新自由主義(英:Neoliberalism)とは、思想・信条の一類型である。
市場原理主義(英:Market fundamentalism)と批判者に呼ばれることがある。
新自由主義について辞書に記載されている定義は次の通りとなっている。
政府の規制を緩和・撤廃して民間の自由な活力に任せ成長を促そうとする経済政策。
-知恵蔵(朝日新聞出版)より引用-
政府などによる規制の最小化と、自由競争を重んじる考え方。規制や過度な社会保障・福祉・富の再分配は政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げると批判。市場での自由競争により、富が増大し、社会全体に行き渡るとする。ネオリベラリズム。
-デジタル大辞泉(小学館)より引用-
新自由主義者は政府の権力を弱体化させるのを好み、小さな政府を理想とする。政府の経済への介入を徹底的に嫌い、市場原理(market principle)や競争原理(competition principle)に委ねれば上手くいく、と力説する。
政府による雇用創出・社会保障・労働規制を敵視し、「政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げる」と批判する。
新自由主義者の一部は「政府の権力を強くすると全体主義になる。戦前戦中の軍国主義日本やナチス・ドイツやソ連や北朝鮮や毛沢東時代の中国のようになる」というふうに全体主義への恐怖心を煽りつつ自らの主張を述べることがある。
新自由主義者の一部は、官僚を叩いて民間企業を褒め称えることに熱心である。そういう姿は民尊官卑と評される。
「身を切る改革」と称して公務員の給料を引き下げる緊縮財政を支持する傾向にある。公務員の給料を引き下げることで優秀な人材が民間企業へ流れるようになり、官公庁の士気と実力が低下する。
新自由主義者は「改革」という好ましいイメージが付着した言葉を使って自らの支持する政策のイメージを向上させる傾向がある。緊縮財政のことを構造改革とか行政改革とか財政改革とか「身を切る改革」と呼ぶ。
新自由主義者は、公務員の給料を引き下げるだけでなく、官公庁や地方公共団体の人員を削減してマンパワー(人手)を削減することも好む。そうした状態を「小さくてスリムで賢い政府」などと賞賛する。
新自由主義者が主張するとおりに政府の人員を極限まで減らし、「一切の無駄がない小さな政府」にすると、コロナ禍のような有事に対する対応力が急激に低下する。「平時の無駄は有事の余裕」という格言が示すように、無駄をそぎ落とした状態の政府は有事に対してとても脆弱になる。
新自由主義者は、有事が全く発生せず平時が永遠に続くことを大前提として緊縮財政と小さな政府を構想していて、一種の平和ボケというべき考え方をしている。こうした新自由主義者の姿は、新・平時主義とか新・平和主義と表現することができる。
新自由主義が主導権を握る国では政府の予算が減らされて政府が人手不足になる。そのため政府がボランティア頼みとなり、民間人をタダ働きさせることが恒例となる。政府高官が「皆さんの協力がないと○×というイベントが成功しません」と宣言し、民間人の「自分たちが協力しないと○×というイベントが失敗してしまう。もし○×というイベントが失敗したらそれは自分たちのせいである」という責任感や罪悪感を刺激し、民間人の労務を無料で享受し[1]、やりがい搾取を行っていく。
政府のそういう姿を見て、ブラック企業の経営者が「我々も政府の真似をしよう」と考えるようになり、従業員に向かって「君たちのサービス残業がないと会社が倒産します」と宣言し、従業員の「自分たちがサービス残業しないと会社が倒産してしまう。もし会社が倒産したらそれは自分たちのせいである」という責任感や罪悪感を刺激し、従業員の労務を無料で享受し、やりがい搾取を行っていく。
新自由主義の国では政府が率先垂範してブラック企業に手本を示すので、国内のブラック企業が大いに勇気づけられて勢いよく躍動する。このため新自由主義は新・ブラック企業主義と表現することができる。
新自由主義者は「官から民へ」「民間でできることは民間に」という合言葉を好み[2]、政府が手がける官営事業をことごとく民営化することを好む。税引後当期純利益の追求を第一としない官営事業団体から、税引後当期純利益の追求を第一とする民営企業に変貌させようとする。
新自由主義者は「政府というものは民間企業と同じような存在であり、利益追求をしなければならない」という信条を持っている。このため「官営事業は不採算部門そのものであり、政府の利益を食いつぶしていて、赤字垂れ流しの状態なので[3]、官営事業を削減するのが当然のことだ」と主張する。ちなみに、そうした主張に対して「政府というものは民間企業と全く異なる存在であり、利益追求をするのではなく公益追求をすることを義務づけられている。官営事業は公益の拡散装置である」という反論が寄せられることがある。
「政府は企業と全く異なる存在である」ということを決して認めようとせず、「政府は一種の民間企業であり、利益追求や黒字化を目指さねばならない」と主張して政府と企業を同一視し、政府に対して民間企業の感覚を持つことや民間企業と同じ行動をすることをひたすら要求する新自由主義者の姿は、新・企業主義と表現することができる。
官営事業の中には低技能労働者を大量に雇用して安定した待遇を与える部門があり、低技能労働者を雇用して過酷な待遇を与える民間ブラック企業が出現しにくいようにしている。つまり官営事業には「世の中の労働待遇を維持する装置」「労働規制装置」「民間ブラック企業の出現を抑制する装置」「民間ブラック企業を漂白する装置」という一面がある。官営事業を民営化することで、低技能労働者を雇用して過酷な待遇を与える民間ブラック企業が出現しやすいようになり、雇用情勢の悪化、つまり賃下げと長時間労働の蔓延が進んでいく。
新自由主義者の言うとおりにして官営事業を減らして低技能労働者の雇用を減らすと、企業の経営者が低技能労働者に向かって「君のような低技能労働者を雇ってあげる企業は、我が社の他には数えるほどしか存在しない」と威圧的に接することができるようになり、労働者に無理難題を押しつけやすくなり、パワハラ(パワーハラスメント)を楽しむことができるようになる。
政府が官営事業を興して労働者に直接的に賃金を支払うと、その官営事業が立地する地方において「官営事業よりも賃金を多めにしないと官営事業に人が流れてしまう」と考える民間企業が増えて、民間企業労働者の賃金が官営事業労働者の給与水準付近まで上昇する流れになる。
新自由主義者の言う「民間でできることは民間に」という標語のとおりにして、政府が官営事業を廃止して民間企業に事業を委託しつつ民間企業に対して一切干渉しない状況にすると、民間企業がピンハネ(中間搾取・中抜き)に励むようになり、5次下請けとか8次下請けといった多重請負[4]の状況に発展する。労働者を極めて低い賃金で働かせるブラック企業が非常に安い金額で仕事を請け負った時点でやっと多重請負が止まる。ブラック企業が暗躍する社会になり、世の中の民間企業労働者の賃金が下がっていく。
官営事業団体の長所というのは、世の中の労働者に給料の確実性・安定性を与えるところである。官営事業団体に雇われた労働者が安定した生活を送るようになり、官営事業団体と労働者を奪い合っている民間企業が「我々も労働者の待遇を安定させよう。さもないと官営事業団体に労働者をすべて奪われてしまう」と考えるようになる。
官営事業団体の短所というのは、民間企業に比べて比較的にコスト意識・効率化意識が低く、進取の精神が比較的に薄く、サービス精神も比較的に低いところである。
一方で民間企業の長所と短所は官営事業と全く逆となる。民間企業の長所は官営事業に比べて比較的にコスト意識・効率化意識が高く、進取の精神が比較的に濃く、サービス精神も比較的に高いところである。民間企業の短所は「人件費を削減して税引後当期純利益と利益剰余金を作り出そう」という欲が強く、労働者の待遇を悪化させたがる癖があるところである。
官営事業団体と民間企業の違いを表にまとめると次のようになる。
| 民間企業 | 官営事業団体 | |
| 長所 | コスト意識・効率化意識が高く、進取の精神が濃く、サービス精神が高い | 労働者の待遇を向上させる労働規制装置である。労働市場で労働者を奪い合っている民間企業に「労働者の待遇を向上させないと官営事業に労働者を奪われてしまう」と考えさせ、民間企業の労働者待遇の向上に貢献する |
| 短所 | 労働者の待遇を悪化させて人件費を削減し、税引後当期純利益や利益剰余金を稼ごうとする傾向がある | コスト意識・効率化意識が低く、進取の精神が薄く、サービス精神が低い |
新自由主義は「倒産しにくい企業」を理想視するところがある。つまり「税引後当期純利益を叩き出して利益剰余金を積み上げて、株主への配当を安定的に行って株式市場における株価を上昇させて、株式市場での資金調達を順調に行って自己資本比率を高める企業」を理想視するところがある。
そういう企業を創出するための最も手っ取り早い方法は、世の中の賃下げを進めることである。企業にとって人件費こそが巨額の費用であり、税引後当期純利益を引き下げる大きな要因となっているからである。
世の中の賃下げに対して障害となるのは官営事業である。このため新自由主義者は官営事業を敵視し、「官営事業はコスト意識・効率化意識が低く、進取の精神が薄く、サービス精神が足りない」などと表現して官営事業の短所だけに人々の意識が向くように誘導し、「官営事業は労働者の待遇を向上させる労働規制装置である」という官営事業の長所に人々の意識が向かないように努め、ひたすら官営事業を削減しようとする。
新自由主義者は小さな政府を理想視しており、政府に対して厳しい態度で臨む。しかし、新自由主義者の中にも例外があり、自衛隊・海上保安庁・刑務所・警察・消防といった治安部門に対して特別に優しい態度になる者がいる。小さな政府を志向しつつ治安部門を特別に優遇することを夜警国家という。
自衛官・海上保安官・刑務官・警察官・消防士は、法律によって労働三権[5]のすべてが否定され、労働組合を結成できず[6]、上司が無茶な労働強化の要求をしてきても反抗せずに従う存在である。政府や地方公共団体に直接雇用されて安定した給与を得ているが、世の中の労働組合運動に参加することができず、労働弱化や賃上げの気運を世の中に広めることができない。
自衛官・海上保安官・刑務官・警察官・消防士は政府や地方公共団体に直接雇用されることで給料の安定性・確実性に恵まれているので、その部分は新自由主義者にとって気に入らない。しかし自衛官・海上保安官・刑務官・警察官・消防士は労働組合を作らないので、その部分は新自由主義者にとって歓迎できる。
ちなみに、新自由主義者が最も理想とする労働者は「給料の不安定性・不確実性に悩まされていて、なおかつ労働組合に参加しない労働者」である。Amazonのように従業員の労働組合結成を妨害する民間企業というものが存在するが[7]、そういう民間企業に勤める労働者が該当する。給料の不安定性・不確実性に悩まされているという部分が新自由主義者にとって素晴らしいことだし、労働組合活動をしないという部分も新自由主義者にとって大歓迎である。
他方で、「自衛官・海上保安官・刑務官・警察官・消防士以外の公務員」や官営事業団体構成員は、労働三権のうち団結権と団体交渉権を認められていて[8]、労働組合を結成することができ、上司が無茶な労働強化の要求をしてきたら労働組合を通じて反抗する存在である。かつての郵便局員や国鉄職員が代表例である。政府や地方公共団体に直接雇用されることで給料の安定性・確実性に恵まれており、そしてなおかつ労働組合の活動をすることができるので、世の中の労働組合活動の先頭に立つことが多く、労働弱化と賃上げの気運を世の中に広める可能性が極めて高い。新自由主義者にとって「理想から最もかけ離れた労働者」であり、新自由主義者にとって永遠の敵であり、不倶戴天の敵である。
以上のことを表にまとめると次のようになる。
| 給料の不安定性・不確実性に悩まされていて、なおかつ労働組合に参加しない労働者 | 政府・地方公共団体に直接雇用されることで給料の安定性・確実性に恵まれているが、労働組合に参加しない労働者 | 政府・地方公共団体に直接雇用されることで給料の安定性・確実性に恵まれていて、なおかつ労働組合に参加する労働者 | |
| 代表例 | 2020年12月以前のGAFA(米国巨大IT企業4社)の従業員 | 自衛官・海上保安官・刑務官・警察官・消防士 | かつての郵便局員、国鉄職員 |
| 国内における労働組合の運動に対して | 「我関せず」「自分には関係ない」という態度をとる | 積極的に参加し、主導していく | |
| 新自由主義者にとって | 理想の労働者 | 半分理想、半分気に入らない | 永遠の敵、不倶戴天の敵 |
新自由主義者にとって、国内の労働組合の活発化を抑え込むことは最大の課題である。夜警国家を採用して治安部門の雇用を増やすことは国内の労働組合の活発化に直結しないので、新自由主義者にとって許容範囲内の政策である。
先述のように、自衛官・海上保安官・刑務官・警察官・消防士というのは新自由主義者にとって「半分理想、半分気に入らない」という存在であるが、反・新自由主義者にとっても「半分理想、半分気に入らない」という存在である。
自衛官・海上保安官・刑務官・警察官・消防士は政府・地方公共団体に直接雇用されることで給料の安定性・確実性に恵まれているので、世の中の民間企業に「我が社も従業員に給料の安定性・確実性を保障しよう。そうしないと労働者が自衛隊・海上保安庁・刑務所・警察・消防に流出する」と考えさせる存在であり、その部分は反・新自由主義者にとって好ましい。しかし自衛官・海上保安官・刑務官・警察官・消防士は労働組合を結成できず、世の中の労働組合活動に参加できない存在であり、その部分は反・新自由主義者にとって好ましくない。
新自由主義の信奉者は緊縮財政の信奉者であり、「身を切る改革」と称して公務員の給料を削減することを好むが、それと同時に国会議員や地方議員の給料(議員歳費)を削減することも好む。
議員歳費を減らすことで、非・富裕層議員にとって政治活動をすることが難しくなっていく。議員歳費が少なくなるので、お金を払って地元民と交流を深めて民意を吸い上げることをとりやめるようになる。知名度を稼ぐためテレビ番組やラジオ番組に出ようとしてみたり、知名度を稼ぐためtwitterなどのSNSで人目を引くような言動をすることに熱中したりして、自分の姿を発信することに精を出すようになるが、民衆からの民意を受信することを怠るようになる。非・富裕層議員たちの間で、「議員とは芸能人のようなものである」といった解釈が広がり、民意を重視する民主主義(デモクラシー)の気運が薄れていき、民意を無視する貴族政治(アリストクラシー)の気運が濃くなっていく。
一方、事業で大成功を収めたビジネスパーソンから政治家に転身した成金議員[9]や、先代からの資産を大量に相続した世襲議員[10]のような富裕層議員は、議員歳費を減らされても簡単に政治活動を行うことができる。
議員歳費をゼロにすると、非・富裕層議員が政治活動を行えなくなる。選挙に立候補して当選しても議員歳費をもらえず極貧の生活に転落することが予測できるので、非・富裕層から選挙に立候補することを誰も行わなくなる。非・富裕層の被選挙権を実質的に制限して富裕層の被選挙権のみを実質的に認める制限選挙になり、典型的な貴族政治(アリストクラシー)になる。
新自由主義者の望むように議員歳費を削ると、成金議員や世襲議員のような富裕層議員ばかりになる。このため新自由主義は新・貴族主義と表現することができる。
ちなみに、非・富裕層議員の長所は、気軽に声を掛けてもらいやすく、民意を吸収する能力が高い点である。「貴人に対して声を掛けることを遠慮し、庶民に対して遠慮せずに声を掛ける」というのが人間に広く共通する性質である。
非・富裕層議員の短所は、チヤホヤされた経験が比較的に少ないので外交の大舞台にやや向かない点である。外交とは相手を王侯貴族であるかのように歓待しつつ相手の心を動かしていくゲームであり、チヤホヤされた経験が少ない者が外交の大舞台に出ると接待で舞い上がってしまって心を大きく動かされてしまう危険がある。
一方、富裕層議員の長所は全く逆で、チヤホヤされた経験が比較的に多く、多少の歓待にも動じないところがあり、外交の大舞台に強いところである。
富裕層議員の短所は、気軽に声を掛けてもらいにくく、民意を吸収する能力が低い点である。
以上のことを表にまとめると次のようになる。
| 富裕層議員 | 非・富裕層議員 | |
