バタビア沖海戦とは、大東亜戦争中の1942年3月1日に生起した海戦である。日本海軍vs連合軍艦隊の戦闘で、日本側が完勝を収めた。別名スンダ海峡海戦。
1941年12月8日の開戦以来、帝國陸海軍は破竹の勢いで東南アジアを席巻。マレー半島南端の要衝シンガポール要塞を攻略し、スラバヤ沖海戦で連合軍の水上戦力も殲滅。もはや日本軍の勢いを止められる力は、連合軍には残っていなかった。わずかに生き残った艦艇は最後の砦ジャワ島に集結していたが、そのジャワ島にも日本軍の包囲網が迫っていた。このため生き残りを賭け同盟国オーストラリアへ、あるいはイギリスの勢力圏であるインド洋へ向けて逃避行を始めた。
アメリカ海軍の東南アジア艦隊旗艦である重巡ヒューストンと豪軽巡パースの2隻は、オーストラリアに脱出するべくジャワ島南岸の要港チラチャップを目指して2月28日夕刻にスラバヤを出発した。準備が遅れた蘭駆逐艦エヴェルトセンは後から出港。スマトラ島とジャワ島の間にあるスンダ海峡を通る航路を選択したが、これが地獄への入り口だった。
ちょうど通り道には帝國陸軍第16軍を乗せた輸送船56隻と、それを護衛する第7戦隊及び第5水雷戦隊が展開していたのである。
1942年3月1日午前0時9分、付近を警戒していた駆逐艦吹雪が輸送船団に突撃中の艦影2隻を捕捉。続いて軽巡名取と駆逐艦白雪、初雪、春風も2隻の敵艦を確認した。しかしヒューストンとパースは日本側に発見されたとは露知らず、そのまま前進。吹雪は2隻を追跡し、その行動を逐一司令部に報告し続けた。午前0時37分、ヒューストンとパースは輸送船団を発見。護衛艦艇がいないと思っヒューストンは船団攻撃の好機と捉え、まずパースが照明弾を発射。砲撃を仕掛けたが、遠距離からのものだったため命中せず。
午前0時44分、パースが追跡者の存在に気づき、発光信号で何者かと尋ねた。その直後に吹雪が後方から9本の魚雷を発射。さらに砲撃を加えたが、一斉回頭したヒューストンとパースから反撃を受けたため煙幕を張って後退。その隙に春風が突入し、煙幕を展開して船団を覆い隠した。このため2隻は船団を見失った。そこへ名取に率いられた駆逐艦初雪、白雪、朝風が突撃。午前1時10分から4分の間に28本もの酸素魚雷が放たれた。更に増援として第7戦隊の重巡三隈、最上、駆逐艦敷波、白雲、群雲が参戦。敷設艦白鷹も午前0時56分に参戦した。多数の艦艇に包囲され、集中攻撃を受けた2隻はあっと言う間に満身創痍と化した。
午前1時28分、パースが航行不能に陥る。そして午前1時42分に沈没。ヒューストンは15ノットの速力でよろよろと離脱を図ったが、次々と命中する砲弾で機関停止。主砲も沈黙し、わずかな機銃だけで抵抗している状態だった。死に掛けの獲物を前に、第7戦隊は唯一戦果を挙げられていなかった敷波に花を持たせてやろうと雷撃処分を命令。午前1時59分、敷波は1本の魚雷を発射し命中。およそ7分後にヒューストンも力尽き、沈没していった。
一方、遅れて出港した蘭駆逐艦エヴェルトセンは前方で繰り広げられる戦闘の光を視認。日本軍がいる事を悟り、こっそりとスンダ海峡を突破しようとしたが、駆逐艦群雲と白雲に発見される。猛攻を受けて逃げ回ったすえに座礁し、そのまま放棄されてしまった。こうしてバタビア沖海戦は幕を閉じた。
この海戦により連合軍艦隊は完全に壊滅し、東南アジアの制海権は日本の手中に収まった。
実はこの海戦のさなか、とんでもない同士討ちが発生していた。魚雷により輸送船1隻が撃沈し、2隻が大破していた事が判明したのである。うち1隻は敵の攻撃によるものだったが、2隻は味方の魚雷だった。
特に問題だったのは陸軍第16軍司令・今村均中将が乗った神州丸を撃沈した事だった。司令官を3時間に渡って漂流させた事は海軍の責任問題であり、第五水雷戦隊司令部は今村司令に謝罪した。しかし器が大きい今村司令は快く海軍を許し、「敵の魚雷艇で沈んだ事にしよう」と提案までしてくれた。やさしい。
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最終更新:2025/12/08(月) 20:00
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