ミッドウェー海戦とは、1942年(昭和17年)6月5日から7日にかけて起こった大日本帝国海軍とアメリカ合衆国海軍との海戦である。
帝国海軍は1941年12月8日に行った真珠湾攻撃でアメリカ海軍に大打撃を与え、その2日後に行われたマレー沖海戦では、イギリス海軍の誇る新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』及び巡洋戦艦『レパルス』を撃沈させるなど、順調にアジア・太平洋の制海権・制空権を握っていた。
翌年も2月のスラバヤ沖海戦で勝利するなど南方作戦を順調に進めていた。大本営には将来的にセイロン島攻略などインド方面に進軍し、イギリスの脱落を図り、アメリカの継戦意思を喪失させる構想があり、最終的には西アジアを進軍しドイツとの連絡も考えていた。
しかし、これにはドイツの進軍状況なども絡み、実施は当分先になると予想、大本営海軍部は連合軍の反攻の拠点になるオーストラリアの要地攻略を検討したが、膨大な兵力や船が必要になるなどの問題から陸軍は反対した。代わりにフィジーやサモアなどを攻略して交通路を遮断するFS作戦となり、これなら必要兵力も少なくて済むとのことで陸軍も賛成した。
連合艦隊司令部では次の理由からFS作戦には反対していた。
聯合艦隊司令長官・山本五十六大将は日本と連合軍との戦力差を考え『アメリカにもう一度大打撃を与え、その上で早期講和を目指す』という構想を持っており、連合艦隊司令部ではセイロン島攻略とハワイ攻略を計画していた。(検討を開始したのは真珠湾攻撃の直後と言われる。)山本長官はハワイ攻略の準備が整う間にセイロン島攻略で西方の情勢を安定化させ、ハワイ攻略に専念しようと考えた。セイロン島攻略作戦は大本営陸海軍部には採択されなかったが、ビルマ方面の支援のため英艦隊などに対して攻撃は実施されることになった。
セイロン島攻略作戦が流れた連合艦隊司令部は次の作戦に苦慮した。ハワイ攻略は秋ごろの予定であり、結構な期間が空く。そこで連合艦隊司令部は米空母の誘出と撃滅を目指したMI作戦を計画した。米空母は空襲で日本軍を悩ませており、これを撃滅できればハワイ攻略の助けになると考えたのである。セイロン島攻略が採択されなかったのは陸軍の都合もあると感じた連合艦隊司令部は海軍単独で作戦を実施できることも考慮していた。
また、オーストラリアの補給路遮断の必要性もあり連合艦隊司令部は以前は反対していたFS作戦もMI作戦後に実施することになった。
作戦は完成し4月3日に大本営海軍部に次期作戦案が提案されたたものの、大本営海軍部(軍令部)は次の理由からMI作戦に反対した
これにより交渉は一度は行き詰ったものの、その後、連合艦隊司令部から説明を受けた伊藤次長は永野軍令部総長らと協議、米空母撃滅のためFS作戦に修正を加えたうえでMI作戦を実施することになり、なんとか採用に至ったが、大本営は進出が不確実な米空母の撃滅よりもミッドウェー島の攻略が目的、聯合艦隊司令部はアメリカ機動部隊の打倒が目的とそれぞれ指示して日本機動部隊は混乱する。作戦計画では機動部隊の主要任務は敵艦隊撃滅と攻略作戦支援となった。
ミッドウェー作戦(MI作戦)に対する軍令部の許可は4月5日におりたが、その後4月18日にアメリカの空母『ホーネット』より16機のB-25爆撃機が発艦し、日本の都市を爆撃した。たいした被害は出なかったが国民は衝撃を受けた。特に本土防空に絶対の自信を持っていた陸海軍の将兵は動揺した。
この本土空襲の為、俄然本気になった陸海軍は5月5日に永野軍令部総長はミッドウェー島・アリューシャン列島の攻略を認可し、陸軍からは一木支隊を提供した。
5月に入り、珊瑚海では歴史上初めての機動部隊による海戦が起こった。日本海軍はアメリカ空母『レキシントン』を沈め、『ヨークタウン』を中破させたが、こちらも軽空母『祥鳳』が沈没、『翔鶴』が中破、『瑞鶴』は被害が無かったが航空機と搭乗員の補充が必要となった。
