五・一五事件 単語


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ゴーイチゴージケン

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五・一五事件とは、1932年5月15日に日本国内で起きた反乱事件である。反乱を起こした海軍青年将校が首相官邸に押し入り、時の首相犬養毅を殺害した。軍人によるクーデターという共通点がある事から、のちの二・二六事件と比較される事が多々ある。

背景

第一次世界大戦が終結した後も、列強各国は軍拡を続けて国政や国民の生活を圧迫し続けていた。これではまずいという事で、列強は1930年4月22日にロンドン海軍軍縮条約を締結して軍艦の保有量を制限した。しかし日本は仮想敵としていた米英と比べて大きな制限を課せられる結果となってしまった。これに不満を持った海軍と陸軍の革新派青年将校は、ひどい結果を招いた当時の総理大臣若槻礼次郎を暗殺しようと試みる。計画の中心的人物は、パイロットの藤井済大尉であった。

ところが世界恐慌に起因する大不況の解決失敗や満州の不拡大方針が臣民の不評を買い、決行前に第二次若槻内閣が選挙で敗北して総退陣。新たに犬養毅が首相に就任した。対象が政界から退いた事で一時は暗殺計画が宙に浮いていたが…。犬養政権は経済対策と対満州宥和政策を打ち出したが効果は無く、銀行の閉鎖や作物価格の暴落を招いた。米の価格はほぼ半分に、繭価は3分の1にまで低下し、困窮した農村へ都市部からの失業者が戻ってきた事により貧困が加速。遂に農家の生活が成り立たなくなってしまった。農家の子供でありながら食べ物が食べられない事が常態化して社会問題にまで発展、特に貧困の度合いが凄まじかった東北地方や中部地方では女性の身売りや小作争議まで横行していた。農家出身の兵と接する機会が多かった青年将校は強い危機感を覚えた。同時に朝鮮では抗日思想が広まっており、政党が西洋にばかり目を向けて自国民や朝鮮、中国など東南アジア諸国を軽視している事を憂いた軍の一部が民間の血盟団とともに決起を決め、暗殺対象を犬養首相に変えて計画を続行させた。

1931年8月26日、血盟団のメンバーと海軍の関係者が日本青年館で会合。その中には後の五・一五事件や二・二六事件に関わる人物も含まれていた。9月18日、満州事変が発生。前々から満州の権益はソ連と中国国民党に脅かされており、権益を守るために独断で関東軍が事変を起こしたのである。大資本家が貧しい臣民から搾取する体制を助長する政府に恨み辛みが溜まっていた背景もあり、臣民は軍の行動を支持した。この満州事変の発生でクーデターを10月24日に延期したが、未然に防がれてしまい更に延期。その後は海軍関係者を中心に計画を進め、1932年2月11日の紀元節をクーデター決行日に定めた。のちに五・十五事件の首謀者となる三上卓中尉も加担していたが、決行前に第一次上海事変が勃発した影響で海軍関係者は上海に出征してしまい、やむなく血盟団のメンバーだけで進める事に。2月9日より日蓮宗の僧侶井上日召を首謀者とした要人殺害クーデター(血盟団事件)が発生。民政党員で元蔵相の井上準之助を射殺し、3月5日には三井合名社の団琢磨理事長が殺害された。その他ターゲットとして犬養首相、元老の西園寺公望、貴族院議長の徳川家達、前内閣総理の若槻礼次郎等も含まれていたが、関係者からの密告ですぐさま首謀者が突き止められ、日召は弁護士の説得を受けて3月11日に警察署へ出頭した。首謀者と共犯者、実行犯2名が逮捕されたが、政界に恨みを持っていた臣民からは30万に達する減刑嘆願書が裁判所に届き、首謀者と実行犯には死刑ではなく終身刑が、共犯者には懲役3~15年が言い渡された。こうして五・一五事件の前段階とも言うべき血盟団事件は幕を下ろした。

