小林繁(1952年11月14日~2010年1月17日)とは、読売ジャイアンツ、阪神タイガースに所属していた元プロ野球選手である。
当初はジャイアンツにて若きエースとして活躍していたが、江川卓と読売ジャイアンツが引き起こした「空白の一日」及び「江川事件」によって阪神タイガースにトレードされ、一躍悲劇のヒーローとして持て囃された。
| OB | |
|---|---|
| 小林繁 | |
| 基本情報 | |
| 出身地 | 鳥取県東伯郡赤碕町 |
| 生年月日 | 1952年11月14日 |
| 身長 体重 |
178cm 68kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1971年 |
| 引退 | 1983年 |
| 経歴 | |
選手歴
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| プロ野球選手テンプレート | |
高校卒業後、関西大学に進学を目指すもスポーツ推薦枠が消滅したことで失敗。知り合いの紹介により大丸に入社して野球を続けることとなった。
71年、小林はいくつかの球団から注目されるようになるが、都市対抗野球に出場して自分を拾ってくれた大丸に恩を返すためプロには入らないことを宣言する。しかしこの年のドラフトで巨人が6位で小林を指名、交渉権は1年間有効のため、小林は翌72年の都市対抗野球に出場し、大会終了後に契約を結んだ。
73年に巨人に入団すると、74年に8勝5敗2セーブ、防御率2.42の成績で1軍に定着している。
75年は前年よりもやや成績を落とし、さらに練習態度等を巡ってコーチの杉下茂と対立して一時は引退を考えたが、高橋良昌の説得を受けて杉下に謝罪し、真剣に野球に打ち込むようになった。
76年には18勝8敗2セーブの大活躍で優勝に貢献し、10月16日の広島戦では巨人がリードした6回から登板して4回を零封に抑えて胴上げ投手となっている。
77年も18勝8敗7セーブ、防御率2.92という成績で2年連続の優勝に貢献し、主要投手タイトルは逃したが、沢村賞を受賞した。
しかし78年オフ、巨人が「空白の一日」を利用して江川と勝手に契約を結んだことから小林の人生は一変する。
時はさかのぼり1977年のドラフト会議、江川卓はクラウンライターライオンズから1位指名を受けるが、巨人を熱望していた江川はこれを拒否する。(当時のドラフトは変則ウェーバー方式)
その後江川は「大学から社会人野球に入った場合、最低2年間はプロ野球の球団に入団できなくなる」というペナルティを避けるため「作新学院職員」という身分でアメリカへ野球留学を行う。
しかしライオンズとの交渉権が消滅する78年11月20日に江川は突如帰国し、翌21日にはなんと巨人と入団契約を交わしたことを発表する。所謂「空白の一日」と呼ばれた出来事である。
ライオンズと江川の交渉権は11月20日をもって消滅する
↓
ドラフト会議は11月22日に行われる
↓
つまり11月21日の時点で江川とは、自由に交渉できる
ハァ?と思われた画面の前のあなた。あなたの反応が普通です。
当然ながらこんな荒唐無稽な主張が受け入れられるわけもなく(そもそもこんな主張を認めればドラフト会議なんてまるで意味を成さない)、セントラルリーグ会長の鈴木龍二によってこの契約は無効とされ、22日のドラフト会議はボイコットした巨人を除く11球団で通常通り行われ、江川の交渉権を阪神タイガースが獲得。これに対し、巨人は巨人抜きのドラフト会議は無効だとコミッショナーの金子鋭に提訴した。
12月21日、金子は巨人の提訴に対し「巨人と江川の契約は無効」「ドラフト会議は正当」だとして巨人の主張を退けた。この裁定はマスコミ、世論から拍手喝さいを浴びた。
しかし12月22日、金子は、この日行われたプロ野球実行委員会にて「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む、キャンプ前の1月31日までにまとめよ」という旨の「指令」を出す。野球協約ではドラフト会議で独占交渉権を得た選手に対してトレードを前提とした交渉は禁止されており、また新人選手のトレード自体開幕前日まで禁じられているのだが、金子はそれを承知で「今回だけの特例」としたのだった。
金子が実行委員会でこの「指令」を持ちだした際、当時日本ハムの球団社長の三原脩が「そんな指令を出したら我々も同罪・・」と言いかけたところで「あんた!私が今言ったこと分かっているのか!」と高圧的な態度で発言を封じたという。 前日の裁定から一転したこの「指令」は世論やマスコミの激しい非難を浴びることになる。
金子は12月26日、都内の自宅にてマスコミの取材に答え「あれは指令ではなくて要望だ」と発言を交代させる。後に金子は、先の実行委員会において、他の出席者への高圧的な態度をとった自分の非を認めている。
巨人は12月27日、江川との契約を解除したと発表。1月に入り、江川はドラフトで交渉権を得た阪神と4度交渉するも、あくまで巨人入りを主張したため話は平行線をたどった。
1月31日、江川と阪神は午後3時に契約を交わしたと発表。阪神はその後セ・リーグに対し江川との契約書を提出し、巨人と江川のトレードを交渉。そして2月1日深夜12時過ぎに、小林と江川のトレードが成立したと発表。小林は巨人の春季キャンプへ向けて羽田空港にいたのだが、球団職員に呼びだされ、紀尾井町にあるホテル・ニューオータニにてトレードを告げられる。
