小林可夢偉(Kamui Kobayashi,1986年9月13日-)とは、BMWザウバー所属の日本人F1ドライバーである。
TDP(トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム)の支援のもと、2004年にフォーミュラ・ルノー2.0イタリアシリーズにに参戦しランキング7位。翌2005年はイタリアシリーズとユーロシリーズを戦い両シリーズともチャンピオンに輝いた。このダブルタイトルは2000年マッサ以来となる快挙である。
2006年、2007年はユーロF3に参戦。2007年11月にトヨタF1チームのサードドライバーに起用されることが決まった
2008年からはGP2に参戦。アジアシリーズ、マレーシアGPで日本人初優勝を挙げ、さらにメインシリーズ、第1戦スペインGPレース2でも日本人初優勝を挙げた。
2008年-2009年シーズンのアジアシリーズで見事チャンピオン獲得。F1直下カテゴリーで日本人で初のチャンピオンが誕生した。しかし、期待されたメインシリーズでは大苦戦。結果が出ずレースキャリアが危機に瀕したが可夢偉に大きな転機が訪れる。
トヨタF1チームの地元となる日本GPで、正ドライバーのティモ・グロックが風邪により金曜日で走れなくなる。チームはその代役に可夢偉を任命。可夢偉はFP1が始まる2時間前に知らされたそうだ。久しぶりのF1ドライブとなった可夢偉だったが落ち着いてプログラムを消化。土曜日はグロックが復帰したため可夢偉の役目は終えた。
しかし予選Q2でグロックが最終コーナーを曲がれず壁に激突。担架で運び出され、足を負傷。結局決勝は棄権せざるを得なくなってしまう。その後の精密検査で脊髄に損傷が判明。チームは大事を取ってグロックを休ませ、次戦ブラジルGPは可夢偉が代役で週末を走ることになった。
ブラジルGPの予選は大雨により何度も中断される状況の中、可夢偉は予選11位と奮闘。この予選はチャンピオン争いを演じるバトンとベッテルに試練を与え、バトンは14位、ベッテルは15位からスタートすることになった。
決勝はスタートからSCが出る波乱の展開。レース再開後、可夢偉にとっては苦しいレースを強いられる。すぐ後ろにバトンが迫り、1コーナーで何度もプレッシャーを受ける。しかし可夢偉は冷静に対処し続ける。しかし18周にも渡るバトルはバトンに軍配。さらに翌周、今度は同じ日本人同士の中嶋一貴とバトル。ピットストップを交えたバトルは接触という形で終えてしまう。可夢偉がピットアウト直後のストレートで中嶋が可夢偉のテールに付くが2人とも同じライン変更してしまい中嶋はフロントウイングを大破。そのままタイヤバリアまで直進してしまいリタイア。可夢偉もその後ペースが上がらず、入賞まであと一歩の9位という結果に終わった。レース後、バトンは可夢偉のブロックに相当腹が立ったようで、ドライバーズミーティングの議題に上げるアクションを起こしたものの、結局誰からも相手にされなかった。
次戦のアブダビGPも可夢偉が出走。予選こそドライでの初アタックだったため12位に終わったものの、決勝では見事なレースを見せる。途中でピットアウトしたバトンとバトルを演じ、ブラジルでのお返しとばかりにバトンをヘアピン後のストレートエンドでオーバーテイク。その後も快調なペースで走り見事6位入賞、しかもチームメイトのトゥルーリ(7位)の上でフィニッシュした。この走りは瞬く間に世界中に広がり、全世界のファンが選ぶ“マン・オブ・ザ・レース”に2戦連続で選ばれ、さらにバトンをかわしたシーンが“ベストオーバーテイク”の投票で1位になるなど、可夢偉の走りに感銘を受けた人が多かった。この走りなら誰もが可夢偉がトヨタの正ドライバーになるであろうと思った・・・。
しかしトヨタはリーマンショックによる不況のあおりを受け、予算削減せざるを得ない状況となってしまい、11月4日、トヨタが緊急記者会見を開き、F1から撤退すると発表した。可夢偉からすると得たはずのシートが突如無くなってしまい、将来が不安視されてしまう状況。しかしそんな可夢偉に救いの手を差し伸べたのがペーター・ザウバーであった。ザウバーはBMWが撤退したため、チームを買い戻しドライバーを探していた。交渉はトントン拍子に進み、可夢偉は晴れてBMWザウバーのフルタイムドライバーとして出迎えられた。ザウバーによると可夢偉が初めてスポンサーやメーカーの後ろ盾無しでシートを得た日本人だそうだ。
