からでも遅くない。婚約を破棄するのだ。」
「陛下。この二十世紀において、王族と結婚せねばならないという慣習は時代遅れです。
彼女は知性も溢れ、教養もあります。皇太子妃として何ら不足はありません。
結婚に必要なのは利益でも、体面でもないことは陛下もお分かりのはずです。
私はゾフィーと結婚します。」

老帝は声を荒げて言った。
「ならば王冠か恋か、どちらか選ぶが良い。」
この問いに、フェルディナント大公は毅然と答えた。
「王冠も恋も、どちらもいただきたい!」

慈悲深き母

老帝とハプスブルク家の大公たちは、二人の結婚には反対していた。
しかし、次第に国民からの同情の声もあり、
また同盟国であるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世や、当時のローマ教皇レオ13世までが
結婚を認めるようにフランツ=ヨーゼフ帝に手紙を送った。

なおフェルディナントの父カール=ルートヴィヒ大公も息子の結婚に
苦言を呈していた部分もあった。また兄帝からの圧力もあり他の大公との会話では反対派を装ったが、
次第に「フェルディナントは新オーストリアの先駆けになるのかもしれない」
息子の行動を、黙って見守った。

また継母マリア=テレサは、この結婚に大いに賛同し働きかけた。
オーストリアの大公邸から、「プラハの修道院に旅行出てみたいのです」といって
プラハの修道院に巡礼旅行に出ていた彼女は
イザベラから解雇され、プラハのホテク邸で謹慎していたゾフィーを連れ出し、
自身の居城であるウィーンのシェーンブルク城の館に連れて行った。

カール=ルードヴィヒ大公はこのことに驚き、「何故連れてきたのか」と問うた。
そのことに対して答えた。
「あなた。これから私も陛下に対して手紙を書き、
二人の結婚を許してくださるよう、嘆願しようと思うのです。
息子が好きな人と結婚できるように母として、できる限りのことをしようと考えています。」
この勇敢な言行にゾフィーは感銘を受けた。

シェーンブルク城はフランツ=ヨーゼフ帝を含めた、ハプスブルク=ロートリンゲン一門の居城である。
これは皇帝に対して行った、大胆な行動であった。

老帝にとってはハプスブルク家の伝統・家柄をぶち壊す問題児に見えたかもしれない。
だが既に七十代に達していた老帝が、仮にフェルディナントを義絶すれば、
傍系か更なる問題児しか後継者が残らないことになる。これが最大の弱みであった。
最終的に各国君主のフェルディナントに対する同情もあり、二人の結婚を了承するに至った。

ある条件をつけて。

権利なき皇太子后

1900年(フェルディナント大公:37歳、ゾフィー:32歳)。
皇帝の承認の下、フェルディナント大公はゾフィーとの結婚を果たした。

1900年6月28日。
フェルディナント大公は、皇帝の出した妥協案として、ある誓約書に署名した。
主な内容を以下に述べる。

フランツ=フェルディナント大公とゾフィー・ホテクとの間に生まれた子、
及びその子孫は、他の大公と同等の特権、栄誉、紋章などを所持しない。また請求することも許されない。
また貴賎結婚であるが故に、大公妃ゾフィーの権利は王室内の最下位に値する。

格式を守る老帝と、変革を求める皇太子が粘りに粘り、お互いが譲歩しあった結論であった。

しかし、ゾフィーはこれに対し怒りをあらわにすることも無く、冷静な女性であった、
「承認されたが、権利の無い結婚であること」を悔しい気持ちでフェルディナントが言うと、「時代遅れの堅苦しい行事や宴に出なくても済む」と答えた。もちろん、彼女にとっても屈辱に感じていたが、強がりであった。

こうして、二人は結婚することができ、7年がかりの恋は習熟した。
結婚式は皇族による中傷を避けるため、彼女の故郷ベーメンで行われた。
現在もチェコ共和国ボヘミア地方に残るライヒシュタット城の礼拝堂である。
その結婚式には、ハプスブルク家は継母マリア=テレサと継母の娘以外に無かった。
「来ていただいてありがとうございます、母上。父上は…やはり来ませんでしたか。」
「ええ。私は言ったのですが、やっぱり皇帝陛下からの非参加の圧力がかかっていたようで…。」

老帝はその日、ベーメンに電報を送り、オーストリア北部にある都市の名をとって
ホーエンベルク公妃ゾフィー(Sophie von Hohenberg)と名乗らせることにさせた。

しかしハプスブルク家のゾフィーの冷遇は変わらず、
王室の行事などに出ると出席すると必ず末座に座らされたり、
一度たりとも優先的に扱われることはなく、王室・貴族の面々からは
「チェコの蛮人の娘」「下賎な身分」「皇太子を幻惑した」「場違いの女」などと陰口を言われた。
もちろん皇太子であったフェルディナントも「見る目がない」「オーストリアの恥」などと言われ、
二人は生涯を通してハプスブルク家に嫌われ続けた。

日常生活

結婚後、しばらくはウィーンの喧騒を嫌い
遠く離れたプラハのコノピシュト城でハネムーンを過ごした。

それからしばらく後にヴァッハウ渓谷の地に自らの居城であるアルトシュテッテン城を築き、そこに居住した。

フェルディナントには短気で癇癪持ちな性格であり、侍従が円滑に行動しなかったりすると激しく叱責したりした。
そんな時、フェルディナントから貰ったブローチを常につけた妻ゾフィーが
ブローチに触るときが「フランツ、落ち着いて」という合図であったそうだ。

フェルディナント大公夫妻は二男一女に恵まれた。
誓約書に基づき彼らはホーエンベルク公、ホーエンベルク公女と名乗った。
子供にも恵まれ、侍女に頼ることなく自らの手で子育てや食事の用意をし、幸せな日々を送っていた。

