東方昭和伝第七部とは、eleven氏制作動画シリーズ「東方昭和伝」の第七部である。
サブタイトルは「日中激突編」
概要
此の如く 支那側が帝国を軽侮し 不法暴虐至らざるなく 全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは 帝国としては最早隠忍其の限度に達し 支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為 今や断乎たる措置をとるの已むなきに至れり(昭和12年8月15日 午前1時10分発表「政府声明」)
出演(役名・肩書き・演者)
宮中
- 昭和天皇(第124代天皇)・・・東風谷早苗
- 西園寺公望(元老 公爵 元・総理大臣)・・・西行寺幽々子
- 原田熊雄(男爵 西園寺の秘書)・・・魂魄妖夢
- 木戸幸一(侯爵 宗秩寮総裁 近衛内閣文部大臣)・・・八雲藍
政治家
- 近衛文麿(第34代総理大臣 公爵)・・・アリス・マーガトロイド
- 広田弘毅(近衛内閣外務大臣 元・総理大臣)・・・ルナサ・プリズムリバー
- 風見章(近衛内閣書記官長 無所属衆議院議員)・・・メディスン・メランコリー
- 賀屋興宣(近衛内閣大蔵大臣)・・・秋静葉
- 幣原喜重郎(男爵 貴族院議員 元・外務大臣)・・・パチュリー・ノーレッジ
陸軍
- 梅津美治郎(中将 陸軍次官)・・・朱鷺子
- 東条英機(中将 関東軍参謀長)・・・鍵山雛
- 板垣征四郎(中将 第5師団長)・・・魅魔
- 石原莞爾(少将 参謀本部作戦部長 関東軍参謀副長)・・・風見幽香
- 武藤章(大佐 参謀本部作戦課長)・・・リグル・ナイトバグ
- 田中隆吉(中佐 関東軍参謀)・・・ルーミア
- 辻政信(大尉 北支那方面軍参謀)・・・リリカ・プリズムリバー
- 磯部浅一(元・一等主計 二・二六事件死刑囚)・・・サニーミルク
- 村中考次(元・大尉 二・二六事件死刑囚)・・・ルナチャイルド
海軍
- 伏見宮博恭王(元帥海軍大将 皇族 軍令部総長)・・・蓬莱山輝夜
- 米内光政(大将 近衛内閣海軍大臣)・・・上白沢慧音
- 山本五十六(中将 海軍次官)・・・藤原妹紅
外国要人
- 蒋介石(中国国民政府主席 大元帥)・・・紅美鈴
- 毛沢東(中国共産党軍事委員会主席)・・・レミリア・スカーレット
- 周恩来(中国共産党軍事委員会副主席)・・・十六夜咲夜
- フランクリン・デラノ・ルーズベルト(第32代合衆国大統領)・・・古明地さとり
- コーデル・ハル(合衆国国務長官)・・・リリーホワイト
- アドルフ・ヒトラー(ドイツ第三帝国総統)・・・フランドール・スカーレット
民間活動家
- 北一輝(国家社会主義運動家 二・二六事件死刑囚)・・・レティ・ホワイトロック
- 西田税(国家社会主義運動家 二・二六事件死刑囚)・・・エリー(東方project)
- 大川周明(国家社会主義運動家 五・一五事件禁固囚)・・・岡崎夢美
その他モブ役として、魂魄妖忌(大将級軍人)・射命丸文(マスコミ)・レイセン(一般軍人)・毛玉(中国兵)・高木社長(随時)
用語解説
明治34年(1901年)の条約
1901年、いわゆる『北清事変(義和団の乱)』の鎮圧について、日本・アメリカ・欧州諸国(英・仏・独・露・伊・墺・西・蘭・白)と、当時の清国との間で調印された『北京議定書』(北清事変に関する最終議定書)のこと。この議定書によって列強各国は、清国(中国)国内の要所への軍隊駐留権や、ほとんど各国の領土に等しい程の治外法権を持つ租界・居留地の設置権を獲得。清王朝滅亡後も、結局第2次世界大戦終結までそれは有効であった。さらに清国は国家予算の5倍とも10倍ともいわれる賠償金を課され、賠償負担は中華民国政府に引き継がれ、最終的に1938年まで支払いが続けられた。
大陸命・大海令(だいりくめい・だいかいれい)
大本営設置により設立された「大本営陸軍部」と「大本営海軍部」より発せられる命令のこと。正式呼称は「大本営陸軍部命令」と「大本営海軍部命令」であり、陸軍は「命」、海軍は「令」を用いる。
支那事変における「軍」の区分け
支那事変以前、日本本土以外に駐屯する陸軍部隊には朝鮮軍・台湾軍・関東軍・支那駐屯軍があったが、支那事変以後様々な「軍」や「方面軍」「派遣軍」が設立された。ここで、支那事変に関する主要なものについて整理する。
