中森明菜 単語


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ナカモリアキナ

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中森明菜とは、1980年代を代表する歌姫である。

1965年7月13日生まれ。東京都清瀬市出身。血液型はA型。

※身長160cm、B80(Dカップ)、W54、H85。※1984年時

ニコニコ動画では、主に全盛期である80年代の動画、パチンコ・パチスロ動画がメインである。

ひとりの少女からアイドルへ

1965年7月13日、6人兄妹の5番目に生まれた彼女は幼い頃から歌に触れる機会が多かった。歌手になることを夢見ていたという母親から越路吹雪や美空ひばりなどの昭和歌謡、シャンソンを教えられ、兄の影響で矢沢永吉などのロック、洋楽やブラックミュージック、姉の影響で荒井由実などのニューミュージックなどを聞いて育った。また、体力の弱さをカバーするために小学校から中学校にかけてバレエ教室に通っていた。この頃の経験が彼女が歌う楽曲の多様性、振り付けでのしなやかな動きが鍛えられたといっても過言ではない。

中学生時代、オーディション番組「スター誕生!」に応募。彼女が一番愛していた母親からの強い希望と、当時大家族であるがゆえに裕福ではなかった家庭事情により、「歌で家族を支えてあげたい」という責任感から応募したと言われている。それが後の悲劇につながるきっかけとなるのだが・・・・

幼い頃に歌唱力・表現力を自然と身につけていたこともあり難なく予選を突破して本選にも出場した。その際彼女は岩崎宏美の「夏に抱かれて」を歌ったのだが、ある審査員から「この曲はあなたには大人っぽすぎる、年相応の曲を歌うべき」と言われ、不合格になってしまう。その後2回目の本選出場を果たし、この時は後に女性アイドルツートップとして彼女とともに音楽界を引っ張ることとなる松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌った。確かにアイドルソングで年相応な選曲のはずだが、前回と同じ審査員から今度は「幼すぎる。童謡でも歌ったらどうかしら」と言われてしまう。結果的にまたしても不合格となったのだが、最初の挑戦時に言われたことと全く正反対のコメントを言われたことに彼女自身怒りを覚えたらしく直接抗議しようとしたのだが、その時観覧に来ていた母親にやめるよう制された。

あまりに不条理な結果に彼女もさすがに悔しかったのか、今度は本人の意思で応募し3度目の本選出場となる。何度も挑戦していることもあり、番組のスタッフや審査員からも顔を覚えられていた彼女は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、文句なしの高評価であるスタ誕史上最高得点の392点を獲得。レコード会社・芸能事務所による選考も見事クリアしいよいよ「歌手・中森明菜」のデビューが決定した。

デビューからトップアイドル、そして歌謡界の頂点へ

1982年5月1日に「スローモーション」でデビュー・・・するのだがこの日に至るまで様々な紆余曲折があった。

まず問題になったのが「芸名」。当時の芸能事務所、レコード会社のスタッフからは「森アスナ」という三流アイドル臭漂う芸名を提案されたのだが彼女は拒否。「両親が名付けてくれた本名で歌いたい」と強く希望し、結果的に本名である「中森明菜」で活動することが決定した。

次に問題になったのが「デビュー曲」。1981年末の時点でアメリカ・ロサンゼルスでレコーディングを行い、最終候補を4曲に絞っていた。そこで彼女は母校の中学校の校内放送で候補曲を流し、アンケートを実施。その結果別の曲が1位となったのだがなぜかその曲はアルバム収録となり、2位人気の「スローモーション」がデビュー曲に選ばれた。この時のドタバタから衣装作りが間に合わず、初めてテレビ出演した際には私服姿で登場してしまうなんてこともあった。

3つめの問題が「キャッチフレーズ」。この頃の女性アイドルは、キャッチフレーズを与えられるのが慣例であった。しかし明菜に付けられたのは「ちょっとHな美新人(ミルキー)っ娘」。「H」は大人びた、「ミルキー」は美人とルーキーを掛けたものだが、明菜は「よく番組で出演者にからかわれるので、スタッフに詰め寄った」とか。

といったドタバタ劇に翻弄された彼女は同期の小泉今日子や早見優などよりもだいぶ遅れてのデビューとなってしまい、デビューシングルの順位も最高30位どまり。華々しいとは言い難いスタートとなった。