事件が終わった頃、上海事変に参加していた海軍関係者が帰国してクーデターの失敗を悟った。藤井大尉は「後を頼む」と言い残して中華民国軍との戦闘で戦死しており、また戦死者が多数出たにも関わらず勲章すら与えられない冷遇から政府への不満が爆発。古賀清志中尉と三上卓中尉が中心となって海軍関係者は再びクーデターを起こそうと画策し、陸軍の将校や民間農家中心の愛郷塾と結託する。政府要人を暗殺するとともに主要銀行の機能を失わせ、変電所を襲撃して東京に大停電をもたらす。その間に共産主義者、暴徒、無政府主義者に暴動を起こさせて混乱の渦に叩き落とした後、農家出身の軍人が70%を占める新政権を樹立する計画を練り上げた。軍艦妙高乗員の三上卓中尉を中心とした海軍士官10名、陸軍士官候補生11名、愛郷塾の構成員からなる決起軍が結成。彼らは右翼国粋主義者の大川周明、本間憲一郎、頭山秀三から武器と資金援助を受け、決起の時を待った。

襲撃計画は第五次まで練られ、中には来日する喜劇王チャップリンを暗殺して日米関係を悪化させるというものまであった(来日の日程が分からなかったのでお流れになっている)。ただ5月15日に首相官邸で行われる食事会に出席する予定であり、もしチャップリンが体調不良で欠席していなければ襲撃の現場に出くわしていた。

5月15日

1932年5月15日は、とても晴れ渡った日曜日だった。海軍士官6名、陸軍士官候補生11名、血盟団残党や元軍人などを加えた総勢19名の決起部隊は三班に分かれ、一班は首相官邸及び日本銀行の襲撃、二班は牧野伸顕内大臣邸の襲撃、三班は立憲政友会本部を襲撃する手はずとなっていた。各方面の襲撃を成功させた後、全班は合流。警視庁と変電所を制圧して東京を掌握し、軍事政権を樹立させる事が最終目的だった。

17時27分頃、海軍の青年将校4名と陸軍の青年将校5名が自動車2台で首相官邸に乗り付けた。彼らは二手に分かれ、表門と裏門から銃を乱射しながら突入。首相警備の田中五郎巡査と平山八十松巡査が兵士を押し留めようとしたが逆に重傷を負い、うち1名が死亡した。軍靴のまま官邸内に押し入り、食堂で食事していた犬養首相を発見。まさかこんな所で出くわすとは思っていなかったのか、三上中尉は銃に弾が装填されていない事を忘れて引き金を引こうとし、不発に終わる。慌てて胸ポケットから銃弾を取り出そうとする三上中尉とは対照的に犬養首相は突然の襲撃にも動揺せず、「まずは理由を聞こう。撃たれなければならない事があるのなら、その時に撃たれよう」と一番奥の応接室に青年将校一団を案内した。そして「乱暴な真似をするな、靴ぐらい脱いだらどうだね?お互いに話せば分かることだ」と冷静に話しかけた。だが三上中尉は「問答無用、撃て!」と叫び、腹部と頭部に銃弾が撃ちこまれた。犬養首相は地面に倒れ、タタミが鮮血で染まる。コメカミを撃ち抜かれるという即死に近い深手だったが、しばらく息があった。騒ぎを聞いた女中が駆けつけると、「撃った男を連れて来い、よく話して聞かせるから」と説得を試みたという。しかし願いむなしく三上中尉は戻ってこず、その日の23時36分に亡くなった。決起部隊は荒々しく部屋を後にし、待たせていた自動車に分乗。警視庁を襲撃して窓ガラスを割り、日本銀行へ手榴弾を投げつけて敷石の一部を破壊。その後、憲兵隊に自首。

同じ17時27分、二班は牧野内大臣邸を襲撃。門前の警備員を負傷させ、ビラと手榴弾を投げ込んだが、たまたま不在だったため牧野内大臣は無事だった。速やかに引き上げると警視庁を襲撃し、銃を乱射して退散。2名が負傷している。その後、麹町の憲兵隊本部に自首。