- 支那駐屯軍・・・上記「北京議定書」により、天津に駐屯していた部隊。設立当初の呼称は「清国駐屯軍」、中華民国成立後は「支那駐屯軍」。また「天津軍」とも通称される。規模は2000名程度。昭和11年に増強され、昭和12年7月の盧溝橋事件時には5600名。同事件に遭遇したのは、この軍のうち北京西南郊の豊台にいた分遣隊である。事変勃発後、内地から派遣された3個師団や朝鮮からの第20師団などを指揮下に入れたのち「第1軍」として改編。同時に組織された「第2軍」とともに下記「北支那方面軍」の司令下に入り、支那駐屯軍は廃止された。
- 北支那方面軍・・・昭和12年8月31日に組織された、日本陸軍最初の「方面軍」。支那駐屯軍から発展組織された「第1軍」と、新編成の「第2軍」その他を指揮下におき、北京を司令部として北支那(華北。主として河北省・山西省・山東省)を担当した。初代の司令官は寺内寿一大将。昭和14年に上位組織として「支那派遣軍」が設置され、また隷下部隊を変えつつ、大東亜戦争終戦まで存続。
- 上海派遣軍・・・第2次上海事変の勃発を受けて、上海の海軍陸戦隊への援軍として昭和12年8月15日に編成された部隊。規模は4個師団他。下記「中支那方面軍」を経て、「中支那派遣軍」編成により廃止。
- 中支那方面軍・・・上記「上海派遣軍」(松井石根大将)と、援軍の「第10軍」(柳川平助中将)をもって昭和12年11月7日に編成された方面軍。方面軍司令官は松井大将が就き、上海戦線と南京攻略戦を戦った。下記「中支那派遣軍」へ発展解消。
- 中支那派遣軍・・・上記「中支那方面軍」を発展解消する形で昭和13年2月14日に組織された方面軍。初代司令官は畑俊六大将。徐州作戦、武漢三鎮攻略、重慶に対する初期の攻撃を行った。下記「支那派遣軍」の編成により、上記「北支那方面軍」は存続したが、この「中支那派遣軍」は廃止(昭和14年9月23日)された。
- 支那派遣軍・・・「北支那方面軍」と「中支那派遣軍」への上位統括司令軍(「総軍」)として、昭和14年9月12日に組織されたもの。初代総司令官は西尾寿造大将。終戦時の総兵力は105万を数え、泥沼の大陸戦線を戦い続けた。最後の総司令官・岡村寧次大将が、中国軍に対する降伏文書調印を行うことになる。
- 南支那方面軍・・・昭和15年2月9日に「支那派遣軍」隷下として組織された方面軍。同7月23日に大本営直轄の部隊となり、9月5日よりフランス領インドシナ北部への進駐(北部仏印進駐)を行った。昭和16年6月28日に「第23軍」へ再編され、同8月12日に支那派遣軍指揮下へ復帰。
人物評伝(キャスティングされていなくて、作中登場の多い人物につき)
杉山 元 (すぎやま げん 1880~1945)
昭和期の陸軍軍人。最終階級は大将、加えて元帥府に列する。福岡県出身、陸軍大学校22期。同期生に小磯国昭・畑俊六など、昭和の陸軍史を彩る高級将官が多数いる。大正期より宇垣一成の派閥であり、宇垣陸相(浜口)と南次郎陸相(第2次若槻)の下で陸軍次官。小磯・二宮治重(陸大22期)・建川美次(陸大21期)らとともに「宇垣四天王」と称されるも、満州事変と陸軍皇道派の台頭によって一時中央の要職を追われる。しかし二・二六事件で皇道派が壊滅すると、権力闘争外にいたことが幸いして教育総監に就任。続いて林銑十郎内閣・第1次近衛内閣で陸軍大臣となり、支那事変開戦期の戦争指導に関わることとなる。昭和15年には閑院宮元帥のあとを継いで参謀総長就任し、太平洋戦争の開戦と作戦指導の中枢に位置。東条内閣末期の政軍一元化問題で東条と対立して参謀総長を追われるが、直後の小磯内閣では陸軍大臣に返り咲いた。大正期の上原勇作元帥に続いて、陸軍三長官(大臣・総長・総監)を全て経験した史上2人目の将官という華やかな経歴を誇るが、その性能は周囲から全く評価されておらず、「ボケ元」「グズ元」「便所のドア」(当時のトイレのドアは押しも引きもできるようになっており、他人の言動に簡単に左右される様を揶揄)等々、悪評の渾名は豊富。また太平洋戦争開戦直前、昭和天皇に対米戦の見通しを問われて楽観的に答えたところ、支那事変の際にも同様の楽観論を唱えながら未だに終わらないことを詰問され、苦し紛れに「支那は広すぎるので」と回答。天皇に「太平洋はもっと広いではないか」と切り返された逸話が有名である。終戦直後の9月12日、夫人とともに自決。参謀総長時代に御前会議等の様子を記録した『杉山メモ』があり、開戦・戦中についての一級資料となっている。
関連動画
関連項目