はじめに
Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.
天才は1%のひらめきと99%の努力である。
概要
トーマス・エジソン(1847年2月11日- 1931年10月18日)はアメリカの発明家。「発明王」と称され、蓄音器や白熱電球などを実用化したことで知られている。
オハイオ州で産まれた彼は幼少時代知りたがり屋で、小学校に入るものの「1たす1はなぜ2になるの?2つの粘土をくっつけたら1つになるじゃないか」と言って先生を困らるばかりかアヒルの卵を抱えて孵化を試みたり、「火はなぜ燃えるのだろう」と言って自宅の納屋を全焼させるなどのちに発明王になることを知らなければただの危ない子供であり、当然教師から「こいつの頭は腐っている」と言われてしまった。それに対してエジソンの母は教師とやり合ったうえ3ヶ月で退校(当時のアメリカは義務教育でないため小学校に行かない子供もいた)し、その後は母親によって自宅で教育を受けることになった。
少年時代になると「人間が空を飛べるようになるかもしれない」と言ってガスが発生する薬を作って友人に飲ませて騒ぎを起こしたり、自作の新聞を作ってそれを列車内で売り捌いて利益を得るものの、ある人物を皮肉った記事を書いたところその人物から殴られて新聞制作をやめるなど、相変わらずのやんちゃぶりであった。そんな中汽車に轢かれそうになった駅長の息子を助けたことをきっかけに駅長から電信を教わり、これが発明家への足掛かりとなる。
17歳になるとカナダの駅で夜間電信係になるも「1時間間隔で勤務に就いていることを示す信号を送るだけ」という退屈な作業だったため、「なら自動で電信を送れるようにすればよい」と考え、1時間間隔で電信を送る装置を発明した。これがエジソンにとって最初の発明とされ、これによってエジソンは仕事をサボることができたが、等間隔すぎることに疑問を持った上司にバレて怒られてしまった。
その後ボストンを経てニューヨークへ渡り、21歳の時押しボタンで投票できる電気投票記録機を製作。初めての特許を経た発明であったがウケが悪く、エジソンも「人々が喜んでくれなければ何の意味もない」ことを察知し以降は人々の役に立つ発明をすることを誓うようになる。そして9年後の1877年(30歳の時)に蓄音機の商用化に成功。そこで得た資金を元手に研究所を作り、同様に開発に留まっていた白熱電球や電話機、動画撮影機の商用化にも成功する。こうして発明家として名声と多額の富を得て、1892年に現在のゼネラル・エレクトリック・カンパニーを創業するなどしたが、晩年は鉱山経営に失敗したり、オカルトに没頭して霊界との通信機を製作しようとしていた。1931年に糖尿病の合併症によって84歳でこの世を去った。
主な発明品一覧
- 電気投票記録機(1868年)
- 今までは投票箱に入れたり挙手で数を数えたりしていたが、ボタンを押すことで賛成と反対の数が自動集計されるというもの。一見して便利そうであるが、「瞬時に結果が出たら投票中の交渉ができない」とのことで当時は受け入れられなかった。但しこれから130年後の1998年に日本の参議院で近代化された改良版が導入され、特にきまりがなければこちらのほうで投票が行われるようになった。
- 株式相場表示機(1869年)
- 株式市場の相場が瞬時に表示される機械で、こちらは株式市場から歓迎された。そして特許を譲ってほしいと申し出る者が現れ、エジソンは5000ドル(現在の約25万ドル)で売れればいいと思っていたが、相手が8倍の4万ドル(現在の200万ドル)を提示し、震えが止まらない状態になったという。
- 電話機(1876年)
- 電話の開発はグラハム・ベルと競争となり、発明そのものは僅かの差でベルに軍配が上がった。しかしベルの液体抵抗式電話機よりエジソンの炭素式電話機のほうが性能が良く、特許訴訟に発展。結果エジソンの炭素式電話機の特許をベルが買い取ることで決着している。
- 蓄音機(1877年)
- 蓄音機そのものは1857年に発明されていたが、録音したものを波長で印字して伝えるものであった。エジソンの蓄音機は音として再生できるもので、まさしく録音と再生双方ができるものであった。
- 白熱電球(1879年)
- 電球そのものは以前からあったが、低電圧型のため高電圧での送電に対応しておらず普及に難があった。エジソンのものは高電圧にも耐えられるフィラメントを使用しており、これによって一気に普及した。なお、開発されたフィラメントは京都で採取された竹が使われており、石清水八幡宮に記念碑がある。
- 映写機(1893年)
- エジソン研究所の従業員であるウィリアム・ディクソンに命じて造らせたもの。現在の主流であるスクリーンに映すものではなく、1人用の木箱を覗いて映画を観る「キネトスコープ」という万華鏡(または頭に装着できないHMD)に近いものであった。
エピソード
- 少年時代の行動から歴史学者や医学者は「エジソンは発達障害またはADHDだったのでは」と唱える者がいる(尤も歴史上の著名人物が発達障害またはADHDだったのはよくある話で、レオナルド・ダ・ヴィンチやモーツァルト、アルバート・アインシュタインも同様であったと指摘されている)。
- 母親はカナダで元教師をしており、学校を退学になったエジソンに対して充分な教育を施すことができた。但し英語版ウィキペディアなどで母親が元教師だったのはデマという記述があったなどしばし論争に発展することがある。
- 12歳の時に片耳が難聴になったとされ、幼少期に発症したデング熱が原因であることが有力であるが、伝記によっては「貨車内で実験中に火災を起こして係員に殴られた」や「ボクサーとケンカになって殴られた」など様々な憶測が書かれている。
- 1から発明したものが少なく、発明したとされるそのほとんどが「既にあるものを改良したもの」とされている。また特許が多く、その所有を巡りしばし係争になったことから「発明王ではなく特許王だ」と揶揄されることもある(ちなみに「日本のエジソン」を自称したドクター・中松こと中松義郎もこのようなエピソードがある)。
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