| 長所 | チヤホヤされた経験が比較的に多く、多少の歓待にも動じないところがあり、外交の大舞台に強い | 気軽に声を掛けてもらいやすく、民意を吸収しやすい |
| 短所 | 気軽に声を掛けてもらいにくく、民意を吸収しにくい | チヤホヤされた経験が比較的に少なく、歓待されたら舞い上がる危険があり、外交の大舞台にやや向かない |
| 新自由主義の国における存在感 | 議員歳費を減らされても平気で生き残り、存在感を増す | 議員歳費を減らされて、困窮に耐えられずに消滅する |
| 制限選挙の国における存在感 | 存在感を増す | 消滅する |
新自由主義は「倒産しにくい企業」を理想視するところがある。つまり「税引後当期純利益を叩き出して利益剰余金を積み上げて、株主への配当を安定的に行って株式市場における株価を上昇させて、株式市場での資金調達を順調に行って自己資本比率を高める企業」を理想視するところがある。
そういう企業を創出するための最も手っ取り早い方法は、世の中の賃下げを進めることである。企業にとって人件費こそが巨額の費用であり、税引後当期純利益を引き下げる大きな要因となっているからである。
世の中の賃下げに対して障害となるのは「世の中の賃上げの流れを作ってほしい」という民意であり、「世の中の賃上げの流れを作ってほしい」という民意を吸収してくる議員である。このため、新自由主義は民意を敵視する傾向があり、民意を吸収する非・富裕層議員を敵視する傾向がある。
新自由主義の支持者は貴族政治を好み、議員歳費の支給を嫌い、制限選挙を好み、普通選挙を嫌い、「エリートの判断」を好み、民意を嫌うという傾向がある。「制限選挙だったころのA国は栄えていたが、普通選挙を取り入れて民衆の意見を取り入れるようになってから没落していった」などと語るのがおなじみの姿である[11]。
新自由主義を信奉する人の中には、自助論を熱心に説いて回る人が見られる。
新自由主義者の一部は、「自助の精神を持つ人が多いと19世紀の英国のように繁栄する。自助の精神を持つ人が少ないと1970年代の英国のように没落する」と論じて、自助の精神が繁栄の要因であるかのように扱う。そういう姿は新・自助主義といっていいほどで、とにかく自助というものを重視する傾向がある。
新自由主義者の一部は、賃下げによって貧困に苦しむ人たちに対して「自助をするべきだ。他人を当てにするな。公助(政府の支援)は無いものと思え」と発言する傾向がある。
新自由主義者の一部は、低技能労働者が賃下げに苦しむことに対して、自己責任という言葉を使いつつ「努力をせず己の技能を磨かないからだ」と放言する傾向にある。
新自由主義者の一部は、「人は誰もが自助をするべきだ」と人々に自助を義務付けようとしたり、「人なら誰でも自助ができるはずだ」と人々に自助の可能性を指摘したりする。そういう言動を繰り返すことで、自らに課せられた「人を助ける義務」をできるかぎり縮小し、自らに課せられた「他人を助けるために時間とお金と労力を負担する債務」をできる限り縮小しようとする。
新自由主義者の一部は、不幸や退廃に苦しむ人々を見たら目をそむけ、見なかったことにして、幸福感に満ちあふれた楽天的で快活な気分を維持しようとする。そうすることで「人助けすべきという義務感」を削減し、己を助ける自助に集中しようとする[12]。こうした姿は新・現実逃避主義と表現することができる。
新自由主義者の一部は、「他人の援助を必要とする劣った人」を無視したり軽蔑したりしつつ、「他人の援助を必要としない優れた人」を交際相手にしたり尊敬したりして、「他人の援助を必要としない優れた人」同士で群れようとする。そうすることで「他人の援助を必要とする劣った人」のことを完全に忘却して、自分の心に残っている「人助けすべきという義務感」を削減して、己を助ける自助に全精力を集中しようとする。つまり、優れた人と劣った人の2階級に分化する階級社会を本質的に好む傾向がある[13]。こうした姿は新・階級主義ということができる。
新自由主義は「倒産しにくい企業」を理想視するところがあり、「税引後当期純利益を叩き出す企業」を理想視するところがある。そして、企業にとって人件費こそが税引後当期純利益を下げる大きな要因となっているというのが事実である。ゆえに新自由主義者は世の中の賃下げを進めることを志向している。
世の中の賃下げに対して障害となるのは「困っている人を見捨てずに助けるべきであり、そのために賃上げするべきだ」という気運である。新自由主義者はこうした「賃上げして人助けしよう」という気運を敵視しており、「賃下げして人を見捨てよう」という気運が世の中に広まることを願っている。
このため新自由主義者は自助論を宣伝して回る。そして「人はいくらでも自助ができるのだから、賃上げして人助けする必要がなく、賃下げして人を見捨ててもよい」という結論を導こうとする。
新自由主義は、個人の自由を何より優先するリバタリアニズムと掛け持ちして支持する人が見られる。新自由主義は経済思想で、リバタリアニズムは政治思想なので、この2つの言葉は畑違いだが、累進課税を敵視するところなどの共通点がある。
所得税の累進課税を弱体化させ、労働意欲を活発化させ、国内の生産力・供給力を強めるのが大好きである。人々の労働意欲を刺激すること、つまりインセンティブ(刺激)を与えることを優先する傾向があり、「労働意欲至上主義」といった観がある。
また、終身雇用・年功序列の賃金体系を否定して成果主義・能力主義の賃金体系を導入し、労働意欲を刺激しようとする傾向もある。
「累進課税を弱体化させたり年功序列を否定したりして自由競争が過度に突き進むと、貧富の格差が拡大し、格差社会となり、大多数が貧困生活に陥って、ごく少数の人たちが富を独占してしまう」という批判に対しては、「トリクルダウンが発生し、社会全体に行き渡る」と反論する。あるいは、「大金持ちを人為的に作りだし、その大金持ちに国際的な大活躍をしてもらって国内に富を呼び込んでもらえばいい。優秀な大金持ちに経済を引っ張ってもらい、そのおこぼれをコバンザメのごとく拾っていけばいい」と論じる。いずれの主張にも「優秀な人への依存心」を見てとることができる。
また、新自由主義者の一部は「貧困は人を助ける。貧困は人を成長させる。貧困に直面することで労働意欲が増えて人の可能性が呼び起こされる」という趣旨のことを言って、人々が貧困生活に転落すること自体を大いに肯定することがある。そうした姿は新・貧困主義と表現することができるだろう[14]。
「才能を発揮すればするほどガッポガッポと稼げる夢のある社会を作り上げる」「才能を発揮する人に夢を見せる」といったふうに才能や夢という綺麗な言葉を織り交ぜて語りかけ、人々の金銭欲を強烈に刺激する。
新自由主義者の一部は、「累進課税や年功序列によって、頑張った人が痛めつけられている」とか「頑張った人が報われていない現状を変えて、頑張った人が報われる社会を作ろう」とか「頑張る人が足を引っ張られている現状を変えて、頑張る人が足を引っ張られない社会を作ろう」という言い回しを非常に好む。いずれのスローガンも、「自分は頑張っている」と信じている人の被害者意識を強く刺激するものであり、わりと扇情的な言い回しである。
新自由主義者は勤勉を深く愛し、怠惰を激しく憎む。また、論争相手に対して「怠け者」というレッテル貼りをして論戦で優位を得ようとする傾向がある。
人は1日24時間のなかの3分の1にあたる8時間程度を睡眠にあてる生物であり、本質的に「怠惰」を必要とする生物なのだが、論戦に臨む新自由主義者はそのことを都合良く忘れて「自分は勤勉であり全く怠惰ではない」という態度で振る舞う。
新自由主義者は、労働意欲を抑制しようとする人を厳しく批判する傾向がある。「ほどほど」「適度」「無理のない範囲で」という言い回しをする人を非常に嫌い、そうした言葉を発する人に対して「衰退する、ダメになる、発展途上国に追い抜かれる、先進国から脱落する」といった警告をする。そして「とことん」「徹底」「どこまでも頑張る」という言い回しを非常に好む。そうした新自由主義者の言動は、結果として労働者に対する労働強化の鞭となる。新自由主義者が歩くところは労働強化の嵐が激しく吹き荒れる。ゆえに新自由主義は新・労働強化主義と表現することができる。
新自由主義に心酔する企業経営者の一部は全能感・万能感に満ちあふれていて、「意志さえあれば何事も実現できる」と本気で信じ込む傾向があり、従業員に向かって「可能」「不可能はない」「できる」「できないとはいわせない」とパワハラ気味に接する傾向がある。そういう言葉で従業員を労働強化して、会社全体の労働意欲をさらに盛んにさせようとする。そうすると多くの場合で「労働意欲の肥大化」というような状況になり、従業員を疲れさせ、従業員の精神に害を与えることになる。
労働意欲が熾烈になればなるほど、「仕事すればするほど、お金が儲かる」とみんなが思いこむようになり、「休暇を取っている場合ではない、空いた時間をすべて仕事に注ぎ込もう」という仕事中毒(ワーカホリック)の心理状態となり、長時間労働が増えて労働者の余暇が減っていく。新自由主義に染まると仕事中毒(ワーカホリック)と長時間労働が蔓延する傾向にある。このため、新自由主義は新・仕事中毒主義と表現することができる。
仕事中毒(ワーカホリック)と長時間労働が蔓延すると、非婚化と少子化が進んだり、人口が減少したり、消費意欲が減退したり、需要が減ってデフレになったりする。新自由主義が広まるとデフレになるという傾向がある。
新自由主義者に対して「新自由主義者の言うとおりに所得税累進課税の弱体化と労働規制の緩和を実行すると、仕事中毒(ワーカホリック)と長時間労働が増え、過労死やメンヘラが増えてしまう。労働者の生命と健康を守るために所得税累進課税と労働規制は必要である」と抗議すると、新自由主義者の多くは「人には生存本能というものが先天的に備わっている。人というものは過労死やメンヘラになる前に生存本能が自動的に発動し、労働量を自動的に引き下げて、自己の生命と健康をセーブ(保持)するはずである」と反論する。
このように新自由主義者は「人には本能があるはずだから政府の規制など必要ないのだ」という態度を取りがちで、人の本能に対して過大な期待をする傾向がある。そのため新自由主義のことを新・本能主義と呼ぶことが可能である。
新自由主義者は長時間労働に明け暮れて余暇をほとんど持たない労働者を理想の存在とし、短時間労働に恵まれて余暇を十分に持つ労働者を徹底的に嫌う。
新自由主義者は「今度の休日は友人や家族と一緒に○×というお店に行って買い物を楽しむ」のようなフヌケたことをいう労働者を非常に嫌っており、そのような戯れ言(ざれごと)を労働者が言い出さないようにするために様々な工夫をする。
新自由主義者は「長時間労働をしないと日本が国際競争から脱落する!日本が貧しくなる!」と脅す手段を好んで用いる。この手段は多大な労力を必要としないので頻繁に実行することができる。しかし、ただの脅しなので効果は今ひとつである。
新自由主義者は消費税を増税するという手段も好む。この手段は多大な労力を費やして国会で立法しなければならないという短所があるが、効果が抜群であるという長所がある。
消費税を増税して買い物に対して巨額の罰金が発生するようにすれば、多くの人が消費を嫌がるようになり、倹約・節約志向になり、買い物を楽しみにしなくなる。消費税10%の国で110万円の物品を購入すると領収書に「物品100万円 消費税10万円」と記載されるのだが、こういう数字を見る消費者は「消費・需要は悪いことである」という思想を持つようになり、倹約好みの性格に変貌していく。
そうなると「どうせ余暇をもらっても楽しく買い物できないのだから余暇など要らない」という考えが労働者たちの脳裏によぎるようになり、労働者たちが余暇を欲しがらなくなり、労働者たちが長時間労働を唯々諾々(いいだくだく)と受け入れるようになる。消費税によって労働者の性格を「勤勉」で我慢強くて長時間労働に耐えられるものに改造することができる。消費税を増税すると次第に長時間労働を基調とする社会になり、新自由主義者にとって理想の楽園になる。
新自由主義者は「我慢して長時間労働の痛みに耐える労働者」を心から愛する傾向にある[15]。このため新自由主義のことを新・我慢主義とか新・忍耐主義と表現できる。
新自由主義は「倒産しにくい企業」を理想視するところがあり、「税引後当期純利益を叩き出す企業」を理想視するところがある。そして、企業にとって人件費こそが税引後当期純利益を下げる大きな要因となっているというのが事実である。ゆえに新自由主義者は世の中の賃下げを進めることを志向している。従業員に同一の賃金を払いつつ長時間労働を強いることは従業員の時間あたり給料を削減することになり、実質的な賃下げとなる。「我慢して長時間労働の痛みに耐える労働者」を愛して賞賛し、そうした労働者を作り出すのは新自由主義者の務めというものである。
新自由主義者というと「政府の規制や税金を最小限にして自由な経済活動を促進しよう」と言って法人税・所得税・相続税・贈与税を減税するように訴えるのがいつもの姿であるが、消費税に対しては妙におとなしくなってあまり抵抗しないことが多い。新自由主義が盛んな国では消費税が増税されていくという傾向が見られる。このため新自由主義のことを新・消費税主義と表現することができる。
消費税を増税して労働者の「消費と余暇を楽しむ自由」を抑制するのが新自由主義である。英国の小説家ジョージ・オーウェルの『1984年』という作品では「戦争を企画する平和省」「嘘を拡散する真理省」「拷問する愛情省」というものが登場するが、「消費と余暇を楽しむ自由を抑制する新自由主義」というのはそれらと類似した存在である。
新自由主義の信奉者は、成果主義や能力主義を導入した給与体系を支持する傾向がある。成果主義や能力主義を導入した給与体系をごく簡単に表現すると、「優秀で成果を出している人を賃上げして、無能で成果を出していない人を賃下げする制度」となる。
劣った人ほど自己評価が高く、「自分は優秀で能力が高いのでいくらでも成果を出すことができる」と思い込む傾向がある[16]。このため劣った人は、新自由主義者が「成果主義・能力主義を導入して優秀で成果を出している人を賃上げする」と語ると「自分が賃上げされる」と信じ込んで大喜びする傾向があり、新自由主義者の口車に乗る傾向がある。
優秀な人ほど自己評価が低く、「自分は劣っていてまだ努力が必要な存在であり、さしたる成果を出していない」と思い込む傾向がある[17]。優秀な人は「自分は優秀で成果を出している」と言い出さない傾向があり、あまり熱心に賃上げを要求しない傾向がある。そして優秀な人を雇用している経営者は、優秀な人の謙虚な心理を利用する傾向があり、優秀な人に対して欠点を指摘して反省させ、優秀な人が賃上げを要求しないように釘を刺し、賃上げしないで済むように仕向ける傾向がある。このため成果主義や能力主義によって優秀な人が賃上げされるとは限らない。
成果主義や能力主義を導入して「優秀で成果を出している人を賃上げして、無能で成果を出していない人を賃下げする制度」を導入すると、優秀で成果を出している人の賃金がさほど伸びず、無能で成果を出していない人の賃金がはっきりと下落し、全体として賃下げが進む。
人は1日24時間のなかの3分の1にあたる8時間程度を睡眠にあてる生物であり、「無能になる時間」を大量に必要とする生物であり、本質的に「無能」な存在である。そのため無能で成果を出していない人を賃下げする制度を導入してしまえば、どのような人に対しても賃下げの圧力を強く加えることができる。
「人間が本質的に『無能』な存在であるという現実」と、「成果主義や能力主義を導入した給与体系」という、2つの強力な武器を利用して賃下げに励む新自由主義者の姿は、新・賃下げ主義と表現することができる。
新自由主義の支持者が好む成果主義や能力主義を採用すると、企業の人事部(総務部)や経営者が「この従業員は無能である」と認定するだけで従業員の給料を下げることができるようになる。従業員の成果や能力を評価する人事部・経営者の権力が非常に強くなり、従業員の誰もが人事部・経営者の顔色をうかがう社風になり、従業員が萎縮するようになり、自由な社風からほど遠い状態になる。
新自由主義の信奉者というと、「全体主義国では自由が封殺される。そんなことが起こってはならず、自由を守り抜かねばならない。そのために政府の権力を最小限にするべきだ」といったことを唱え、自由を尊重して権力を制限することを声高らかに主張する。
口先ではそのようなことをいうのだが、実際の新自由主義者は従業員の自由を制限して経営者の権力を増大させる成果主義・能力主義を好む。そうした姿は新・権力主義とか新・不自由主義と表現することができる。