狩猟好き、根っからの真面目であったと言われるフェルディナントであった。
私生活においては皇族という身分にありながら倹約一家であったといわれ
フェルディナントが食卓でデザートが一皿分多いのを見つけ用意した侍従を叱責し、
ゾフィーは夫の古着を古着商人相手に高く売りつけようと直談判した、
という噂まで流れた。真偽のほどは定かではない。

だが相変わらず王室の行事には出席することも憚られ、
出席を許されても王侯貴族たちからの中傷は繰り返されていた。

しかし、フェルディナント大公は自身が皇帝となった場合は誓約書を守る気はなかったかもしれない。
「私が皇帝になったら、全てを変える」
という信念を持って、日々自分たちに投げかけられる辛苦を耐えていた。

そしてフェルディナントはこのような日々を繰り返すたびに常に妻に対して、
皇太子妃にふさわしき舞台を用意すると考えていた。

プリンツィプ動く

ガヴリロ・プリンツィプ

ガヴリロ・プリンツィプは1894年7月25日、
現在のボスニア北部のオビリャイ村に住んでいたプリンツィプ家の四男として生まれた。
愛称はガブレ。

ボスニアの住民は大きく分けてセルビア人、ボシュニャク人、クロアチア人に分かれ
それぞれセルビア正教、イスラム教、カトリックを信仰している。
だがそれも宗教的な違いであり、言語は大差もなく、同じスラブ系の血統である。
彼はこのうちのセルビア人(セルビア系ボスニア人)であった。

彼の子孫(オビリャイ村在住)は日本の歴史番組(NHK放送「その時歴史が動いた」)のインタビューに答え
プリンツィプは正義感が強く、「強きが弱きを守る」という気概を持った少年であった。
そのため学校では教師やいじめっ子の生徒との衝突・喧嘩もしばしば起きていた、と語っている。

1908年、学生時代に、反オーストリア・ボスニア独立を掲げた
セルビア人愛国者政党「青年ボスニア」に参加。この時、若干14歳であった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合

1908年10月6日、オーストリア帝国はボスニア・ヘルツァゴヴィナを併合した。

もともと30年前まで、ボスニア・ヘルツェゴビナはオスマン帝国領であった。
しかし、この地の住民であるスラブ民族がトルコ本国に対して反乱を起したのを機に、
オスマン帝国属領であるセルビア公国、モンテネグロ公国がオスマン帝国からの独立自治権を得るためにこれを支援、宣戦布告した。しかし両国は圧倒的な武力の前に苦戦を強いられた。

ロシア帝国はこの事態に対して、「同じスラブ民族を救う」という名分でボスニア蜂起から2年後の1877年にオスマン帝国に侵攻。しかしロシアの真の目的は「バルカン半島を自国領とする」ことであった。

こうして始まった露土戦争(1877年-1878年。ロシア帝国vsオスマン帝国)であったが
その後、オスマン帝国は劣勢に立たされた。

そして両国間にサン・ステファノ条約が締結。
これによりセルビア公国、モンテネグロ公国は悲願の独立を果たした。
一方、ロシアは同じく独立を果たした大ブルガリア公国に対しては
オスマン帝国に対する朝貢を続けさせる一方、ロシア軍5万人を駐屯させた。
これにより、真の目的であるブルガリアを媒介としながらバルカン半島全体を
自国の支配下に組み込む作戦を立て始めた。

しかしこれに待ったをかけた国があった。大英帝国とオーストリア帝国である。
この二国はロシアがこれ以上、南下政策を続けるならば戦力を行使すると脅した。
この主張に欧州各国が便乗し、ロシアのバルカン支配に反発した。
これ対してロシア国内では「断固拒否せよ!」という意見が強かった。

かつて南下政策を目的とし、オスマン帝国領を狙って侵攻したクリミア戦争(1854年-1856年)では、産業革命を向かえて発展し、かつ、反ロシアとして団結した、四ヶ国連合(大英帝国、オスマン帝国、フランス帝国、サルディーニャ王国)に敗退し、国力の無さを露呈させられ、屈辱を味わった。

それから20年以上経った今、ロシアが再びこれらの国と戦火を交えることになれば
返り討ちにあうことは目に見えていた。そこで苦渋の決断として、同年ベルリン条約が結ばれた。

これにより、ロシアはバルカン半島進出を阻止された。主な内容は以下のとおりである。

  1. セルビア、モンテネグロ、ルーマニアは完全独立。
  2. ブルガリアはオスマン帝国に朝貢し続けることで、半主権国家として認める。
  3. ボスニア・ヘルツェゴビナには名目上の主権はオスマン帝国にあるが、実効支配はオーストリア帝国が行う。
  4. サン・ステファノ条約でロシア帝国に割譲されるとされていたアナトリア半島の都市ドゥバヤジトをトルコに返還。

この条約により、ロシアは多大な犠牲を賭してまで獲得したバルカン半島の利権を失い反英・反墺感情が高まっていった。そしてボスニア・ヘルツェゴビナにおいても、反墺感情はとどまることが無かった。

しかしオーストリアはこの地を強制併合した。
これによって同じ南スラブ系であるセルビア王国のボスニア進出と
国内の民族独立の気運を、徹底的に押さえ込むのが狙いであった。
実はオスマン帝国が、独立気運の高いこんな土地は無用、と事前に併合を同意していた。
そして、この1908年はトルコで皇帝(スルタン)の専制政治放棄を目指した青年トルコ人革命が繰り広げられたので都合が良かった。