82年夏、2ndシングル「少女A」をリリース。ここから彼女の快進撃が始まる。デビュー曲の清純派路線とは打って変わってツッパリ系、不良系な雰囲気漂うこの楽曲は松田聖子路線に対抗できる「ポスト百恵」を求めていた当時の芸能関係者からも高く評価され、また若い世代から支持を集めぐんぐん人気が上昇。オリコンTOP10以内に初めてランクインし、当時の代表的な音楽番組「夜のヒットスタジオ」「ザ・ベストテン」にも初出演を果たす。ここで手応えを掴んだ彼女は勢いそのままに3rdシングル「セカンド・ラブ」をリリース。今度はスローモーションと同じ清純派路線で、なおかつ少し大人びた恋愛の心情を描いたこの曲で同世代だけではなく彼女よりも年上の女性を中心に支持を集めるようになり、見事初のオリコン1位(通算6週)、ザ・ベストテンで8週連続1位を獲得。年間シングルチャートにもランクインするほどの売上枚数を記録して一気にトップアイドルの仲間入りを果たした。

83年に入るとその勢いは衰えることを知らず「1/2の神話」「トワイライト-夕暮れ便り-」「禁区」とヒット曲を連発。大沢誉志幸、細野晴臣ら有名音楽家からも楽曲提供を受けた。これら楽曲、アルバムのヒットのおかげでこの年の歌手別総合売上1位を獲得。また、日本レコード大賞において「ゴールデンアイドル・特別賞」を受賞。女性アイドルとしてトップの人気を誇っていた松田聖子と双璧をなす存在となった。この頃から少しずつ衣装や振り付けに彼女の考えが組み込まれ、他のアイドルとは違った雰囲気を醸し出すようになる。

84年に入ってからは彼女の意向・・・セルフプロデュースの方針がよりはっきりすることになる。「北ウイング」ではこれまでのツッパリ・清純派とも違った大人の恋愛を描いた作品となり、作品タイトルも当初予定していた「ミッドナイト・フライト」を荒井由実の「中央フリーウェイ」に感化されて提案したという「北ウイング」に変更。ジャケット写真もこれまでアイドル歌手の作品では当たり前であった顔のアップ写真をやめ、体も含めて写したものが選ばれている。

次の作品「サザン・ウインド」もこれまでの明菜の路線とは一線を画すのびのびとした雰囲気の楽曲であったが、「十戒(1984)」で再びツッパリ路線に回帰。これまでのツッパリ系作品シリーズの集大成とも言える歌詞、振り付け(オラオラステップ・サビでのエルボー)とこれぞ「ツッパリ系アイドル」と言える作品に仕上がった。しかしこの作品を最後に彼女はツッパリ路線を封印。また、同時期に清純派路線の作品を多く手がけていた来生たかお・えつこ姉妹の参加作品が減り、清純派路線も実質的に封印。「アイドル・中森明菜」から「歌手、アーティスト中森明菜」へと方向性をシフトすることとなる。

84年末に発売された「飾りじゃないのよ涙は」は作詞・作曲を井上陽水が手がけ、これまでの作品とは全く違ったアーティスティックな雰囲気と前衛的な歌詞が話題となった。またジャケットデザインもCGをつかったものとなりますますアイドル路線から脱却したものとなった。

1985年、「ミ・アモーレ」「SAND BAIGE-砂漠へ-」をリリース。前者はブラジルのリオ、後者はサハラ砂漠のどこかという異国情緒あふれる作品となっており、後者の方はアラビア風の衣装を身にまとってヴィジュアルの面からも作品のイメージを思い起こさせることに成功した。また、当時流行していた12インチサイズのレコードシングルとして「ミ・アモーレ」の同曲別歌詞版である「赤い鳥逃げた」をリリース。実は「赤い鳥逃げた」の方が歌詞としては先に完成しており、作詞を手掛けた康珍化があとで完成した音源を聞いて、曲のイメージに合うようにと歌詞を変えたのが「ミ・アモーレ」だったりする。

85年末に発売した「SOLITUDE」では20歳を迎えた彼女らしく都会のビルに立たずむ大人の女性をイメージした楽曲となっており、派手さの無いシンプルな楽曲となっている。明菜ファンとして有名なマツコ・デラックスは「この曲によって既存のファンがファンを続けるかやめるかの踏み絵となった」とあるテレビ番組で証言している。

