三方ヶ原の戦い(三方原の戦い)とは、現在の静岡県浜松市にある三方ヶ原(三方原)で戦国時代に行われた、徳川家康・武田信玄の戦いである。
1572年に起こった、甲斐国(現在の山梨県)を拠点としていた武田信玄が、西へと軍を進めた「西上作戦」のうちの1つの戦い。西上作戦の中では最も知名度が高い戦と思われる。武田信玄・徳川家康とそれぞれの家臣が戦ったほか、同盟を結んでいた織田信長から家康側に、佐久間信盛などの援軍が送られている。
遠江国(静岡県西部)に北方・東方[1]から武田軍が侵入、各地の城を攻めていった。一言坂(磐田市)では前哨戦として偵察に行った本多忠勝・内藤信成らが山県昌景・馬場元春の軍と戦っている(一言坂の戦い)。敗れはしたものの「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という狂歌の元になった。家康も後方にいたものの撤退している。
ついには二俣城(浜松市天竜区二俣町)が落城、徳川家康が拠点としていた浜松城を攻めるかと思われ、家康も籠城戦に備えた。
しかし、信玄は浜松城の北方を西に進んで三方ヶ原に上り、家康を無視して素通りするような進軍をとった。これに対して家康は三方ヶ原へと出陣するも、信玄は魚鱗の陣を取り家康を待ち構えていた。家康は鶴翼の陣を取り交戦するも多くの家臣・兵を失い、敗走して浜松城に戻ることになった。
一方、武田軍は浜松城に攻め込むことはせず、そのまま浜名湖の北を西進して三河国(愛知県東部)に入り野田城(新城市西部)を落とした。しかし、そこで信玄の病状が悪化し、撤退することになった。帰路の最中で信玄は死去し、歴史は3年後の長篠の戦いへと向かっていく。
兵数は諸説あるものの、いずれにせよ武田軍からは明らかに差があり不利な状態だった。それでも家康が出陣を決めたのには以下の説がある。
また、本来は劣勢の側が使うとされる魚鱗の陣を信玄が、防御に適するとされる鶴翼の陣を家康がとった理由も不明。信玄側については「大将の首を狙ったため」「相手方を多く見積もっていたため」、家康側については「本隊が去ったと思い相手の人数を見誤ったため」「自陣を大きく見せるため」とする説がある。
「三方ヶ原のどこで戦いが行われたか」までは分かっていない。三方ヶ原、つまり現在の三方原台地自体は東西10km、南北15kmにわたっている。
資料によっては「浜松市三方原町」とするものもあるが、現在の三方原町自体は三方原台地の一部に過ぎないため、ここ以外の場所で行われた可能性もある。
武田軍の進軍ルートについても不明な点が多く、三方原を上った場所の候補としては東名高速三方原PA周辺の「大菩薩坂」「欠下坂」のほか、浜北西高校付近の「休兵坂」がある。
家康の敗走中のエピソードが多く伝わっている。
ただしあくまで多くは民間に伝わってきた話として記録されており、当時の史料として残っているわけではないので注意。脱糞のエピソードについても、江戸時代後期に校正された史料『改正三河後風土記』に三方ヶ原の前哨戦の「一言坂の戦い」のものが残っているだけである。三方ヶ原の戦いでの敗走としては書かれておらず、しかも当時に書かれたわけでもない。小豆餅と銭取についても「戦死者への供養として小豆餅を備えた」「盗賊が銭を取った」ことから名付けられたとする説もある。
また、徳川家康が敗走後に自分を戒めるために描かせたとされる「しかみ像」についても、研究が進んで実は後世に描かれたものであることが判明している。詳しくは「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事を参照。
実際、家康の敗走中のエピソードは浜松の各地に多く伝わっており、全て三方ヶ原の戦いで起こった[2]とすると、家康の馬が超スピードで移動したか、家康の影武者があちこちで活動したかでなければ話の辻褄が合わない。
ただ、「後世の人々の間で家康がどう語り継がれたのか」という点では、これらのエピソードはそれはそれで興味深く、歴史としても価値のある内容ではあるのだが…。
ちなみに犀ヶ崖の戦いでの戦死者を弔うために「遠州大念仏」が始まったとされており、現在では犀ヶ崖のほか、浜北区を中心に各家庭の初盆で死者を弔う念仏踊りが行われることがある。
また、一部の浜松の小学校の運動会では「城落とし」という、城を模した箱に玉を入れて、最後には爆発音とともに煙を上げて落城させる、三方ヶ原の戦いになぞらえた競技が行われている。
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最終更新:2025/12/06(土) 20:00
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