しかしボスニアの大多数を占めるスラブ系住民は、オーストリアではなく、セルビア王国など同じ南スラブ系の国に併合されることを望み反発していた。

一説によると、フェルディナントは将来、ハンガリーとの二重帝政を新たに
南スラブ人(クロアチア人・スロヴェニア人)を参加させて三重帝国に再編する気でいたらしい。
しかしこの案はセルビア人による南スラブ統合運動を挫くものであったので、このことは、セルビア王国でも危惧されていた。この後、二度に渡るバルカン戦争に勝利したセルビア王国は広大な領土を広げていた。

まさに念願だった南スラブを統一するチャンスであったのである。

セルビアの背後にはロシアが、オーストリアの背後にはドイツが待っていた。
バルカン半島で政変や戦争が起きれば複数の国同士が争いあう状況は避けられないという、政治的にとても危険な地帯であり、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と言われた。

黒手組(ツルナ・ルカ)結成

セルビア王国を初め、セルビア人はこのボスニア併合に大きな怒りを覚えた。

そしてセルビア王国の首都ベオグラードにて、陸軍将校らが中心となって秘密結社黒手組を結成。
セルビア語ではツルナ・ルカ。日本語では黒い手(英:Black Hand)とも称されるこの組織は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア併合など「欧州の全セルビア人居住区をセルビア王国へ併合すること」を第一目標とするテロ組織であった。

そして結成から3年以上を経た1912年、ある男が黒手組の本拠地を訪ねてくる。

「君の事はタンコシッチ少佐から話は聞いてる。我ら黒手組に頼みがあると伺っているが何の用かね。」
「ええ、オーストリア皇太子フェルディナントを暗殺しようと計画しています。あなた方に手を貸してほしい。」

このことに一瞬その場は動揺したが、話を続けた。

「ボスニアはトルコの支配下にあったとはいえ、
セルビア人・クロアチア人・イスラム教徒が共同して統治していた国だ。
だが、オーストリアは我々から議会も軍隊も取り上げた挙句、
併合して少数ドイツ人によるスラブ民族への弾圧と支配を行っている。
我が命を賭してもオーストリアにその報いを受けさせてやる。その手伝いをあなた方にはしてほしい。」

この頃、「青年ボスニア」は「黒手組」と接触し
ボスニア・ヘルツェゴヴィナにスラブ人による政府の統治が要であると模索していた。
そしてプリンツィプは「黒手組」幹部とのかかわりを持ち黒手組No.2のヴォヤ・タンコシッチ陸軍少佐と出会った。

この青年の申し立てに「黒手組」は時期を見計らって協力することを約束した。
そして2年後、運命の日が訪れるのである。

そしてサラエボへ

ゾフィーのために

1914年6月。
未だ安定の域に達していないバルカン半島状勢の緊迫化に対する一策として
ボスニアでオーストリア陸軍の軍事演習を行い、
その後にサラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都)にて軍事パレードを実施、
オーストリア帝国陸軍の強大さを、セルビア王国やボスニア住民ちに誇示することを計画した。

そしてこのパレードにフェルディナント大公とゾフィー大公妃が参加することになった。

その報告をするためにウィーンにいるフランツ=ヨーゼフ帝の下へ挨拶しにいった。
「パレード?ボスニアでやるのか?」
「はい、陛下。演習の翌日にサラエボにて行います。ゾフィーも同行させるつもりです。」
「いかん、直ちにやめろ。」
「何故ですか?閲兵や軍事パレードは王室行事ではありません。何も問題ないはずです。」
老帝は喚起するように言った。
「そういうことではない。オーストリア国内ならまだしもボスニアでは十分な警備ができん。お前が公妃を思いパレードを計画したのは分かるが、これはお前達の生命にかかわる。まずは己が身のことを案じよ。」
「警備には万全を計ります。それに…」

軍事パレードが行われる1914年6月28日。
この日はフェルディナント大公とゾフィーの14回目の結婚記念日であった。
今まで14年間も皇太子妃としてろくな待遇で扱われないことやハプスブルク家からの軋轢へ耐えた妻へ
「皇太子の妻」としてパレードに参加させるという機会を与えたいという、
温情の気持ちもあった。皇太子后である、妻のために用意した舞台であった。

しかし運悪く、この6月28日は1389年にセルビア王国がオスマン帝国に敗北し、トルコのセルビア人支配を許した、いわゆる「セルビア人の屈辱の日」でもあった。

老帝は「警備には万全を期す」ことなどを条件に参加を許可した。
1914年6月21日、フェルディナントとゾフィーは鉄道に乗り、サラエボへと出発した。

事件前日のフェルディナント(1914年6月27日)

ボスニア南西部において二千名の兵士を動員した帝国陸軍の演習が行われた。
この日はとてもよく晴れた日であった。

訓練内容としては、巧みなまでの戦列を組んだ前進・退却、標的にめがけた狙撃銃・機関銃の一斉射撃、…

「殿下。これをセルビア人の連中が見たら、怖気づいて逃散する様子が見えること間違いありませんでしょうな。」
「無論、我らが陸軍はセルビア軍に攻め込まれようとも問題はない。
だが決して、訓練を怠るな。我らの敵はセルビアだけではない。スラブ人どもは何をしてくるか分からんのだ。」
「御意。」

長いこと王室の一人として、陸軍参謀に携わってきたフェルディナント大公は帝国陸軍の強固さを見て、
セルビア王国軍相手には負けることは断じてないと思っていたに違いない。

(これならセルビア軍には太刀打ちできないであろう…だが、我らが最も恐れるのは強国ロシアが彼らと徒党同盟を結んで進撃することだ。そのような危機的状況にあっても、オーストリア軍は円滑に対抗できる軍隊でなければならないのだ。バルカン半島の治安維持のために。)