この珊瑚海海戦の影響によりミッドウェー海戦に参加できる正規空母は6隻から4隻になった。作戦のために出港する約一週間前のことである。
5月1~4日 第二段作戦の図演や研究会が行われる。MI作戦では攻略中に米空母が出現、日本空母に被害を受け作戦続行困難となった。統監部により被害の見直しが行われ、作戦は続行し成功はするが、駆逐艦の一部が燃料不足のため座礁するという悲惨な結果だったため、連合艦隊司令部からはこうならないように指導するとした。AL作戦では北方部隊が天候不良のため不時会敵し全滅するという状況もあった。これらへの対策が第二次K作戦の追加や北方部隊への潜水艦部隊の一時編入と言われている。
第二艦隊や機動部隊から作戦延期の要望が出されたが、連合艦隊司令部は再空襲防止の必要があることや月齢などの関係でこの時期を逃すと最悪の場合約1年作戦実施が遅れると判断し延期はしなかった。その後も各方面から準備が間に合わないとの要望が出されるが、なんとか作戦開始までには間に合うと判断した。
5月5日 ミッドウェー、アリューシャンの攻略が発令される。
5月8日 珊瑚海海戦が起こる。この段階では五航戦の参加は可能と見られており、翔鶴は北方部隊へ参加する予定だった。珊瑚海海戦で五航戦が米空母を撃沈破したことは日本軍を喜ばせたが、更に練度の高い一航戦、二航戦ならば米空母の撃滅は容易との考えも出てきてしまっており、機動部隊の草鹿参謀は鎧袖一触の思いがあったと回想している。
5月14日 珊瑚海海戦の被害報告があり、五航戦はミッドウェー、アリューシャン攻略作戦に参加することができないと判断された。五航戦の戦力回復はFS作戦に間に合うことが望まれた。
5月15日 南太平洋方面で米空母部隊が確認される。日本軍には同方面で活動中であるとの見方が出ており、その後の5月28日のツラギ空襲や5月29日の電波送信源の位置特定などで米空母部隊はなお南太平洋に存在すると判断された。
5月18日 フィジーやサモアなどの攻略が発令される。
5月19日 連合艦隊司令部の有馬参謀と第六艦隊司令部、二十四航戦司令部がクェゼリンで打ち合わせを行う。有馬参謀は潜水艦部隊の散開線が期日に間に合わないことや後述のウェーク島の水深問題で一部の哨戒を変更せざるを得なくなった(ミッドウェー北東海域の哨戒ができなくなった。後知恵ではあるが米空母部隊はこの削られた哨戒区付近に存在した。)ことを連合艦隊司令部に報告したが、問題にはならなかった。
第二次K作戦の協定が成立。最終的に第二次K作戦は中止されるが連合艦隊司令部や機動部隊は特に問題とはしなかった。仮に成功し米空母部隊の不在を確認できたとしても、前述のように南太平洋方面にあると判断されたと思われる。
5月22日 二十四航戦司令部から哨戒計画の変更についての意見具申が報告(内容の一部は事前に有馬参謀から連合艦隊司令部へ報告されていた)。MI作戦では第二次K作戦以外にもウェーク島とウォッゼ環礁から二式飛行艇によるミッドウェー島の西方と南方を哨戒する計画があった。しかし、ウェーク島の水深では燃料満載の二式飛行艇は夜間離水できないことが判明。ウェーク島からのミッドウェー島の西方を哨戒する案はウォッゼ環礁から発進し、ウェーク島へ帰還する計画に変更することが意見具申され、連合艦隊司令部も承認した。ミッドウェー島南方への哨戒は第二次K作戦中止後の5月31日と6月3日に行われた。
5月25日 MI作戦の図演や打ち合わせが行われる。この図演で山口少将から米艦隊の誘出のためジョンストン島を攻撃することが必要と進言があったが、宇垣参謀長は米艦隊はジョンストン島の援護の下やってくると説明した。図演はミッドウェー攻略後にオアフ島南東方面から米艦隊が進出するという想定で行われており、日本側では米艦隊の進出はミッドウェー攻略後になると予想していたことが窺える。
打ち合わせにおいて連合艦隊司令部側はミッドウェー攻略中に機動部隊が米艦隊出現に備えているか、機動部隊側は旗艦のアンテナの送受信が低いことから連合艦隊から重要な作戦転換は知らせることなどを確認した。