この年の大晦日に行われた日本レコード大賞で見事「大賞」を受賞。この年の候補には大賞受賞経験のある細川たかしや五木ひろし、当時人気絶頂だったチェッカーズ、安全地帯、C-C-B、先輩にあたる河合奈保子や岩崎良美といったそうそうたる顔ぶれの中、見事受賞を果たした。なお20歳5か月での受賞は当時の最年少記録である。レコード大賞の受賞によりアイドル界の頂点だけではなく、歌謡界の頂点にも立つこととなった。

他にも日本歌謡大賞、日本ゴールドディスク大賞をそれぞれ1回受賞。その他にもFNS歌謡祭や全日本歌謡音楽祭、日本テレビ音楽祭、メガロポリス歌謡祭でグランプリを獲得するなど、当時の主要音楽賞の大賞・グランプリを総なめにした。年間トータルセールス1位を4回記録(日本歴代単独1位)。シングル・アルバムの総売上は2400万枚を超える。

明菜の楽曲売上のほとんどは80年代のものだが、当時は現在と同じようにレコードからCDへツールが移行して売上枚数が全体的に伸び悩んだ時期。そんな厳しい状況の中ででこの枚数なのだから、CD全盛の時代であればこの売上の倍以上は獲得できていたのかもしれない。

玉石混交の80年代アイドルにあって、低音とビブラート(明菜ビブラート)、ウィスパーボイスを始めとしたアダルティな歌唱、圧倒的なまでの表現力を引っさげ、瞬く間に歌謡界の女王として君臨。彼女に楽曲を提供した加藤登紀子からは「魔女」、井上陽水からは「歌姫」と呼ばれた。ゆえに彼女を元祖歌姫と称する人もいる。

人気絶頂期の80年代後半にはオリジナルアルバムを中心に実験的な楽曲を収録するようになる。例えば1986年リリースの「不思議」では、収録された楽曲のボーカル全てに特殊加工を施してわざと聞こえにくくしたり、1987年リリースの「Closs My Palm」では全曲英語詞の楽曲のみを収録するなど非常にチャレンジングな作品を発表し続けた。通常なら万人受けしにくい内容の作品であるにもかかわらず、それら全てがアルバムチャート1位を獲得していることからいかに彼女の人気が絶大なものであったかを物語っている。

一方で小さい頃から体が弱く、喉の調子が悪い状態でTV出演をしたこともしばしば。ザ・ベストテンで「セカンド・ラブ」を歌った際には風邪の為に思うように声が出ず、悔し泣きをしてしまう場面も。「夢のふち」でミュージックステーションに出演した時は、常に張り上げて歌い息切れをマイクに拾われたこともある。

そんな人気絶頂だった1989年、当時交際していた近藤真彦の自宅マンションで手首を切って自殺未遂をする。これが原因で約1年間の歌手活動休業に追い込まれる。

復帰後の活動

1990年7月17日、約一年ぶりに復帰第一弾シングル「Dear Friend」をリリースし、シングルチャートで再び1位を獲得。累計54万枚を売り上げて年間チャート6位にもランクインする。翌91年には幕張メッセでLIVEを開催するなど多くのファンを喜ばせたが、復帰後に移籍した事務所やレコード会社との契約トラブル、マスコミのバッシングなど様々な困難を迎えることとなる。

1992年にはフジテレビ系月9ドラマ「素顔のままで」で主人公の一人・カンナ役を熱演。高視聴率をキープし続け、最終回では30%を超える視聴率を獲得するなど「女優・中森明菜」の一面も見せつけた。

1994年にはカバーアルバム「歌姫」をリリース。人気歌手によるカバーアルバムと言うことで世間の話題を集め、アルバムチャートで5位を獲得。このアルバムのヒット以降「歌姫シリーズ」として、バラードやフォークソング、ムード歌謡に演歌、男性歌手の楽曲とジャンルや性別の枠を超えた様々な名曲をカバーすることになる。

2000年代以降の安定期と2度目の活動休止 

90年代後半からはコンサートだけではなくディナーショーも開催するなど活動の幅を拡大。これまで抱えていた様々な問題も2000年以降に軒並み解決し、デビュー20周年の2002年、所属レコード会社をユニバーサルミュージックに移籍。「飾りじゃないのよ涙は」で14年ぶりに紅白歌合戦の出場を果たす。2004年にはユニバーサルミュージック内に音楽レーベル「歌姫レコーズ」を立ち上げ、この年以降に発売された彼女のシングル・アルバムは全てこの「歌姫レコーズ」からリリースされる。