成果主義や能力主義の対極に位置する給与体系というと年功序列である。新自由主義の支持者は年功序列の長所を一切認めず、年功序列を徹底的に批判する傾向がある。
年功序列の長所を1つだけ挙げると、経営者の恣意的な賃下げを防止できるところである。経営者が「こいつは気に入らないので『成果を挙げていない』と認定して賃下げしてやれ」と行動することができなくなる。
加齢によって成果を出せなくなったり能力を喪失したりした老人に対して政府がお金を給付する制度を年金という。年金は年功序列の極致のような制度であり、成果主義・能力主義とは正反対に位置する制度である。
新自由主義に染まって成果主義・能力主義に心酔する人は老人に対する年金制度を嫌い、「既得権益者の老人が若者を痛めつけている」などと老人に対する憎悪を煽る論説をしたり、あるいは「現行の年金制度は制度疲労を起こしていて将来の破綻が考えられるので今すぐに改革すべきだ」などと不安を煽る論説をしたりして、老人に対する年金支給額を減らそうとする傾向がある。
年金は、人々に課する保険料を財源にしたり、政府が年金特例国債を発行して長期金融市場に売却することで得られる資金を財源にしたりして支給する。新自由主義者は小さな政府の支持者なので、政府が年金特例国債を発行して長期金融市場で資金を獲得する方法を決定的に嫌う傾向があり、そうした提案に対して猛烈に反対する傾向がある。
新自由主義者は成果主義・能力主義に憧れを抱いており、その影響で、成果を出せなかったり能力が低かったりする人を切り捨てようとする傾向が強く、一種の優生思想を志向するところがある。そして、成果を出せず能力が低い老人に対する医療費を徹底的に削減することを主張しがちである。
新自由主義のそういう主張に対して、「医療器具の加工は非常に難しい[18]。老人に対する医療費を拡大することで医療器具の加工という困難な作業に挑む企業が増え、国内の産業の技術力を向上させることができる。老人に対する医療費は一種の産業振興費である」という反論が寄せられることがある。
成果を出せていないとか能力を持っていないと認定した社員に対して賃下げするだけでなく簡単に解雇できるようにすることは、「解雇規制の緩和」とか「労働市場の流動化」と言う。
「解雇規制の緩和」とか「労働市場の流動化」も、経営者の権力を劇的に増強して、従業員の自由を一気に制限し、専制君主のようなワンマン社長を増やす政策である。すべての従業員は経営者の機嫌を取ることを最優先に考えるようになり、仕事に対する集中力を減らしていく。
「解雇規制の緩和」とか「労働市場の流動化」の対極に位置する雇用体系というと終身雇用である。新自由主義の支持者は終身雇用の長所を一切認めず、終身雇用を徹底的に批判する傾向がある。
終身雇用の長所を1つだけ挙げると、従業員の給料の不確実性を減らして消費意欲を活発化させる点である。
成果主義・能力主義の賃金体系で賃金が急落するリスクが増えたり、「解雇規制の緩和」や「労働市場の流動化」といった雇用体制で解雇されるリスクが増えたりして、将来の給料の不確実性が増大した労働者は、給料の不確実性に備えるため貯蓄に励むようになり、消費を嫌がるようになり、結婚・子作りを避けるようになる[19]。そういう労働者が増えると世の中の需要が減っていき、デフレになっていく。
成果主義・能力主義の賃金体系を否定して賃金が急落するリスクが減ったり、「解雇規制の緩和」や「労働市場の流動化」といった雇用体制を否定して解雇されるリスクが減ったりして、将来の給料の不確実性が減少した労働者は、給料の不確実性に備えるための貯蓄に励む必要性が薄れ、消費をする勇気を持つようになり、結婚・子作りに突き進むようになる。そういう労働者が増えると世の中の需要が増えていき、デフレから脱却するようになっていく。
新自由主義者が成果主義・能力主義の給与体系を導入しようとしたり解雇規制を緩和しようとしたりするとき、常に激しく抵抗するのが労働組合(労組 ろうそ ろうくみ)である。新自由主義者にとって労働組合というのは目の上のたんこぶのように邪魔な存在なので、労働組合を苛烈に批判する新自由主義者が多い。
新自由主義者は、労働組合を批判するときに扇情的な表現を使う傾向がある。「労働組合は正社員の既得権益なので打破すべきだ」と言って人々の既得権益に対する嫉妬心・攻撃心を刺激してみたり、「労働組合は『働かざる者食うべからず』の格言に反する存在で、生産力よりも多くの消費をしようとする怠け者の溜まり場であり、高望みをしようとするワガママな人たちの集団である」と道徳論を振りかざして人々の怠け者に対する軽蔑心を刺激してみたり、「労働組合の主張に従うと日本の国際競争力が落ち、日本が発展途上国に転落する」と人々の転落に対する恐怖心を刺激してみたりと、人々の感情を巧みに刺激する。
また新自由主義者は、「労働組合を結成して労働組合の助けを得て労働するのは自立しておらず、依存心が強く、寄生しており、スネかじりであり、甘ったれである」とか「労働組合を結成せず労働組合の助けを得ずに労働するのは自立しており、依存心が少なく、自活しており、自分の足で立ち上がっており、自分に厳しくて立派である」と表現し、人々の「自立している人と思われたい」という名誉欲に訴えかけ、人々の「甘ったれへの軽蔑心」を刺激することもある。
また新自由主義者は、「労働組合を結成して1つの企業にしがみつくのは格好悪い生き方で、みっともない生き方で、往生際が悪い生き方で、見苦しい生き方で、ダサい生き方である」とか「労働組合を結成せず他の企業に転職するのは格好いい生き方で、体裁がよい生き方で、いさぎよい生き方で、見ていてすがすがしい気分になる生き方で、イケている生き方である」と表現し、人々の美意識や人々の「格好いい人と思われたい」という名誉欲に訴えかけ、人々の「ダサい生き方をする人への軽蔑心」を刺激することもある。
また新自由主義者は、「労働組合を結成するのは時代の流れに合っておらず、時流に乗ることができておらず、古い時代の感覚に凝り固まっており、時代遅れであり、新しい時代に対応できていない」とか「労働組合を結成せず一人で生きるのは時代の流れに合っており、時流に乗っており、古い時代の感覚からしっかり脱却しており、最先端の生き方であり、新しい時代に対応できている」と表現し、人々の「時流に乗っている優秀な人と思われたい」という名誉欲に訴えかけ、人々の「時代遅れの生き方をする人への軽蔑心」を刺激することもある。
また新自由主義者は、「労働組合の参加者は極左で、革マル派・中核派とつながりがある過激な運動家であり、反日で、中国・韓国とつながりがある卑劣な売国奴であり、日本の名誉と尊厳を傷つけて日本を破壊している」と表現し、人々の愛国心に訴えかけ、人々の「国家の敵に対する憎悪心」を刺激することもある。
労働組合を攻め立てるときの新自由主義者は、多彩な表現を駆使して人々の感情をとても上手に刺激する。このため新自由主義を新・感情主義と表現することも可能である。
労働組合を攻め立てるときの新自由主義者は、聞く人の性格や境遇によって表現を変えていく。親から自立したいという願望が強い傾向のある10代の若者には「労働組合は自立心が少ない甘ったれの集まり」と言い、体裁ばかり考える傾向がある10代~20代の若者には「労働組合はダサい」と言い、組織の中で出世競争に明け暮れている傾向がある30代~40代には「労働組合の言うことを聞くと日本が国際競争から脱落する」と言い、時代遅れと言われると傷つく傾向がある50代~60代には「労働組合は時代遅れ」と言い、ネットにかじりついて政治論争に明け暮れる人には「労働組合は極左・反日」と言い、経済的な苦境に陥って嫉妬心が増幅している人には「労働組合は既得権益」と言い、怠け者を説教するのが好きな人には「労働組合は怠け者の溜まり場」と言う、といった調子である。
新自由主義と労働組合は水と油のように相性が悪いので、新自由主義が勃興する時代では労働組合が弱体化し、新自由主義が抑制される時代では労働組合が強力化する、という関係性がある[20]。
新自由主義が優勢になる時代は労働組合が弱体化し、上司のパワハラに苦しむ労働者が「労働組合に助けてもらおう」と考えることができなくなる。ところが上司のパワハラを苦に転職してしまうと転職先での評価が「上司の要求に応えられない無能」「人間関係を構築できない無能」といったものになるので、転職することに対する心理的抵抗も発生する。
新自由主義による「労働組合の弱体化」と「成果主義・能力主義」で、労働者は上司のパワハラを回避するのが難しくなり、パワハラが盛んな世の中になる。このため新自由主義を新・パワハラ主義と呼ぶことができる。
新自由主義の信奉者は「解雇規制と終身雇用の維持のため低賃金になる」という見解を持つことを好む。その見解に従って「賃上げのために解雇規制を緩和して終身雇用を廃止しよう」と主張するのがいつもの姿である。
一方、反・新自由主義の信奉者は、「解雇規制を緩和して終身雇用を否定して労働力の流動化を促進するという手法で労働組合を弱体化させたことで、成果主義・能力主義の給与体系が導入されて低賃金になった」と主張する。
新自由主義者は「解雇規制と終身雇用が賃下げを生む」と考え、反・新自由主義者は「解雇規制の緩和と終身雇用の否定が労働組合の弱体化を生み、そして賃下げを生む」と考える。両者は明らかに正反対の考え方をしている。
新自由主義者は労働者の給料の確実性・安定性を嫌い、労働者の給料の不確実性・不安定性を愛する。「給料の確実性に恵まれている人は労働意欲を減らす傾向にあり、ダラダラ怠けて社会全体の生産性を落とす要因になる。給料の不確実性がある人は労働意欲を増やす傾向にあり、シャカリキになって努力をして社会全体の生産性を増やす原因になる」といった言い回しをする。
その上で、官営事業を廃止して公務員を減らして給料の確実性に恵まれた人を減らし、民営化して競争に明け暮れる民間人を増やして給料の不確実性に直面する人を増やそうとする。あるいは成果主義・能力主義を導入して労働者の給料が激減する可能性を高めて労働者の給料の不確実性を増やそうとする。または解雇規制を緩和して解雇の可能性を高めて労働者の給料の不確実性を増やそうとする。
新自由主義が広まった社会では労働者の給料の確実性・安定性が損なわれるので、労働者が銀行からお金を借りることが非常に難しくなる。銀行は、所属する組織から長期にわたって安定した給料を確実に受け取る者に対して融資する傾向があり、収入が途絶える危険性がある者に対して融資しない傾向がある[21]。
そのため新自由主義が広まった社会において、労働者は現時点での収入を超えた消費・需要をすることが難しくなり、「働かざる者食うべからず」の格言から派生する「現時点での収入を超えた消費・需要をするのは悪である」という価値観に沿った生活を強いられることになり、消費・需要を活発に行うことが難しくなっていく。
また、先述のように、給料の不確実性が増大した人は、将来に備えて貯蓄に励むようになり、消費を怖がるようになり、結婚・子作りに踏み切れなくなり、少子化・人口減少の波に飲み込まれることになる。
「給料の不確実性こそが社会の生産を高めて富を生むのだ」という信条を持って給料の不確実性を強く肯定しつつ、給料の不確実性の欠点を決して問題視しようとしない新自由主義者の姿は、新・不確実性主義と呼ぶことができる。
新自由主義に夢中になる者は、「人というのは、どれだけ給料の不確実性が増しても、本能に従って必ず消費行動を起こすし、本能に従って結婚や子作りをする」と楽観的に確信する傾向があり、そのため労働者の給料の不確実性を増やす政策を平気で支持する傾向がある。人の本能に対して楽観的な期待をする新自由主義者の姿は、新・本能主義と表現できる。
先述のように新自由主義者の言動からは「強大なお金持ちに対する期待感と依存心」が見え隠れするが、それだけではなく、「人の強大な本能に対する期待感と依存心」も見え隠れする。新自由主義という思想は自由という言葉を看板に掲げているため独立心・自立心が旺盛な思想であるかのようなイメージを与えるが、実際の新自由主義の支持者は依存心がだいぶ強い。このため新自由主義は新・依存主義と表現することができる。
新自由主義者の一部は「火事場の馬鹿力」「窮鼠猫を噛む[22]」「禽困覆車[23]」などの格言を好み、「人というのは追い詰められると凄い能力を発揮する。人の生存本能は強大である」という思想を持つ傾向がある。
そして、そうした思想が「労働者を窮地に追い込めば追い込むほど、労働者の生存本能を刺激することができ、労働者から凄い能力を引き出すことができ、生産力を高めることができる。労働者を窮地に追い込むことはとても良いことだ」という発想に変化していき、労働者から給料の確実性・安定性を没収して労働者の給料の不確実性を高める政策を強く支持するようになる。こうした新自由主義者の姿は新・追い込み主義と呼ぶことができる。
言い換えると、新自由主義者の一部は「人には強大な本能が備わっており、極めて確実で安定した能力を備えている。人には『本能の安定性・確実性』があるので、人から『給料の安定性・確実性』を取り上げても全く問題にならない」と考える傾向にある。
「『本能の安定性・確実性』が存在するから『給料の安定性・確実性』を軽視すべき」と主張するのが新自由主義で、「『本能の安定性・確実性』など存在しないから『給料の安定性・確実性』を重視すべき」と主張するのが反・新自由主義である。
戦争が起こると、元気な若者が生存本能など関係無しにあっさりと死んでいく。戦争を経験して元気な若者があっさり死ぬ姿を目撃すると、「『本能の安定性・確実性』など存在しない」という思想に傾倒するようになり、反・新自由主義に傾倒することになる。
平和が長く続いて、元気な若者が生存本能など関係無しにあっさりと死んでいく姿を目撃したことがない人が増えると、「『本能の安定性・確実性』が存在する」と信じ込むことが流行し、新自由主義が世の中に次第に広まっていく。この点でも、新自由主義は新・平和主義と表現することができる。
人は給料の確実性・安定性に恵まれるとホッと一安心し、気持ちがくつろぐ。それが強くなるとのんびり・おっとりした人格になっていく。新自由主義者の一部は、給料の確実性・安定性に恵まれて安心して気持ちをくつろがせてのんびり・おっとりした人格を持つようになった労働者を目撃すると「気に入らない」という態度を示し、「自分は必死になって働いているのに、あの連中はのんびりしている」と論じ、不満の感情を激しく示すことがある。
新自由主義者は労働者に給料の確実性・安定性を与えることを本気で嫌がる傾向があり、「労働者に給料の安定性を与えるとソ連のようになる」と政治思想的なことを言ってみたり、「労働者に給料の安定性を与えると労働者が怠けて堕落する」と道徳思想的なことを言ってみたり、「労働者に給料の安定性を与えると企業経営が成り立たない」と経営思想的なことを言ってみたりして、相手によって言い回しを変え、あの手この手で必死に抵抗する。「日本がソ連になる」と脅してみたり、「怠け者になってはいけない」と子を叱る親のごとく説教してみたり、「こんなことでは経営できない」と泣き言を言って同情を誘ってみたりと、態度を変幻自在に変えており、相手の心理を揺さぶる話術がとても上手い。
新自由主義は、解雇規制を緩和して、労働力が円滑に移転する社会を実現しようとする傾向がある。
解雇規制が緩和された社会と、解雇規制が維持された社会というのは、対照的なところがある。
解雇規制が緩和された社会があり、その社会の中の企業で機械化などの技術革新が進み、50人の余剰人員が発生したとする。その場合、企業は50人の人員を解雇して、本業に専念し続けることになる。企業経営の多角化を好まず、専業企業が兼業企業に変身しない。解雇された50人は他の企業に転職していく。
解雇規制が維持された社会があり、その社会の中の企業で機械化などの技術革新が進み、50人の余剰人員が発生したとする。その場合でも、企業は解雇規制があるので社員を終身雇用せざるを得ない。企業は50人の人員で新規事業を開拓していくことになり、いわゆる社内ベンチャーを立ち上げることになり、企業経営の多角化に一歩踏み出すことになり、専業企業が兼業企業に変身していく。
解雇規制が緩和された社会では企業の多角化があまり進まず、本業に専念する専業企業が増えやすい。本業に専念する企業の方が企業の能力を評価しやすく、社債や株式の値段を付けやすい。新自由主義者の好む直接金融に合致する企業である。
解雇規制が維持された社会では終身雇用の維持のために企業の多角化が進み、「本業1つと副業1つ以上を抱えた兼業企業」という企業が増えやすい。「本業1つと副業1つ以上を抱えた兼業企業」に対しては、副業を「全くの無駄」と評価することもできるし「将来に大化けするかも」と評価することもできるので、評価するのが難しく、社債や株式の値段を付けにくい。新自由主義者の好む直接金融に合致しにくい企業である。