機動部隊から攻撃開始日の1日延期の要望が出され連合艦隊司令部はこれを了承した。上陸日については変更はされず、輸送船団が攻撃前に発見される可能性が高くなったが、米機動部隊の誘出に役立つと判断された。
5月26日 赤城で作戦の打ち合わせなどが行われる。そこで索敵が不十分であるとの意見が出された(出したのは山口少将と言われる)。しかし、情勢判断から索敵計画の変更は行われなかった。索敵線が7線なのはインド洋作戦のセイロン島空襲時や珊瑚海海戦と比較しても同じくらいではある(それ以上を出したのはインド洋作戦で付近に英機動部隊の存在が疑われ索敵した時で、この時の索敵線は10線だった)。
開戦時の連合艦隊では、破壊又は占領するべき外郭要地であったが真剣に議論がされていなかった。
作戦計画は、米ソ間の連絡を絶ち切り、シベリアに米戦闘機が進出して来ないようにすることだった。ソ連の刺激と哨戒兵力の多さから実行不可として棚上げにされていた。
ミッドウェー攻略が内定する関心が高まり、ミッドウェー攻略の牽制として、又は日本本土に接近する米空母を抑える目的で攻略が決まった。
ミッドウェー島を攻略させる事をアメリカにさとられないようにアリューシャン列島のアッツ・キスカ両島を占領する為『龍驤』と『隼鷹』の2隻の空母を陽動作戦(AL作戦)で向かわせ、無事にアッツ・キスカ両島を占領した。
ミッドウェーを攻略させる事をアメリカにさとられないようにアリューシャン列島のアッツ・キスカ両島を占領する為『龍驤』と『隼鷹』の2隻の空母を陽動作戦(AL作戦)で向かわせ、無事にアッツ・キスカ両島を占領するも、アメリカ軍に暗号が解読されていた為、ニミッツ大将は空母『エンタープライズ』・『ホーネット』・そして珊瑚海で中破したが、3日間の突貫作業で修理させた『ヨークタウン』をミッドウェーに向け送り出し、ミッドウェー島に航空機の増援を送った。
対する日本軍は南雲忠一中将が指揮する空母『赤城』・『加賀』・『蒼龍』・『飛龍』を中心とした機動部隊にミッドウェー島の攻略を命じ、その後やってくるであろうアメリカ海軍を迎え撃つ為、戦艦『大和』を中心とした山本五十六長官率いる主力部隊が後で合流する運びとなった。
かくして、ミッドウェー島を攻略すべく帝国海軍は動き出した・・・。
6月5日
4時30分に友永丈市大尉が指揮する第一次攻撃隊108機が空母を発艦し、6時30分にミッドウェー島を空襲するも、先にアメリカの偵察機であるカタリナ飛行艇に発見された為にたいした被害は与えられなかった。そして友永大尉は第二次攻撃の必要あり(カワ・カワ・カワ)と打電した。
対するアメリカ軍は5時40分に日本軍の機動部隊を発見。ミッドウェー基地航空隊が6時に発進。米機動部隊から7時に攻撃隊149機を発艦させた。
そして7時10分に南雲機動部隊にミッドウェーから発進した攻撃機による空襲があったが直掩の零式艦上戦闘機30機などの活躍により被害はでなかった。
7時15分、旗艦『赤城』に友永大尉からの無電が届く。南雲長官は源田実航空参謀との打ち合わせの上、魚雷から対地爆弾への兵装転換を命じた。
7時28分、遅れて偵察を開始した利根より発進した偵察機が『敵らしき物発見』との電文が届く。
7時45分、兵装転換中止を決定。再度の魚雷への変換を命じた。第一次攻撃隊が帰還を始める。
7時47分と8時00分に利根の偵察機に対し艦種を知らせるよう命令が出される。
8時20分、利根の偵察機より『敵ミッドウェーの北240海里(約450キロ)、空母1隻を伴う』と報告が届く。 (だがこれは間違いで敵空母は北140海里(約260キロ)にいた)8時30分、帰還した艦爆隊への爆装準備が始まる。
『飛龍』の司令官山口多聞少将は『直ちに攻撃隊発進の要ありと認む』と赤城に発光信号を送るが、『赤城』の南雲長官は