こうして可夢偉はF1への第一歩を踏み出したのであった。
BMWザウバーの2010年マシンC29は、2009年のBMW撤退に伴って、ギアボックスとエンジンをフェラーリから供給してもらうこととなった。テストこそ驚異的なパフォーマンスを見せたものの、シーズン開幕以来4戦連続リタイアと苦難の幕開けとなった。周回を重ねることもままならなかったため、データ収集ができずマシンのアップデートにも苦しんだ。
しかし、第4戦中国GPからチームに加わったジェームズ・キーの懸命なアップデートにより、第7戦トルコGPで10位入賞を果たした。以後、第9戦ヨーロッパGPでは7位入賞に加え、アロンソやブエミを残り数周のうちにオーバーテイクするという見事なパフォーマンスを見せた。また、続く第10戦イギリスGPでは6位入賞、第12戦ハンガリーGPではチームメイトのペドロ・デ・ラ・ロサと共に9位入賞、第13戦ベルギーGPで8位入賞を果たした。
第14戦シンガポールGPではタイヤが終わってしまいリタイヤを喫したが、続く第15戦日本GPでは、スタートから荒れた展開の中7位入賞を果たした。順位こそ今期最高位とはならなかったものの、ヘアピンでの怒濤のオーバーテイクは世界から大絶賛を受けることとなった。ハイメ・アルグエルスアリを2度目にアウト側からオーバーテイクした際の接触の影響で、サイドポンツーンやディフレクター、フロントウィングの損傷を受けたが、その後も驚異的なパフォーマンスを見せ、自己ベストを何度も塗り替え、終わってみればヘアピンで5回のオーバーテイクをしていた。レース後にはBBCの独占インタビューを受け、エディー・ジョーダンやマーティン・ブランドルから絶賛を受けた。
チームは興行収益の分配などの配慮が不要となったため、名称を「ザウバーF1チーム」と改める。
メインスポンサーとして、メキシコの大富豪として知られるカルロス・スリム率いるテルメックスグループが付き、資金面での不安が無くなった。
チームメイトとして、テルメックスグループがスポンサーとなっている新人、セルジオ・ペレスが加わった。
マシンはジェームス・キー設計のC30となり、C29とは異なって完全な形での設計、開発が行われた。
開幕前のテストではBMW時代以来となるKERSのトラブルがあったものの、順調にテストをこなした。
開幕戦のオーストラリアGPでは、他のマシンよりもタイヤに優しい特性を活かし、ペレスは1ストップ、可夢偉は2ストップを敢行して、可夢偉は8位、ペレスは7位で完走した。しかしリヤウィングのフラップの湾曲が規定よりも急だったため、レース後に失格となってしまう。
しかし第2戦マレーシアGP、第3戦中国GPと、可夢偉は着実に入賞圏を走り、連続入賞(7位、10位)を果たす。この2レースではトップチームのドライバーとバトルする展開もあり、国際映像でもたびたび放映された。
第6戦モナコGPでは予選13番手からスタート。ここからチームの1ストップ作戦と可夢偉のドライビングとが見事にはまり、一時は表彰台圏内を狙える位置にまでジャンプアップする。終盤に赤旗中断などを挟みマージンが無くなったところをマーク・ウェバーにオーバーテイクされたものの、モナコGP日本人最高位、そして自信最高位の5位でフィニッシュした。
今宮純によると、可夢偉は日本人で初めてマクラーレンのリストに乗ったそうだ。
可夢偉の実家が寿司屋であるため、しばしばネタにされることがある。本人も実際、シートが無ければ寿司屋に修行するとメディアに語ったほど。ただ本人はエビアレルギーを持っているため、板前になりたくてもなれないのだという。
可夢偉が子供の頃に憧れていたドライバーはアイルトン・セナだったという。そしてF1に来た今、可夢偉のトレーナーを務めるヨゼフ・レベーラーはそのセナのトレーナーだった。
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最終更新:2025/12/07(日) 04:00
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