解雇規制が緩和された社会では社会的分業を徹底しようという気運がやや濃くなり、「『餅は餅屋』ということだし、我が社でやってみるのをやめて、ヨソの会社にやってもらおう。その方が合理的だ。余計な社員は全員解雇したのでヨソの会社にやってもらうしかない」という気風がやや濃くなり、自給自足の傾向がやや薄くなる。
解雇規制が維持された社会では社会的分業を徹底しようという気運がやや薄れ、「ヨソの会社にやってもらうのではなく、我が社でやってみようか。終身雇用を保障していて社員を解雇できないので社員が余っている。その社員を活用しよう」という気風がやや濃くなり、自給自足の傾向がやや強くなる。
解雇規制が緩和された社会で新規産業が勃興するときは全く新しいベンチャー企業が起業することが主流となる。ベンチャーは、既存企業から企業経営のノウハウを引き継ぐこともできないし、既存企業から人材面や資金面での支援も見込めるわけでもないので安定感に乏しい。ただし、社員が背水の陣に立たされるので、「死にものぐるいでやる」という雰囲気はやや濃くなる。
解雇規制が維持された社会で新規産業が勃興するときは、既存の企業の中に新規部門が発生するという社内ベンチャーの形式が主流となる。社内ベンチャーは、既存企業から企業経営のノウハウを引き継ぐこともできるし、既存企業から人材面や資金面での支援も見込めるので安定感がある。ただし、社員が背水の陣に立たされるわけではないので、「死にものぐるいでやる」という雰囲気はやや薄れる。
解雇規制が緩和された社会では、それぞれの企業が簡単に従業員を解雇できるので、業績拡大のチャンスが転がり込んだときに「正社員を増やしたあとに経営不振になったら、従業員を解雇してしまえばいい。ゆえに雇用の拡大は経営の負担にならない。いくらでも雇用を拡大してよい」と考えるようになり、雇用拡大に対して積極的になり、業績拡大のチャンスに飛びつくことになる。そうした企業ばかりになるので、業績を拡大する企業が一人勝ちして独占に突き進むという現象が起こりやすく、少数の大規模企業が多くの市場占有率を占める独占・寡占の社会になる。小規模企業・中規模企業は淘汰され、弱肉強食・優勝劣敗の殺伐とした世の中になる。
解雇規制が維持された社会では、それぞれの企業が終身雇用の維持を求められるので、業績拡大のチャンスが転がり込んだとしても「終身雇用の正社員を増やすと、経営不振に陥ったときに経営の負担になる。うかつに雇用を拡大するわけにはいかない」と考えるようになり、雇用拡大に対してきわめて慎重になり、業績拡大のチャンスを見送ることになる。そうした企業ばかりになるので、業績を拡大する企業が一人勝ちして独占に突き進むという現象が起こりにくく、小規模企業・中規模企業が多く併存する社会になり、共存共栄の牧歌的な世の中になる。
解雇規制が緩和された社会では、「攻めの経営」「市場占有率を他の企業から奪い取ることを優先する経営」をする企業ばかりになり、「急成長して一攫千金を狙おう」と欲望をギラつかせる企業ばかりになる。また、小規模企業から大規模企業へ急成長する企業が発生しやすいので、株式投資をする者にとっても「濡れ手に粟(あわ)」の一攫千金(いっかくせんきん)を実現しやすくなる。
解雇規制が維持された社会では、「守りの経営」「市場占有率を他の企業から奪い取ることを優先しない経営」をする企業ばかりになり、「従業員の人生を預かっているのだし、従業員を確実に養うことが大事だ。顧客を確実に保持して経営を安定させよう」と考える企業ばかりになる。また、小規模企業から大規模企業へ急成長する企業が発生しにくく、ジリジリとゆっくり規模を拡大させる企業しか出現しないので、株式投資をする者にとって「濡れ手に粟」の一攫千金を実現しにくくなる。
以上のことをまとめると次のようになる。
| 新自由主義 | 反・新自由主義 | |
| 解雇規制 | 解雇規制の緩和 | 解雇規制の維持 |
| 労働力の流動性と労働者の給料の確実性・安定性 | 労働力の移動の円滑化を図る。労働者の給料の確実性・安定性が犠牲になる | 終身雇用の維持を図って労働者の給料の確実性・安定性を重視する。労働力の流動性が犠牲になる |
| 機械化などで余剰人員が発生したとき | 余剰人員を解雇する。企業が本業に専念し続け、専業企業のままであり続ける | 余剰人員で社内ベンチャーを立ち上げて企業を多角化させ、兼業企業に変身する |
| 直接金融への合致度 | 企業の能力を測定しやすく、株式や社債の価格を決めやすく、直接金融に合致しやすい | 企業の能力を測定しにくく、株式や社債の価格を決めにくく、直接金融に合致しにくい |
| 社会のあり方 | 社会的分業を徹底しようという気運がやや強い。「餅は餅屋、他の人に任せた方が合理的」という気運がやや強い | 自給自足の気運がやや強い。「自分たちでやってみよう」という気運がやや強い |
| 新規産業が勃興するときの様子 | 起業精神あふれる人がベンチャー企業を創設する。安定性がないが、死にものぐるいの気風がやや強い | 既存企業の内部に社内ベンチャーが発生する。安定性があるが、死にものぐるいの気風がやや薄い |
| 企業の雇用拡大に対する姿勢 | 「経営不振になったら従業員を解雇すれば良い」と考えるので、気軽に雇用を拡大する | 「経営不振になっても終身雇用を維持せねばならない」と考えるので、うかつに雇用を拡大できない |
| 企業の業績拡大に対する姿勢 | 業績拡大のチャンスを決して逃さない | 業績拡大のチャンスをみすみす逃す |
| 市場占有率の様子 | 市場占有率を急拡大させる企業が増え、大規模企業による寡占や独占が増え、小規模企業・中規模企業が淘汰される社会になる | 市場占有率を急拡大させる企業が増えず、大規模企業による寡占や独占が増えず、小規模企業・中規模企業が多く併存する社会になる |
| 世相 | 弱肉強食・優勝劣敗となり、殺伐とした世の中になる | 共存共栄となり、牧歌的な世の中になる |
| 主流となる企業経営 | 攻めの経営。市場占有率を他の企業から奪い取ることを優先し、急成長して一攫千金を狙う | 守りの経営。従業員を養うことと確実な顧客を保持することを優先する |
| 企業の成長 | 小規模企業から大規模企業へ急成長する企業が発生しやすい | 小規模企業から中規模企業へジリジリとゆっくり成長する企業が発生しやすい |
| 株式投資の魅力 | 濡れ手に粟の一攫千金が期待できる。一発当てて大儲けすることが期待できる | 濡れ手に粟の一攫千金が期待できない。一発当てて大儲けすることが期待できない |
新自由主義に好意的な経済学者の書く教科書では、「社会的分業こそが人類の発展をもたらしたのだ」と熱っぽく述べる文章がしばしば見られる。また、「自給自足というのは人類の歴史における一番最初の状態である」と語りつつ、自給自足に対して「不合理」といった低い評価を与える傾向が見られる。
独占・寡占は消費者の声が生産企業に届きにくくなって消費者が不利益を受けやすくなる形態であり、望ましくない形態である。独占・寡占を防止するには、独占禁止法(反トラスト法)を制定したり公正取引委員会(公取委)の権限を強化したりする方法がある。それ以外の方法でもっとも有力なのが解雇規制の強化である。
新自由主義は、銀行が貸し付けを行う間接金融についてやや否定的で、投資家が株式・社債を購入することで直接的に企業へ出資したり貸し付けしたりする直接金融に対してやや肯定的な一面がある。間接金融の割合を減らして直接金融の割合を増やすことに熱心であり、「貯蓄から投資へ」とか「貯蓄から資産形成へ」という標語を打ち出しつつ[24]、「間接金融から直接金融への転換を目指すべきだ」と主張することが多い。
バーゼル合意(BIS規制)を強化するなどして銀行の信用創造を制限することを好む。新自由主義が盛んになる時代は、銀行にとってやや辛い時代となる。
新自由主義は、直接金融の中でも「株式発行による資金調達」をとりわけ重視する傾向がある。直接金融の「株式発行による資金調達」は、企業が資本金または資本剰余金(資本準備金)といった純資産を増やしつつ銀行預金を獲得するものであり[25]、企業の自己資本比率が高まって倒産リスクが低くなる資金調達方法である。一方で間接金融は、企業が借入金といった負債を増やしつつ銀行預金という資産を獲得するものであり、企業の自己資本比率が低くなって倒産リスクが高まっていく資金調達方法である。
新自由主義は「企業の倒産は忌まわしい現象であるから、企業の倒産をできるだけ減らすことを最優先すべきである」という思想と非常に相性が良い。このため新自由主義の信奉者が直接金融の「株式発行による資金調達」を熱心に支持する傾向がある。
間接金融の長所を1つだけ挙げると、貸し手の銀行と借り手の企業の間で地域経済や周辺産業や為替レートや外国事情に関する情報の交換が濃密に行われ、企業の情報コストが安くなり、企業が情報を安価に入手できる点である[26]。間接金融だと、企業が銀行から資金と情報の両方を調達する状態になるので、企業の成長を促す環境が整備されやすい。
直接金融では、社債を購入した投資家と企業の間で情報の交換が濃密に行われるわけではなく、企業にとって情報コストが高いままになり、企業が貸し手から資金だけを調達して情報を調達しない状態になるので、企業の成長を促す環境が今ひとつ整備されない。
新自由主義が流行する国では、投資家が株式・社債を売買する直接金融が人気になるが、それと同時に、投資家が先物商品や外貨や暗号資産を売買する『投機商品売買』も人気になる。
新自由主義は、個人が投資しやすい環境を整えて、個人投資家が増えるように取りはからう傾向がある。個人投資家が直接金融や『投機商品売買』に簡単に参加してマネーゲームに熱中できるよう規制緩和することを目指す。「個人が努力して金儲けすることを奨励すべきだ。努力している人の足を引っ張るべきではない。個人投資家を増やそうとしないのは成功者に対する醜い嫉妬心が原因だ」という言い回しで個人投資家を増やそうとする。
直接金融や『投機商品売買』を肯定して間接金融を否定する人の一部は「間接金融を支持して銀行預金を持っているだけの人は、ボーッと生きているのであり、時代の流れに対して鈍感であり、世間の動向に対してアンテナを張っておらず、怠け者である。一方、直接金融や『投機商品売買』を支持して銀行預金以外の金融資産を持っている人は、シャキッと生きているのであり、時代の流れに対してとても敏感であり、世間の動向に対してアンテナを張っていて、勤勉である」という風に語り、「自分はとても勤勉で、自分と正反対のことをする者は怠け者である」という態度を示す。
直接金融や『投機商品売買』の大きな欠点は、人々が本業に集中しなくなる、という点である。「ラーメン屋を経営する親父が株式投資に熱中してラーメンの味が落ちる」というようなことが起こりやすくなってしまう。本業を怠る人の割合が少しずつ増え、文明の発展というものに陰りがみられるようになる。
直接金融も『投機商品売買』も、不確実性・不安定性が高い金融商品を扱うものである。このため直接金融や『投機商品売買』をする個人投資家は、情報を豊富に収集して入念に分析してから決断を下す必要があり、投資に対して大量の時間を費やさねばならず、余暇を削ることになり、金稼ぎに忙殺される人生を送ることになる。
個人投資家を増やす政策は、「寝ても覚めてもお金を増やすことばかり考える」「10万円をもらったら消費に回さずに投資に使う」「100万円を稼いだら消費に回さずにさらに投資の勉強をする」という人間を増やす危険性があり、余暇が少なくて消費・需要を十分に行えない人間を増やす危険性があり、消費を冷え込ませてデフレをもたらす危険性がある。
直接金融や『投機商品売買』は「賃下げすることで利益を稼ぎ出そうとする経営者」にとって望ましいものである。給料の少ない労働者に対して「給料が少なくて困っているのなら、株式や社債や先物商品や外貨や暗号資産を売買してマネーゲームをしてお金を増殖しろ」という態度をとりやすくなり、心理的に賃下げしやすくなる。
新自由主義が広まった国では労働者の賃下げが進み、労働者の生活が苦しくなっていく。そして「労働組合は正社員の既得権益」「労働組合は怠け者の溜まり場」「労働組合は国際競争力を落とす足手まとい」「労働組合は自立心のない甘ったれ」「労働組合の参加者は企業にしがみついていて格好悪くてダサい」「労働組合は時代遅れで古臭い」「労働組合は極左の隠れ蓑であり中国韓国とつながりのある反日団体」などと激しく非難する人が増えるので労働組合を結成しての賃上げ運動も盛り上がらない。このため新自由主義のもとで低賃金に苦しむ労働者にとって、直接金融や『投機商品売買』は生活の糧を得るための救世主となる。
新自由主義が広まって労働者の賃下げが進み、苦境に陥った労働者が株式投資に手を出すと、その労働者は「もっと労働者を賃下げして利益をひねり出して配当金をよこせ。政府は労働者の賃下げが進むような政策を実行しろ。政府系の公的職場の労働者を賃下げして世の中の賃下げの気運を作れ」と心から願うようになる。賃下げに苦しむ労働者が、労働者の賃下げを望むようになる。こういう姿は新・被虐主義(ネオ・マゾヒズム)と表現することができる。または、肉屋を支持する豚と表現されることもある。
新自由主義の支持者には、「会社は株主・投資家のものであり、株主・投資家に利益をもたらすために存在する」と主張する者が多い。そうした考え方を株主至上主義とか株主資本主義という[27]。
株価が上がると、その株式を保有している株主の利益が増える[28]。このため株主至上主義に染まると株価の上昇を第一に考えるようになる。このため株主至上主義・株主資本主義は、株価至上主義とか株価資本主義ということもある。
株主至上主義が幅をきかせる国では政治家がそれに染まり、株価の上昇を最優先するようになり、株価が上昇すると「経済が成長して発展し、すべてが良くなった」と満足する傾向にある[29]。株価というのは経済の様子を示す指標のうちの1つに過ぎないのだが、とにかく株価に偏重して株価に一喜一憂する。
株主至上主義が幅をきかせる国では市場関係者もやたらと強気になり、「政府というのは株価を上げるために存在する」と本気で考えるようになる。
従業員に対する給与が増えて企業の利益が減って株主の配当金が減って株価が下がっていくように誘導する政策を政府が提案したら、「そんなことをしたら株価が下がる!そんな政策をする国がどこにあるのか」と市場関係者が猛抗議する。
株主至上主義になると、従業員に対する人件費を減らして税引後当期純利益を増やし、その税引後当期純利益を分配するという形で株主に対する配当金を増やし、株主や投資家からの評価を高めて株価を上げようとする [30] 。従業員に対する賃上げを嫌がるようになり、人材を長期にわたって雇用して熟練労働者に育て上げることを優先しなくなり、平気で従業員に対する賃下げに踏み切るようになる。その結果として労働分配率が低下し、一般的に給与が少ないとされる非正規労働者の割合が増え、貧困層の拡大と非婚率の上昇と少子化につながっていく。
株主至上主義になると、法人税が増税されたときに消費者や従業員や協力企業に租税負担を転嫁するようになる。消費者へ高値で商品を売りつけたり、従業員の給料を賃下げしたり、協力企業へ支払う代金を削減したりする。法人税が直接税ではなく間接税に近い存在になっていく。
株式投資をしてA社の株を所有したうえで株主至上主義に染まると、A社の従業員の給料が下がって配当金が増えることを心の底から喜ぶようになる。またB社の従業員の給料が下がったり政府が緊縮財政を導入して公的職場の給料が下がったりすると[31]、「世の中に賃下げの流れが起こっているのでA社の給料も下がるだろう」と考えて喜ぶ。
株式投資をしてA社の株を所有したうえで株主至上主義に染まると、A社の協力企業へ支払われる費用[32]が下がって配当金が増えることをとても喜ぶようになる。また、「原材料の価格が高騰して資源インフレが発生しているのに、仕入れ価格の値上がり分を価格に転嫁できない中小企業が多い」というニュース[33]に接すると「世の中に協力会社へ支払う費用を低く維持する流れが起こっているので、A社が協力会社へ支払う費用も低く維持されるだろう」と考えて喜ぶ。
政府は、企業の人件費や「協力企業へ支払われる費用」が上昇するように誘導して、労働者の給与の増加や大企業に納入する中小企業の価格転嫁を支援する政策をとることがある。積極財政を導入して公共事業への予算を増やしつつ、「公共事業に入札する企業に対して損益計算書などの提出を求め、人件費や原材料費・外注費を多めに負担している企業にだけ入札への参加を認める」と宣言するといった政策である[34]。株主至上主義の信奉者がそうした政策に接すると猛烈に憤怒し、「余計なことをするな」「従業員の給与を減らしたり協力企業への費用を値切ったりして利益を作り出して配当金を増やすことを邪魔するな」という険悪な態度になる。