三班は17時30分、立憲政友会本部に到着。手榴弾を投げて玄関を破壊した。その後、他の班同様に麹町の憲兵隊本部に自首した。

民間の血明団残党も呼応し、四班として出発。19時に川崎長光が家に押し入って西田税陸軍予備少尉に銃弾を浴びせて重傷を負わせた。西田も血盟団のメンバーだったが決起に消極的だったため始末されそうになった訳である。20分後に三菱銀行前で手榴弾を投擲。外壁に損傷を与えた。また決起した農民が都内6ヶ所の変電所を襲ったが、電気に関する知識が無かったため設備を一部破壊した程度に留まり、停電は起こらなかった。

主力が全て自首したため、クーデター事件はその日のうちに終息。しかし警察は更なるクーデターを警戒し、1万人を動員して徹夜で警戒に当たった。血盟団残党や愛郷会などの民間人はしばらく逃げ回っていたが、11月5日までに全員逮捕された。

結果

事件後の1933年7月24日より海軍側の裁判が始められ、1934年2月3日までに決起将校全員の刑が確定。しかし、いずれも非常に甘い判決が下された。主犯格には死刑が求刑されたものの、結局全員が禁固刑で済んでいたのである。これは軍の仲間たちが助命嘆願をした事、満州事変から一方的に敵対視してくるアメリカや失政を重ねる政府に臣民が怒りを抱いていた背景があった。裁判官の机の上には毎日のように届く減刑嘆願書が山積みになっていたとの記録が残っており、その合計は血盟団事件を遥かに超える100万通以上。東郷元帥や検察官は「殺人を犯しているのだから、動機など問わずとも厳罰に処するべき」「海軍刑法に照らし合わせれば反乱罪になるので、死刑が相応」と主張していたが、裁判官が減刑を求める強い世論に流されてしまった。

犬養首相が凶弾に斃れてしまったため、速やかに後任の首相を任命する必要があった。1924年に定められた「憲政の常道」によれば、与党(立憲政友会)の後継党首が首相になるという事で鈴木喜三郎が首相に就任するはずだった。ところが「五・一五事件の原因は犬養首相の失政ではないか」という見方があった。世論は決起将校に同情的であり、軍部もまた擁護する論陣を張った。四方八方から政府の腐敗を非難する声を受け、「殺されたのは犬養首相にも問題があったから」と認めた元老の西園寺公望は政党政治の継続を断念。人格者である元海軍大将の斎藤実を次期総理大臣に推進し、軍の圧力も手伝って与党も野党も全て内包した挙国一致内閣が成立。政党政治の時代は終止符を打たれ、終戦を迎えるまで復活しなかった。こうしてゴーストップ事件と並んで政界において軍部が強権を握る土台が作られていった。またこの事件を境に「一国の首相を殺害しても大儀があれば許される」という考えが芽生え、のちの二・二六事件へと繋がって行く事になる。

国家転覆と新政権樹立を企てたトンデモないクーデター事件なのだが、決起の理由が私利私欲ではなく虐げられていた臣民のためという事もあり、彼らから支持を得ていた。もし成功していれば新政権は受け入れられていたと思われる。つまり苦しむ民の声を聞いていたのは政府ではなく軍部だったと言えよう。クーデター自体は失敗に終わったとはいえ臣民の国家改造を望む声は引き続き聞こえ、出版界隈における右傾化や右翼団体の続出にも繋がった。軍のクーデターを恐れるようになった政界は、ある程度軍の意向を汲み取れる人物が無選挙で入閣できるようにしている。

山口多聞提督の遺品の中に、五・一五事件に参加した将校全員の顔写真が掲載された新聞があった。よく見ると、彼らの顔写真には丸眼鏡やヒゲを付け足す落書きがされていた。おそらく山口提督は五・一五事件に否定的だったものと推測される。

関連項目

  • 日本史
  • 歴史
  • 二・二六事件
  • クーデター
  • 令和の五・一五事件

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