当日、どんな気持ちでフェルディナント大公が参加したか分からないが、自らの育った祖国オーストリア帝国に対しての愛国心は変わっていなかった。だが、彼が望んでいたのは、ドイツ人が一方的に支配するのではなかった。南スラブ人にもいずれ自治権を与えることも考慮していた。

(我が最終目標はドイツ人による他の民族に対しての圧政ではない。
国民の誰しも民族にかかわらず、平等に参政の機会を与えられることだ。
かつてマジャール人に与えたような自治権を、いずれ南スラブ人にも与える必要がある。
一人の君主の下、安定した地盤を持った大国を作る理念は果たされねばならない。)

フェルディナント大公は演習の後に、ウィーンにいる老帝に対して「演習は成功し、明日はサラエボに向けて出立します」という主旨の電報を送った。

演習地で泊まったホテルにて、フェルディナント大公夫妻は舞踏会に出席。
これが二人にとって生涯最後のダンスになった。

事件前日の暗殺者(1914年6月27日)

 一方、黒手組メンバーは、この機を逃すものかと入念な計画を考察していた。
「サラエボのパレードが始まるのは翌6月28日午前10時」
「駅から出た皇太子は、ミリヤッカ川沿いの道を抜けて市庁舎で歓迎を受けた後に、教会に寄り駅に戻る」
という様々な情報を裏ルートを含めて、入手した。

そこで黒手組から手配された暗殺者6名とプリンツィプの計7名が、
通り沿いの道と交差点で、群衆の中にまぎれて待機し
事前に用意していた最新式の拳銃4丁と、手榴弾7個で至近距離から次々と狙い、暗殺する作戦であった。

運命の日(1914年6月28日)

zum Rathaus(市庁舎へ)

この日は前日同様に、晴天であった。

午前10時7分。

フェルディナント大公夫妻を乗せた特別列車はサラエボ駅に到着。
そこから駅前に停車してあったオーストリアからはるばる用意していたオープンカーに乗車。
警護の車を含め、計4台からなる車列が通り過ぎた。

サラエボ駅から市庁舎までに向かう車が出発しパレードが始まった。
二人を乗せた車はこうして出発した。途中で七人もの暗殺者が待ち受けてることも知らず。
二人は街道で手を振る人々に向けて、笑顔で応えた。

午前10時10分~15分の時間帯

車は第一暗殺者を通り過ぎた。
一人目は警察官が後ろにいると錯覚し、改めて拳銃の狙いを定めようとも、群集によって遮られ打つことができなかった。

そして午前10時25分
暗殺者チャブリノビッチの目の前を大公夫妻が通り過ぎた時、
チャブリノビッチが群集の上へと、フェルディナントの車めがけて信管を抜いた手榴弾を放り投げた。
だが間一髪、爆弾は車の後ろに跳ね、後続車の手前で爆発した。
後続車は大破し、乗車していた軍人3名と沿道の群集20人が重軽傷を負った

辺りは悲鳴と怒号が飛び交った。
「ぎゃああああああああああああああああああ!」
「爆弾を投げたのは、あの男だ!誰か、取り押さえろ!」
チャブリノビッチはとっさに橋から川に飛び込み、用意されていた青酸化合物を飲み込み、自殺を計った。
警官と警備兵、そして民間人らも橋から飛び降り、チャブリノビッチを取り押さえた。
「おい、こいつ毒薬を持っているぞ!取り上げろ!」
チャブリノビッチは毒物を飲んで気絶したが、致死量に達していなかった。
川から引きずり出され、警官に連行されるまで民衆から激しい暴行を受けた。

「お二人とも、お怪我はありませんか!?」
「私たちは…無事だ…」

二人の無事を確認すると、車は再び動き始めた。
そしてプリンツィプの目の前を通り過ぎたが、逃げ惑う群集に阻まれて打つことができなかった。
(チッ…計画は失敗か…)
あとの暗殺者数名はこの場を目撃し、逃げ出して、自宅に帰った。
プリンツィプは意気消沈して、計画をあきらめ、近くの軽食屋に入り込んだ。

サラエボ市庁舎についた大公夫妻は市長にあった。
そこでフェルディナント大公は取り乱し、市長に向かい怒号を放った。
「市長!爆弾で歓迎されるとは思っても見なかったぞ。」
「申し訳ございません、殿下。」
「まったく何という街だ!」

歓迎の式典は終わり、パレードについて見直されることとなった。
「いや、中止をするわけにはいかん。」
「しかし、先ほどの男の仲間がいる可能性もあります。パレードの続行をお止めになられたほうが…」
「ならば警備を強化せよ。この様なことでパレードを中止すれば、帝国の威信に傷をつける。帝国の存亡に係わることだ。断じて中止することはならん!」
「あなた、落ち着いてください。もっと冷静に。」
「うむ…。」

冷静さを取り戻したフェルディナント大公は改めて臣下の者に尋ねた。
「先ほどの爆発で被害にあった者はどうした?死者は出たのか?」
「病院に収容されたと連絡が入っています。死者はいないようです。
後継車に乗っていた軍人三名と沿道の市民二十名が巻き添えをくらい負傷した模様です。」
「そうか…予定を変更だ。彼らの見舞いに行かねば。」
「わかりました。では、川沿いの道を直進して向かいましょう。」

「公妃殿下は万が一のことがありますので、別の車で駅に戻られては如何でしょうか?」
「いえ…私はどこまでも大公の行く所に同行いたします。」

こうして話し合いの結果、午前11時に車は市庁舎から病院に向けて出発することになった。
「伝令は全員に済んだか?」
「はい。」
しかしここで手違いがあった。運転手はルート変更のことを知らされてなかったのである。
そうと走らずフェルディナント大公夫妻を乗せた車は発進した。