従業員へ払う人件費をひたすら削り、協力会社へ払う費用を適正水準から外して徹底的に減らし、利益を絞り出して株主への配当を増やし、株価を分不相応に釣り上げて、株価を肥大化させる・・・というのが株主至上主義であり、新自由主義である。こういう姿は新・株価肥大化主義ということができる。
新自由主義者は、「労働者の賃上げをするには、成長産業を創出したり、技術革新をして企業の生産性を上げたりすることが大事だ。逆に言うと、成長産業を創出したり技術革新をして企業の生産性を上げたりすれば労働者の賃金が上がる」と論じつつ、その一方で、「株主至上主義を弱体化させて労働者の賃金が上がるようにすべきだ」と論じないことが多い。
新自由主義者の意向に従って、株主至上主義を維持しながら成長産業の創出をしたり企業の生産性を上げたりすると、成長産業や「生産性が上がった企業」においても株主が「従業員の賃上げをせずに利益をひねり出して、その利益を株主の配当金に回せ」と主張し、その主張が通っていき、成長産業を創出したり企業の生産性を上げたりしても労働者の賃金が上がらない事態になる。
新自由主義の一部には、「株主至上主義は所有権の絶対性を尊重するので資本主義の本来の姿である。欧米では株主至上主義が一般的なのに、日本は株主至上主義を受け入れていない。ゆえに、欧米は資本主義を理解していて優れており、日本は資本主義を理解せず劣っている」という煽りをして、日本人の欧米コンプレックスを上手に刺激しつつ、株主至上主義を賞賛する者がいる[35]。
ちなみに、1960年代までのアメリカ合衆国において株主至上主義は一般的ではなかったと指摘されることがあり[36]、「欧米では株主至上主義が一般的」という表現には疑わしいところがある。
株主至上主義の天敵は他者加害原理である[37]。
「株主至上主義は株主の所有権の絶対性から生ずるものであるが、商品購入者に対する値上げや従業員の賃下げや協力会社への値下げを要求する性質があり、商品購入者や従業員や協力会社に損害を与える性質がある。このため他者加害原理に基づき、株主の所有権の絶対性を制限し、株主の基本的人権を制限し、株主至上主義を弱体化させる必要がある」といった言い回しは、株主至上主義の支持者にとって大きな壁になるものである。
株主至上主義を弱体化させるにはいくつかの方法がある。そのうちの1つは、解雇規制を強化しつつ労働組合の結成を奨励し、労働組合の発言力を高めることである。もう1つは金融所得課税の強化であり、株式等の譲渡で発生する株式譲渡益に掛ける株式等譲渡益課税(キャピタルゲイン税)や、株式の配当に掛ける株式等配当課税(インカムゲイン税)を累進課税にすることである。
株主至上主義を強化する場合は全く逆のことを行う。解雇規制を緩和して、労働組合の結成を奨励せず、労働組合の発言力を弱体化させる手法が考えられる。また、株式等譲渡益課税(キャピタルゲイン税)や株式等配当課税(インカムゲイン税)を一律課税(フラットタックス)にする手法も考えられる[38]。
新自由主義や株主至上主義の大目標は、「倒産しにくい企業」を作り出すことである。
従業員に払う人件費や協力企業に払う費用を徹底的に下げ、従業員や協力企業を痩せ細らせつつ税引後当期純利益をひねり出し、貸借対照表の資産の部の数字と負債の部の数字の差額を増やし、貸借対照表の純資産の部の利益剰余金を増やし、自己資本比率を増やし、「倒産しにくい企業」へ変身していくのが株主至上主義である。
また、銀行からの借り入れという間接金融をとりやめ、株式を発行して売却し、銀行預金という資産を手に入れつつ貸借対照表の純資産の部の資本金または資本剰余金(資本準備金)を増やし、自己資本比率を増やし、「倒産しにくい企業」へ変身していくのが株主至上主義である。
このため、「株主至上主義というのは企業の延命を第一に考える思想である」と表現できる。株主至上主義に従って企業の延命に励む新自由主義者の姿は新・企業延命主義と表現することができる。
株主至上主義を弱体化させるような政策を耳にしたときの株主至上主義者は、「そんなことをしたら投資家が日本の株式市場から資金を引き揚げ、株価が下がる!」と猛抗議するのが常である。
この抗議をさらに詳しく分析すると「そんなことをしたら投資家が日本の株式市場から資金を引き揚げ、株価が下がり、企業が株式の発行売却で『返済が不要な資金』を調達することが難しくなり、銀行からの借り入れという間接金融で『返済が必要な資金』を調達するはめになり、企業の負債が増え、自己資本比率が下がり、債務超過リスクや倒産リスクが高まる!」ということになる。
企業の負債が増えることや倒産リスクが高まることを極端に恐れる心理のことを負債恐怖症とか倒産恐怖症という。そうした負債恐怖症や倒産恐怖症が株主至上主義を生み出す。
株主至上主義の反対概念はステークホルダー資本主義という。この両者は様々な点で対照的である。
株主至上主義は「倒産しにくい企業」を作り上げることを優先する。企業の人件費や協力企業へ払う費用を減らし、法人税の減税を政治家に要求し、企業の税引後当期純利益と利益剰余金を増やして企業の自己資本比率を高めることを重視する。また株主至上主義は人件費の急減少を実現するために解雇規制の緩和を求める傾向がある。
株主至上主義の国では消費税が増税される傾向にある。消費税を増税して消費・需要を抑制し、労働者を倹約好みの性格にして、「支出しないので賃下げに耐えられる労働者」を作り出し、企業が賃下げする環境を整える。企業が賃下げに成功すれば、企業の税引後当期純利益・利益剰余金が増え、企業の株価が上昇し、企業が株式の新規発行で「返済が不要な資金」を調達しやすくなり、企業が自己資本比率を高めて「倒産しにくい企業」になる。
株主至上主義の支持者は、経済政策の論争で「経済の成長・発展」という表現をするが、その表現は、各企業の税引後当期純利益・利益剰余金が増えることや株価が上昇することや各企業が株式市場から「返済が不要な資金」を調達しやすくなって各企業の自己資本比率が上がることを意味している。
株主至上主義の支持者が「経済の成長・発展のための安定的な基盤」という表現をして褒め讃えるものは株式市場であり、「経済の成長・発展を阻害する要因」という表現をして厳しく批判するものは人件費や解雇規制や労働組合である。
株主至上主義の支持者が経済政策の論争で発する文句のなかで最大の武器というべきものは「我々の言うことを聞かないと(企業の自己資本比率が下がるので)企業の倒産が増えるぞ!」である。
「我々の言うことを聞かないと企業の倒産が増えるぞ!」と具体的で明確なことを喋るだけでは飽きられてしまう。そのため株主至上主義の支持者は「我々の言うことを聞かないと企業が生き残れなくなるぞ!」といった抽象的であいまいな表現も織り交ぜて、聞き手を飽きさせない工夫をする。
経済政策の論争では、論争相手に対して「拝金主義」とレッテル貼りして相手の名誉を破壊していく手段が有効である。株主至上主義の支持者は、ステークホルダー資本主義の支持者に対して「貧しくても生活費を切り詰めれば十分に生活できる[39]。貧乏でも楽しく生活できる。『給料が少ないと生活できない』と訴えるのは拝金主義である」と批判するのがいつもの姿である。
株主至上主義が広まった社会では、労働者にお金が行きわたらず、労働者が給料の不確実性・不安定性に悩まされて消費・需要をする勇気を持てなくなるので、世の中の企業の売上高が伸び悩む傾向にある。
株主至上主義が広まった社会は、お金を持って代金をしっかり支払うことができる消費者が少しだけ存在する社会であり、企業を起業するのが比較的に困難である。「いったん倒産したら二度と復活できない」という雰囲気が漂いがちであり、人々の心の中で倒産恐怖症が根深く残存する社会である。
一方で、株主至上主義の反対概念であるステークホルダー資本主義は、「従業員や協力企業に富を与えて長期的に売上高を増やすことを狙う企業」を作り上げることを優先する。企業が人件費や協力企業へ払う費用を増やすことを重視し、企業が人件費や協力企業へ払う費用を削って利益を溜め込むことを罰するため法人税の強化にも熱心である。またステークホルダー資本主義は、労働者に給料の確実性・安定性を与えるため解雇規制の強化も行う。
ステークホルダー資本主義の国では消費税が減税される傾向にある。消費税を減税して消費・需要を活発化させ、労働者を支出好みの性格にして、企業の売上高が伸びるようにする。
ステークホルダー資本主義が広まった社会では、労働者にお金が行きわたり、労働者が給料の確実性・安定性に恵まれて消費・需要をする勇気を持てるので、世の中の企業の売上高が増える傾向がある。
ステークホルダー資本主義の支持者は、経済政策の論争で「経済の成長・発展」という表現をするが、その表現は、各企業の売上高が上がることを意味している。
ステークホルダー資本主義の支持者が「経済の成長・発展のための安定的な基盤」という表現をして褒め讃えるものは人件費や解雇規制や労働組合であり、「経済の成長・発展を阻害する要因」という表現をして厳しく批判するものは株式市場である。「株式市場というものが存在するから各企業が人件費の削減に精を出すようになり、経済の成長・発展のための安定的な基盤が壊れるのだ」と主張するのがいつもの姿である。
ステークホルダー資本主義の支持者が経済政策の論争で発する文句のなかで最大の武器というべきものは「我々の言うことを聞かないと(企業の人件費が減るので)企業の売上高が減るぞ!」である。
「我々の言うことを聞かないと企業の売上高が減るぞ!」と具体的で明確なことを喋るだけでは飽きられてしまう。そのためステークホルダー資本主義の支持者は「我々の言うことを聞かないと企業が活躍できなくなるぞ!」といった抽象的であいまいな表現も織り交ぜて、聞き手を飽きさせない工夫をする。
経済政策の論争では、論争相手に対して「拝金主義」とレッテル貼りして相手の名誉を破壊していく手段が有効である。ステークホルダー資本主義の支持者は、株主至上主義の支持者に対して「間接金融で銀行から資金を借り入れれば十分に経営できる。自己資本比率が低くなって倒産リスクが高くなってもしっかり経営できる。『株式市場から返済不要の資金を調達しないと経営できない』と訴えるのは拝金主義である」と批判するのがいつもの姿である。
ステークホルダー資本主義が広まった社会では、世の中の企業の税引後当期純利益と利益剰余金が伸び悩む傾向にあり、世の中の企業の自己資本比率が低いままになる傾向があり、世の中の企業の倒産リスクが高いままになる傾向がある。
ステークホルダー資本主義が広まった社会は、お金を持って代金をしっかり支払うことができる消費者が大量に存在する社会であり、企業を起業するのが比較的に容易である。「倒産しても別の企業を設立して復活できる」という雰囲気が漂いがちであり、人々の心の中で倒産恐怖症が消滅していく社会である。
以上のことをまとめると次の表のようになる。
| 株主至上主義 | ステークホルダー資本主義 | |
| 理想とする企業 | 倒産しにくい企業 | 従業員や協力企業に富を与えて長期的に売上高を増やすことを狙う企業 |
| 企業の財務諸表に関連する数値の中で、増やそうとする項目 | 税引後当期純利益、利益剰余金、自己資本比率 | 人件費、協力企業に払う諸々の費用、売上高 |
| 企業の財務諸表に関連する数値の中で、減らそうとする項目 | 人件費、協力企業に払う諸々の費用 | 税引後当期純利益、利益剰余金 |
| 企業の財務諸表に関連する数値の中で、減ってもかまわないとする項目 | 売上高 | 自己資本比率 |
| 解雇規制 | 緩和を求める | 強化を求める |
| 法人税 | 減税を求める。企業が税引後当期純利益を増やして自己資本比率を高めて倒産しにくくなることを促す | 増税を求める。企業が人件費や協力企業に払う費用を増やすことと世の中全体の売上高が上昇することを促す |
| 消費税 | 増税を求める。労働者を倹約好みの性格にして、「支出しないので賃下げに耐えられる労働者」を作り出し、企業が賃下げする環境を整える | 減税を求める。労働者を支出好みの性格にして、企業が売上高を伸ばすようにする |
| 経済の成長・発展とはなにか | 税引後当期純利益や利益剰余金の増加、株価の上昇、自己資本比率の上昇 | 売上高の増加 |
| 経済の成長・発展のための安定的な基盤 | 株式市場 | 人件費と解雇規制と労働組合 |
| 経済の成長・発展を阻害する要因 | 人件費と解雇規制と労働組合 | 株式市場 |
| 経済論争における最大の武器というべき文句 | 「我々の言うことを聞かないと(企業の自己資本比率が下がるので)企業の倒産が増えるぞ!」 | 「我々の言うことを聞かないと(企業の人件費が減るので)企業の売上高が減るぞ!」 |
| 経済論争における聞き手を飽きさせないための抽象的な文句 | 「我々の言うことを聞かないと企業が生き残れなくなるぞ!」 | 「我々の言うことを聞かないと企業が活躍できなくなるぞ!」 |
| 経済論争におけるレッテル貼りの文句 | 「『給料が少ないと生活できない』というのは拝金主義である」 | 「『株式市場から返済不要の資金を調達しないと経営できない』というのは拝金主義である」 |
| 倒産恐怖症がどうなるか | お金を持った消費者が少ない社会になるので、「いったん倒産したら二度と復活できない」という雰囲気が漂いがちで、倒産恐怖症が残存する | お金を持った消費者が多い社会になるので、「倒産しても別の企業を設立して復活できる」という雰囲気が漂いがちで、倒産恐怖症が消滅していく |
新自由主義や株主至上主義は「売上高が下がっても税引後当期純利益を叩きだして利益剰余金をひねり出す企業を作ろう。倒産しない企業を作ろう」ということを最大の目標にしており、そのために人件費や協力企業に払う費用を削る。しかし、その通りにすると世の中全体の売上高が下がっていく。このため新自由主義や株主至上主義のことを新・売上高削減主義と呼ぶことができる。
新自由主義者や株主至上主義者が主導権を握る国は人件費と売上高が連鎖的に減少する螺旋階段(スパイラル)をせっせと下っていくことになり、デフレスパイラルが基調になる。
本項目の主題からやや外れる余談であるが、株主至上主義とステークホルダー資本主義は企業統治のあり方を巡ってもはっきり対立している。
株主至上主義の支持者は、労働組合を結成して経営陣に影響を与える従業員(物言う従業員)を経営上の脅威と見なしており[40]、「従業員は倒産しにくくなることの重要性を全く理解しておらず、喋る内容に価値がない。従業員は黙って経営者の言うことを聞いていればいい」と反発する。
株主至上主義の支持者が「企業にとって本質的に部外者であり、経営に口出しさせるべきではない」と考える存在は、従業員である。
ステークホルダー資本主義の支持者は、株主総会を通じて経営陣に影響を与える株主(物言う株主)を経営上の脅威と見なしており、「株主は経営の現場に関する専門知識を全く理解しておらず、喋る内容に価値がない。株主は黙って経営者の言うことを聞いていればいい」と反発する。
ステークホルダー資本主義の支持者が「企業にとって本質的に部外者であり、経営に口出しさせるべきではない」と考える存在は、株主である。
以上のことをまとめると次の表のようになる。
| 株主至上主義 | ステークホルダー資本主義 | |
| 経営上の脅威とみなすもの | 物言う従業員(労働組合を結成して経営に影響を与える従業員) | 物言う株主(株主総会を通じて経営に影響を与える株主) |
| 経営上の脅威に対して投げかける言葉 | 「従業員は倒産しにくくなることの重要性を理解しておらず、喋る内容に価値がない。従業員は黙って経営者の言うことを聞いていればいい」 | 「株主は経営の現場に関する専門知識を理解しておらず、喋る内容に価値がない。株主は黙って経営者の言うことを聞いていればいい」 |
| 企業にとって本質的に部外者である存在 | 従業員 | 株主 |
新自由主義は国家意識の無い国際主義思想であり、国境と関税をひたすら敵視し、自由貿易を極限まで推し進めようとする傾向がある。FTAやRCEPやTPPといった国境の壁を取り除く貿易協定を好み、EUのような国境の消滅を理想視する。いわゆるグローバリズムとの親和性がとても高い。
新自由主義者の一部は、関税を撤廃するような貿易協定を導入するとき、「世界に置いていかれる」「世界中の国が発展し、日本だけが取り残される」「バスに乗り遅れるな」というような、感情に訴えかける煽りを駆使する。