「(偵察機の報告から)敵はまだ遠くにいる」(偵察機が報告してきた位置から米空母との距離は約210海里と判断された。この距離では攻撃隊は護衛無しの状態になるため敵は護衛機をつけるために接近する必要があり、護衛なしで襲来させた場合は直掩機で防ぐことができるとされ、兵装換装などの時間の余裕があると判断したとされる。)
「攻撃隊を発艦させると、第一次攻撃隊を着艦できず、最悪の場合100機近い航空機を燃料切れで失う事となる」
「零戦を直掩で上げているので攻撃隊に付ける機体が無い」
などのさまざまな理由で攻撃隊を発進できなかった。
9時17分、第一次攻撃隊を収容し南雲機動部隊は北東へ退避[1]。断続的な空襲の為兵装転換はなかなか進まず。
10時22分、ようやく兵装転換終了、上空直掩の増援のため零戦が発艦を始めた。
10時24分、『エンタープライズ』より発艦したドーントレスの急降下爆撃により『赤城』・『加賀』・『蒼龍』が被弾する。
10時46分、南雲長官が旗艦を『赤城』から『長良』に移す。
10時58分、『飛龍』より第一次攻撃隊発艦。
12時08分、『飛龍』の攻撃隊による爆撃で『ヨークタウン』に250キロ爆弾三発命中。『ヨークタウン』中破。
13時30分、『飛龍』より第二次攻撃隊発艦。
13時38分、『飛龍』に第一次攻撃隊が帰還する。
14時40分、『飛龍』の第二次攻撃隊が『ヨークタウン』に魚雷二本命中。『ヨークタウン』大破。
(後に『ヨークタウン』は日本海軍の『イ168』潜水艦の魚雷で撃沈する)
15時45分、『飛龍』に第二次攻撃隊が帰還する。
17時03分、唯一残った空母飛龍が爆撃を受ける。
19時15分、『蒼龍』沈没。
19時26分、『加賀』沈没。
23時55分、戦艦『大和』の山本長官がミッドウェー作戦中止を決定する。
6月6日
2時、自沈させる為『嵐』、『萩風』、『野分』、『舞風』より放たれた魚雷により『赤城』沈没。
9時、自沈させるため駆逐艦『巻雲』より放たれた魚雷により『飛龍』が沈没。
かくしてミッドウェー海戦は日本海軍の敗北に終わった・・・。
6月7日、『飛龍』の反撃によりダメージを受けた『ヨークタウン』だが、消化作業が終わり、後方基地のハワイに退避準備を進めていた。連絡を受けて作戦海域に入った伊号潜水艦『イ168』は米駆逐艦『ハムマン』を横着けして復旧工事を進めている『ヨークタウン』を発見。
『ヨークタウン』は、すでに乗員を移して自力航行も可能にまで回復していた。『イ168』艦長、田辺少佐は攻撃を決意。『ヨークタウン』の真下を通過したり、その場で360度旋回しながら距離を図り、発見から9時間後に『ヨークタウン』に向けて4本の魚雷を発射した。内3本は『ヨークタウン』1本は『ハムマン』に命中。(アメリカ側の資料には各艦1発ずつ)
『ハムマン』は轟沈。『ヨークタウン』は回復が難しくなり復旧作業は中断、雷撃処分された。
『イ168』は米駆逐艦からの5時間に及ぶ爆雷攻撃に耐えて、戦場を後にした。
ミッドウェー海戦後はフィジー・サモア攻略、ジョンストン・パルミラ攻略を経て10月にハワイを攻略する予定であったが、この敗北により崩れさった。この戦いの後はソロモン海域で日米両軍が消耗戦を繰り広げ真珠湾以来の熟練搭乗員を次々と失う事となる。
この戦いの後も日本海軍は戦力を十分残しており、空母を4隻失ったが熟練搭乗員はまだ多数残っていた。
また空母同士の戦いは続き、南太平洋海戦ではまだまだ対等な戦いを続けている。
それでも正規空母4隻とその艦載機を一度に喪失したのは非常な痛手であった。このため、ミッドウェー海戦が太平洋戦争における転換点であるという根強い主張があり、ソロモン海域での消耗が転換期とする主張と別れている。
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最終更新:2025/12/23(火) 13:00
最終更新:2025/12/23(火) 13:00
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