この市庁舎から車へ乗り込む前に撮られた記録映像が、今現在までオーストリア国内のデータベースに残っている。これがフェルディナント大公とゾフィー・ホテクの生涯最後の姿となった。

そして十字路に差し掛かったところで、車は教会へと向かう右側にカーブした。

フェルディナント大公夫妻の車に同乗していた警備兵は運転手に言った。
「おい。待て!何故、曲がる?直進といったはずだぞ。」
「はっ?しかし、自分は聞いておりませんが」
「いいから急いで戻れ!」

車は川沿いの十字路の交差点で止まり、方向転換をするためバックをした。
その時、一人の男が軽食屋から出てきて対向車の車に向かい拳銃を構え、車両の間近へと駆け抜けた。

Letzt Moment(最期の時)

実はプリンツィプが入った軽食屋は、川沿いの十字路の付近であり
皇太子夫妻の車が立ち往生してバックしているのが見えた。
(この機を逃すな!)
飛び出したプリンツィプは、大公の車の真横の約3メートル前で止まり、至近距離から拳銃の引き金を引いた。

バンッ、バンッ!

第一弾は、フェルディナント大公の首に命中。
第二弾は、ゾフィーの腹部に命中し、ゾフィーはその場にうずくまり即死した。
この二発の銃弾はともに致命傷となった。

フェルディナントは苦しい息の中で、首を押さえながら隣の座席でうずくまっている妻に向かい、懸命に叫んだ。
「ゾフィー…ゾフィー…!死んではならん…子供たちのために生きてくれ…!」
(“Sopherl! Sopherl! Stirb nicht! Bleib' am Leben für unsere Kinder!” )
これが現在までに伝えられている、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ=フェルディナントの最期の言葉だった。まもなくフェルディナントも絶命した。

 

フランツ=フェルディナント大公は満50歳、
ゾフィー・フォン・ホーエンブルクは満46歳の生涯であった。

 

プリンツィプは直後、事前に手渡された毒薬を飲もうとするも警備兵に取り押さえられ、自決できなかった。なおプリンツィプの使った拳銃は当時最新型の、FNブローニングM1910だった。

Zarte Großmutter(優しき祖母)

「皇位継承者フランツ=フェルディナント殿下がセルビア人に殺された!」


この訃報はすぐ、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の元に飛び込んだ。老帝は、セルビア人に対して激怒した。
そしてすぐ様、「犯人たちとその状況について徹底的に調査せよ」と命令。

継母マリア=テレサは、彼らの死を聞くとすぐに孫たちのもとに駆けつけ、子供たちに両親の死を語りかけた。
フェルディナント大公の子供たちは両親の死を受け止めきれず、涙を流した。
長女ゾフィーは十三歳、長男マクシミリアンは十二歳、次男エルンストは十歳であった。
「ゾフィー、マクシミリアン、エルンスト…どんな時も、どうか忘れないで。あなたたちのことをこれからも、天国にいるお父様、お母様は見守っているのですよ。そしてあなたたちのこれからのことは、この私に任せて。」
「はい、おばあ様。」

両親の死を知らせた後、マリア=テレサはウィーンにいる皇帝にフェルディナントの子供たちへ定期的な遺族年金を出すように要求した。このことはフランツ=ヨーゼフ1世の死後、新たな皇位についたカールにも要求し、帝政の存続中、ずっと続けられた。

Julikrise(七月危機)

オーストリア当局は最終的に、暗殺に直接関与したテロリスト七名のうちメフメトバシッチ以外の六名を逮捕した。

プリンツィプらを厳しく尋問した結果、犯行に参加していた一人イリイッチが全てを自白し
凶器は、セルビア政府から黒手組に対して提供したものだ、ということが判明。

政府内で議論が繰り広げられた。
「我らオーストリアは断じて、このことを許すことはできん」
「だが…セルビアの背後には同じスラブ民族のロシアがいるぞ…」
「ならば、我らには同じゲルマン民族の同盟国ドイツが味方をしてくれるぞ!」

このことに対して、
オーストリア政府当局はセルビア政府に対して全十条からなる最後通牒を突きつける。
セルビア政府が、この要求を呑まない場合はオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に対して宣戦布告するというものである。

ドイツ・オーストリアの学校教育では戦争への一触即発となるこの一連の出来事を
七月危機(Julikrise ユーリクリーゼ)と呼んでいる。

セルビア政府は八項目までは受け入れた。だがこのうち、内政干渉の疑いがある二項目は保留した。
破棄した第五条、および第六条の内容は
帝国領土保全に反対するセルビア国内の運動の取り締まりに、帝国の政府機関の介入を許可せよ。
セルビア国内に潜む、サラエボ事件の共犯者の疑いがある人物を法廷尋問し、帝国政府機関にこの手続きを参加させる
であった。勿論、これを受け入れたらオーストリアによる独立国家の主権の侵害を認めることとなる。

だが、これはオーストリア政府が最も望む、「最後通牒の要たるもの」であった。
これに不満を感じたオーストリアは7月25日、セルビアとの国交断絶を宣言。

Der Erster Weltkrieg(第一次世界大戦)

事件から一ヶ月経った、1914年7月28日。オーストリア帝国は、セルビア王国に対して宣戦布告。

ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国など中央同盟国
大英帝国、フランス、ロシアなど連合国の総力戦となる第一次世界大戦が勃発した。

セルビアがオーストリアとの戦争状態に陥ったと知ったロシア帝国は自らも連合国の一員としてセルビアに味方することを決定。ここから軍事同盟をお互いに組んだ欧州数カ国が参戦し、泥沼化していく。