新自由主義者の一部は、「世界各国が関税を引き上げて保護主義に走ると戦争が起こる。第二次世界大戦の原因は関税である」と主張したり、「世界各国が関税を撤廃して自由貿易を促進すると世界平和が実現する」と主張したりする。このうち後者の主張に対しては「第一次世界大戦の直前においてイギリスとドイツの間における貿易は非常に規模が大きかった。貿易が活発に行われれば戦争を回避できるというわけではない」という反論が寄せられることがある[41]。
自由貿易を促進すると、各企業は発展途上国の低賃金労働者が作った製品との価格競争にさらされるので、人件費の削減を目指すようになり、賃下げ(ちんさげ)が進んでいく。ゆえに自由貿易は賃下げ貿易といっていいものである。新自由主義は、そういう自由貿易を全面的に肯定する思想であるので、やはり新・賃下げ主義ということができる。
新自由主義が流行する先進国では、企業経営者が労働者に向かって「我々経営者は、君よりも安い賃金で君と同じ働きをする労働者を、発展途上国においていくらでも見つけることができる」と言って労働者に賃下げを受け入れることを迫ったり、「発展途上国の労働者に君たちと同じ賃金を支払うと、君たちよりもずっと活発に働いてくれる」と言って労働者に労働強化(実質的な賃下げ)を迫ったりする。そうした言葉を頻繁に聞かされる労働者たちは「自分たちは高い賃金をもらう資格があるのだろうか・・・」と自信を喪失していく。
自信を喪失した人間は自分以外の誰かを攻撃することで自信を取り戻そうとする習性があるのだが、先進国の労働者たちもそういう習性を持っている。ネット上で、あるいは政治活動で、もしくは経済論議で、対立相手を過度に攻撃する行為に傾倒するようになる。その結果として、先進国で社会の分断と憎悪が広がっていく。
新自由主義の蔓延により自信喪失と攻撃的言動と社会の分断が発生する。新自由主義は、新・自信喪失主義といっていいだろう。
新自由主義がはびこる国では、攻撃的言動を繰り返す政治指導者が大人気となる。外国に喧嘩腰で対応したり国内の対立政治勢力を痛烈に批判したりして「何かを攻め立てる姿」を見せつけると、新自由主義によって自信を破壊された労働者たちが熱心に支持してくれる。
ちなみに、「従業員に自信を与えると賃上げの流れを生み、従業員の自信を破壊すると賃下げの流れを生む」ということはいつの時代も変わらない。従業員の自信を打ち砕いて従業員を賃下げする経営者が多く見られる[42]。
新自由主義が優勢になる国では、政府が緊縮財政を採用することで国内の官公需[43]が減少し、労働者の賃下げが進んだり労働者の給料の不確実性が増して労働者が貯蓄志向に走ったりすることで国内の民需[44]が減少し、内需[45]が減少していく。
新自由主義者の一部は「内需が増えると、不足する国内供給を増やすため原材料の輸入が増え、不足する国内供給を補うため完成品の輸入が増え、結果として輸入が増える。また内需が増えると、輸出に回すべき完成品の商品が内需に食い潰されることで輸出が減る。つまり内需が増えると輸入が増えて輸出が減る」と論じ、続いて「固定相場制や中間的為替相場制を採用しているのなら、輸入増加と輸出減少で政府の外貨準備高が減り、国家にとって大きな損失となる。変動相場制を採用しているのなら、輸入増加と輸出減少で自国通貨が安くなり、生産に必要な原材料の輸入量が少なくなって生産が減って、国家にとって大きな損失となる。いずれの場合でも、内需は国家の損失をもたらすものであり、できるだけ削減すべきである」と論じ、内需を敵視することがある[46]。
新自由主義者が重視するのは外需[47]である。「外需に対応して輸出を増やせば、固定相場制や中間的為替相場制を採用しているのなら政府の外貨準備高が増えるし、変動相場制を採用しているのなら自国通貨が強くなって生産に必要な原材料の輸入量が増えて生産が増加する。外需は、政府の外貨準備高の増加か、または生産の強化をもたらすものであり、できるだけ増加させるべきである」と論じて外需のことを宝石のように扱う。
そして「日本の人口は1億2512万人で、日本を除く全世界の人口は77億5000万人ぐらいである。ゆえに内需にこだわらず、狭苦しい日本市場に閉じこもらず、ひたすら外需を狙っていくのが経済戦略として正しい道だ」と主張し、TPPやFTAといった貿易協定を結んで海外市場の開拓に励もうとする。このため、新自由主義者が経済を主導すると内需が縮小して外需が拡大していき、外需依存の国になる。
外需を拡大するためにTPPやFTAといった関税撤廃型の貿易協定を結ぶと、貿易相手国の関税を引き下げて外需の拡大に成功するが、その代償として自国の関税も下がって、「内需に対して国内企業が供給する」ということが難しくなっていく。
新自由主義者は内需だけでなく「内需に対して国内企業が供給する」ということも敵視する傾向がある。「内需に対して国内企業だけが供給する状態だと、政府が市場を統制したり民間人同士で談合したりして競争原理が働かなくなり、製品価格が上昇し、製品の品質が陳腐化していく。ゆえに内需に対して国内企業が供給することを削減し、内需に対して海外企業が自由に参入できるようにしよう」と主張する。
ちなみに「内需に対して国内企業が供給する」というのは消費者と生産企業の距離が近い形態である。内需に対して国内企業が欠陥商品・イマイチ商品を販売した場合、消費者と生産企業の間に国境の壁や言語の壁がないので「欠陥商品・イマイチ商品を買わされた消費者が企業の本社に猛抗議する」ということが起こりやすい。消費者の苦情が生産企業に届きやすく、消費者の苛烈な要求によって生産企業が鍛えられやすく、企業の製品の品質が向上する流れが起こりやすい。
いっぽう「外需に対して国内企業が供給する」とか「内需に対して海外企業が供給する」というのは消費者と生産企業の距離が遠い形態である。外需に対して国内企業が欠陥商品・イマイチ商品を輸出したり内需に対して海外企業が欠陥商品・イマイチ商品を輸出したりした場合、消費者と生産企業の間に国境の壁や言語の壁があるので「欠陥商品・イマイチ商品を買わされた消費者が企業の本社に猛抗議する」ということが起こりにくい。消費者の苦情が生産企業に届きにくく、消費者の苛烈な要求によって生産企業が鍛えられることが起こりにくく、企業の製品の品質が向上する流れが起こりにくい。
「内需に対して国内企業が供給すると、消費者の苛烈な要求によって国内企業が技術力を高め、国内企業が世界で通用する品質の製品を作るようになる。企業を内需でシゴいてから外需の開拓をさせるべきである」「内需で国内企業を鍛えることにより製品の品質が良くなり、自然と輸出が伸びる」「内需は国内企業にとって教師である」というのがひとつの考え方であるが、新自由主義者はそういう考え方をするのが苦手である。
新自由主義者は「消費者の苛烈な要求によって生産企業が鍛えられる」と発想すること自体を苦手にしているようであり、「生産企業自身の決意や心がけによって生産企業が鍛えられる」という発想を好む傾向がある[48]。
新自由主義者が好む経済理論は比較優位である。比較優位とはイギリスの経済学者デヴィッド・リカードが提唱した考え方で、ごく簡単に言うと「国家は、自国の得意とする分野の生産に特化すべきであり、自国が得意としない分野において自国生産をとりやめて貿易によって賄うべきである。つまり国際分業をすべきである。そうすると世界全体の富が増大する」というものである[49]。
これを言い換えると「国家は得意分野において『内需に対して国内企業が供給する』という形態と『外需に対して国内企業が輸出して供給する』という形態を行い、不得意分野において『内需に対して海外企業から輸入して供給する』という形態だけを行うべきだ」となる。
「消費者の苛烈な要求により企業は製品の品質を向上させる」という考え方から論ずると「比較優位の考え方に従うと、国家は不得意分野において『内需に対して海外企業から輸入して供給する』という形態に頼ることになり、消費者と企業の距離が遠い形態になり、消費者の要求が企業に届きにくくなり、自国消費者が自らの要求するような高品質の製品を受けられなくなる危険が増える。自国消費者は『望ましくない品質の製品で我慢しよう』と考えるようになり、より好ましい品質の製品を欲しがる心が弱まり、文明の停滞が発生する。比較優位の考えは望ましくない」ということになる。
「消費者の苛烈な要求により企業は製品の品質を向上させる」という考え方は製品の品質を重視する考え方であり、比較優位の考え方は製品の物量を重視する考え方である。比較優位の考え方を好む新自由主義者の姿は「質より量」という言葉が当てはまるものであり、新・物量主義と表現することができる。
新自由主義は資本移動の自由を追求する傾向がある。
国際金融のトリレンマに従うと3種類の国家のみが地球上に存在することになる。そのうち1種類が資本移動を制限する国家で、残りの2種類が資本移動を自由化する国家である。
ブレトンウッズ体制が健在だった1945年~1971年は「資本移動を制限して、固定相場制または中間的為替相場制を採用し、自国の経済事情に合わせて金融政策を実行する国」の国家が多く、どこの国も資本移動が制限されていて、新自由主義の出る幕がなかった。
ブレトンウッズ体制が崩壊して新自由主義が盛んになった1980年代以降は世界中で資本移動の自由化が進み、「自由な資本移動を受け入れて、変動相場制を採用し、自国の経済事情に合わせて金融政策を実行する国」と「自由な資本移動を受け入れて、固定相場制または中間的為替相場制を採用し、他国の金融政策と連動した金融政策を実行する国」の国家ばかりになった。
資本移動が自由化されることにより、先進国の投資家が発展途上国の金融市場に乗り込んで現地の国債・社債・株式を買いあさる姿が日常のものとなる。19世紀の帝国主義・植民地主義とよく似た姿である。
通貨危機が起こりやすくなって金融市場が不安定になるというのが資本移動の自由化の欠点である。通貨危機をごく簡単に説明すると、A国で保有していた国債・社債・株式を売って得られたA国通貨を米ドルに両替しつつB国へ資本を移動させる投資家が大量に発生して、A国の通貨が異常に安くなりA国の輸入量が減ってA国が高インフレに苦しむことをいう。
通貨危機というと1992年のイギリス・ポンド危機、1992年のスウェーデン・クローナ危機、1997年のアジア通貨危機、2018年のアルゼンチン・ペソ危機、2018年のトルコ・リラ危機が有名だが、これらはいずれも資本を自由に移動させる機関投資家の手によって引き起こされたものである。
新自由主義が猛威を振るう国家では、人々が賃下げと長時間労働に悩まされ、非婚化と少子化が進行し、人口が減少し、人手不足が深刻化していく。
自国の人口が減少していく現象に直面した新自由主義者は、「これは歴史の必然で、不可避である」とか「人口減少を悪いこととは考えず、決して問題視せず、肯定的にとらえて、楽天的な気分になろう」といった態度を示すことが多い[50]。
労働者に鞭を振るって労働強化するときの新自由主義者は「『不可能はない』と思え。『できない』といったら嘘になる。人の可能性は無限大だ」などと威勢よく喋るのだが、人口減少に直面するときの新自由主義者は「人口減少を食い止めるのは不可能だ。人口減少に対して有効な対策を立てることができない。我々の可能性は無限に小さい」などと弱音を吐き、無気力そのものといった存在になる。こうした新自由主義者の姿は新・無気力主義と表現することができる。
「賃下げと長時間労働を維持しつつ、人口減少を解決したい」と考える新自由主義者は、移民(外国人労働者)の受け入れを提唱することが多い。「移民によって国家に活力をもたらそう」などと言って、外国人技能実習制度のような移民を受け入れる法整備を進めていく。
「結婚して家庭を持って出産して子育てして人材を輸出するのは発展途上国の人たちの役割で、結婚せず家庭を持たず出産せず子育てせず自己の能力開発に専念し労働に夢中になって労働に人生を捧げるのが先進国の人たちの役割だ」といった価値観が少しずつ世の中に広まる。こうした考えかたは一種の国際分業であり、「出産と労働の国際分業」と称すべきものである。
新自由主義者は、「国家の人口が多いと、必ず国家の繁栄の原因となる」という思想を持つ傾向がある。戦後の日本がなぜ高度経済成長したかと問われると「人口が多くて人口ボーナスを享受したから」と答える傾向があるし、バブル崩壊以降の日本がなぜ経済停滞しているかと問われると「少子化が進んで人口が減少したから」と答える傾向がある。そして「日本を再生するには移民を増やして人口を増やせばよい」と考える傾向がある。
それに対して反・新自由主義者は、「国家の人口が多くても、必ず国家の繁栄の原因となるわけではない」という思想を持つ傾向がある。「労働者に給料の確実性・安定性を与えないまま移民を増やして人口を増やしても、『将来不安に備えてひたすら貯蓄に励む労働者』とか『長時間労働に忙殺されてロクに消費することができない労働者』だけが増えてさほど需要・消費が伸びない」と論じ、「労働者に給料の確実性・安定性を与える政策こそが優先されるべきだ」と論ずる。
新自由主義者の心の中に根を張っているのは「働かざる者食うべからず」の思想である[51]。
新自由主義の信奉者であるミルトン・フリードマンは、「無料の昼食(フリーランチ)のようなものは存在しない(There ain't no such things as a free lunch)」という格言を自著の題名に採用した[52]。それを受けて「無料の昼食のようなものは存在しない」という言い回しが新自由主義の支持者たちに根付くことになった。「無料の昼食のようなものは存在しない」は「働かざる者食うべからず」と酷似した思想である。
「働かざる者食うべからず」の格言からは、「人というものはまず第一に供給・生産を行うべきである。人というものは供給・生産をするとそれに応じて需要・消費をする権利を得る」という思想が導かれる。
そして「供給・生産をしないまま需要・消費をしようとするのは不道徳であり堕落であって、卑しいフリーライダーのすることである」という思想が導かれ、供給・生産よりも多くの需要・消費をしようとする者に対して露骨に軽蔑したり公然と嘲笑したりする心理傾向も導かれていく。
人が人を露骨に軽蔑したり公然と嘲笑したりするのは「礼儀を失する行為」のうちに入るはずだが、「働かざる者食うべからず」の格言が胸の中に生きる新自由主義者の中には、そうした行為を行う人もいる。
「供給・生産よりも多くの需要・消費をしようとする者」の典型例は、政府と「年金暮らしの老人」である。新自由主義者の一部は、「働かざる者食うべからず」の思想に従って、政府や「年金暮らしの老人」に対して冷ややかな態度を取る傾向がある。
「働かざる者食うべからず」の格言が胸の中に生きる新自由主義者の一部が「供給・生産よりも多くの需要・消費をしようとする者」を軽蔑したり嘲笑したりするときの様子というのは目を引くものがあり、「自分は供給・生産をしてからその範囲内で需要・消費をしていて、名誉ある存在である。そして彼らは供給・生産をせずに需要・消費をしていて、とても恥ずかしい存在である」という態度を全開にする。「名誉ある行動とはなにか、恥ずかしい行動とはなにか」ということを懸命に考えている様子がうかがわれる。
「供給・生産よりも多くの需要・消費をしようとする者」に対して「働かざる者食うべからず」の思想の信奉者が浴びせる言葉には「高望みしている」「わがままなだけ」「身の程知らず」「享楽にふけっている」「不道徳である」といったものがあり、道徳心に訴えかけるものが多い。また、「現代の日本の庶民は昔よりも生活水準が向上していて、明治時代の大富豪と同程度の生活をしている」などと述べてから、「それなのに彼らは、きわめて恵まれていることに気付かず、ただひたすら高望みをしようとしている」と述べて、「彼らは高望みしている」という言葉をさらに引き立たせる工夫をすることもある。
新自由主義の信奉者が「働かざる者食うべからず」の思想に基づく道徳を説いて、相手の「高望みをする自由」を奪ったり「供給・生産よりも多くの需要・消費をする自由」を抑圧したりする光景は、多く見られる。やはり新自由主義は新・不自由主義とか新・抑圧主義と表現することができる。
新自由主義者は、戦中の軍国主義日本における自由の抑圧を徹底的に批判する。「戦中は軍国主義という全体主義が日本を征服し、『欲しがりません勝つまでは』『ぜいたくは敵だ!』『日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!』という標語が掲げられて、人々の自由が押し潰された」と厳しく糾弾するのがおなじみの姿である。