小林は2月1日午前0時すぎ、読売新聞本社にて記者会見を行い、巨人への恨み言は言わず、「世間の人はかわいそうと思うかもしれないが、向こうに行ってからの仕事で判断してほしい。」「同情は買いたくない」とキッパリした態度で臨み、一躍「悲劇のヒーロー」として世間から持ち上げられるようになる。
2月8日、プロ野球実行委員会が開かれ、冒頭で金子は自らの強い要望を全面的に撤回、実行委のメンバーから、江川と小林のトレードは野球協約に違反するので無効とする。その上で①小林を阪神へトレード②江川のトレードは開幕日4月7日まで認めないーとの案を承認。また、巨人は江川を開幕から2か月出場を見合わせると発表。野球協約上のつじつまを合わせる形でようやく収拾した。
キャンプでは小林の姿を一目見ようと1万人を超える観客やマスコミが殺到し、所謂「小林フィーバー」を巻き起こす。
シーズンでは4月10日の巨人戦に登板し、7.1回を投げて12安打を浴びながらも3失点(自責点2)に抑え、若菜嘉晴、ラインバック、中村勝広らのホームランもあって無事勝利を挙げると、以降巨人戦では8連勝を記録。
この年阪神は4位だったが、小林はリーグ最多の273.2回を投げて22勝9敗1セーブという成績で最多勝を獲得し、さらに2度目の沢村賞に選ばれている。
翌1980年8月16日には巨人戦で初めて江川卓と投げ合ったが、小林は江川自身にもタイムリーを浴びるなどして5回4失点で降板し、試合は8回を3失点に抑えた江川の勝利となった。この試合後小林は「僕の野球人生における煩わしいことが、これで終わった。」と語った。
82年の開幕戦では金田正一以来30年振りとなる敬遠サヨナラ暴投をする波乱の幕開けとなり、最終的に移籍以来最少となる11勝に終わると、翌83年シーズン前には「15勝出来なかったらユニフォームを脱ぐ」と宣言。
その宣言通り翌83年は13勝に終わると、本当に現役を引退してしまった
引退後は高い知名度と男前な容姿を生かしてキャスターとして名を馳せる。
それまでの佐々木信也らと違い、番組の進行と解説の両者を同時にこなすタイプは小林が初めてであり、特に投手心理を巧みに表現した解説が好評で、現役時代よりも収入を得ていた。
しかし1995年、「さわやか新党」の候補者として参院選に立候補するも落選し、党の得票率は1%に満たなかったため、供託金は没収され、選挙によって金銭面で困窮し、さらに不動産事業などの悪化もあって借金まで背負うことになる。
97年に近鉄バファローズの1軍投手コーチに就任。99年から2軍投手コーチとなるが、2000年に梨田昌孝が監督となると1軍投手コーチに復帰し、小林と梨田、そして打撃コーチの真弓明信で「近鉄男前3人衆」として売り出される。
2001年に近鉄は優勝を達成するが、チーム防御率は4.98と振るわなかったため責任を取ってコーチを退任する。
2003年に自己破産を申請。
2007年、長年言葉も交わすことがなかった江川卓と「黄桜」のCMにて共演し話題を呼ぶ。
当初はオファーを拒絶していたが、江川が「小林さんさえよければ」とのコメントしたため出演し、二人は和解した。
小林は江川については
江川個人に対する恨みつらみはない。ただ、他人の人生を変えてしまったことは、まぎれもない事実です。
(江川は)価値観の違う人間なんだと思っています。自分がこうしたいという望みがあるときに、それは自分の手でつかむものであって、何かを踏み台にしたり、誰かを犠牲にしたりして得るものではない、というのが本質的に僕の考え方だから。だから、僕には彼がまったく異質な人間としか思えない。
あのときのバッシングによって、彼も苦しみを味わったんだと言う人がいる。でも、それは自分が前向きに選んだことでしょう。
だから本人(江川)は、そういう覚悟の上で、やらざるを得ないでしょう。そこでバッシングを受けたから可哀想なんじゃなくて、彼の立場からすれば、それは甘んじて受けるという覚悟で入らなければいけない。初めから、そうなるのはわかっていたことでしょう。
といったコメントを残している。
2007年にSKワイバーンズの2軍投手インストラクターに就任。
2009年には近鉄時代に共に戦った梨田昌孝が監督を務める日本ハムファイターズの2軍投手コーチに就任し、江尻慎太郎や糸数敬作を指導してサイドスローに転向させている。
手腕が評価されたのか、2010年は1軍で投手コーチを務めることが内定していたが、キャンプを間近に控えた1月17日に福井県内の自宅で倒れ、同日心不全のため亡くなった。
| 通算:11年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 374 | 96 | 19 | 139 | 95 | 17 | -- | .594 | 2029.1 | 540 | 1273 | 836 | 718 | 3.18 | 1.16 |
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最終更新:2025/12/10(水) 09:00
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