一方、オーストリアと軍事同盟を組んでいたドイツ帝国は、8月1日にロシア帝国、その後にもイギリス・フランスに宣戦布告。以後、最大軍事力を保持するドイツが同盟国の中心的存在となる。

オーストリア=ハンガリー帝国陸軍本部は各部隊して召集を掛け、サラエボ国境付近の決戦の地、ヘルツェゴヴィナへ軍団を派遣。ここからバルカン半島南部へ南下する作戦を取った。

最初はバルカン戦線の連合国相手に苦戦していたオーストリア軍であったが2年後の1916年1月にはモンテネグロ王国を占領。国王は亡命した。

ルーマニアが敵側として参戦した後は、同年12月に、ドイツ軍と共同でルーマニアを占領した。

当時の帝国陸軍は二十五パーセントがドイツ人、二十三パーセントがマジャール人、四十二パーセントがスラブ民族から構成されていた。もちろん、ドイツ語が共通語と制定されたが、それぞれの言語もバラバラであったといわれている。

このうちスラブ人一派であるチェコ人連隊はロシア軍に対して投降しロシア軍の一部隊としてオーストリア軍と戦うという裏切り行為が起きた。だが、このことはオーストリア軍の大多数には影響はしなかった。

それどころかスラブ民族の部隊(ボスニア人、クロアチア人など)は「オーストリア軍の精鋭部隊」と呼ばれる果敢な働きをした。


敵からは多民族国家というものはそれだけに「帝国の旗の下に!(unter der Nationalen Fahne!)」という統一の意思が強くなければ成立しないものだと、思われた。

彼らスラブ系はそれまで、自分たちを蛮族扱いしたドイツ系オーストリア人を見返すことができた。

Strömung von österreich(東国の歩み)

オーストリアはドイツ語(現地語)で東の国をあらわすエスターライヒ(Österreich)と呼ばれる。

現在のオーストリア共和国旗は、上からの三色旗になっている。
これはハプスブルク家がオーストリアの主導権を握る前、有徳公と呼ばれたオーストリアの君主、レオポルト5世が第三回十字軍に参加したときにムスリム兵を片っ端から斬り殺し
そのベルトの部分(白)だけを残し全身が鮮血に染まったとから、おぞましい由来がある。

 

ハプスブルク朝オーストリア帝国の国旗には
ハスプブルク家の家の旗を兼ねた、の二色旗が使われた。
同時期に国章である、双頭の鷲も制定された。共和制の今現在は、一頭の鷲に置き換えられて存在している。

さて、話を元に戻そう。オーストリアはそれからどうなったのか…
そして今も眠る二人についても…。

Harter Kampf(苦戦)

1916年11月21日、フランツ=ヨーゼフ1世が肺炎のため崩御。86歳。
六十八年間の帝国の統治で「国父」「不死鳥」と呼ばれたが、
半世紀以上にも亘る往年の統治で、疲労した老齢の体は持たなかった。
その前日は、病床の中、最後まで皇帝としての署名をし続けたといわれる。

代わりとしてフランツ=フェルディナント大公の死後、
皇位継承者となっていた孫のカール大公が即位。皇帝カール1世となった。
カール1世は、フェルディナント大公の長弟オットー大公(麗しのオットー)の長男である。
フェルディナント大公は「自分にもしもの時があったときはお前が皇太子だ。」と事前にカールに対して言っていた。

戦況は1917年12月にアメリカが、連合国の一員としてドイツ・オーストリアに宣戦布告したことでがらっと変わった。当時無傷であったアメリカは大軍を派遣してきた。
元々、この戦争についてオーストリアはバルカン半島の局地的戦闘にしようと考えていたが、
ドイツは敵対国である英仏を殲滅する良い機会だと考えていた。
ドイツに振り回される形でオーストリアは深みにはまってしまったのだ。

オーストリアには単独講和によって帝国の解体を回避する策が残された。
1918年、戦線が次々と連合国により突破され同盟国の敗戦色が濃厚になると
同年9月に同盟国のオスマン帝国とブルガリアが降伏した。

Leben von Assassinators(刺客の人生)

犯人たちの、その後についても語らねばならない。
※ここに記してある者は、犯行当時に事件現場にいた七名のみである

  • プリンツィプGavrilo Princip  犯行当時:19歳) 判決:禁固20年

「黒手組」にフェルディナント大公の暗殺を依頼し、かつ皇太子夫妻を銃殺した犯人。
当初は死刑もやむをえないと、オーストリア国民は思っていたが
当時19歳と若輩であったことから禁固20年の判決を受けた。

なお公判中、死刑を宣告された後述のイリイッチが全てを自白した後、
犯行に参加した仲間が「自分たちは未成年だから死刑はない」と軽率な気持ちでいたので
それを戒めるため、自らに精神異常や脅迫事項があったことを否定し、「私は自分の刑を軽くするため何かしようとは思わない。」と発言した。テレジェンシュタット刑務所に収容。
1918年に刑務所内において肺結核により病死。オーストリア帝国崩壊の半年前だった。

  • イリイッチDanilo Ilić 犯行当時:23歳) 判決:絞首刑

刺客七名のうちの司令塔たる中心人物。唯一、成人していた。
元教師で、新聞社に勤めていた経歴を持つ。「黒手組」の正式なメンバー。
事件後は自宅で身を潜めていたが、九日後に逮捕。
己の保身のためか、全てを自供するも、最終的には絞首刑の判決を受ける。
事件の翌年の1915年2月に刑務所内で、絞首刑執行。