ところが新自由主義者は、「働かざる者食うべからず」の道徳論で説教するのが好きであり、「欲しがりません、自分の生産する能力を超える分は」「自分の生産能力を超えたぜいたくは敵だ!」「『働かざる者食うべからず』の真理を知っている人なら、自分の生産能力を超えたぜいたくは出来ない筈だ!」といった調子で説いて回り、「生産能力を超えた消費をする自由」を抑圧するのが好きである。
人は1日24時間のなかの3分の1にあたる8時間程度を睡眠にあてる生物であり、「全く働かない時間」を大量に必要とする生物であり、本質的に「働かざる者」である。そのため「働かざる者食うべからず」の思想を語ることで、その言葉を聞く人に「自分は『働かざる者』なので飯を取り上げられるかもしれない」と考えさせることができ、萎縮させておびえさせることができる。
新自由主義者の口から放たれる「働かざる者食うべからず」の思想は、聞く人を萎縮させる。このため新自由主義は新・萎縮主義と表現できる。
「働かざる者食うべからず」の思想を語る新自由主義者は、言葉を発するだけでその言葉を聞く人を萎縮させる経験をすることになる。言葉を発するだけでその言葉を聞く人を萎縮させるという経験は、本来なら、なんらかの団体に参加して色々と苦労をして権力者の座にのぼりつめてから味わうものだが、新自由主義を支持して「働かざる者食うべからず」の思想を受け入れれば全く苦労をせずに味わうことができる。
「働かざる者食うべからず」の思想は「需要・消費が供給・生産よりも多い状態になってはいけない。『需要・消費>供給・生産』の状態は許されない」というもので、「需要・消費の総量が供給・生産の総量以下であるべきだ。『需要・消費≦供給・生産』であるべきだ」というものである。
そして、そこから自然に、「需要・消費というのは良くない行動だ」という思想が生まれてくる。
需要・消費というのは、消費者が生産者に向かって情報を提供する行為であり、一種の教導・教育の行為である。消費者がお金を払ってより良い製品を購入することで生産者は「こういう製品を作ればよいのか」という知識を得られるし、消費者が生産者に「この部分がダメだ。もっと良いものを作れ」と激しく要求することで「この部分がダメなのか」という知識を得られる。
生産者というものは、生産することばかりに気を取られて製品の良し悪しや製品のダメな部分に気づかないことが、しばしばある。このため消費者からの情報提供があると大きな助けとなる。
需要・消費というのは生産・供給を助ける教導行為であり、決して馬鹿にできない行動なのだが、「働かざる者食うべからず」の思想から自然と導かれる「需要・消費というのは良くない行動だ」という思想にとらわれると、どうしても需要・消費を軽視するようになる。
そして、「生産者は、消費者からの情報提供がなくても、自発的な決意を持つことで、製品の良し悪しや製品のダメな部分に気づくことができるようになる。しっかりと決意を固めたときの生産者は全知全能である」という思想に傾倒するようになる[53]。生産者の決意や知力を過信する様子は新・全能感主義と表現することができる。
「しっかりと決意を固めたときの生産者は全知全能になり、商品の良し悪しをすべて把握できるようになる」という思想はだいぶ現実離れしており、批判的に言えば「うぬぼれ」となる。このため、そうした信条を持つことを新・うぬぼれ主義と表現することも可能である。
「働かざる者食うべからず」の思想は「需要・消費が供給・生産よりも多い状態になってはいけない。『需要・消費>供給・生産』の状態は許されない」というもので、「需要・消費の総量が供給・生産の総量以下であるべきだ。『需要・消費≦供給・生産』であるべきだ」というものである。
そして、そこから自然に、「需要・消費よりも供給・生産の方を多く行う人・団体は偉い。『需要・消費<供給・生産』の状態は偉い」という思想が生まれてくる。
「働かざる者食うべからず」の思想から派生しやすい「需要・消費よりも供給・生産の方を多く行う人・団体は偉い」という思想に従うと、日本が自動的に「とても偉い国」「世界で一番すごい国」「世界中から尊敬される国」に成り上がることになる。日本は1981年から40年連続で経常収支黒字を続けている国で、供給・生産が需要・消費を上回り続けている国だからである。
このため、「日本の国際的な地位」というのを気にするタイプの人が「働かざる者食うべからず」の思想を好むことがあり、そういう人が吸い込まれるように新自由主義に傾倒していく。
1991年の湾岸戦争で日本は巨額のお金を多国籍軍に支払ったが、戦後にクウェートが米国の新聞に掲載した感謝広告には日本の名前がなく(記事)、屈辱的な扱いを受けた。これを受けて「日本の国際的な地位は非常に低い」ということが政治に関する論壇で盛んに論じられた。このように、「日本の国際的な地位」というのを気にするタイプの人は一定の割合で存在する。
「新自由主義が全世界に広まると『働かざる者食うべからず』の思想が全世界に定着し、日本が『世界で一番すごい国』に昇格し、日本の国際的な地位が向上する」とか「新自由主義を全世界に拡散し、日本の国際的な地位を向上させよう」という考えは、名誉欲を原動力にした考えである。こうした考え方を新・名誉欲主義と表現することができる。
人間社会において、安全地帯に引きこもって金儲けに専念する人・団体は、「苦しんでいる他人を平気で見捨てる人・団体」と扱われて名誉らしい名誉を与えられない傾向がある。そういう人・団体は、お金を握りしめながら恥辱を我慢する生き方をすることになる。
ところが、新自由主義が流行して「働かざる者食うべからず」の思想や「需要・消費よりも供給・生産の方を多く行う人・団体は偉い」の思想が広まりさえすれば、安全地帯に引きこもって金儲けに専念する人・団体は「需要・消費よりも供給・生産を多くこなす人・団体で、とても偉い」ということになり、お金だけでなく名誉も手にするようになる。
新自由主義のおかげで、安全地帯に引きこもって金儲けに専念する人・団体は、お金と名誉の両方を獲得できるようになる。このため新自由主義は新・一石二鳥主義とか新・一挙両得主義と表現できる。
1991年の湾岸戦争において露呈した「日本の国際的な地位の低さ」に悔し涙を流した人や、安全地帯に引きこもって金儲けに専念したことで「苦しんでいる他人を平気で見捨てている」と非難されて恥辱をたっぷり味わった人が、その憂さ晴らしとして、あるいは名誉回復運動として、「働かざる者食うべからず」の思想や新自由主義の信奉者になる、という流れがある。
人間社会において学術研究に専念する人たちがおり、学者と呼ばれている。学者の中には、危険地帯に飛び込んで学術研究をする人たちもいるが、安全地帯に引きこもって学術研究をする人たちもいる。
安全地帯に引きこもって学術研究に専念する学者は、安全地帯に引きこもって金儲けに専念する人・団体と同じように、「苦しんでいる他人を平気で見捨てている」と非難されることが多い。このため安全地帯に引きこもる学者の中には「『働かざる者食うべからず』の思想が広まれば、安全地帯に引きこもる生き方をしても叩かれなくなり、それどころか最大級の名誉に恵まれるようになる」と考えて、「働かざる者食うべからず」の思想や新自由主義を支持する人がいる。
新自由主義者は、「人は打算・知性で需要・消費をするのではなく、本能で需要・消費をする」という人間観を持つ傾向がある。
新自由主義の信奉者は「人は、給料の不確実性が増すと将来不安に備えるため貯蓄に励むようになり、消費をしなくなる」という論理を無視したり軽視したりする。そして「人は給料の不確実性が増しても本能に従って一定量の消費を必ず行う」という論理を支持する傾向があり、その論理に従いつつ「労働者の給料の不確実性をもっと増大させても大丈夫だ。そうしても消費が落ち込まず、デフレ不況にならない」と主張する傾向がある。
また、新自由主義者は、「人は恐怖心・防衛本能で供給・生産をするのではなく、知性・頭脳で供給・生産をする」という人間観を持つ傾向がある。
世の中には「消費者の苛烈な要求によって生産企業が鍛えられる。消費者が企業に対して鬼の形相で激しく要求することで企業が消費者の叱責を恐れるようになり、様々な面で注意の限りを尽くすようになり、技術を向上させる。消費者に対する恐怖心や、消費者の叱責を回避したいという防衛本能が企業の生産能力を向上させる。企業は消費者に対する恐怖心・防衛本能を持つことで生産技術を高めていく」という考え方がある。新自由主義者はこうした考え方をするのが苦手であり、「生産企業は『誰からの影響も受けずに自由に発想する人』を多く抱えることで知力が高まり、頭脳が冴え渡り、創意工夫をするようになり、生産能力を向上させていく」といった風な考え方を好む。
総じていうと、新自由主義者は、「需要・消費を本能主導で行って、供給・生産を知性主導で行うのが、人間というものだ」という人間観を持つ傾向がある。
これに対して反・新自由主義の傾向を持つ者は、「需要・消費を知性主導で行って、供給・生産を本能主導で行うのが、人間というものだ」という人間観を持つ傾向があり、新自由主義者とは対照的なところがある。
アダム・スミスは『国富論』という著作で「見えざる手」という経済思想を書いた。そして、後世の経済学者たちがアダム・スミスの言葉を引用しつつ「それぞれの個人が自分の利益だけを自由に追求すると、見えざる手により導かれ、社会全体の利益が増進する」と説くようになった。
「それぞれの個人が自分の利益だけを自由に追求すると、見えざる手により導かれ、社会全体の利益が増進する」という考えは、「それぞれの個人を規制から解放して、自分の利益だけを自由に追求するのを肯定しておけば、何もかもよくなっていく。政府の規制を緩和して、それぞれの個人を自由に活動させよう」という考え方となり、新自由主義の規制緩和を後押しするものとなった。
新自由主義者は、「見えざる手」という経済思想を引用して「自由は尊い」と語り、それと同時に「企業経営者が成果主義・能力主義に基づいて従業員の給料を削減する自由を認めろ」と要求したり、「企業経営者が解雇規制にとらわれず従業員を解雇する自由を認めろ」と要求したり、「企業経営者は原材料などを納入する協力企業に対して目一杯の値下げ圧力をかける自由を思う存分に楽しむべきだ」と主張したりする。
ちなみに「見えざる手」の思想と対照的な思想は、ジョン・スチュワート・ミルが提唱した他者加害原理である。「見えざる手」の思想は「自由は利益を作り出す」という考え方で自由を絶対視するものであるが、他者加害原理は「周囲に害をまき散らす人に与える自由は損害を作り出す」という考え方で自由を絶対視せずに相対視するものであり、水と油のように正反対である。
他者加害原理に基づけば、「企業経営者が成果主義・能力主義に基づいて従業員の給料を削減することは従業員の生活に害を与える行為であるから、従業員の労働組合の結成を推奨するなどして、そうした自由を制限すべきである」となったり、「企業経営者が解雇規制にとらわれず従業員を解雇することは従業員の生活に害を与える行為であるから、解雇規制を維持したり強化したりして、そうした自由を制限すべきである」となったり、「企業経営者が原材料などを納入する協力企業に対して目一杯の値下げ圧力をかける自由を楽しむことは協力企業に害を与える行為であるから、政府が公共事業に入札する企業に原材料費の維持を要求するなどして、そうした自由を制限すべきである」となったりする。
新自由主義の基礎となった経済学者は、フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンとされる。ミルトン・フリードマンはアメリカのシカゴ大学で教鞭を執り多くの弟子を育てたので、彼を慕う経済学者の一群をシカゴ学派(シカゴボーイズ)という。また新自由主義の基盤となる経済学を新古典派経済学と呼ぶこともある。
人々の労働意欲を刺激して国内の生産力・供給力を強めることを重視するサプライサイド経済学(供給者側経済学)も、新自由主義の基礎の1つとされる。これの支持者をサプライサイダーというが、主な人はロバート・マンデル、アーサー・ラッファーなどである。
ちなみにサプライサイド経済学の反対に位置するのはケインズ経済学で、需要・消費の活性化を重視するものである。
サプライサイド経済学は、ジャン=バティスト・セイが唱え始めたセイの法則(セーの法則、販路法則)を中核にしている。セイの法則とは、「供給は、それ自体が需要を創造する」と表現されるものである。
デヴィッド・リカードは比較優位という考え方を提唱した。ごく簡単に言うと「国家は、自国の得意とする分野の生産に特化すべきであり、自国が得意としない分野において自国生産をとりやめて貿易によって賄うべきである。つまり国際分業をすべきである。そうすると世界全体の富が増大する」というものである。この考え方は新自由主義者が自由貿易を推進するときに必ずといっていいほど持ち出す考え方である。
ジェームズ・マギル・ブキャナン・ジュニアは、新自由主義の流行が本格化した1986年にノーベル経済学賞を受賞した。彼の提唱する均衡財政論・健全財政論は新自由主義の理想視する小さな政府と極めて相性が良い。
通貨の成り立ちや定義を論ずる学説の中に商品貨幣論というものがある。この商品貨幣論は新自由主義と極めて相性が良い。
サミュエル・スマイルズという英国の作家は1859年に『自助論』という作品を発表した。序文に「天は自ら助くる者を助く」という文章があり、そのあとはひたすら「努力すれば成功する」「成功者は他人の援助を当てにせずに努力をした」という内容が続く。新自由主義者のなかには『自助論』を絶賛するものがいる[54]。
新自由主義(英:Neoliberalism)という言葉を考案したのは、ドイツのアレクサンドル・リュストウという経済学者である。1938年に知識人が集まって開催されたウォルター・リップマン国際会議で、この言葉を発表した。
市場原理主義(英:Market fundamentalism)という表現は、新自由主義(英:Neoliberalism)の別名称である。
Market fundamentalismという言葉は、イギリスの社会問題ジャーナリストであるジェレミー・シーブルックが生み出したものであるという。パラグミ・サイナートというインドの社会問題ジャーナリストが、そのように述べている(記事)。
ジェレミー・シーブルックは、『世界の貧困―1日1ドルで暮らす人びと』という著作を持っており、新自由主義を批判し、格差の拡大に警鐘を鳴らすタイプの人である。
1991年8月の『Anthropology Today(こんにちの人類学)』という人類学者向けの学術誌の1~2ページに、Market fundamentalismという言葉が載っている。
経済学者の八代尚宏は「市場原理主義という言葉は、そもそも経済学にはありません。」と『日刊サイゾー』の2011年10月29日版で語っている。
パラグミ・サイナートと八代尚宏の発言を総合すると、「Market fundamentalismという言葉は、経済学の外にいるジャーナリストが、新自由主義に対して独自の感覚で名付けたものであり、経済学者たちの議論から生まれた経済学用語ではない」ということになる。
市場原理主義(Market fundamentalism)という言葉には蔑称の響きがある。
原理主義(fundamentalism)というのは、天地創造など聖書の記述をすべて事実と扱う米国キリスト教運動のことを指す言葉である。そうした運動をする人たちを批判するときに使われた蔑称だという(臼杵 陽の論文)。
1979年にイランで革命が起こった。このとき政権を奪取した人たちをイスラム原理主義者(Islamic fundamentalist)と呼ぶようになった。このため、「○×原理主義」というのはイメージが悪い言葉で、これを自称する人はとても少ない。
市場原理主義という言葉は、新自由主義を批判する立場の経済学者によって使われることがある。
ジョセフ・スティグリッツは、2001年にノーベル経済学賞を受賞したとき、次のような文章を書いている。
More broadly, the IMF was advocating a set of policies which is generally referred to alternatively as the Washington consensus, the neo-liberal doctrines, or market fundamentalism, based on an incorrect understanding of economic theory and (what I viewed) as an inadequate interpretation of the historical data.