2009年、シングルとしては3年ぶりとなる「DIVA-Single Version-」と2枚のカバーアルバム、1枚のオリジナルアルバムをリリース。同年8月にはこちらも3年ぶりとなる単独LIVE「Empress at Yokohama」を開催。カバー曲を中心に披露し多くのファンや観客を沸かせた。

2010年、パチンコ「CR中森明菜・歌姫伝説~恋も二度目なら~」を発表。誕生日の7月13日には配信限定シングル「Crazy Love」をリリースするなど、デビュー30周年に向けて精力的な活動を始めた矢先の同年10月に「極度の過労と疲労による免疫力の低下」で2度目の活動休止。活動休止後もDVD「中森明菜 in 夜のヒットスタジオ」などがリリースされたり、ファンクラブ会報で直筆メッセージを披露しているものの、本格的な活動再開のめどは立っていない。

山口百恵との関係

中森明菜と似たような存在だとよく言われるのが山口百恵である。1980年に引退しているため山口百恵と中森明菜が活動を共にしていた時期はないものの、「少女A」や「十戒(1984)」を歌う中森明菜の姿は「プレイバックPart2」や「ロックンロール・ウィドウ」などの「ツッパリ路線」を確立させた山口百恵のスタンスを受け継いでいるとされ、「ポスト百恵」の一人として名を知られていった。

中森明菜自身山口百恵の存在は大きなウェイトを占めており、デビューのきっかけをつかんだ「スター誕生」では「夢先案内人」を披露。デビュー後も音楽番組の企画で「イミテーション・ゴールド」を歌うなどしている。また、山口百恵の「結婚してそのまま引退する」という去り際にも憧れを抱いていたという。

山口百恵の方も「ザ・ベストテン」で「北ウイング」をカラオケで歌うのが好きだということが当時の近況として伝えられたり、2006年に中森明菜が「いい日旅立ち」をカバーすることになった際、その話を聞いた山口百恵が

「1度、明菜さんに歌って欲しいと思っていた。明菜さんでよみがえるなら最高にうれしい」

と語るなど、山口百恵にとっても中森明菜はとても特別な存在だったと言われている。

松田聖子との関係

1980年代のアイドルとしては松田聖子と双璧であった。松田聖子がいわゆる「ぶりっ子」という表現に象徴されるように可愛さ、女性らしさを強調した楽曲が多かったのに対して、中森明菜はデビュー当初を除いてクールさや孤独な雰囲気の楽曲が増えるなど曲調・雰囲気に「明」と「暗」がはっきりと分かれていった。それゆえ、当時は与党の「聖子派」と野党の「明菜派」でクラスが分かれ、男女入り乱れた抗争に発展することも珍しくなかった。

松田聖子とは犬猿の仲であるとマスコミはたびたび取り上げていたが、それは全くの事実誤認。元々松田聖子の方が1980年デビューと芸能界の先輩であり、中森明菜がデビュー前に受けた「スター誕生」の予選では松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌っている。また、中森明菜はトーク番組「おしゃれカンケイ」(94年)で

「聖子さんのシングルはほとんど持ってる」

と発言していることなどから、中森明菜にとって松田聖子はアイドルとしての目標であり、芸能界の良き先輩でもあり、同じ時代を共に歩んだ良きライバルだったと言える。

人物

実は地声は高く、アニメ声(本人はアラレちゃんと主張)を出すこともできる。これは40代を過ぎた現在でも変わらず、ハスキーな声で歌を歌ったかと思えばMCで急にアニメ声で話す(2006年のLIVE参照)など、初めて見る人にとってはその声域の幅に誰もが驚くであろう。時代が時代ならアイドル声優にもなれたかもしれない。

1983年の大阪コンサートで「誰も何もしないでだま~って座ってると、何も喋れないんですね」とファンも喋るように促していたが、しばらくしてファンが暴走盛り上がると「黙って、私が喋れなくなるから黙って」と一言。この女、ツンデレである。

余談

ちなみに、コラムニストで「おたく」という言葉を命名したことで知られる中森明夫は彼女の名前をもじったペンネームである。

関連動画

デビュー前

 

デビュー~1984年

1985年~1989年

 

1990年~1999年

2000年以降~

カバー曲

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関連コミュニティ

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関連項目

  • 小泉今日子
  • 松田聖子
  • 玉置浩二
  • アイドル
  • 歌手
  • ミュージシャン一覧
  • 歌姫
  • ポニーテール
  • 双璧
  • 不良
  • 親衛隊
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