皇太子めがけて爆弾を投げ、軍人民間人あわせて23名の負傷者を出した。
父親はオーストリア警察に潜り込んでいたスパイだった。
中学校卒業後、父親により強制的に学業を辞めさせられ様々な労働しながら各地を転々としていたが、ベオグラードに戻り黒手組のNo.2タンコシッチ少佐と出会った。
1916年に刑務所内で肺結核により病死。

  • チュブリロビッチ(Vaso Čubrilović 犯行当時:17歳) 判決:禁固16年

オーストリア帝国崩壊後に釈放。
釈放後はサラエボの学校教師となった。
またベオグラード大学から教授として採用され、教鞭を振るった。

第二次世界大戦後はチトー政権下のユーゴスラビアにおいて、森林大臣となった。
1990年に死去。享年93歳。実行犯としては、最後の生き残りだった

  • ポポビッチCvjetko Popović 犯行当時:17歳) 判決:禁固13年

父はセルビア正教会の聖職者であった。
中学校時代に教師を殴打し、実刑判決を食らった。
その後は高校就学のために、セルビア王国の首都ベオグラードに向かった。そこでタンコシッチ少佐と会った。
1918年、刑務所内で肺結核により病死。

  • メフメトバシッチ(Mohammad Mehmedbasic 犯行当時:17歳) 判決:禁固20年

事件直後、モンテネグロ王国に逃亡。メンバー唯一のイスラム教徒である。
交戦中にもかかわらずオーストリアがモンテネグロに対して身柄引渡しを要求。
モンテネグロ政府が考慮している最中、ギリシャ王国テッサロニキに逃亡。
当時駐留していたセルビア軍にいた「黒手組」のボスで、
セルビア陸軍第三軍の参謀長ディミトリエビッチ大佐(通称アピス)を頼った。
その後、アピスがアレクサンダー国王殺害の犯罪の嫌疑をかけられ、
メフメトバシッチもギリシャにおいて一度投獄され禁固十五年の刑を受けたが2年後釈放。
その後はサラエボに戻り、園芸店を開いた。第二次世界大戦中に死亡した模様。

Die Abdankung vom Kaiser(皇帝の退位)

カール1世は1918年10月16日、「10月宣言」を出した。
これは帝国を各民族による連邦国家に再編するというものであった。
しかし同盟国が劣勢にたたされた今、
オーストリア=ハンガリー帝国内ではドイツ人を見限り各民族の独立の動きが強まっていた。
もはや大規模な軍事力を失った帝国も大規模な独立運動をとめることはできなかった。

10月28日、チェコスロヴァキア共和国が独立を宣言。
10月29日、クロアチア人議会が帝国からの独立を宣言。
10月31日、ハンガリーが独立を宣言。ハンガリー民主共和国と国号を改める。

長年の盟邦ハンガリーが独立宣言をした影響は果てしなく大きかった。

11月3日
オーストリアは連合国に休戦協定を受諾することを伝えた。
これによって対オーストリア軍への戦闘活動は停止した。

11月9日には国内の革命運動(ドイツ革命)を抑え切れなかった
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言。オランダに亡命し、共和制が成立した。

この頃、ウィーン市内においては「皇帝を逮捕せよ」との声も高まり
多くのオーストリア市民が王政の廃止を望んだようである。もはや「帝国」はそこに存在しなかった。

11月11日
自らの責任を取り、カール1世は退位をすることを決意。
自らの住むシェーンブルン宮殿において、退位に署名した。

実は、オーストリア帝位を捨てたがハンガリー王として君主生活を暮らそうとしていたが
この出来事はハンガリー市民の反対にあい失敗した。
その後4年後、亡命生活を行っていたポルトガル領マディラ島で肺炎により病死した。

今現在の事件現場

ユーゴスラビア連邦成立後、皇太子夫妻が殺された現場のラテン橋はしばらくプリンツィプ橋に名を改められた。

ユーゴスラビア独立後のボスニア・ヘルツェゴヴィナにおいては
セルビア人とムスリム、クロアチア人の間で民族浄化という殺戮行為が行われ
建国の英雄の地位を追われた。

かつて存在した大公を待ち受けた場所にあった足型のプレートも今はない。
橋の名前も今はまた、ラテン橋に戻された。

今現在の欧州

その後のオーストリアの運命は周知のことだと思うが、簡単に振り返りたい。

オーストリア=ハンガリー帝国の解体した後はハンガリー、チェコスロバキアが独立し、
また領土の一部をポーランド、ルーマニア、ソ連、イタリア、ユーゴスラビアに割譲することになった。
オーストリア共和国の領土は全盛期の1/4程度になった。
そしてその直後の世界恐慌によって経済は悪化し財政は悪化。インフレを招いた。
そして隣国ドイツで起きたナチズムの流れがオーストリアにも訪れ、1938年にはナチスドイツがオーストリア全土を併合(アンシュルス)。オーストリアは独立国ではなくなり、ドイツ国エスターライヒ州となった。

大ドイツ主義には多くの国民は賛成していたといわれているが、徹底的な言論弾圧や、ドイツ本国に対する絶対服従の経済統制、オーストリア人を下等国民扱いするナチスに対しては多くのオーストリア市民が嫌悪感を抱いた。

なお、フェルディナントの子供たちであるホーエンベルク三姉弟は、
独墺合併(アンシュルス)に反対したため、第二次世界大戦中は投獄されていた。敗戦後に釈放される。
1944年、幼少期は経済的に支えてくれていた祖母マリア=テレサが89歳で亡くなった。

第二次世界大戦後。
オーストリアはイギリス、アメリカ、フランス、ソ連の4地域の分割統治になった。
終戦直後の暫定政府が成立し、国民選挙によりオーストリア議会が復活した。
だが冷戦の影響で、再独立は遅れた。
1955年5月15日、オーストリアは連合国4カ国と独立への条約を締結。