the neo-liberal doctrines, or market fundamentalism と書いてある。「新自由主義の信条、言い換えると市場原理主義」といった意味であり、新自由主義をわざわざ言い直している。
第二次世界大戦後、先進国で目指されたのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦やその間に起きた世界恐慌を再び繰り返さないようにするべく、国際的・国内的な政治的平和と経済的安定化を確保するような秩序の構築だった。
この秩序を可能にする政治経済体制として多くの国々に合意されたものを、国際政治学者のジョン・ラギーは「埋め込まれた自由主義」と定義した。すなわち、市場を自由放任にすると不況や失業が生じるので、「調整的、緩衝的、規制的な諸制度の中に」これを「埋め込む」。つまり、国際的には「自由貿易体制によって国際経済の開放性を高め」つつ、他方で、国内的には「政府が国際競争に脆弱な国内の社会集団を保護する」福祉国家的政策を勧めた。いわゆる修正資本主義であり、ケインズ経済学はこれを後押しするものである。
この修正資本主義は、先進諸国の経済成長があった1960年代まではうまく機能してきたが、1960年代末頃から機能しなくなった。国際経済的には世界的規模のスタグフレーション(不景気とインフレーションの同時進行)が起き、各国の国内経済的には財政危機が起きた。それらの原因は、1965年~1975年のベトナム戦争、1973年の第一次オイルショック、1979年の第二次オイルショックとされる。
こうした深刻な危機に直面する中でいくつかの対案が出されたが、結局、国家によるコントロールをより徹底させるべきだとするケインズ経済学陣営と、市場の自由競争を活発化させるべきだとする新古典派経済学陣営に分かれることになり、後者の、新古典派経済学陣営が先進国の政治の中で影響力を持つようになった。これが市場原理主義とか新自由主義と呼ばれるものである。
1980年代のアメリカでロナルド・レーガンがレーガノミクスという経済政策を推し進め、同じ時期にイギリスでマーガレット・サッチャーがサッチャリズムという経済政策を採用した。いずれも、規制緩和と累進課税弱体化を組み合わせた経済政策で、新自由主義の影響を濃厚に受けている。また、日本においても、中曽根康弘首相が、国鉄、電電公社、専売公社、日本航空を相次いで民営化し、新自由主義的政策を実行している。
新自由主義は「埋め込まれた自由主義」から自由主義を解き放つことを主張する。すなわち、社会民主主義的福祉国家政策=大きな政府によって膨らんだ財政赤字を削減するための口実として小さな政府が謳われる。ここから国営事業、公営事業の民営化が進められた。また、国家による市場介入ではなく、市場を自由放任にすることが国民に公平と繁栄をもたらすという市場原理主義が求められた。この考えから市場の自由を妨げる様々な領域での規制を緩和していくことが目指された。
新自由主義的国家編成の最初の実験が行われたのは、1973年のチリである。民主的に選ばれた左翼社会主義政権が、アメリカのCIAとキッシンジャー国務長官によって支援されたピノチェト将軍によるクーデターで転覆させられたあと、ミルトン・フリードマンが拠点としていたシカゴ大学から送られた経済学者たち(シカゴ学派)によってピノチェト軍事政権下で新自由主義政策が、推進された。チリ経済は短期的には復興を見せたが、大半は国家の支配層と外国の投資家に利益をもたらしただけだった。
しかし、この実験を成功とみなした陣営が、1979年以降、イギリスのマーガレット・サッチャー政権とアメリカのロナルド・レーガン政権下で新自由主義政策を推進した。その後、アメリカで1990年代に加速された金融化が世界中に広がり、アメリカへと利益を還流させた。結果、アメリカ経済は好況を呈するようになる。
こうしてアメリカの新自由主義が様々な経済問題の解決策であるかのように振る舞うことが政治的に説得力を持つようになり、1990年代のワシントン・コンセンサス、WTOの創設で新自由主義は確立するようになる。更に、1990年代には発展途上国だけでなく、日本やヨーロッパも新自由主義的な道を選択するよう経済学や政治の場で主張されるようになる。
新自由主義理論の一つの理論的根拠として、トリクルダウン理論がある。トリクルダウンとは、社会民主主義的福祉国家のように、国家の財政を公共事業や福祉などを通じて貧困層や弱者に直接配分するよりは、大企業や富裕層の経済活動を活性化させることによって、富が貧困層や弱者へと「したたり落ちる」のを待つ方が有効であり、その方が国民全体の利益になるという考え方である。
税制の改正に関して言えば、これを根拠に富裕層の税金が軽減され、企業に対しておびただしい数の補助金や優遇税制が提供された。こうして富の配分比率が富裕層よりに変えられた。また、企業の経営方針の見直しが行われ、その延長線上で労働法の改正が行われた。日本では、その経営の特徴と言われた長期雇用と年功序列型賃金が見直され、アメリカ型とされた株主利益重視になった。これにより、リストラや労働者の賃下げをしてでも、株主への配当を優先することが動機づけられた。この労働者の賃金削減のために雇用の流動化が推進され、労働基準法改正、規制緩和が推進された。日本では2008年において労働者全体に占める非正規労働者の割合が三分の一を超えるまでになった。
富裕層への優遇は、投資をめぐる法解釈にも現れている。投資に関して、借り手より貸し手の権利を重視するようになった。例えば、貧しい者がその住居を差し押さえられる事を何とかするよりも、金融機関の保全と債権者への利払いを優先させる。実際、サブプライムローンの焦げ付きから端を発した2008年の金融危機では、多くのローン返済が困難になった貧困者が住居を追い出されたのに対して、アメリカの金融機関のいくつかは国家に救済された。
東京大学名誉教授の宇沢弘文は、「新自由主義は、企業の自由が最大限に保証されてはじめて、個人の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという一種の信念に基づいており、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取り引きするような制度をつくるという考え方である。新自由主義は、水や大気、教育や医療、公共的交通機関といった分野については、新しく市場をつくって、自由市場・自由貿易を追求していくものであり、社会的共通資本を根本から否定するものである」と指摘している。
ニューヨーク市立大学名誉教授のデヴィッド・ハーヴェイは、著書『新自由主義―その歴史的展開と現在』で、新自由主義とは国家権力によって特定企業に利益が集中するようなルールをつくることであると指摘し、著書『ネオリベラリズムとは何か』で、ネオリベラリズムとはグローバル化する新自由主義であり、国際格差や階級格差を激化させ、世界システムを危機に陥れようとしていると指摘している。また自由主義は、個人の自由な行為をそれがもたらすかもしれない代償の責任を負う限りにおいて認めるのに対して、新自由主義は、金融機関の場合、損害を被る貸し手を救済し、借り手には強く返済を求める点から、実現された新自由主義を階級権力の再生と定式化する。
ノーベル経済学賞受賞者であるジョセフ・ユージン・スティグリッツは、「ネオリベラリズムとは、市場とは自浄作用があり、資源を効率的に配分し、公共の利益にかなうように動くという原理主義的な考え方にもとづくアイデアをごちゃまぜにしたものだ。サッチャー、レーガン、いわゆる「ワシントン・コンセンサス」である民営化の促進にもとづいた市場原理主義である。4半世紀のあいだ、発展途上国のあいだでは争いがあって、負け組は明らかになった。ネオリベラリズムを追求した国々はあきらかに成長の果実を収穫できなかったし、成長したときでも、その成果は不均等に上位層に偏ることになった」と指摘している。また1990年代の資本還流によるアメリカ経済の好景気は、IMFと世界銀行によるものと説明する。つまり、この2つは、発展途上国が求める融資を提供することと引き換えに債権国やアメリカの意向を反映した、構造調整計画を、1980年代から1990年代を通じて実施要求してきた。しかしこの改革は、メキシコ、アジア通貨危機、ロシア、ブラジルの経済危機、アルゼンチンの全面破綻を引き起こした。結果が伴わない場合は、「改革が十分に実行されなかった」と、責任転嫁をしてきたという。
思想家の汪暉は、中国における新自由主義の特徴の一つとして、国家の推進する国有企業改革を擁護する「国家退場論」を挙げる。1990年代以降、急速に進められてきた国有企業改革は、国有企業の資産や経営権を国から民間へ譲渡する「国退民進」として現れる。しかし、その過程自体が国家的に推進されているため、本来公有資産であったものが、国有企業指導者層ら既得権益者によって実質上私有化されるとして批判される[55] 。
共産主義(社会主義)という経済思想がある。国内のすべての生産手段を国有化し、 国内のすべての企業を国営企業に変えてしまおうという思想である。
新自由主義は「小さな政府」を志向する思想で、共産主義は「大きな政府」を志向する思想であり、 両者は水と油のように正反対であるかのように見える。
ところが、新自由主義と共産主義には、共通点がいくつか見受けられる。 その共通点を挙げると、以下のようになる。
新自由主義を採用すると、自由競争が激しくなることでごく一部の勝ち組が富を独占し、大部分の負け組との格差が広がっていく。
共産主義の経済格差も顕著である。国営企業の経営を一手に握る官僚は、富を独占して贅沢な暮らしをする。ソ連のノーメンクラトゥーラは特権階級として有名で、彼ら向けの百貨店も存在した。一方、庶民は配給の列に並んで、決まった量の粗末な品物を受け取る毎日になる。
経済格差を肯定的に扱い、決して修正しようとしないところが、新自由主義と共産主義の共通点である。
新自由主義を採用すると、自由競争が激しくなることで企業の合併が進んでいく。「国際競争力を付けなければならない」といいつつ同業の企業が合併していき、大きな市場シェアを抱える企業ばかりになり、市場を2~3社で寡占したり1社で独占したりするようになる。また解雇規制が緩和されることで各企業が積極的に雇用拡大できるようになり、各企業が生産能力を一気に拡大できる社会になり、市場占有率を一気に上昇させる企業が増えやすくなり、寡占・独占に突き進む大企業が多い社会になる。
共産主義も同じで、国内のすべての企業を国有化することで、政府という超巨大企業1社が全業種の市場シェアを100%独占するようになる。
市場の独占・寡占を肯定的に扱うところが、新自由主義と共産主義の共通点である。
明確な共通点は、以上の2点となる。
また、「既得権益に対する嫉妬心を煽りつつ、既得権益の解体を目指す」という点も、曖昧ではあるが共通点の1つといえる。
新自由主義は「政府の規制に保護されている存在」に対する嫉妬心を煽る。公務員、農家、労働組合、正社員といった人たちを既得権益と呼び、そうした人たちが政府規制の保護を受けて不当な利益を享受していると論じたて、既得権益の解体を主張する。
共産主義は資本家・金持ちに対する嫉妬心を煽る。会社を所有する資本家・金持ちを既得権益と呼び、そうした人たちが労働者を搾取して不当な利益を享受していると論じたて、既得権益の解体を主張する。
富を生み出さないのに富を得ている存在、供給・生産をしないのに需要・消費をする人、すなわちフリーライダーへの軽蔑と憎悪が強いことも、新自由主義と共産主義の共通点である。
新自由主義は、払った税金の額よりも多くの額の利益を政府の福祉部門から受けている人を軽蔑する傾向にある。新自由主義の旗手であるロナルド・レーガンは、「福祉の女王(welfare queen)が存在していて、税金をロクに払わないのに福祉制度を悪用して高級車を乗り回している。納税者の富にただ乗りして、納税者を搾取している。フリーライダーを許してはならない」と選挙の時に主張していて、批判者から「でっち上げ」と指摘されていた[56]。また、新自由主義の主導者であるミルトン・フリードマンは、「無料の昼食のようなものは存在しない」という格言を自著の題名に採用しており、その格言を流行させた。
共産主義というと労働価値説であり、そこから「会社の富を本当に作り出しているのは、労働者である」という論理を展開していた。その論理から、「株主である資本家は労働もしていないのに利潤を得ている。労働者の富にただ乗りして、労働者を搾取している」と主張していた。ウラジーミル・レーニンは論文で盛んに「働かざる者食うべからず」の格言を引用しており、そこから先述の通りに「資本家は労働をしていないのに美味しい料理を食べている」と主張していた。
新自由主義者の好む格言が「無料の昼食のようなものは存在しない」で、共産主義者が好む格言が「働かざる者食うべからず」であり、両者の思想はぴったり共通している。需要・消費を不道徳な怠惰として軽蔑し、供給・生産を道徳心あふれる勤勉として尊重するという思想である。
「企業の倒産」を忌まわしい現象と位置づけ、企業の延命をなによりも優先し、「倒産しない企業や倒産しにくい企業ばかりになる社会」を理想視するところも共通点である。新自由主義者も共産主義者も企業の倒産を極度に怖がる倒産恐怖症というべき心理状態になっている。
新自由主義がはびこる国では、解雇規制が緩和されて人件費を急減少させることが可能になり、さらに株主至上主義が蔓延して人件費と協力企業へ払う費用を削減することが流行し、不況になっても税引後当期純利益を叩き出す企業が主流となり、貸借対照表(バランスシート)の純資産の部の利益剰余金が大きくて自己資本比率が大きい企業が主流となり、倒産しにくい企業が主流となる。また新自由主義が主導権を握る国では直接金融の「株式発行による資金調達」が主流になり、貸借対照表(バランスシート)の純資産の部の資本金・資本剰余金(資本準備金)が大きくて自己資本比率が大きい企業が主流となり、倒産しにくい企業が主流となる。
共産主義国ではすべての企業が国有化され、決して倒産しない企業になる。
労働者の権利を認めず、反抗的な労働者を追放する仕組みが整っている点も共通点である。新自由主義がはびこる国では労働組合が弱体化して解雇規制が緩和され、経営者に対して反抗的な労働者が解雇される。共産主義国でも同じであり、企業経営者である政府に反抗的な労働者はシベリア送りにされたり強制収容所に放り込まれたりして、極度に悪い労働環境をあてがわれて健康を破壊される。
「官と民が力を合わせて共存するべきであり、官民協働が大事だ」とか「官には『民間に存在しない長所』があり、民間には『官に存在しない長所』があるので、双方が補い合うべきだ」という思想を持っておらず、「官と民がこの世に存在するが、片方は完全無欠であり、もう片方は全てにおいて劣っている」とか「官と民がこの世に存在するが、優秀な片方に全てを任せるべきであり、劣った片方は消滅するべきだ」という思想を持っていることも共通している。新自由主義は典型的な民尊官卑で、政府に回す予算を徹底的に削ることを好み、経済における政府の存在を決して許さないという傾向が非常に強い。共産主義は典型的な官尊民卑で、民間企業の存在を決して許さないというものである。
「巨大な団体に所属して人事権を振るう現役の権力者」に対する個人崇拝が発生するところも共通点である。新自由主義が流行って累進課税が弱体化した国では、大企業経営者が「カリスマ経営者」になって高額報酬を受け取ることを目指すようになり、経済雑誌に登場してロック歌手かアイドルであるかのように振る舞って、「経営者の超人的な判断能力が大企業を正しい方向に導いた」と宣伝して、民衆が自らを崇拝するように仕向ける[57]。共産主義国では独裁者の肖像画や彫刻を広場に設置して、「独裁者の超人的な判断能力が国を正しい方向に導いた」と宣伝して、民衆が崇拝するように仕向ける。
新自由主義の国も共産主義の国も「働かざる者食うべからず」の思想が広まっており、「高額の報酬と高い地位を得ている者はそれだけ超人的に働かねばならないしそれだけ有能でなくてはならない」という強迫観念が固定されているので、高額の報酬と高い地位を得ている権力者が必死になって「自分は超人的な働き者でものすごく有能である」と周囲にアピールすることが常態化する。その結果として民衆が権力者を個人崇拝するようになる。
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最終更新:2025/12/06(土) 07:00
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