同年7月27日、オーストリアはアンシュルス以来17年ぶりに独立を勝ち得た。
この日のウィーンは歓喜に満ち溢れ、涙を流した国民も多かった。

そして1992年11月に欧州連合が成立。
多くの国家ならびに国民・民族が自治権を持ち、共存しながら平和への道を進み始めた。

欧州連合の成立はフェルディナント大公が長年、思い描いていた多民族国家オーストリア帝国の終着点かもしれない。

Die wahre Liebe(真の愛)

ハプスブルク家の霊廟はウィーンにあるカプシィナー教会であった。
だが、ゾフィーが大公妃としての権利を放棄した以上、ここに葬られることはなかった。
そこでフェルディナント大公は自らの居住したアルトシュテッテン城に
夫婦ともに眠りたいと、事前に遺言していた。

結婚してからしばらく移り住んだアルトシュテッテン城。
この城で三人の子供が生まれ、この城で娘と息子たちに囲まれ幸せな日々をすごし、
サラエボのあの日から数日後に再びこの城に帰り、この城で継母と子供たちが棺に花束を添え、
この城で今も眠る。

これはハプスブルク家から嫌悪されていた彼らにとって見知らぬ歴代の皇帝や係わりのない親族と眠るよりは
夫婦ともにいることこそ、心地の良いものだったかもしれない。

妻が請け賜ったホーエンベルク姓を名乗る彼らの子孫が今も墓の守り人として暮らすこの城に、
事件から九十五年を経た今も、二人の墓石は寄り添い、
この世の行く末を、ただ静かに見守り、安らかに眠っている。

Das Ende

あとがき

このような長い文章を講読いただきありがとうございました。

私は夏季休業期間に「第一回十字軍」の文章を見て感銘を受け、
片っ端から図書館でサラエボ事件、オーストリア、ハプスブルク家に関する本を借り、
本や情報サイトを参考にしながら約半月間、書き上げました。

なお、この文章の見方によってはハプスブルクの伝統を維持しようとした老帝(フランツ=ヨーゼフ1世)やオーストリア帝国、セルビア王国やセルビア人が「悪者」「極悪非道」のような扱いを受けているように思えるかもしれませんが、その箇所はご勘弁ください。意図的に記述しているわけではございません。

今から100年も経っていない、1914年におきたこの事件は最終的に第一次世界大戦という、現在まで残る人類史上二番目の規模の犠牲者を出した戦争となりました。
このことでヨーロッパという地域で、新たに民族自治国家を建国させ、国民の意思にそぐわないハプスブルク、ロマノフなどの各国君主を革命や、国民の要求により、廃位させ共和制や社会主義国家を大規模に成立させました。これをプラス面だと言う人も中にはいるでしょう。

しかし社会主義が起きたことで、何もしていない無実の者が殺され言論の自由も何も無いという、いわば疑心暗鬼の世界ができたり、一方的に天文学的な賠償金を抑え付けられた敗戦国の民は貧困と飢えに喘ぎ、
強力な独裁政治を起こさせ、ヨーロッパ各国を侵略して恐怖をもたらしたり
何よりも戦勝国の傲慢な態度が敗戦国を中心とした世界各国・各植民地を怒らせ、
後に繋がる人類史上最大の戦争(第二次世界大戦)に発展した。
またユーゴスラビアはチトー氏の死後、九十年代に各共和国が独立し、民族対立による内乱と殺戮の世界となった。これをマイナス面だと言う人も中にはいるでしょう。

どのみち、この事件は良かったことなのか、それとも悪かったことなのか、
とは最高学府(大学)において議論されることはないでしょう。

そもそも「十字軍」のように歴史とは善悪一概で評価できるものではありません。
これはそれぞれの当時国・宗教・民族・地方行政の単位の歴史認識の見方で
正負の価値観が異なっているからです。
また「十字軍」を例にとりますが、全く関係のない第三者(例:日本人)の見方もあります。
なので一概に歴史の事件戦争に善悪をつけることは難しいのです。

ただ、この記事は、そういう政治思想・歴史認識とは逆に
ただ単に歴史事項を面白く知る上での支えであってほしいと考えています。

どちらかというと本記事は本人たちが本当にしゃべったわけではない言葉がでてくるなど
参考文献としてではなく、小説を読んでいる感じでご観覧してほしいものです。

しかしながら教科書で
「1914年、オーストリア皇太子夫妻がサラエボにおいてセルビア人青年に暗殺され、
オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告。第一次世界大戦が起こった。」
で済まされる味気ない文章も、その人物の意外な過去や
もっと深くその日や当事者たちの主義信条の状況を知ることで多くのことが見えてきます。
もっと多くのことを知ってほしいのです。ただそれだけを伝えられれば幸福だと私は思っています。

今に続く民族紛争を引き起こしたと言われる、サラエボ事件。
そこには様々な要因と偶然が重なっています。

(追伸:記事作成を依頼したプレミアム会員の方、申し訳ありませんでした。この場を借りてお詫び申し上げます。)

では、今を生きる皆に祝福があらんことを。

初版執筆者著。

参考文献

  • 江村洋「ハプスブルク家の女たち」(講談社)
  • NHK取材班「その時歴史が動いた 16」(KTC中央出版)
  • 菊池良生「図解雑学 ハプスブルク家」(ナツメ社)
  • NHK取材班「その時歴史が動いた コミック版 世界史革命編」(集英社)
  • ウィキペディア日本語版
  • ウィキペディアドイツ語版
  • ウィキペディア英語版

関連項目

  • 第一次世界大戦
  • オーストリア
  • ドイツ
  • ユーゴスラビア

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最終更新:2025/12/07(日) 01:00

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